両角手記の検証[09]史料批判:両角手記

両角手記の検証 第13師団
両角手記の検証
両角手記の検証 総目次
1.はじめに
2.両角業作の経歴
3.掲載資料の紹介
4.各資料における文面比較:両角日記
5.各資料における文面比較:両角手記
6.両角日記・手記の出自
7.史料批判:郷土部隊戦記 第1
8.史料批判:箭内証言・平林証言
9.史料批判:両角手記
10.まとめ
11.参考資料

史料批判:両角手記 

 『南京戦史資料集2』に掲載されている両角手記の記述を中心に、出来事に沿って史料批判をする。

非戦闘員の解放 

両角業作 手記 (歩兵第65連隊長 大佐)
 幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは八千人程度であった。

『南京戦史資料集2』pp.339-341

 両角は、歩65が捕獲した捕虜数を約1万5300名としており、その中にいた非戦闘員を解放し、残った8000名を捕虜として収容したという。
 当初、捕獲した捕虜数に関しては、山田日記12月14日「一四、七七七名を得たり」と記され、斎藤治郎(歩65本部通信班)日記12月14日に「一万四千七百七十七名捕虜とす(十四日)旅団本部調査」、東京朝日新聞12月17日「幕府山砲台附近の山地で捕虜にされた一萬四千七百七十七名」としていることからも、この1万4777名を基数とすることが出来る。

 捕虜の捕獲は翌日にも続いている。

斎藤治郎輜重特務兵 歩65本部通信班
[日記]12月15日
今日も残敵五、六百名を捕慮(虜)にしたとか

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.36-39

菅野嘉雄一等兵 歩65連隊砲中隊
[日記]12月15日
今日も引続き捕虜あり、総計約弐万となる

『南京大虐殺を記録した皇軍たち』p.309

荒海清衛上等兵 歩65第1大隊本部
[日記]12月15日
今日一日捕虜多く来たり、いそがしい

『南京戦史資料集2』p.345

 これらの史料から考えて捕獲数は1万4777名より多かったと推測され、両角手記にある「一万五千三百余」と概ね一致する。

 問題となるのは、捕獲後に非戦闘員を解放して「残りは八千人程度」としたかという点である。この両角の記述を裏付ける史料はいくつかある。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊 少尉)『世界日報』(1984年
[証言]確かに捕虜が投降してきた当初の総数は一万五千人くらいと推定されます。しかし、非戦闘員約七千人は直ちに解放したので、最終的に捕捉したのは八千人ほどでした

『世界日報』昭和59年7月17日第1面(1984年)

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊 少尉)『南京事件の総括』(1987年)
[証言]①(略)しかるに自分たちの十倍近い一万四、〇〇〇の捕虜をいかに食わせるか、その食器さがしにまず苦労した。
②(略)山田旅団長命令で非戦員(※K-K註:ママ)と思われる者約半数をその場で釈放した。

『南京事件の総括』pp.187-189

 この二つの平林証言は、ともに非戦闘員の解放を証言しており、両角手記を裏付ける内容となっている。しかし、この部分の平林証言については【史料批判 平林証言>捕虜捕獲数、収容数、連行数】?で既に論じたが、1973年『「南京大虐殺」のまぼろし』で1万名を収容し同数と思われる数を揚子江へ連行したと証言していたところ、1984年『世界日報』では非戦闘員解放のみを認め連行数を8000人とし、1987年『「南京事件」の総括』では非戦闘員解放および収容所火災による逃亡を認め連行数4000人としており、証言によって内容のブレが大きく信憑性が低い。

 次の史料も非戦闘員の解放を認めた史料と言えるだろう。

関係者(捕虜収容建物を警備していた第12中隊関係者か?)
[証言]なぜかというと、八千人もいたのでは、地下倉庫から出してきた食糧など、気休めぐらいの少量しかない。

『ふくしま 戦争と人間』p.122

 この「関係者」は非戦闘員を解放したことを前提に収容者総数を8000人としていると思わる。
 捕虜捕獲時に非戦闘員を解放したという資料は、以上の両角手記、平林証言、関係者証言の3つである。

 両角の記述からすると、この非戦闘員の解放は、①投降してくる中国兵の集団を捕獲、②直後に非戦闘員を解放、③収容所へ収容という過程を経ており、これらの行動は12月14日に実施されたという。
 そこで両角手記の裏付けを確認するため、投降してくる中国兵を捕獲し収容所へ収容するという一連の作業(①~③)に実際に携わった将兵の認識を見てみよう。

宮本省吾少尉 歩65第4中隊
[日記]12月14日
攻撃せざるに凡て敵は戦意なく投降して来る、次々と一兵に血ぬ らずして武装を解除し何千に達す、夕方南京に捕虜を引率し来り城外の兵舎に入る無慮万以上に達す、直ちに警備につく、中隊にて八ケ所の歩哨を立哨 せしめ警戒に任ず

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.133-134

佐藤一郎一等兵 歩65
[日記]12月14日
夕方、南京城外の支那軍宿舎にて、連隊本部に解除した残兵を引渡す。両角部隊にて約二万五千余名の敗残兵。これをどうするのやら、自分たちの食糧もないのに、と思った。

『南京の氷雨』p.22-26,114

栗原利一伍長 歩65第2中隊
[証言]十四日朝、幕府山付近に至ると莫大な投降兵があり、ことごとく武装解除して連行した。私たちは、集積され山のようになった武器の焼却を命ぜられたが、その煙は数キロ離れてから振り返っても天に沖するほどであった。捕虜は四列縦隊で延々長蛇の列となった。(スケッチ1及び飯沼日記十四、十五日参照)
  十五日から十六日、第一大隊(一三五名)はこの一三、五〇〇人と公称された捕虜の大群を、幕府山南麓の学校か兵舎のような藁葺きの十数棟の建物に収容し三日間管理した(スケッチ2)。

『南京戦史資料集1』pp.659-660

 実際に捕虜の捕獲から収容に携わった将兵で、非戦闘員の解放を実施したと記録する者は一人もいない。その上、捕虜を収容した(もしくは引き渡した)人数について、宮本「無慮万以上」、佐藤「約二万五千余名」、栗原「一三、五〇〇人」としているように、非戦闘員解放による捕虜の半減を認識する者は一人もいない。つまり、ここで挙げた資料は非戦闘員の解放により捕虜数が半減したという事実がないことを示している。

 上記の史料以外で、捕虜数を示す史料は次のようになる。

大寺隆上等兵 歩65第7中隊
[日記]12月18日
昨夜までに殺した捕リョは約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なって居るそうだ

『南京戦史資料集2』p.348-350

遠藤高明少尉 歩65第8中隊
[日記]12月16日
夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しⅠ(第1大隊)に於て射殺す。
12月17日
夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.219-220

本間正勝二等兵 歩65第9中隊
[日記]12月16日
捕慮(虜)三大隊で三千名揚子江岸にて銃殺す
12月17日
中隊の半数は入城式へ半分は銃殺に行く、今日一万五千名、午后十一時までかかる

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.239-240

高橋光夫上等兵 歩65第11中隊
[日記]12月18日
午後には連隊の捕虜二万五千近くの殺したものをかたつけた。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.289

目黒福治伍長 山砲兵19連隊第3大隊
[日記]12月16日
午後四時山田部隊にて捕い(え)たる敵兵約七千人を銃殺す
12月17日
午後五時敵兵約一万三千名を銃殺の使役に行く、二日間にて山田部隊二万人近く銃殺す

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.373

近藤栄四郎伍長 山砲兵19連隊第8中隊
[日記]12月16日
夕方二万の捕慮(虜)が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.325-326

 これらの資料は捕虜捕獲時に非戦闘員を解放しなかったことを直接的に示すものではないが、最終的に殺害した捕虜数をおよそ1万5000名~二万5000名だったという認識を示すものであり、非戦闘員を解放したことにより捕虜総数が半減したとする両角手記の内容を否定する資料と言えるだろう。

 上海派遣軍司令部における山田支隊の捕虜数に関する認識は下記の通りとなる。

飯沼守少将 上海派遣軍参謀長
[日記]12月15日
山田支隊の俘虜東部上元門付近に一万五、六千あり 尚増加の見込と、依て取り敢へす16Dに接収せしむ。
12月21日
荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処

『南京戦史資料集1』p.164

西原一策大佐 上海派遣軍参謀
[日記]12月14日
13D山田支隊の捕たる俘虜約二万あるも食糧なく処■に困る
12月18日
慰霊祭を行はる、山田旅団は一万五千の俘虜を処分せしか

 これら上海派遣軍司令部の認識を総合すると、当初の捕虜捕獲数と概ね同じ数を「処分」したと認識している。
 両角手記では、収容所で火災が発生し捕虜の半数に逃げられたことについて「私は部隊の責任にもなるし、今後の給養その他を考えると、少なくなったことを却って幸いぐらいに思って上司に報告せず、なんでもなかったような顔をしていた。」と述べている。火災で逃亡されたならば「部隊の責任」を問われるので上司に報告せず隠蔽を図るという理屈は成立するが、非戦闘員を解放して総数が半減したことを隠蔽する必要はない。
 仮に非戦闘員の解放による捕虜総数の半減という事実があったのであれば山田支隊は上海派遣軍司令部へその旨を報告したはずであり、上海派遣軍司令部に捕虜総数が半減したという認識が無いということは、その様な事実が存在しなかったと推認される。

