「対支那軍戦闘法ノ研究」の解釈

「対支那軍戦闘法ノ研究」の解釈 その他
「対支那軍戦闘法ノ研究」の解釈

「対支那軍戦闘法ノ研究」

 ここで紹介する「対支那軍戦闘法ノ研究」は1933年1月に陸軍歩兵学校で作製された極秘扱いの文書である。原本は防衛研究所史料室に収蔵されている(中央-軍隊教育諸学校-93 「対支那軍戦闘法の研究 昭和8年1月」陸軍歩兵学校、アジ歴での公開無し)。南京事件の研究では、事件発生の原因が現地軍(中支那方面軍)の暴走だけではなく、日本軍全体もしくは軍中央による対中国意識の象徴と表出したことを示す資料して用いられる。

 本文書の概要について、藤原彰氏は次のように説明する。

 陸軍歩兵学校が、香月清司校長の序を付してだした『対支那軍戦闘法ノ研究』(一九三三年一月)という秘密扱いのパンフレットがある。これは教官氷見大佐の研究を歩兵学校の学生や召集佐官にたいする「対支戦闘法教育」の参考に頒布したものとされているが(後略)

藤原彰『岩波ブックレット 新版 南京大虐殺 』p.26

 本文書で問題となるのは「捕虜ノ処置」という項目である。以下、藤原氏の著書より引用する。

「捕虜ハ他列国人ニ対スル如ク必ズシモ之レヲ後送監禁シテ戦局ヲ待ツヲ要セズ、特別ノ場合ノ外之ヲ現地又ハ他ノ地方ニ移シ釈放シテ可ナリ。支那人ハ戸籍法完全ナラザルノミナラズ、特ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラレアルモノ少キヲ以テ、仮リニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題トナルコト無シ」

藤原彰『岩波ブックレット 新版 南京大虐殺 』p.26

 この文書に対する研究者の評価を紹介したい。先の藤原氏は次のように評価する。

 ロシア兵やドイツ兵の場合とちがって、中国兵の場合は殺してもかまわない、というこの研究には、あきらかに中国蔑視の思想があらわれている。

藤原彰『岩波ブックレット 新版 南京大虐殺 』p.26

 洞富雄氏(元早稲田大学教授)は、本文書を次のように評価する。

 ことに中国人を虫けらのように蔑視していた者が多かった軍では、中国兵の捕虜を殺害することなど、まったく意に介していなかったようである。たとえば、「満州事変」から二年めの一九三三年に、陸軍歩兵学校では『対支那軍戦闘法ノ研究』(秘扱い)という歩兵教範をつくっているが、それを見ると、「支那人ハ戸籍法完全ナラザルノミナラズ、特ニ兵員ハ浮浪者多ク、其存在ヲ確認セラレアルモノ少キヲ以テ、仮リニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ、世間的ニ問題トナルコト無シ」というようなことを教えこんでいたのである(藤原彰『南京大虐殺』〔岩波ブックレット43〕二八ページ)。

洞富雄『南京大虐殺の証明』p.316-317

 吉田裕氏(一橋大学教授)の評価は次のようになる。

 問題なのは、軍中央部がこのような違法行為を厳重に取り締まる手段を講じようとせず、むしろ捕虜の「処分」を容認するような姿勢を示すことによって兵士の敵愾心の爆発に道を開いたことである。満州事変下の一九三三年(昭和八)一月、陸軍歩兵学校が対中国軍戦闘法教育の参考書として調製した『対支那軍戦闘法ノ研究』には、「捕虜ノ処置」の項に「(中略)」などと公然と記述されている。

吉田裕『新装版 天皇の軍隊と南京事件』p.45

 以上のように、この文書の「捕虜ノ処置」に関してそれぞれ、「中国兵の場合は殺してもかまわない、というこの研究」(藤原)、「中国兵の捕虜を殺害することなど、まったく意に介していなかった」(洞)、「捕虜の「処分」を容認するような姿勢」という評価を下しており、その内容を中国兵捕虜の殺害を容認するものと解釈していることが分かる。

