山田支隊の兵力推計 [01] はじめに

山田支隊の兵力推計 第13師団
山田支隊の兵力推計ic
山田支隊の兵力推計 総目次
1. はじめに
2. 研究者の見解
3. 資料
4. 刊行資料の根拠につい
5. 兵力推計
6. まとめ
7. 参考資料
山田支隊進攻ルート
山田支隊進攻ルート

 幕府山事件の経緯は次の通りとなる。歩兵第103旅団(長 山田栴二少将)は、12月2日に江陰城要塞を占領し、同地警備についた後、12月10日、同地西方にある鎮江に移動して揚子江を北岸へ渡河の準備していた。ところが12月12日午後、軍の命令により山田支隊を編成し(長:山田栴二少将、基幹:歩兵第65連隊、附属:山砲兵第19連隊第3大隊、騎兵第17大隊)、揚子江沿いに南京へ向け進攻することとなった。12月14日、南京東方約5km地点にある幕府山砲台を占領する過程で大量の投降兵と遭遇し、これを捕虜とした。その数は報道によれば1万4777名と言われている。山田支隊はこの大量の捕虜を幕府山付近の建物に収容したもののその処置に困り、上部組織に処置方法を求めたところ殺害するように指示を受けた。そこで12月16日・17日の二日間に分けて捕虜殺害を実施し、18日・19日に死体処理を行った。20日に同地を出発、下関で揚子江北岸浦口に渡った。
 南京事件の議論では、この幕府山で捕らえ殺害した捕虜について、山田支隊が捕獲した捕虜数、虐殺の意図や違法性などが論じられる。

山田栴二-我殲滅譜
山田栴二-我殲滅譜より

 南京事件研究者の板倉由明氏は、山田支隊が捕獲した捕虜数について、朝日新聞の報道や山田栴二日記に記載された1万4777名を「誇大ホラ話」と評した。その根拠の一つとして、山田支隊は戦闘による損耗が著しく、その当時の兵数は歩兵第65連隊だけで「総数一千数百名」(※1)だったとし、1万4777名という捕虜数を計測することはこの兵数では困難だと主張する。

 板倉氏が主張する捕虜数計測の困難性については別稿で論じようと思うが、本稿では、板倉氏が捕虜数1万4777名を「誇大ホラ話」と評した根拠の一つである当時の山田支隊の総兵数について検討する。

 なお、部隊名を次のように略称する。
 歩兵第65連隊 ⇒ 歩65
 山砲兵第19連隊 ⇒ 山砲19
 山砲兵第19連隊第3大隊 ⇒ 山砲19Ⅲ
 騎兵第17大隊 ⇒ 騎17

※1 板倉由明『本当はこうだった南京事件』p.136
「捕虜を数えるのは大変な仕事で、二列にして前を通過させ、二秒に一組ずつ数えると一万五千人なら一万五千秒、四時間強はかかる。後述のように収容所が二カ所以上あったとすれば集計もせねばならない。一四七七七は魯甦の五七四一八と同じく、一見精密、実態は誇大ホラ話と見た方が良さそうである。」

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