 最後に、この事件を報道した新聞記事を検討する。記事の概要は次のようになる。
 『東京朝日新聞』昭和12年12月17日朝刊では、「南京にて横田特派員十六日発」として「幕府山砲台附近の山地で捕虜にされた一萬四千七百七十七名の南京潰走敵兵」を捕虜とし「附近の兵営に押込んだ」と書いている。
 『福島民報』昭和12年12月17日夕刊では、「南京城内から雪崩を打つて敗走して来た敵軍(中略)総数一萬四千七百七十七名を捕虜となし」とし、12月18日朝刊では「一萬四千七百七十七名といふ稀有の大量捕虜」を捕獲した後に「附近の兵営に押し込んだ」と書いている。
 『福島民友新聞』昭和12年12月17日では、「南京にて十五日発」として「南京城内から雪崩れを打つて敗走してきた第十八師、第卅七師、第卅四師、第八十八師及軍官学校、教導総隊等、総数一萬四千七百七十七名の敵軍と出遭ひ」捕虜としたと書いている。12月18日では、「南京にて十六日発」として、「烏龍山、幕府山砲台附近の山地で捕虜にされた一萬四千七百七十七名」を「先づ武器を棄てさせ附近の兵営に押込んだ」とする。

 『東京朝日新聞』昭和12年12月17日朝刊、『福島民報』昭和12年12月18日朝刊、『福島民友新聞』昭和12年12月18日のいずれの記事でも、第1大隊長 田山の紹介で行われた教導総隊参謀 沈博施のインタビューの模様が書かれているが、その内容はほぼ一致する。このことから、沈参謀のインタビューが含まれる3紙の記事はマスコミの共同取材だったと考えられる。
 共同取材が行われた日時だが、捕虜の捕獲は12月14日、1回目の捕虜連行・殺害は12月16日午後なので、その間に取材が行われたことになる。『東京朝日新聞』の記事では「第一夜だけは到頭食はせることが出来なかつた」と書かれていることから、「第一夜」である14日夜は過ぎており15日以降の取材だと分かる。『アサヒグラフ 支那戦線写真第二十四報』(昭和13年1月5日)に掲載されている捕虜の写真には、キャプションに「十二月十六日 上野特派員撮影」と書かれてので共同取材の際に撮影されたものなのかも知れない。
 いずれにしても、共同取材が行われたのは12月15日から12月16日午前中となるが、記事の内容で示されているように、その時にはすでに捕虜は収容所へ収容されており、軍はその収容数を1万4777名と公表していた。両角手記では、捕獲直後に非戦闘員を解放し、捕虜数が8000人へと半減した後に収容所へ収容したというが、その様な事実は記事に書かれておらず、かつ、収容所へ収容された数を1万4777名としていることから、両角等が証言する非戦闘員解放説を否定していることになる。

 以上をまとめると、両角手記は捕獲した捕虜のうち非戦闘員を解放することにより捕虜総数が約8000名となった証言し、平林および関係者も同様・類似の証言を残している。
 一方で、
①実際に捕虜捕獲し、連行、収容の作業を実行した人物たちの日記・証言では、非戦闘員を解放したという事実が見られない
②最終的に行った捕虜殺害数を1万数千と述べる日記が複数存在する。つまり、非戦闘員解放による捕虜総数の大幅な変化があったという認識がない。
③上海派遣軍司令部は捕虜捕獲時、処分時ともに捕虜数を「一万五千」前後と認識しており、非戦闘員解放による捕虜数半減の認識を示していない
④捕虜収容後に行われたマスコミへの共同取材でも、収容所へ収容した捕虜数を1万4777名と公表している。
④両角手記を裏付ける平林証言は既に両角手記が公表された後の証言で、当時の記憶を証言したのか疑義がある
 以上の点から考えて、両角手記等による非戦闘員解放の記述には信憑性がないと判断する。

火事による捕虜逃亡 

 両角手記によると捕虜を収容所へ収容した後、炊事で収容所が火災となり捕虜の半数が逃亡したという。

両角業作大佐 歩65連隊長
[手記]
炊事が始まった。某棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬ ので、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。

『南京戦史資料集2』pp.339-341

 この収容所の火災に関しては多くの資料が残っている。

菅野嘉雄一等兵 歩65連隊砲中隊
[日記]12月16日
正午頃兵舎に火災あり

『南京大虐殺を記録した皇軍たち』p.309

佐藤一郎一等兵 歩65
[日記]12月16日
昼飯を食し、戦友四人と仲よく故郷を語って想ひにふけって居ると、残兵が入って居る兵舎が火事

『南京の氷雨』p.22-26,114

宮本省吾少尉 歩65第4中隊
[日記]12月16日
しかし其れも疎(束)の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す」遠藤日記「午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.133-134

 これらの史料を総合すると、12月16日の正午過ぎに火災が発生したと言えるだろう。

※なお、近藤栄四郎日記(山砲19)には「夕方二万の捕慮(虜)が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く」と記されており、時間が違う様にも読める。ただし、この記述の「夕方」というのは、火災の起きた時間ではなく警戒の交代した時間と考えられる。

 以上の様に、12月16日に火災が起きたという事実に関して争点はないが、両角手記にある「この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した」という事実に関しては、そのことを言及する資料と言及しない資料とに分れる。

火災による逃亡に言及した資料

平林貞治少尉 歩65連隊砲中隊小隊長『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)
[証言]
大量の捕虜を収容した、たしか二日目に火事がありました。その時、捕虜が逃げたかどうかは、憶えていません。

『「南京大虐殺」のまぼろし』p.198-199(1973年)

平林貞治少尉 歩65連隊砲中隊小隊長『南京事件の総括』(1987年)
[証言]
③二日目の夕刻火事があり、混乱に乗じてさらに半数が逃亡し、内心ホットした。その間逆襲の恐怖はつねに持っていた。

『南京事件の総括』pp.187-189(1987年)

角田栄一中尉 歩65第5中隊
[証言]
火事があって、かなりの数の捕虜に逃げられた。

『南京の氷雨』(1989年) p.85-87

関係者 歩65第12中隊
[証言]
警戒もそれほど厳重にしていなかったのが仇になり、いっぺんに二むねが全焼し、半分ほどの兵隊に逃亡されてしまった。けれど私たちは、本音をいえば”これで安心”と思ったのです

『ふくしま 戦争と人間』p.122

火災による逃亡に言及しない資料

菅野嘉雄一等兵 歩65連隊砲中隊
[日記]12月16日
正午頃兵舎に火災あり、約半数焼失す

『南京大虐殺を記録した皇軍たち』p.309

佐藤一郎一等兵 歩65
[日記]12月16日
昼飯を食し、戦友四人と仲よく故郷を語って想ひにふけって居ると、残兵が入って居る兵舎が火事。直ちに残兵に備えて監視。あとで第一大隊に警備を渡して宿舎に帰る。

『南京の氷雨』p.22-26,114

荒海清衛上等兵 大隊本部
[手記]
十二月十六日捕虜の宿舎が焼けて大騒ぎした。

『週刊金曜日』1994年2月4日第12号 p.26-43

宮本省吾少尉 歩65第4中隊
[日記]12月16日
しかし其れも疎(束)の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.133-134

遠藤高明少尉 歩65第8中隊
[日記]12月16日
午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.219-220

近藤栄四郎伍長 山砲兵19連隊第8中隊
[日記]12月16日
夕方二万の捕慮(虜)が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.325-326

E氏 山砲兵第19連隊
[手記]
兵舎に火をつけて騒ぎ出し、看守の者も手に余り上司の命を待っていたところ、「戦争はまだまだ終わらない、全員虐殺せよ!」との指令が出たようである。

『実録・日中戦争の断面』(私家版)(『南京大虐殺の研究』p.140-114より)

 これらの資料で特徴的な点が二点見られる。
 一点目は、平林の証言だが、『「南京大虐殺」のまぼろし』1973年では「(火事の時に)捕虜が逃げたかどうかは、憶えていません」と証言しているのに対し、『南京事件の総括』1987年では「混乱に乗じてさらに半数が逃亡し、内心ホットした。」と証言を翻している。後年になり証言を翻していることから考えて、後付けの情報により当時の記憶ではないことを証言しているのではないだろうか。いずれにせよ平林証言のこの部分の信憑性は低いと考えるべきである。
 二点目は、火災により捕虜が逃亡したことに言及する資料は全てが戦後の証言であり、一次史料による裏付けが一つもないことである。

 それでは、火事により半数の捕虜が逃亡したという事実はあったのか、なかったのか。
 この問題を考える上で、火事の発生と捕虜の逃亡という二つの出来事が起きた場合、どちらが印象として強く残るかということに注目してみたい。
 事実として、火事の発生が強く印象に残ったであろうことは、これだけ資料に残されているということからも明らかだろう。
 一方、捕虜の逃亡についてはどうか。両角は捕虜の逃亡について次のように記す。
「私は部隊の責任にもなるし(中略)上司に報告せず、なんでもなかったような顔をしていた」
 ここで記されていることは当然のことで、管理していた捕虜に逃亡されてしまえば、その部隊や指揮官、当事者は管理責任を問わることになる。8000人のうち1人や2人ならまだしも、その半数が逃亡したというならばなおのことだろう。
 火事について記録した日記が5冊存在するが、管理責任を問われるはずの捕虜逃亡という出来事について触れた日記は1冊もない。このとき捕虜を警備・管理していたのは第1大隊だったが、その中で実際に捕虜管理に当たっていた第4中隊の宮本省吾少尉が捕虜の逃亡に言及していないのは不自然であろう。一方で、歩65の中でも捕虜の管理に直接関わっていなかったと思われる平林(歩兵砲中隊)、関係者(第12中隊)が「半数」という数字まで具体的に記憶しているというのも不自然である。
 先に指摘したとおり、捕虜逃亡について言及しているのが戦後の証言のみの二次史料で、一次史料に該当する当時の日記には全く言及していないという史料類型のコントラストと考え合わせるならば、火事の際に半数の捕虜が逃亡したという証言は、自身の記憶を証言したものではなく、1963年に先行して刊行されていた『郷土部隊戦記』の内容に沿った証言だったと考えられる。
 先に論じた非戦闘員の解放と同様に、多くの部隊員が捕虜の収容数と殺害数をほぼ同数と認識していることが史料で示されていることからも、この考えを裏づけている。
 非戦闘員の解放の事例と火事での逃亡の事例は、いずれも捕虜総数を減らすことに繋がるもので捕虜殺害の規模を小さく見せる効果があり、そのことをもって加害性を低減させる意図があったものと思われる。