 ところが、東中野修道氏(亜細亜大学名誉教授)はこの「捕虜ノ処置」を次のように解説する。

 この教授範例は二文から成る。前段の一文は特別の事情なき限り「捕虜ハ……釈放シテ可ナリ」と指示する。その理由の説明が後段の一文であった。
 捕虜となった支那兵の釈放に際しては、必ずしも戦闘の終結を待つ必要はなく、特別の事情がない限り、現地(や他所)で「捕虜は……釈放してもよい」というのが、「捕虜ノ処置」にかんする原則であった。
 特別の場合というのは、捕虜が日本軍の命令に服さない場合であったであろう。その場合に限って、捕虜処刑もあり得た。つまり、原則として釈放、特別の場合はこの限りにあらず、というのであった。従って、この「捕虜ノ処置」は、明らかに、捕虜の釈放を推奨する。
(略)
 では、なぜ、原則として「捕虜ハ……釈放シテ可」なのか。
 その理由は、支那の戸籍法が完全ではなく、そのうえ支那兵には浮浪者が多かったから、仮に支那兵を戦場で釈放しても、社会的には何ら問題にならないというのであった。

『「南京虐殺」の徹底検証』p.88

 東中野氏の解説によれば、「捕虜ノ処置」の文章構成は、原則は「捕虜は……釈放してもよい(釈放シテ可ナリ)」であり、特例として「捕虜処刑もあり得た」という。その特例を採用する条件は「捕虜が日本軍の命令に服さない場合であった」と説明する。また、なぜ捕虜を釈放してよいかの理由として、中国の戸籍法が完全ではない、中国兵は浮浪者が多く戦場で釈放しても社会的に問題にならないからとする。そして、この「捕虜ノ処置」の項は「明らかに、捕虜の釈放を推奨する」というのである。先に示した藤原氏、洞氏、吉田氏の見解とは真逆な解釈と言えるだろう。
 しかし、この東中野氏の説明には相当に違和感を感じるのは私だけではないだろう。本稿では東中野氏の「捕虜ノ処置」に関する説明を検証してみたい。

東中野説の検証

「特別の場合」

 東中野氏の説明で奇異に感じるのは、特例(特別の場合)に関する説明だ。「捕虜ノ処置」の文章の中に、この特例に関する記述は一つも存在しない。存在しない「特例」を見い出し、存在しない採用条件である「捕虜が日本軍の命令に服さない場合」を書いており、まったく根拠の存在しない説明なのである。

補足:東中野氏の「捕虜ノ処置」の読み方は、「特別ノ場合ノ外之ヲ現地又ハ他ノ地方ニ移シ釈放シテ可ナリ。」という一文より、通例を「釈放」と解釈した。また、「仮リニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツ(釈放)モ世間的ニ問題トナルコト無シ」の中で通例「釈放」ではないもう一方の「殺害」を特例だと言いたいのだろう。
 しかし、問題となる後段の文章に特例と通例との違いを説明する部分はない。むしろ中国人の戸籍不備等を述べて、殺害・釈放を「又ハ」でつないだ上で両者を同列として扱い、世間的に問題とならないと述べているのだから、この殺害・釈放が通例と特例という関係ではなく、両者が同例を意味することになる。殺害と釈放を特例と通例と解釈するのは誤りである。
 普通の読解力からすれば、この「捕虜ノ処置」でいう特例とは「後送監禁シテ戦局ヲ待ツ」つまり捕虜を収容することである。既に指摘した通り、東中野氏が述べる特例の説明は(「捕虜が日本軍の命令に服さない場合であった」)、殺害を特例とするための創作でしかない。

