両角手記の検証[03]掲載資料の紹介

両角手記の検証 第13師団
両角手記の検証
両角手記の検証 総目次
1.はじめに
2.両角業作の経歴
3.掲載資料の紹介
4.各資料における文面比較:両角日記
5.各資料における文面比較:両角手記
6.両角日記・手記の出自
7.史料批判:郷土部隊戦記 第1
8.史料批判:箭内証言・平林証言
9.史料批判:両角手記
10.まとめ
11.参考資料

掲載資料の紹介 

 両角手記・日記は、確認できた中では主に三つの書籍に掲載されている。発行年順に、『ふくしま 戦争と人間1』(福島民友新聞社、1982年)、『南京の氷雨』(阿部照郎、1989年)、『南京戦史資料集2』(偕行社、1992年)となる。また、『郷土部隊戦記 第1』(福島民友新聞社、1964年)は、直接の引用部分はないが南京事件に関する叙述の主要な根拠となっていると見られる。
 以下、掲載書籍の概要及びその中での両角手記・日記の取扱いを紹介する。また手記・日記の出自なども資料に併せて紹介する。

1964年 郷土部隊戦記 第1 福島民友新聞 

郷土部隊戦記 福島民友新聞
「郷土部隊戦記」(『福島民友新聞』)

 本書は、福島民友新聞紙上で1961年12月中旬から1962年12月下旬連載された「郷土部隊戦記」をまとめたものである。序文には福島県知事(当時)佐藤善一郎と歩兵第65連隊長だった両角業作が文章を寄せている。編集委員として大内武夫、高橋良一郎、大平信吉、阿部輝郎の名前が記されている。
 南京戦に関しては、「第三編 南京攻略戦」としてp.101からp.114まで、3章立てで書かれている。それぞれの章名は以下の通りとなる。
一、幕府山砲台と十万の投降兵
二、堂々の南京入城式
三、南京虐殺事件の真相
 南京事件について書かれた「三、南京虐殺事件の真相」の叙述は、大筋は山田日記と両角手記の内容と一致するが、両角手記・日記の存在に直接言及する部分はない。一方、「連隊は十五日に幕府山砲台ふきんで多数の捕虜を得たが、その実数は一万四千七百七十七人(山田旅団長の陣中メモによる)」(p.111)として、「山田旅団長の陣中メモ」に依拠としていることは確認できる。
 編集委員の阿部によれば、両角のもとへ「昭和三十六年から三十七年にかけ、取材のため何回か訪問した」(『南京の氷雨』p.65)としており、『南京戦史資料集2』では、「昭和37年1月中旬、求めに応じ阿部輝朗に貸し与えられたものを筆写し、保存しておいた」(p.341 注記)としている。
 これらの事情から考えて、本項の叙述に両角手記が利用されていることに間違いないだろう。

1982年 ふくしま戦争と人間1 福島民友新聞 

 本書は、福島民友新聞で昭和53年2月から昭和57年6月までに連載された「ふくしま・戦争と人間」をまとめたものである。編纂委員会の「ふくしま戦争と人間出版委員会」は高橋一郎、伊藤修二、伊藤二郎、武田知行、村松常雄、渡辺貞夫、渡辺信之介で構成されており、序文は福島民衆新聞社代表取締役社長・和久幸雄が、あとがきは阿部輝郎が書いている。
 南京戦については、「大陸に悲劇の戦火」の項のうち「六、南京攻略の前後」(p.101-116)と「七、南京事件の混乱」(p.117-134)に記述されている。
 「六、南京攻略の前後」では、1937年11月28日から始まった江陰城攻略戦、12月10日の鎮江入り、12月13日の山田支隊への南京進撃命令※、12月14日幕府山で大量の投降兵の捕獲、といった経過が書かれている。(※註:山田日記によると、南京進撃命令は12月12日17時となっている。)
 「七、南京事件と混乱」は、南京事件について16ページに渡って書かれている。先の『郷土部隊戦記1』が5ページだったことと比較すると、ページ数では3倍を超える内容となる(ただし『郷土部隊戦記1』は2段組、『ふくしま戦争と人間』は段組なし)。
 南京事件に関する叙述は、両角手記・山田日記(陣中メモ)を主軸として書かれているのは『郷土部隊戦記1』と同様である。それらに加え、箭内准尉、丹羽上等兵、八巻中隊長、角田中隊長、大友少尉、平林少尉、その他1名の証言(述懐)が新たに紹介され、ストーリーを肉付けしている。新しく証言が紹介されているのに反して、日記等の一次史料が追加されることはなかった。その後、小野賢二が大量の日記等の一次資料を収集したことを考えると若干の不自然さを感じるが、そこは小野の業績の大きさを評価すべきなのかもしれない。
 両角日記の引用はないが、手記については「回想ノート」として≪≫で括って引用している。手記の引用範囲は、「六、南京攻略の前後」で12月1日の記述から始まり、「七、南京事件と混乱」における捕虜殺害、山田少将への報告までの記述が引用されている。