上海派遣軍からの捕虜殺害受令 

 両角手記では、捕虜殺害命令は「軍」から発令されたものだという。

両角業作大佐 歩65連隊長
[手記]
 十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入城式である。万一の失態があってはいけないとういうわけで、軍からは「俘虜のものどもを”処置”するよう」…山田少将に頻繁に督促がくる。山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するように逆襲していた。私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。
 しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである。ここに於いて山田少将、涙を飲んで私の隊に因果を含めたのである。

『南京戦史資料集2』pp.339-341

 ここで言及している「軍」とは、当時、山田支隊がその指揮下に入っていた上海派遣軍(長・朝香宮中将)のことだが、その上海派遣軍から山田へ捕虜を殺害するよう命令が出ていたと述べられている。

 軍からの捕虜殺害命令について、山田は日記で次のように書いている。

山田栴二少将 山田支隊長・歩兵第104旅団長
[日記]
12月15日
捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
皆殺せとのことなり
各隊食糧なく困却す
12月16日
相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合はせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり

『南京戦史資料集2』pp.330-333

 12月15日の「本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す」とは南京に司令部を置いていた第16師団へ派遣したことを意味し、12月16日の「相田中佐を軍に派遣し」とは湯水鎮に司令部を置いていた上海派遣軍へ派遣したことを意味する(eichelberger_1999氏『山田日記の解釈 捕虜殺害の命令経路についての考察』より)。
 山田は12月16日の「捕虜の仕末其他にて打合はせ」をした結果として、どの様な命令・指示を受けたかについて言及していない。しかし、当然、前日の第16師団司令部から捕虜を「皆殺せ」と命令されたことについて上海派遣軍司令部へ伝えただろう。その直後と思われる12月16日午後、第1回目の捕虜連行が始まった。この一連の経緯から考えて、上海派遣軍司令部より捕虜殺害の命令を受けたか、諒解もしくは黙認を得たと強く推認できる。

 山田はこの日記以外にも戦後に証言を残しているが、その内容は日記を裏付けるように軍より捕虜殺害命令を受けていたというものである。

山田栴二少将 山田支隊長・歩兵第104旅団長
[証言]
しかし最後にはついに
「捕虜は全員すみやかに処置すべし」
という軍命令が出されたのである。

『郷土部隊戦記 第1』p.112

山田栴二少将 山田支隊長・歩兵第104旅団長
[証言]
この間、実は上海派遣軍司令部から、思いがけない命令がきていた。
 捕虜を始末せよ。――殺せというのだ。

『南京の氷雨』p.75

 上海派遣軍の命令に関して言及する一次史料は少なく、唯一、第8中隊遠藤高明少尉が軍命令で捕虜殺害を行ったと記述している。

遠藤高明少尉 歩65第8中隊
[日記]12月16日
夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し1(第1大隊)に於て射殺す。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.219-220

 一次史料は少ない一方で戦後の史料はいくつか残されている。

平林貞治少尉 歩65連隊砲中隊小隊
[証言]
当時、軍は投降者を捕虜として認めない意向でした。つまり、中国軍は日本軍による投降勧告を無視して、徹底抗戦の構えでしたからね。「始末せよ」という命令はその意向に沿ったもので、「敵として」ということじゃないかと思います

『世界日報』昭和59年7月17日

荒海清衛上等兵 歩65第1大隊本部
[手記]
軍の命令には逆らうことは出来なかったのだ。両角部隊も仕方なく大隊に命令されたのだ、と後で田山隊長がしみじみと語られた(個人的に)。

『週刊金曜日』1994年2月4日第12号 pp.26-43

角田栄一中尉 歩65第5中隊
[証言]
だが、このとき両角連隊長のところには「処分命令」がきていた。

『南京の氷雨』(1989年) pp.85-87

E氏 山砲兵第19連隊
[手記]兵舎に火をつけて騒ぎ出し、看守の者も手に余り上司の命を待っていたところ、「戦争はまだまだ終わらない、全員虐殺せよ!」との指令が出たようである。

『実録・日中戦争の断面』(私家版)(『南京大虐殺の研究』p.140-114より)

 これらはいずれも戦後の手記・証言となるが、捕虜捕獲後に非戦闘員を解放した事例や捕虜収容所の火災で捕虜の半数が逃亡した事例で見られたように、戦後の資料は『郷土部隊戦記』(1963年)の裏付けとなった両角手記から影響を受けた可能性は否定できない。
 その中で荒海手記は、田山大隊長からの個人的な会話の内容を記している点、当時の自身の記憶を述べる形態の他3つの資料とは趣きが異なっている。このような個人的会話において田山が荒海に虚偽の内容を語るとは考えにくい。田山が歩65連隊第1大隊長であり山田支隊の中では幹部クラスの立場であったことから、田山が上海派遣軍と山田支隊とのやり取りを知りえる立場にいたと考えられる。その田山が「軍の命令」の存在に言及している点は、他の証言・手記と比較して信憑性が高いと評価できる。

 また、次のような史料も発見されている。

木村守江見習士官(軍医) 歩兵65第1大隊本部
『夕刊 磐城時報』昭和13年1月24日付
(タイトル)支那軍捕虜の中に意外!婦人あり 南京にて 木村守江
(本文)先日は何處まで書いたかはっきりせぬが捕虜二萬余の仕末に困ったことを書いたと思ふ、(中略)捕虜をどうしたかと言うことは軍司令官の令に由った丈で此処には書くことが出来ぬから御想像にまかせることにする

「南京大虐殺の「勇士 木村守江」は福島原発導入の張本人だった!~レイバーネットTVで明らかに」レイバーネットTV

 この史料は研究者の小野賢二氏が発見した史料のようだ。記事の内容を見る限り、戦地から送られてきた手紙が記事になっているようだ。
 本文中では、捕虜を具体的にどうしたかは「書くことが出来ぬ」としつつ「軍司令官の令に由った」ことは明記している。つまり、何らかの軍(上海派遣軍)命令を実行したというのである。結果として捕虜を殺害していることを考えれば、捕虜殺害は「軍司令官の令に由った」ことを暗示していることになるだろう。

 以上まとめると、両角手記に記述された軍により捕虜殺害命令については、次のような裏付けがある。

  1. 山田日記では、12月15日、第16師団司令部より捕虜殺害命令を受け、12月16日、軍司令部へ捕虜取扱いの対応を協議していることが分かる。この協議の結果は日記に書かれていないものの、その当日に捕虜連行・殺害は開始されていることから、軍から捕虜殺害の命令もしく支持を受けたと推認される。山田の戦後の証言もこのことを裏付ける。
  2. 第8中隊 遠藤高明少尉が、捕虜殺害の軍命令を日記に記述している。
  3. 複数の戦後の証言や手記が存在すること
  4. 木村守江の当時の新聞記事によれば、捕虜殺害は軍命令だったと暗示している

以上4点により、上海派遣軍は積極的に捕虜殺害の命令を出していた、もしくは第16師団による捕虜殺害命令を黙認・指示したと推認される。

 なお、この論点に関しては、上海派遣軍の認識という観点から検討した文章を書いているので、本項と併せて参照して頂きたい。
【幕府山事件】上海派遣軍の捕虜殺害に対する認識について

捕虜解放指示 

 上海派遣軍からの命令で捕虜を殺害することになった両角は、この命令に反し独断で捕虜を解放することにしたという。

両角業作大佐 歩65連隊長
[手記]
 いろいろ考えたあげく「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」―田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。
「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」
 もし、発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配属する。

『南京戦史資料集2』pp.339-341

 両角は、第1大隊長 田山少佐に捕虜を解放を「ひそかに」命じた。
 密命を受けた田山は、戦後、次の様に証言している。

田山芳雄少佐 歩65第1大隊長
[証言]
解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃八挺を準備させました。

『南京の氷雨』 p.103

 なお、当時の編成の詳細は定かではないが、「機関銃八挺」というと、二個大隊分(二個機関銃中隊分)の機関銃の数と一致する。その意味で、両角手記「二個大隊分の機関銃を配属する」と田山証言「機関銃八挺を準備させました」とは符合する。

※当時の歩兵第65連隊に配属されていた機関銃隊には、歩兵大隊に配属される機関銃中隊(第1~第3機関銃中隊の3個中隊)と連隊直属の機関銃中隊(連隊機関銃中隊)があった。
 歩兵大隊に配属される機関銃中隊には2個小隊が、1個小隊には2個分隊があり、1分隊に1挺の重機関銃が配備されていた。つまり、1機関銃中隊には重機関銃4挺が配備されていたことになる。
 一方、連隊機関銃中隊は、4個小隊(小隊長は宗形、白井、木幡、小野各少尉(『郷土部隊戦記 第1』p.16-17))が編成されており、各2分隊で編成されているとすると、連隊機関銃中隊には8挺の重機関銃が配備されていたと考えられる。
 歩兵第65連隊全体としては、第1~3機関銃中隊合計12挺、連隊機関銃中隊8挺、総計20挺の重機関銃を配備していたと考えられる。

 田山以外にも捕虜の解放に言及する資料がある。

平林貞治少尉 歩65連隊砲中隊小隊
[証言]だから、「捕虜を江岸まで護送せよ」という命令が来た時はむしろホッとした。平林氏は、「捕虜は揚子江を舟で鎮江の師団に送り返す」と聞いていたという。月日は憶えていない。
『「南京大虐殺」のまぼろし』pp.198-199

[証言]私たち将校は極秘の形で、彼らを対岸へ送るか、不可能なら下流の鎮江方面へ送る――という内命を与えられた
『ふくしま戦争と人間』(1982年)p.126
 
[証言](引用符なし)結局、最終的判断は山田旅団長にゆだねられる形となり、十五、十六の二日に分けて捕虜四千人ずつを揚子江岸から解放することになった。
『世界日報』昭和59年7月17日
 