「捕虜処刑もあり得た」

 仮に東中野氏の「特別の場合」の説明を認めるとしても、「捕虜が日本軍の命令に服さない場合…捕虜処刑もあり得た」という同氏の説明はずいぶん不思議に思える。
 そもそも、戦時国際法上、捕虜が命令に服さなかったり抵抗した場合には、「厳重手段を施すこと」は認められている(「陸戦の法規慣例に関する規則」第8条、以下「陸戦規則」とする)。ただし、この場合、単なる不服従や抵抗を理由に捕虜を殺害することは認められない。一方で、捕虜が逃走し、制止することを振り切って逃走したり、逃走途中で犯罪を犯した場合は捕虜を殺傷することが認められる(信夫淳平『戦時国際法提要』上巻、pp.439~)。なお、東中野氏が言う「捕虜処刑もあり得た」という主張の根拠は陸戦規則第8条のようだが(同書p.89)、本来、この条文だけでは殺傷まで認められたとはいえない。
 いずれにしても、捕虜の処罰に関しては上述の通りだが、この様な状況というのは何も中国軍に対して限定されるものではなく、どの国の捕虜に対しても等しく認められていることである。認められている当然の行為を、中国軍に限定して「捕虜処刑もあり得た」と説明していると解釈するには無理があるだろう。

捕虜を「釈放」する理由なのか?

 「捕虜ノ処置」の中で、捕虜を釈放してよい理由として東中野氏は次のように述べる。
「その理由は、支那の戸籍法が完全ではなく、そのうえ支那兵には浮浪者が多かったから、仮に支那兵を戦場で釈放しても、社会的には何ら問題にならないというのであった。」
 この文章は「捕虜ノ処置」の後段の解釈したものである。
「①支那人ハ戸籍法完全ナラザルノミナラズ、②特ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラレアルモノ少キヲ以テ、③仮リニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題トナルコト無シ」(番号は筆者が付した)
 この文章の構造は、①と②という理由で③という判断となる、というものである。つまり、「捕虜ハ……釈放シテ可」という判断の理由として、①と②で示された理由があると東中野氏は説明する。しかし、③を見れば分かる通り、その判断は「殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題トナルコト無シ」つまり「殺害」と「釈放」と明記しているのだから、釈放だけの理由だとする東中野氏の文章読解は明らかに間違っている。明記されていることを読み飛ばすというデタラメだ。

 上述の通り、文章構造上、①と②は捕虜の「殺害」と「釈放」が世間的に問題にならない理由なのだが、ところでこの①と②という理由は、その内容として釈放することが世間的に問題にならない理由となっていない。そもそも、捕獲した中国兵を釈放することは何ら違法性もなく、世間的に問題になるはずもない。したがって①②は釈放の理由とは言えないのである。
 もちろん、ここでいう「世間的」な問題とは、違法性と捉えるのみならず、社会問題と捉えることも出来よう。解放することで社会問題を惹起するというのは、例えば解放された中国兵が野盗化することや浮浪者化することが思い浮かぶ。しかし、ここで述べられているのは、そのことが「問題トナルコト無シ」(=問題とならない)の理由のだから、この主張はまったく当てはまらない。
 結局、ここで述べられてる①中国の戸籍法の未整備、②中国兵に浮浪者が多いというのは、捕虜を殺害することが問題いならない理由にしかならないのである。

「対支那軍戦闘の参考 参謀本部」(昭和12年7月)

対支那軍戦闘の参考-表紙
対支那軍戦闘の参考-表紙

 最後に関連する資料を紹介したい。この資料はアジア歴史資料センターの所収されている「対支那軍戦闘ノ参考 参謀本部」(昭和12年7月)である。この資料の来歴は分からないが、発行時期から考えて、盧溝橋事件後にまとめられたものと思われる。頁数は24頁が最後となっており、その規模から考えて小冊子程度と言ってよい。
 なお、「対支那軍戦闘法ノ研究」の「捕虜ノ処置」の項は74頁に掲載されているという(藤原彰『南京の日本軍』p.44)。一方、「対支那軍戦闘法ノ参考」の総頁数は24頁であることと比較すると、同じ小冊子としても内容にかなりの違いがあると思われる。 
 先に検討した「対支那軍戦闘法ノ研究」(昭和8年)の「捕虜ノ処置」の項と、ここで紹介する「対支那軍戦闘法ノ参考」の「捕虜ノ処置」の項の文章を比較すると一致する部分が多く見られる。おそらくは、盧溝橋事件が始まり日中の対立が激化するのに合わせ、急遽「対支那軍戦闘法ノ研究」をアップデートして作製されたものと思われる。以下、その「捕虜ノ処置」の当該部分を引用する。