1989年 南京の氷雨 阿部輝郎 

南京の氷雨 阿部輝郎
『南京の氷雨』阿部輝郎

 本書は、『郷土部隊戦記』・『ふくしま戦争と人間』を取材した阿部輝郎の著作となる。郷土部隊史の取材で得た証言や資料を紹介し、阿部自身による南京での現地調査を紹介する形で、幕府山での捕虜殺害について検証する内容となっている。
 それまでに公表されてこなかった日記や証言が多数紹介されている。また、幕府山での捕虜殺害が二日にわたって行われたことを初めて指摘したことは研究成果として大きな功績と思われる。
 両角日記は12月12日~14日を引用している。手記は部隊が12月7日に江陰城を出発した箇所から始まり、捕虜殺害、山田少将への報告までが引用されている。

1992年 南京戦史資料集2 p.339-341「両角業作手記」 

南京戦史 偕行社
『南京戦史(増補改訂版)』(偕行社)

 本書は、旧陸軍軍人で組織された親睦団体である偕行社から出版されたもので、1989年に出版された『南京戦史』『南京戦史資料集』を、1992年に増補改訂版として追加された資料集である。

 「資料解説」の「『両角業作日記』と『手記』について」(p.12)では、資料の取得・所蔵状況について次のように書かれている。

(K-K註:「資料解説」の記述)
残念なことに『両角日記(メモ)』は、研究者・阿部輝郎氏が筆写した南京戦前後の部分しか現存せず、その原本との照合は不能の状況である。
 『手記』は明らかに戦後書かれたもので(原本は阿部氏所蔵)、幕府山事件を意識しており、他の一次資料に裏付けされないと、参考資料としての価値しかない。

『南京戦史資料集2』p.12

 また、p.341の注記では次のように書かれている。

(K-K註:「注記」記述)
この記録は、第十三師団歩兵第六十五聯隊長両角業作大佐が、終戦後しばらくしてまとめたものである。昭和三十七年一月中旬、求めに応じ阿部輝朗に貸し与えられたものを筆写し、保存しておいた。原文はノートに書かれ、当時の日記をもとに書いたという。

『南京戦史資料集2』p.341

 「資料解説」によれば、日記(メモ)は阿部輝郎が「筆写した」もの、つまり書き写したものという。手記は「原本は阿部氏所蔵」ということなので、両角自身が書いた原本を阿部が所蔵しており、南京戦史編集委員会にはそのコピーが阿部から提供されたと読める。
 一方、注記の記述は分かりにくい。「この記録は」というのは、手記のみを指しているのか、日記のみを指しているのか、その両方なのか判別しずらい。「終戦後しばらくしてまとめたもの」といい、「当時の日記をもとに書いたという」ということは、手記を意味すると読める。
 ところが、「阿部輝朗に貸し与えられたものを筆写し、保存しておいた」と書かれているので、先の「資料解説」からすれば、阿部が筆写したのは日記であり、手記は「原本は阿部氏所蔵」となっているので、その意味からすると「この記録」とは日記を意味することになる。
 それとも、資料解説での「(手記の)原本は阿部氏所蔵」という中の「原本」とは、阿部が取材時に筆写したものを「原本」と呼んでいるのだろうか?この問題は後ほど検討したい。
 資料の引用範囲は、日記は12月12日~31日を、手記には「南京大虐殺事件」とタイトルが付された上で、幕府山で捕虜を捕獲した12月14日から捕虜殺害後、山田少将への報告までが引用されている。

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