[証言]
私たちは『対岸に逃がす』といわれていたので、そのつもりで揚子江岸へ、ざっと四キロほど連行したんです。
『南京の氷雨』(1989年)p.108-109

鈴木氏 歩65所属中隊不明
[証言]
捕虜は対岸に逃がすといっていました。

『「南京大虐殺」のまぼろし』 pp.199-200

箭内享三郎准尉 歩65第1機関銃中隊
[証言]
実は捕虜を今夜解放するから、河川敷を整備しておくように。それに舟も捜しておくように……と、そんな命令を受けていたんですよ。
(中略)
実は逃がすための場所設定と考えていたので、かなり広い部分を刈り払ったのです。

『南京の氷雨』 pp.98-100

角田栄一中尉 歩65第6中隊長
[証言]
しかし両角連隊長はあれこれ考え、一つのアイデアを思いついた。
「火事で逃げられたといえば、いいわけがつく。だから近くの海軍船着き場から逃がしてはどうか――。

『南京の氷雨』(1989年) pp.85-87

八巻竹雄中尉 歩65第12中隊長
[証言]
私たちは彼らを解放する目的で四列縦隊で歩かせたが、彼らは目的を知らない。

『ふくしま戦争と人間』1982年

 特徴的なのは全てが戦後の証言であるということだ。これに反して、当時のすべてで日記で捕虜解放の意図に関する記述は無く、また、その多くが捕虜を殺害する意図で河岸へ連行した旨を記述している※。戦後の証言は『郷土部隊戦記』の記述に影響を受けた可能性は否定できないだろう。

※当時の日記における連行意図
飯沼守日記12/21「荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処
上村利道日記12/21「山田支隊俘虜の始末を誤り」
西原一策日記12/18「山田旅団は一万五千の俘虜を処分せしか」
斎藤次郎日記12/18「揚子江岸で捕虜○○○名銃殺する
菅野嘉雄日記「捕虜残部一万数千を銃殺に附す
荒海清衛日記12/16「捕虜の廠舎失火す、二千五百名殺す
伊藤喜八日記12/17「その夜は敵のほりょ二万人ばかり揚子江にて銃殺した
中野政夫日記12/17「毎日敗残兵の銃殺幾名とも知れず」
柳沼和也12/17「夜は第二小隊が捕虜を殺すため行く、兵半円形にして機関銃や軽機で射ったと、其の事については余り書かれない。」
本間正勝12/16「捕慮(虜)三大隊で三千名揚子江岸にて銃殺す」12/17「中隊の半数は入城式へ半分は銃殺に行く、今日一万五千名、午后十一時までかかる」
目黒福治12/16「午後四時山田部隊にて捕い(え)たる敵兵約七千人を銃殺す
黒須忠信12/16「二三日前捕慮(虜)せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す
近藤栄四郎12/16「遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する」

 この密命について、砲兵砲中隊小隊長だった平林が聞いていたにも関わらず、同じ階級であり連行作業の主体を担った第4中隊の宮本省吾少尉や、16日に捕虜殺害に自身が参加し、17日には自隊の兵士を捕虜殺害に参加させた第8中隊の遠藤高明少尉が知らなかったというのは非現実的だろう。平林自身、「しかも私の部下は砲兵で、小銃がなくゴボー剣のみ」(『南京事件の総括』p.187-189)と述べているように警備をするために必要な装備を所持しておらず、捕虜の連行では補助的立場だったと思われる。その様な補助的立場の部隊の将校に密命が伝えられ、一方で、捕虜連行の主体を担った歩兵将校に密命が伝達されていないというのは考えられない。
 その宮本と遠藤は共に、捕虜を殺害する目的での連行だったことを日記に明記している。

宮本省吾少尉 歩65第4中隊
[日記]12月16日
大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮(虜)兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.133-134

遠藤高明少尉 歩65第8中隊
[日記]12月16日
夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しⅠ(第1大隊)に於て射殺す

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.219-220

 興味深いのは遠藤日記12月17日・18日の記述である。

遠藤高明少尉 歩65第8中隊
[日記]
12月17日
「帰舎午後五時三十分、宿舎より式場迄三里あり疲労す、夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す、本日南京にて東日出張所を発見、竹節氏の消息をきくに北支の在りて皇軍慰問中なりと、風出て寒し。」
12月18日
「午前一時処刑不完全の為生存捕虜あり整理の為出動を命ぜられ刑場に赴く」

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.219-220

 この日記の記述を見る限り、12月17日に「夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す…」という日記を書いた後、その夜更け午前1時に捕虜の処刑が不完全だとして出動を命じられている。つまり、日記の記述の順序として、17日に「夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す…風出て寒し。」と書いた後、18日午前一時に出動、18日が終わる頃に18日の日記を付けたことになる。何を指摘したいかと言うと、遠藤は兵士5名を差し出した理由、つまり兵士がこれから何を行うかを事前に「捕虜残余一万余処刑」だと認識していたということだ。
 なぜ、この様な指摘をするかというと、士官や下士官兵の日記に捕虜を殺害・処刑したと明記されていることに対し、自衛発砲説は、下級士官や下士官兵は解放の意図を教えられておらず、殺害したという結果のみを見て殺害・処刑と書いただけだと主張する場合がある。しかし、遠藤は兵5名を差し出す理由を殺害・処刑が実施される前から「捕虜残余一万余処刑の為」と認識していることが分かる。命令系統を考えれば、遠藤が所属していた第8中隊では捕虜を殺害・処刑するという認識だったということが出来るだろう。

 また、「NNNドキュメント’19 南京事件Ⅱ」で紹介された歩65 第3機関銃中隊の下士官は、次のように証言している。

下士官 歩65第3機関銃中隊
[証言]捕虜の解放は私も考えたこともないし 1回もやりませんでしたね

NNNドキュメント 南京事件2 下士官証言
NNNドキュメント 南京事件2 下士官証言
NNNドキュメント’19 南京事件Ⅱ

 まとめると、両角手記をはじめ戦後の証言を中心に捕虜を連行した目的は解放することだったと述べるものの、そのことを裏付ける一次史料が一つもない。その上、当時の日記では、その多くが捕虜連行の目的を殺害だと認識している。特に捕虜連行作業の主体となった第4中隊宮本少尉や、自らも連行作業に参加した第8中隊遠藤少尉が、捕虜連行の目的を殺害だと明記している点は議論の余地はない。
 以上の検討に加え、既に捕獲時の非戦闘員解放や火災時の捕虜の逃亡で明らかになった通り、戦後の証言は『郷土部隊戦記』に沿う内容となっている経緯を考慮すると、両角が独断で捕虜の解放を指示したという両角手記の記述は事実ではなく、両角手記と同趣旨のことを語る証言は『郷土部隊戦記』の影響を受けたものと解すべきだろう。

捕虜暴動の端緒 

舟の収集状況

 両角手記では、収容所から揚子江岸へ捕虜を連行し、そこから捕虜を舟に乗せ「北岸」(対岸?)へ移動する予定であり、その為、事前に舟を用意したという。その舟の収集状況を確認する。

両角業作大佐 歩65連隊長
[手記]『南京戦史資料集2』
軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、

『南京戦史資料集2』pp.339-341

 両角手記では、「軽舟艇に二、三百人の俘虜」を乗せたという。この「軽舟艇」の大きさがどの程度のものか分からないが、17日に捕虜を集結した大湾子は「非常に浅い砂洲」(鈕先銘『還俗記』)とされており、実際に当時の水路図でも遠浅の浅瀬であることが確認できる。その様な場所に舟底の深い大型の舟を付けることは難しいだろうから、小型の平舟であったと見るべきだろう。仮に1隻につき20~30人が乗船可能とすると、およそ10隻程度の舟を確保していたということだろうか。

 第1大隊の田山は次の証言を残している。

田山芳雄少佐 歩65第1大隊長
[証言]
舟は四隻――いや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。

『南京の氷雨』 p.103

 「四隻」と「七隻か八隻」では数字的には2倍近くの差があるが、多くて8隻ということだろうか。

 箭内は、舟を集めるよう命令を受け、実際に集めたと証言する。

箭内享三郎准尉 歩65第1機関銃中隊
[証言]
船を集めるため江岸を歩き回って探し歩き、十隻前後は集めてきたことを記憶しています
『ふくしま 戦争と人間』 p.125

[証言]実は捕虜を今夜解放するから、河川敷を整備しておくように。それに舟も捜しておくように……と、そんな命令を受けていたんですよ。
『南京の氷雨』 p.98-100

 箭内証言には、捕虜が集結した時点で舟が来ていたか言及はないが、「十隻前後は集めてきたことを記憶しています」というので、捕虜集積地である大湾子付近に舟を係留していたということだろう。田山と箭内とでは舟数が若干前後するが概ね一致する内容である。

 ところが、これに反し舟が来ていなかったという証言がある

平林貞治少尉 歩65連隊砲中隊小隊長
[証言]
とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。
『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)p.198-199

[証言]
この時はまだ薄明かりがあり、船がきていないことがわかりました。
『世界日報』昭和59年7月17日

 平林によると捕虜集結地である大湾子に舟は来ていなかったという。

 捕虜殺害に参加した鈴木は次のように証言する。

鈴木氏 歩65所属中隊不明
[証言]
捕虜は対岸に逃がすといっていました。しかし、舟が来ないんです。捕虜は、だまされたといって、騒ぎはじめたんじゃないでしょうか

『「南京大虐殺」のまぼろし』 pp.199-200

 平林証言とほぼ同じ内容と言えるだろう。

 第2中隊所属で伍長だった栗原利一は、南京戦から1年程度後に描いたスケッチで、捕虜集結と殺害の様子を描いているが、その中に次のように書き記している。

栗原利一伍長 歩65第2中隊
[スケッチ]
ここの中央の島に一時にやるためと言って
船を川の中程において集めて、船は遠ざけて
四方から一斉に攻撃して処理したのである。

