両角手記の検証[07]史料批判:郷土部隊戦記 第1

両角手記の検証 第13師団
両角手記の検証
両角手記の検証 総目次
1.はじめに
2.両角業作の経歴
3.掲載資料の紹介
4.各資料における文面比較:両角日記
5.各資料における文面比較:両角手記
6.両角日記・手記の出自
7.史料批判:郷土部隊戦記 第1
8.史料批判:箭内証言・平林証言
9.史料批判:両角手記
10.まとめ
11.参考資料

史料批判 

 本項では、両角日記・手記の史料批判を試みたいと思う。その際、手記・日記の文面のみならず、関係する他の資・史料も併せて検証する。

史料批判『郷土部隊戦記 第1』 

 既に指摘したとおり、本書には両角日記・手記を引用している部分はないが、両角手記の内容に大きな影響を受けていることは明らかである。これも既に指摘したが、福島民友新聞紙上に「郷土部隊戦記」を連載するのにあたり、阿部輝郎は両角を取材し際に手記・日記の写しを入手していることは、両角日記・手記に影響されたことを裏付ける根拠と言えるだろう。
 以下、『郷土部隊戦記』で注意すべき箇所をピックアップして検証する。

第3章「南京虐殺事件の真相」の執筆動機

 本書第3章「南京虐殺事件の真相」には3つの節に分れており、それぞれ「両角部隊は虐殺に関係なし」「捕虜を殺せの軍命令を蹴る」「郷土部隊に虐殺の証拠なし」と節名が付されている。この節名から見ても、歩兵第65連隊が南京事件に関与していなかったと主張する目的であることは明らかだ。
 p.110上段で「世上、わが両角部隊もまたこの暴挙に加わったのではないかと流布されている」とするが、その一例として、p.111下段で、秦賢助が『日本週報』昭和32年2月25日号で執筆した「捕虜の血にまみれた白虎部隊」を挙げている。
 秦の記述を要約すると、捕虜の処置について「軍司令部」が「中央(参謀本部、陸軍省)」へ請訓をしたが「軍司令部の責任でやれ」という返事だった為、捕虜殺害を山田支隊へ命令した。両角は捕虜を解放を望んでいたが、軍命令に逆らえず捕虜殺害に至ったというものだ。
 ここでは、秦の記述の是非は置いておくとして、はたしてこの『日本週報』の一記事が「世上…流布されている」というほどの影響力があったのだろうか。『郷土部隊戦記』(1964年)の発行以前では、この記事以外に歩兵第65連隊が南京事件に関与したという情報は見つかっていない。この記事が執筆の動機としては力不足のように思える。
 また、秦「捕虜の血にまみれた白虎部隊」と両角手記とを比較すると、ストーリーの大筋はほぼ一致するが、次の二点が大きく異なっている。
 一点目は数の問題である。秦記事では、捕獲した「二万」の捕虜のすべてを殺害したという。一方、両角手記では、捕虜捕獲時に非戦闘員を解放したことで半減し、収容所の火災でさらに半減し、結果、捕虜数は4000となった。揚子江で銃撃する際にも多くの逃亡を出したため、殺害した数は「千を上回った程度」(郷土部隊戦記)「僅少の数に止まっていた」(両角手記)としている。
 二点目は捕虜連行の目的である。秦記事では両角部隊は軍命令に従って捕虜を殺害したという。一方、両角手記では、軍命令に反して解放しようとしたが暴動が発生したため殺害したという。つまり、最初から殺す目的だったのか、当初は解放する目的だったが結果的に殺害したのかが違うわけだ。
 「郷土部隊戦記」に秦記事を挙げてまで反論をしたかったのは、突き詰めるならばこれら二点を主張したかったということなのだろう。「郷土部隊戦記」の、引いては両角手記の意図を考察する上では留意すべき点と思われる。

軍司令部批判

 この第3章の特徴の一つは、「軍司令部」が捕虜殺害命令を出したとしてその責任を強く追及していることである。

問題は山田旅団長に対して”捕虜を処置すべし”と命令した軍司令部である。松井大将は虐殺の責任を問われて絞首刑となったが、すでに史実は松井大将の無実を明らかにしている。大将は軍司令官としての責任を回避せずに従容として絞首台の露と消えた。とすれば悪い奴はだれか、軍司令官の名をかたって殺せと命令したもの、それはごく一部の軍司令部内の高級将校たちであろう。そういう狂熱的なファシストたちが軍主流を形成して将軍たちをあやつり、戦争までひき起こしたのだ。

『郷土部隊戦記 第1』p.113 

 この様な強い批判的論調は、後の『ふくしま戦争と人間』には見られない傾向である。

『ふくしま戦争と人間』に出てこない資料

 軍司令部の捕虜殺害に関する記述で、『郷土部隊戦記』で取り上げながら『ふくしま戦争と人間』で取り上げなかった資料が掲載されている。

将校だけは、軍司令部に連れてゆかれたが、そのごの消息は不明で、これは取り調べのうえ殺されたものとみるほかはない。

『郷土部隊戦記 第1』p.112

 軍司令部が、捕虜の中から将校を連行したという話は他の資料には見られない情報である。根拠資料は明示されていないが、文章の流れからすると山田からの情報のように見える。

 以下の提示する軍司令部から派遣された憲兵と山田とのやり取りも、『ふくしま戦争と人間』では取り上げられていない。

その日、こんどは逆に軍司令部から憲兵将校(階級、氏名不詳)が旅団司令部に調査にやってくる始末だったが、山田旅団長はこの若い憲兵将校をじゅんじゅんとさとし、かえって「閣下のお考えはよく分かりました」
 と帰っていったのだ。しかし最後にはついに
「捕虜は全員すみやかに処置すべし」
 という軍命令が出されたのである。通信兵が電話で鉛筆がきで受けた一片の紙きれにすぎないのだが……

『郷土部隊戦記 第1』p.112

 ここで紹介されているやり取りと同じ話が、『「南京大虐殺」のまぼろし』(p.194)で山田の証言として紹介されている。おそらく、この記述も山田の証言するものと思われる。

 いずれも軍司令部が捕虜殺害に関して積極的に関わっていたことを示す情報であるが、『郷土部隊戦記』にのみ掲載されている点は特徴的と言えるだろう。

『戦史叢書』の見解

 1975年に出版された『戦史叢書 支那事変陸軍作戦1』p.436-438にかけて「注 南京事件について」という記述の中で、幕府山の捕虜殺害についても触れている。その中で、捕虜数について、捕獲した「一万四千余」のうち非戦闘員を解放し「約八千余」となり、収容所の火事でさらに「半数が逃亡」した。その後、「揚子江対岸に釈放しようとして」暴動がおき「捕虜約一、〇〇〇名が射殺され、他は逃亡し」たと説明している。
 この記述が何を根拠としたか明示されていないが、巻末の脚注から判断すると、『郷土部隊戦記1』、洞富雄『南京事件』、鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』に依拠しているようだ。ただし、その筋書きの主要部分は両角手記と一致する。それにも関わらず、両角手記で叙述されていた軍司令部からの捕虜殺害命令の存在には一切触れず、「南京付近の死体は戦闘行動の結果によるものが大部であり、これをもって計画的組織的な「虐殺」とは言いがたい」と論ずるのは公平性に欠ける論述に見える。

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