 「船は遠ざけて」と書かれていることから、舟は来ていたと認識していることが分かる。
 また、栗原は次のようにも証言している。

栗原利一伍長 歩65第2中隊
[証言]
分流の彼方に川中島が見え、小型の船も二隻ほど見えた。
『南京戦史資料集1』p.659-660

[証言]
川には舟も二、三隻見えた。
『南京への道』p.307-318

栗原利一 スケッチ
栗原利一 スケッチ

 河岸には「二隻」「二、三隻」の舟が来ていたと証言している。

 以上の資料のうち栗原スケッチの記述は他の証言と比較して史料価値が高い。したがって河岸には舟が来ていたと考えられる。平林や鈴木が「舟は来ていなかった」というのは、彼等の位置から舟が見えなかったということだろうか。平林は『南京事件の総括』で「列の長さ約4キロ、私は最後尾にいた」と証言しているので、河岸から見て遠くに位置していたのかも知れない。舟の存在に気付かない程度であったということは、舟が大きさが小型であったか数が少なかった、もしくは両方だったと言えるだろう。
 つまり、揚子江岸の捕虜集結地に舟が来ていたことは間違いない。舟の存在に気付かない将兵がいたことから考えて、舟の規模は小さかったと思われる。その数については7~10隻程度だったのか、2~3隻程度だったのか判断は付かない。

捕虜の集結と暴動

 揚子江岸(大湾子)へ捕虜を連行した後、捕虜の暴動があり銃撃が開始される。ここでは捕虜集結と暴動発生の時間的な位置関係を確認する。

両角業作大佐 歩65連隊長
[手記]
もどったら、田山大隊長より「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」の報告を受けた。
 日は沈んで暗くなった。俘虜は今ごろ長江の北岸に送られ、解放の喜びにひたり得ているだろう、と宿舎の机に向かって考えておった。
 ところが、十二時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。さては…と思った。銃声はなかなか鳴りやまない。
 そのいきさつは次の通りである。
 軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。

『南京戦史資料集2』pp.339-341

 この両角の記述からすると、捕虜の集結が終わり第1大隊長 田山よりその報告を受け、舟による渡河途中で暴動が起ったという。
 両角に報告をした田山自身は次のように証言する。

田山芳雄少佐 歩65第1大隊長
[証言]
銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。味方が何人か殺され、ついに発砲が始まってしまったんですね。なんとか制止しようと、発砲の中止を叫んだんですが、残念ながら私の声は届かなかったんです

『南京の氷雨』 p.103

 田山の証言は、ほぼ両角手記と一致した内容となっている。田山が証言しているのは、舟が出たのち捕虜の暴動が始まったということだが、舟が出たということは集結が終わったことを意味するのだろう。
 このように、捕虜の集結が完了したという証言は他にも存在する。

平林貞治少尉 歩65連隊砲中隊小隊
[証言]
出発は昼間だったが、わずか数キロ(二キロぐらい?)のところを、何時間もかかりました。とにかく江岸に集結したのは夜でした。…とにかく、舟がなかなか来ない。

『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)pp.198-199

荒海清衛上等兵 歩65第1大隊本部勤務
[手記]
本部何しろ二人三脚をやって居るのだから、ついたのは夕方になって居たと思う。江岸の窪地に集結させた。機関銃はすえられ、何時でも発射出来る様準備されて居た。

『週刊金曜日』1994年2月4日第12号 pp.26-43

箭内享三郎准尉 歩65第1機関銃中隊
[証言]
集結を終え、最初の捕虜たちから縛を解き始めました。その途端、どうしたのか銃声が……。 突然の暴走というか、暴動は、この銃声をきっかけにして始まったのです。

『南京の氷雨』 pp.101-102

栗原利一伍長 第65連隊第2中隊
[スケッチ]
ここの中央の島に1時にやるためと言って
船を川の中程において集めて、船は遠ざけて
4方から一斉に攻撃して処理したのである。
『南京戦史資料集1』p.664

[証言]
二時間くらいかかり、数キロ歩いた辺りで左手の川と道との間にやや低い平地があり、捕虜がすでに集められていた。
『南京戦史資料集1』pp.659-660

 一方で、江岸に捕虜が集結を完了する前に暴動が発生したという証言がある。

平林貞治少尉 歩65連隊砲中隊小隊長
[証言]
⑤騒動が起きたのは薄暮、左は揚子江支流、右は崖で、道は険岨となり、不吉な予感があった。突如中洲の方に銃声があり、その銃声を引金に、前方で叫喚とも喊声ともつかぬ異様な声が起きた。
⑥最後列まで一斉に狂乱となり、機銃は鳴り響き、捕虜は算を乱し、私は軍刀で、兵はゴボー剣を片手に振りまわし、逃げるのが精一ぱいであった。

『南京事件の総括』pp.187-189

箭内享三郎准尉 歩65第1機関銃中隊
[証言]
江岸への集結のさなか、一瞬にして暴走が起こった。彼らはいっせいに立ちあがり、木の枝などを振り回しながら警備兵を襲撃し、これを倒して逃走を始めた。

『ふくしま 戦争と人間』 p.130

角田栄一中尉 歩65第5中隊
[証言]
私は最後尾についていたが、銃弾が私たち味方のほうにもくるため、身を伏せて危難から避けなければならないほど、非常な混乱ぶりだった
『ふくしま 戦争と人間』(1982年) p.130
 
[証言]
収容所はからっぽになったし、ひまでしたので、連行の列の最後尾についていったのです。ところが、前方で乱射乱撃が始まり、どんどん銃弾が飛んでくる。私は道のわきにあるクリークのようなものに飛び込み、危難を避けました。
『南京の氷雨』(1989年) pp.85-87

 平林と箭内の証言は資料によって矛盾した内容の証言をしていることである。したがって、二人証言のこの部分に関しては信憑性に疑義があるので検証対象とすることは出来ない。
 両角手記と田山証言は、後述する渡河中銃撃説で論じるように信憑性が低い。
 荒海手記は、自身が目撃したこととして捕虜の集結が終わっていたことを述べている。
 栗原のスケッチは「船は遠ざけて4方から一斉に攻撃」したと書かれている。これは、捕虜の集結にあわせ「船は遠ざけ」た後、集結した捕虜を「一斉に攻撃」という手順が示され、捕虜が集結していたことを意味する。栗原の証言でも「捕虜がすでに集められていた」として捕虜が集結していた証言している。
 角田証言は集結途中で銃撃が始まったと述べている。
 以上の資料状況をまとめると、捕虜集結の途中で銃撃が始まったとする証言で検証できるものは角田証言のみ、捕虜集結が終わっていた証言するのは荒海と栗原となる。このうち栗原スケッチは一次史料に準じるものと言えることから、捕虜の集結が終わった後に暴動が発生し銃撃が始まったと考えるべきだろう。

渡河中銃撃説

 両角手記では、揚子江岸へ捕虜を連行し、捕虜を舟で移送する途中で銃撃を受け、そのことを契機に暴動が発生したという。便宜的にこの説明を渡河中銃撃説と呼ぶことにする。

両角業作大佐 歩65連隊長
[手記]
 集結を終え、軽舟数隻に二、三百人の俘虜を乗せて、中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟のカジを預かる支那の土民、肝を潰して江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。ところが、江岸に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が江上に(捕虜たちを)引き出し、銃殺する銃声と即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。

『南京戦史資料集2』pp.339-341

 第1大隊長田山は、両角手記と一致する証言をしている。

田山芳雄少佐 歩65第1大隊長
[証言]
でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。
(中略)
銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。味方が何人か殺され、ついに発砲が始まってしまったんですね。

『南京の氷雨』 p.103

 この時、両角は現場に居らず田山から状況の報告を受けたというので、両者の証言が一致するのは当然といえる。

 一方で、両角と田山以外は、暴動の端著については趣が異なる主張をする。

平林貞治少尉 歩65連隊砲中隊小隊
[証言]
とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。突然、どこからか、ワッとトキの声が上った。日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。
『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)p.198-199
 
[証言]
この時はまだ薄明かりがあり、船がきていないことがわかりました。あれ、おかしいなと思っていた矢先に「ワァ-」という声が上がり、それに続いて「パンパン」という音がしました。予想さえしなかった捕虜の暴動が起きたのです。船が見当たらなかったので、捕虜の不安が高じたのでしょう。
『世界日報』昭和59年7月17日
 
[証言]
⑤騒動が起きたのは薄暮、左は揚子江支流、右は崖で、道は険岨となり、不吉な予感があった。突如中洲の方に銃声があり、その銃声を引金に、前方で叫喚とも喊声ともつかぬ異様な声が起きた。
⑥最後列まで一斉に狂乱となり、機銃は鳴り響き、捕虜は算を乱し、私は軍刀で、兵はゴボー剣を片手に振りまわし、逃げるのが精一ぱいであった。
『南京事件の総括』(1987年)p.187-189

荒海清衛上等兵 歩65第1大隊本部
[手記]
何かがあると直感したのだろう、捕虜の集団からざわめきが起った。事態は急転した。ニケ大隊の機関銃は一斉に火をふいた。けたたましい重機の音とざわめき惨状は見るに忍びない。

『週刊金曜日』1994年2月4日第12号 pp.26-43

箭内享三郎准尉 歩65第1機関銃中隊
[証言]
集結を終え、最初の捕虜たちから縛を解き始めました。その途端、どうしたのか銃声が……。 突然の暴走というか、暴動は、この銃声をきっかけにして始まったのです。

『南京の氷雨』 p.101-102

栗原利一伍長 第65連隊第2中隊
[証言]
あたりが薄暗くなりかけたころ、田中さんのいた位置とは反対側で、捕虜に反抗されて少尉が一人殺されたらしい。「刀を奪われてやられた。気をつけよ」という警告が伝えられた。(中略)
 一斉射撃の命令が出たのはそれからまもないときだった。
本多勝一『南京への道』pp.307-318
 
[証言]
うす暗くなったころ、突然集団の一角で「××少尉がやられた!」という声があり、すぐ機関銃の射撃が始まった。
『南京戦史資料集1』pp.659-660

 両角手記・田山証言では捕虜を舟に乗せて渡河を開始した後に発砲を受けたとするが、平林・荒海・箭内・栗原は舟に乗せたという話しはなく、集結地で喊声が上がり銃撃があったと証言している。
 
 既に書いた通り、両角は現地に居らず、現地の状況は田山より受けた報告に基いたものと思われる。箭内は事件当時、その田山と同じ場所に居たという。

箭内享三郎准尉 歩65第1機関銃中隊
[証言]
私の近くにいた第一大隊長の田山少佐が『撃ち方やめ!』を叫びましたが、射撃はやまない。

『南京の氷雨』 pp.101-102

 しかし、その箭内も捕虜を舟に乗せたという証言を残していない。 
 箭内と同様に田山大隊長の近くに居たと思われるのは、第一大隊本部勤務の荒海だ。しかし、荒海の残した手記でも捕虜を舟に乗せたという記述ない。

 暴動の瞬間を述べる資料は多くあるものの、捕虜の渡河中に暴動が発生したという出来事について言及しているのは実質的には田山だけである。しかし、現地で田山と共に行動していたであろう箭内と荒海さえも渡河について言及していない。これらの資料状況から考えて、そもそも捕虜を舟に乗せて渡河していたという事実はなかったと考えるべきだろう。田山の証言、引いては両角手記にある渡河中銃撃説は信憑性が低いと考える。

宗形少尉の死亡状況

 捕虜の暴動が発生した時に日本軍の将兵が巻き込まれて死傷しているが、両角手記にはそのことを示す記述はない。
 この時の状況を記した資料を紹介する。

遠藤重太郎 大隊本部 輜重特務兵
[日記]10月3日(12月19日)
宗形君は十二月十七日夜十時戦死

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.88-89

栗原利一伍長 歩65第2中隊
[証言]
 あたりが薄暗くなりかけたころ、田中さんのいた位置とは反対側で、捕虜に反抗されて少尉が一人殺されたらしい。「刀を奪われてやられた。気をつけよ」という警告が伝えられた。田中さんの推測では、うしろ手に縛られていたとはいえ、さらに数珠つなぎにされていたわけではないから、たとえば他の者が歯でほどくこともできる。危険を察知して破れかぶれになり、絶望的反抗をこころみた者がいたのであろうが、うしろ手にしばられた他の大群もそれに加われるというような状況ではなかった。
 一斉射撃の命令が出たのはそれからまもないときだった。
『南京への道』pp.307-318
 
[証言]
 うす暗くなったころ、突然集団の一角で「××少尉がやられた!」という声があり、すぐ機関銃の射撃が始まった。
『南京戦史資料集1』pp.659-660

宮本省吾少尉 歩65第4中隊
[日記]12月17日
夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会い友軍にも多数死傷者を出してしまった。中隊死者一傷者二に達す。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.133-134

大友登茂樹少尉 歩65連隊機関銃中隊
[証言]
私の中隊でも将校が死んだ。彼らの暴走のウズに巻き込まれ、たしか七ヵ所ほど刺されていた。あの暴走で連隊の死者が七人にとどまったのは、むしろ少ないぐらいだったというべきかもしれない

『ふくしま 戦争と人間』 p.130

平林貞治少尉 歩65連隊砲中隊小隊
⑧翌朝私は将校集会所で、先頭附近にいた一人の将校(特に名は秘す)が捕虜に帯刀を奪われ、刺殺され、兵六名が死亡、十数名が重軽傷を負った旨を知らされた。

『南京事件の総括』(1987年)p.187-189

 以上の資料を総合すると、暴動に巻き込まれ死傷者を出したのは12月17日、死亡した将校のは連隊機関銃中隊の宗形という名前であることが分かる。
 第65連隊の昭和12年9月18日付編成時の職員表では、連隊機関銃中隊の小隊長として宗形鶴一少尉の名前が記載されている(『若松聯隊回想録』p.162)。

 この宗形少尉の死亡状況について、山砲兵第19連隊所属E氏『実録・日中戦争の断面』(私家版)にも記されている。文章が長いため要約して紹介したい。(E氏手記『実録・日中戦争の断面』(私家版)
 本書には、E氏の体験として次のことが書かれている。
 捕虜を兵舎に収容していたが、「兵舎に火をつけて騒ぎ出し、看守の者も手に余」っていた。そこに捕虜殺害命令を受け「揚子江岸の、とある建物」に連行する。「支那兵を連れて来て首を切ったり、銃剣で刺し殺したり」している内に、捕虜の暴動が起き、機関銃、小銃で銃撃後、銃剣で止めをさした。
 その翌日に「日本兵が二人その場で戦死した。一人は機関銃小隊長であるというニュースが入った」という。この「機関銃小隊長」というのは同郷の宗形少尉のことで、捕虜を連行する際に偶然遭い挨拶を交わしていた。
 E氏は宗形少尉の戦死の状況を描写しているが、これはE氏が直接目撃したことではなく伝聞の様だ。次のように書かれている。
「殺されることを知った捕虜たちは「ワァーワァー」と全部が立ち上がったため、制止に入った宗形少尉に飛びかかった。 少尉の居ることは分かっていても発射せざるを得なかったとのことである。しかしこの事実は誰も実家には知らせていない。ただ南京付近の戦死で名誉の戦死であるということになっている。」

 このE氏の体験談で気になるのは、E氏が捕虜を連行した先が「揚子江岸の、とある建物」としていることである。捕虜の連行は12月16日と17日の2日にわたって行われたが、その連行先は、16日は水雷営と呼ばれる中国海軍の関連施設、17日は大湾子と呼ばれる河原である。E氏は「とある建物」に連行したということは、12月16日の水雷営のことで間違いないだろう。E氏手記では、宗形少尉が死亡したのは手記で描かれている捕虜殺害時(12月16日水雷営)と読める。しかし、他の資料で見たとおり、宗形少尉が死亡したのは12月17日であることも間違いはなさそうである。
 おそらくこの食い違いは、E氏が捕虜を連行し殺害したのは12月16日であり、その連行の際に宗形少尉と出遭ったこともその通りだったのだろう。その後、宗形少尉の死の状況を聞き、自身が捕虜を連行した12月16日に宗形少尉が死亡したものと勘違いしたのだと思われる。

 阿部輝郎は『南京の氷雨』で、宗形少尉の死にまつわる次のような話を紹介している。

 歩兵六十五連隊全戦死者名簿を私は持っているが、南京作戦の戦死者六人の名がある。南京では戦死者が出る状況の戦闘はなかったのだが、ともかく六人の名がある。但し戦死した日は十四日として処理されている。本当に十四日なのか—-。関係者は首を振って説明する。
「十六日の海軍倉庫と、十七日の江岸での捕虜との戦闘で死んだのです。しかし、逃げ出した捕虜を追跡するうち味力の銃弾で死んだとか、江岸の騒動で捕虜に殴り殺されたとか、とても記録には残せないし、遺族にも伝えられない。あれこれ知恵をしぼり、両角連隊長とも相談し、十四日の幕府山の戦闘で華々しく戦死したと、そういうことで戦死処理をしたのです。当然ながら遺族にも、十四日戦死の公報が出ています」
 連隊の行動を記録した『連隊歴史』には七人がこのとき戦死したとある。
 別の証言によると、ここで将校一人が死んでいる。少尉である。銃撃が終わった為と、少尉は 「人を切ったことがないから、もしかしたら死体なら切れるかもしれない」と、腰につけていた 軍刀を抜いて、死体に向かって切り降ろした。
 ところが、近くに横たわって死んだふりをしていた者がいて、いきなり立ち上がると、少尉か ら軍刀をもぎ取り、逆に刺されてしまった。思いがけない不運な死だった。 少尉については、さらに後日談がある。
 十四日戦死ということでで戦死公報を出したあと、少尉の遺品まとめて家へ送り届けた。
 ところが、遺品の中に少尉の日記がで日記が入っており、十六日まで記入がある。「十六にちまで日記をつけていた人がなぜ十四日に死ぬことができたのか」と厳重な抗議が持ち込まれたのだ。結局は遺族に真実を話し、了承してもらったという。

『南京の氷雨』 pp.102-103

 死亡した少尉の日記が12月16日までつけられていたというのは、宗形少尉の死亡時期が12月17日であったことを示している。これは今まで見てきた資料と一致する。
 ところが、この点に関しては若干の問題がある。当時の新聞によると、宗形少尉の死亡時期は12月24日となっているからだ。

福島民報 昭和13年2月8日夕刊
福島民報 昭和13年2月8日夕刊
福島民友新聞 昭和13年2月8日朝刊
福島民友新聞 昭和13年2月8日朝刊

 現状、宗形少尉の日記は公表されておらず、阿部の記した話の真偽を確かめることはできない。
 
 ちなみに、この時の死者数について、各資料では次のように書かれている。

『郷土部隊戦記』p.112
部隊でも将校一人、兵六人が捕虜の群れにひきずり込まれて死亡した。

『若松聯隊回想録』p.167
(昭和12年)12・14 戦死者 下士官、兵、七名

『ふくしま戦争と人間』p.128
実はこのさわぎのさい、若松連隊でも七人の死者が出た。

『南京の氷雨』p.102
歩兵六十五連隊全戦死者名簿を私は持っているが、南京作戦の戦死者六人の名がある。南京では戦死者が出る状況の戦闘はなかったのだが、ともかく六人の名がある。

 若干、資料によって差があるが、およそ将校1名、兵(下士官)5~6名が死亡したと言えるだろう。阿部は「歩兵六十五連隊全戦死者名簿を私は持って」おり「南京作戦の戦死者六人」の名前を特定しているようだが、私は未だ名前を確認できていない。

渡河中銃撃説が創作された背景

 以上見てきたように、12月17日の捕虜銃撃の端緒として両角・田山が語ったような捕虜の渡河中に銃撃を受けたという説には真実性が乏しい。銃撃の端緒について詳細な状況を証言しているのは栗原の証言である。栗原によれば「××少尉がやられた!」・「刀を奪われてやられた。気をつけよ」という声・警告の後に機関銃が掃射が始まったという。この少尉とは第一機関銃中隊 小隊長 宗形少尉だった。
 宗形少尉の死の状況についてはいくつか異なる情報がある。その中で栗原の証言と合致するのは、E氏(山砲兵第19連隊)の手記にあるように、騒ぎ出した捕虜を制止しようとした宗形少尉らが捕虜に巻き込まれ、やむなく宗形少尉らもろとも捕虜を銃撃したということだろう。第一機関銃中隊の大友少尉は「(捕虜の)暴走のウズに巻き込まれ、たしか七ヵ所ほど刺されていた」といい、連隊砲中隊の平林は「先頭附近にいた一人の将校(特に名は秘す)が捕虜に帯刀を奪われ、刺殺され」と証言する。

 では、なぜ、両角や田山は渡河中銃撃説を創作したのかを推測してみたい。
 このことを推測する上で、ヒントとなるのは、『南京の氷雨』で紹介されている氏名不詳氏証言である。

氏名不詳証言
しかし、逃げ出した捕虜を追跡するうち味力の銃弾で死んだとか、江岸の騒動で捕虜に殴り殺されたとか、とても記録には残せないし、遺族にも伝えられない。あれこれ知恵をしぼり、両角連隊長とも相談し、十四日の幕府山の戦闘で華々しく戦死したと、そういうことで戦死処理をしたのです。

『南京の氷雨』pp.102-103

 宗形少尉の戦死の状況は「とても記録には残せない」状況なので、「幕府山の戦闘で華々しく戦死した」ことに偽装したという。
 E氏手記には次のように書かれている。

E氏手記
しかしこの事実は誰も実家には知らせていない。ただ南京付近の戦死で名誉の戦死であるということになっている。

『実録・日中戦争の断面』(私家版)(『南京大虐殺の研究』p.140-114より)

 捕虜を殺害しようとしたところ捕虜に騒がれ、それを制止しようとして捕虜もろとも銃殺されたという宗形少尉の死亡状況は、部隊としてまた宗形少尉個人としても不名誉なもので記録に残せなかったということだろう。そのため、軍の公式発表としては「幕府山の戦闘で華々しく戦死した」と偽装した。
 両角や田山が渡河中銃撃説を創作してまで捕虜暴動の端緒を隠蔽したかったのは、この点にあるのではないだろうか。つまり、宗形少尉やこの時死亡した兵士達の名誉を守るため、もしくは自分たちが公的に報告した内容を維持することが目的だった。部隊長だった両角と田山にとって、真実を明らかにするより偽装することにその価値を見出したとしても不思議ではない。氏名不詳氏の証言にも「あれこれ知恵をしぼり、両角連隊長とも相談し」とあるように、偽装工作には両角も参加している。このような事情があって両角と田山は渡河中銃撃説を主張したのだと思われる。

捕虜死体の処理 

 捕虜を殺害した後の死体を如何に処理したかという点に関して両角手記には記述はない。一方、日記には「遺体埋葬」と書かれている。

両角業作大佐 歩65連隊長
手記(※K-K註:記述無し)

日記
十八日 俘虜脱逸ノ現場視察、竝ニ遺体埋葬。

『南京戦史資料集2』p.339-341

 後に紹介するが、実際には「埋葬」は行っておらず、死体処理に関する全ての証言・日記で揚子江に流したと書かれている。両角は実際に自分で作業を指揮・監督したわけではなく、その状況を視察した程度の関わりであった為、水葬にしたのか埋葬にしたのか気に留めていなかったのかも知れない。しかし、この日記の原本が無いことや、手記には明らかに事実と違うことが書かれていることを考慮すると、この記述を単なる誤認と判断することには不安が残る。
 さて、捕虜の死体処理に関しては、両角日記には「埋葬」のみが記されているが、「埋葬(実際は水葬)」以前に大別して2つほど処置を採っているので紹介したい。

死体への着火

 機関銃や小銃で銃撃した後、倒れている捕虜に火を付けている。これには石油・ガソリンが用いられたともいう。

丹波善一上等兵 歩65
[証言]
すごい死体の散乱でしたね。油をかけて焼き、棒で押して揚子江へ流したが、ひどい悪臭でした。私は戦争とは、こんなにひどいものかと、いきなり恐怖の現実を見せられた思いでした

『南京の氷雨』p.115

栗原利一伍長 歩65第2中隊
[証言]
その夜は片はしから突き殺して夜明けまで、その処に石油をかけてもし、柳の枝をかぎにして一人一人ひきずって、川の流れに流したのである。
『毎日新聞』昭和59年8月7日

[証言]
死体は厚く層をなしているので、暗やみのなかで層をくずしながら万単位の人間の生死を確認するのは大変だ。そこで思いついた方法は火をつけることだった。綿入れの厚い冬服ばかりだから、燃えだすと容易に消えず、しかも明るくて作業しやすい。着物が燃えるといくら死んだふりをしていても動きだす。
 死体の山のあちこちに放火された。よく見ていると、死体と思っていたのが熱さに耐えきれずそっと手を動かして火をもみ消そうとする。動きがあればただちに銃剣で刺し殺した。折り重なる層をくずしながら、ちらちら燃えくすぶる火の中を、銃剣によるとどめの作業が延々とつづいた。靴もゲートル(脚秤)も人間の脂と血でべとべとになっていた。

 死体の山のあとかたづけで、この日さらに別の隊が応援に動員された。この段階でドラムカンのガソリンが使われ、死体全体が焼かれた。銃殺・刺殺のまま川に流しては、何かとかたちが残る。可能なかぎり「かたち」をかえて流すためであった。しかしこの大量の死体を、火葬のように骨にまでするほどの燃料はないので、焼かれたあとは黒こげの死体の山が残った。
『南京への道』pp.307-318

[証言]
その後、火をつけて熱さで動き出す生存者を銃剣でとどめをさし、朝三時ころまでの作業にクタクタに疲れて隊に帰った。死体は翌日他の隊の兵も加わり、楊柳の枝で引きずって全部川に流した。
『南京戦史資料集1』pp.659-660

大寺隆上等兵 歩65第7中隊
[日記]12月19日
 午前七時半整列にて清掃作業に行く。揚子江岸の現場に行き、折重なる幾百の死骸に警(驚)く、石油をかけて焼いた為悪臭はなはだし。今日の使役兵は師団全部、午后二時までかかり作業を終わる。

『南京戦史資料集2』pp.348-350

佐藤一郎一等兵 歩65
[日記]12月18日
中隊では死体片づけに全員行っている。夕方になる。夕飯の準備をしているうちに戦友が真っ黒な顔をして帰ってくる。聞いてみれば、煙にて染まったとか。

『南京の氷雨』p.22-26,114

菅野嘉雄一等兵 歩65連隊砲中隊
[日記]12月18日
銃殺敵兵の片付に行く、臭気甚し。

『南京大虐殺を記録した皇軍たち』p.309

 佐藤日記には死体に火を付けたという記述ないが、「死体片づけに」行った「戦友が真っ黒な顔をして」帰ってきたいい、その理由が「煙にて染まった」ということなので、死体に火をつけて処理をしたことを意味すると思われる。
 菅野日記にも死体に火をつけたという記述ではないが、殺害して一日しか経過してないにも関わらず「臭気甚し」というのは、死体に火をつけたのが理由だと思われる。

 これらの資料のうち、丹波・栗原両証言、大寺日記では「石油」「油」をかけたとしているが、一方で平林はこれを明確に否定する。

平林貞治少尉 歩65連隊砲中隊 小隊長
[証言]
油をつけて焼いたとされますが、そんなに大量の油を前もって準備するとなると、駄馬隊を大量動員して運んでおかなければならず、実際、そんなゆとりなんかありませんでしたよ。死体の処理は翌日に行いましたが、このとき焼いたように思います。

『南京の氷雨』(1989年)pp.108-109

 しかし、実際にその行為を行ったという複数の証言と当時の記録がある以上、平林は記憶違いをしているものと思われる。

銃剣により止めを刺す

 機関銃や小銃で銃撃した後、倒れている捕虜に上から銃剣で刺して止めを刺したという。

黒須福地伍長 山砲兵第19連隊第3大隊
[日記]12月16日
二三日前捕慮(虜)せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す、其の后銃剣にて思う存分に突刺す、自分も此の時ばが(か)りと憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう。
 山となって居る死人の上をあがって突刺す気持ちは鬼をもひしがん勇気が出て力一ぱいに突刺したり、うーんうーんとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供も居る、一人残らず殺す、刀を借りて首をも切って見た、こんな事は今まで中にない珍しい出来事であった

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.350-351

近藤栄四郎伍長 山砲兵第19連隊第8中隊
[日記]12月16日
遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。
月は十四日、山の端にかかり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし、戦場ならざれば見るを得ざるところなり、九時半頃帰る、一生忘るる事の出来ざる光影(景)であった。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.325-326

E氏 山砲兵第19連隊
[手記](K-K註:12月16日の出来事として)
しかし、全部に弾はあたって居るわけではありませんので、今度は着剣して死人の上を渡り歩き△△△ざくりざくりと刺して歩いたのであるが、中には死にきれず銃をおさえる者もあった。おそらく三十人以上は突いたであろう。明日になって腕が上がらぬ位に痛かった。

『実録・日中戦争の断面』(私家版)(『南京大虐殺の研究』pp.140-114より)

 先に示した栗原証言でも同様のことを証言している。

 一見すると12月16日の行為、山砲兵第19連隊の兵士の行為に偏っているように見えるが、歩65第2中隊の栗原も同様の証言を残しているので、12月16日・17日両日ともに同様の行為が行われたと考えられる。

火をつけ、止めをさした理由

 栗原は証言で、銃撃で倒された捕虜に対して着火し銃剣で止めをさした理由を次のように述べている。

栗原利一伍長 歩65第2中隊
[証言]
 だが、このままではもちろんまだ生きている者がいるだろう。負傷しただけのもいれば、倒れて死んだふりの者もいるだろう。生きて逃亡する者があれば捕虜全員殺戮の事実が外部へもれて国際間題になるから、一人でも生かしてはならない。田中さんたちの大隊は、それから夜明けまでかかって徹夜で「完全処理」のための作業にとりかかった。死体は厚く層をなしているので、暗やみのなかで層をくずしながら万単位の人間の生死を確認するのは大変だ。そこで思いついた方法は火をつけることだった。綿入れの厚い冬服ばかりだから、燃えだすと容易に消えず、しかも明るくて作業しやすい。着物が燃えるといくら死んだふりをしていても動きだす。
(中略)
 死体の山のあとかたづけで、この日さらに別の隊が応援に動員された。この段階でドラムカンのガソリンが使われ、死体全体が焼かれた。銃殺・刺殺のまま川に流しては、何かとかたちが残る。可能なかぎり「かたち」をかえて流すためであった。しかしこの大量の死体を、火葬のように骨にまでするほどの燃料はないので、焼かれたあとは黒こげの死体の山が残った。

『南京への道』pp.307-318

 栗原の証言によると銃撃で倒れた捕虜に着火した理由として、一つには捕虜殺害を完全に期すためであり、二つ目には銃殺・刺殺の痕跡を「可能なかぎり「かたち」をかえ」る為だという。

 一点目の捕虜殺害の完全を期すために着火したというのは、銃撃で倒れた捕虜の中には「生きている者がいる」と想定され、「生きて逃亡する者があれば捕虜全員殺戮の事実が外部へもれて国際間題になる」からだという。
 しかし、この理由は解しかねる。なぜならば、殺害を実行した時点ですでに逃亡者があったことは部隊として認識していたからだ。

両角業作大佐 歩65連隊長
手記
二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。

『南京戦史資料集2』pp.339-341

 両角が言う「大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み」という逃亡の規模の是非はともかく、捕虜の逃亡があったことを述べている。
 このことは上海派遣軍司令部にでさえ伝わっている。

飯沼守少将 上海派遣軍参謀長
[日記]12月21日
荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒かれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃けられたりとの噂あり。

『南京戦史資料集1』p.164

上村利道大佐 上海派遣軍副参謀長
[日記]12月21日
N大佐より聞くところによれは山田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MGにて打ち払ひ散逸せしもの可なり有る模様。

『南京戦史資料集2』pp.268-269

 実態としてどの程度の逃亡者があったのか分からないが、山田支隊としては一定程度の逃亡があったことを認識していたと考えるべきだろう。
 そうすると、栗原が述べるように「捕虜全員殺戮の事実が外部へもれ」ることは既に防ぐことができず、このことを理由としてとどめを刺すということには合理性があるとも思えない。

 二点目の殺害の痕跡を可能な限り消すという理由だが、そもそも殺害の痕跡を消せるほど燃料があったとも思えない。平林は次のように証言している。

平林貞治少尉 歩65連隊砲中隊 小隊長
[証言]
油をつけて焼いたとされますが、そんなに大量の油を前もって準備するとなると、駄馬隊を大量動員して運んでおかなければならず、実際、そんなゆとりなんかありませんでしたよ。

『南京の氷雨』(1989年)pp.108-109

 これまでの検証でも明らかになっているように平林の証言は信憑性が低いのでこの見解を鵜呑みには出来ない。しかし、実際に殺害したばかりの死体を焼いてその殺害の痕跡を消すというのは簡単ではない上、その数が数千にも及ぶことを考えると、平林の見解は妥当と考えられる。

 以上のように、栗原が証言する銃撃された捕虜に着火した理由は実態に即しているとも思えない。一方で、一点目の理由で挙げられた”生き残りを探し出す”ことには一定の効果があったと思われる。
 これまで見てきたように、山田支隊が捕虜に対し機関銃・小銃で銃撃した後、倒れている者に着火し、生き残っている者を銃剣で刺して止めを刺したという一連の行動は、執拗な殺害行為であり、すべての捕虜を殺害するという強い意図が窺わせるものである。
 両角手記や戦後の証言者たちは、捕虜を揚子江へ連行したのは解放するためだと主張したが、銃撃後に行ったこれら一連の処置から窺える強い殺意からは、到底その様な意図を見出すことはできない。

殺害数 

 揚子江岸への捕虜連行が終わり、直後に暴動が発生し、併せて捕虜を銃殺することになるが、この時の捕虜の殺害数を検証する。

両角業作大佐 歩65連隊長 手記
二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。

『南京戦史資料集2』pp.339-341

 この両角手記には二つの数が上げられている。一つは暴動を起こした捕虜数「二千人ほどのもの」、もう一つは殺害した捕虜数「僅少の数」である。この二つの数は、同じ両角手記であっても各資料によってブレがある。下記の表にまとめてみる。

資料名暴動数殺害数
『郷土部隊戦記』1964年約四千人近い大集団千人を上回った程度
『ふくしま戦争と人間』1982年集結していた捕虜たち僅少の数
『南京の氷雨』1989年俘虜たち僅少の数
『南京戦史資料集2』1993年二千人ほどのもの僅少の数

 上記の表を見ても分かるように、暴動數は具体的に数字を挙げる資料もあれば単に「俘虜」と表現するにとどめるものがあるが、殺害数は『郷土部隊戦記』を除き「僅少の数」で一致している。
 表現のブレ以外にも気になるのは、『南京戦史資料集2』における暴動数が「二千人ほど」としている点である。両角手記によれば、当初の捕虜捕獲数を約1万5300名とし、そのうち非戦闘員を解放して約8000名となり、さらに火事で逃亡し約4000名となったとしている。その捕虜約4000名を河岸へ連行し、渡河の為200~300名を軽舟へ乗せて出発しているのだから、河岸に残り暴動を起したのは約3700~3800名になるはずだ。ところが集結地の河岸で暴動を起こした数を両角は「二千」と述べている。一体、どの様な理由があってこの様な誤差が生まれたのか、両角手記からは読み取ることはできない。
 いずれにしても両角手記では、捕虜が暴動を起こし、そのうちの「大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み」、その結果、殺害された数は「僅少の数に止まっていた」もしくは「千人を上回った程度」という。

 殺害数に関して両角手記に近い数値を述べているのは丹波である。

丹波善一上等兵 歩65
[証言]
千人以上は死んでいるな、そう感じたものでした。しかし実際に私たちが死者を片づけてみると、四百人前後だったように思う。とにかくこれだけの死者があると、ものすごく見えるものですね。死者の大半は揚子江に流したのです」

『ふくしま戦争と人間』p.128

 両角手記では、2000名のうち大部分が逃亡し殺害されたのは僅少だったというので、丹波証言はこの内容に近いものと言えるだろう。

 丹波証言に次いで少ない数字を述べているのは平林である。平林が証言した捕虜殺害数については既に論じた※ので結論だけ書くと、『南京事件の総括』のみ「中国側の死者一、〇〇〇~三、〇〇〇人ぐらいといわれ」とするが、それ以外はおよそ3000人(もしくはそれ以上)と述べている。両角手記や丹波証言からはだいぶ多い数となる。(※史料批判:箭内証言・平林証言>平林貞治証言>死者数?

 これら戦後の証言と比較して、当時の日記ではおよそ1万数千~2万名という殺害数を記している。もちろん、これは当初の捕獲数・収容数と一致するものだ。代表的なものをいくつか挙げてみよう。

飯沼守少将 上海派遣軍参謀長
日記12月21日
荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処…相当数に逃けられたりとの噂あり。

『南京戦史資料集1』p.164

西原一策大佐 上海派遣軍参謀
日記12月18日
慰霊祭を行はる、山田旅団は一万五千の俘虜を処分せしか

荒海清衛上等兵 歩65第1大隊本部
日記12月16日
捕虜の廠舎失火す、二千五百名殺す。
12月17日
俺等は今日も捕虜の始末だ。一万五千名、今日は山で。大隊で負傷、戦死有り。

『南京戦史資料集2』p.345

宮本省吾少尉 歩65第4中隊
日記12月16日
午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮(虜)兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ 光景である。
12月17日
夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会い友軍にも多数死傷者を出してしまった。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.133-134

遠藤高明少尉 歩65第8中隊
日記12月16日
夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し1(第1大隊)に於て射殺す。
12月17日
夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.219-220

本間正勝二等兵 歩65第9中隊
日記12月16日
捕慮(虜)三大隊で三千名揚子江岸にて銃殺す、午后十時に分隊員かへる。
12月17日
中隊の半数は入城式へ半分は銃殺に行く、今日一万五千名、午后十一時までかかる、自分は休養す

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.239-240

 飯沼と西原が日記に記している話は正式な報告ではないようだが、その数を飯沼は「一万数千(相当数に逃けられた)」、西原は「一万五千」としている。
 その後に挙げた荒海は捕虜殺害で主要な役割を担った第1大隊の本部に勤務していた。宮本は第1大隊第4中隊の士官(少尉)で、捕虜の捕獲連行から警戒・管理、江岸への連行、殺害という捕虜の行動の全てに関わっている。遠藤は第2大隊第8中隊の士官(少尉)で、16日の第1大隊による捕虜殺害に参加し、17日の捕虜殺害に自身の部隊の兵士を差し出している。本間は第3大隊第9中隊の兵士(二等兵)で、16日の捕虜殺害を実施し、17日には自身は参加しなかったものの、自身の中隊が捕虜殺害に参加したという。
 ここに示したように、上海派遣軍司令部、歩65の第1大隊・第2大隊・第3大隊にそれぞれ所属していた将兵の日記で、およそ1万数千(もしくはそれ以上)の捕虜殺害を記述している。この殺害数が妥当であることは、既に論じてきたように、捕獲時の非戦闘員解放や火事による捕虜数半減という証言の信憑性が低いことからも裏付けられるだろう。

 戦後の証言と当時の日記とを比較すると明らかだが、戦後の証言は捕虜殺害数を少なく語っていることが分る。これもまた、『郷土部隊戦記』(1964年)の記述に沿って証言をした結果と考えるのが妥当だろう。

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