其二、捕虜ノ処置
一、捕虜ハ他国人ニ対スル如ク必スシモ之ヲ後送監禁シテ戦局ヲ待ツヲ要セス特別ノ場合ノ外現地又ハ他地ニ移シ適宜処置或ハ釈放スルヲ可トスルコト多シ
(略)

「対支那軍戦闘の参考 参謀本部」(昭和12年7月、Ref.C11110829300)
捕虜ノ処置 対支那軍戦闘の参考
対支那軍戦闘の参考 捕虜ノ処置

 ここでは中国兵を捕えた場合は必ずしも収容せずに「適宜処置或ハ釈放スルヲ可トスルコト多シ」という。ここでいう「適宜処置」とは文脈上から考えて収容・釈放とならない以上、殺害を意味するほかない。また、処置(殺害)と釈放の関係性は、原則と特例というものではなく、同価値の選択肢となっている。
 先の「研究」では文末が「釈放シテ可ナリ」となっており許諾を意味しているが、この「参考」では「処置或ハ釈放スルヲ可トスルコト多シ」なっていることから、”殺害や釈放することを許可するケースが多い”と述べていることになる。この部分は満州事変以降の事例に基づいた論述なのかもしれない。
 「研究」と「参考」における「捕虜ノ処置」の項の類似性から考えて、「研究」も「参考」同様に捕虜殺害を認める意味が含まれていると考えるのが妥当であろう。1937年7月当時の軍中央の認識として、中国兵捕虜の対応は他国人との対応と異なり、捕虜殺害という違法行為を選択肢として追認していたことが確認できる。

まとめ

 本稿では、「対支那軍戦闘法ノ研究」(昭和8年)の概要と、同書「捕虜ノ処置」の項の各研究者の評価を紹介し、その中でも異彩を放つ東中野氏の解釈を検証した。
 東中野氏によれば、「捕虜ノ処置」の文章構造は原則と特例で構成されており、原則としては捕虜の釈放を主張し、一方で捕虜が不服従の際には特例として殺害することを認めていたというのである。
 ところが、そもそも文章内に東中野氏いう様な「特例」について言及した箇所はない。また、特例として捕虜の不服従の際に処罰できると主張するが、それは中国兵に限ったことでもない。「他国人ニ対スル如ク」と中国軍将兵だけに適用すべき処置を述べている文章なのだから、通常、認められていない処置を記述するはずの文章としては、東中野氏の解釈だと文章が成立しないのである。
 後段の文章(「支那人ハ戸籍法完全ナラザルノミナラズ~」)は、捕虜を殺害又は釈放しても問題とならないという判断の理由として、①中国の戸籍法の未整備、②中国兵に浮浪者が多い、という2点の理由を挙げているのだが、東中野氏はこの部分の釈放だけの理由だと強弁している。しかも実際に挙げられた理由の内容は、釈放の理由には該当しないものである。ここで挙げられている理由の内実は、捕虜殺害の理由なのである。
 以上の検証を裏付ける資料も存在した。「対支那軍戦闘の参考」(参謀本部、1937年7月)である。ここでは「対支那軍戦闘法ノ研究」と類似する文章があるが、そこでは中国兵は他国人のように必ず収容せずとも、適宜処置又は釈放することが認められていたと述べている。「研究」と「参考」の文章の類似性から考えても、先の検証を裏付ける資料と言えるだろう。

参考資料

  • 「対支那軍戦闘法の研究 昭和8年1月」陸軍歩兵学校(防衛研究所史料室所収、登録番号=中央-軍隊教育諸学校-93、アジ歴での公開無し)
  • 「対支那軍戦闘の参考 昭和12年7月 参謀本部 アジア歴史資料センター Ref.C11110829100(「第8 捕虜の取扱 其1 武装解除に関する注意」Ref.C11110831100
  • 『戦時国際法提要 上巻』信夫淳平 照林堂書店 1943年
  • 『南京大虐殺の証明』洞富雄 朝日新聞社 1986年
  • 『岩波ブックレット シリーズ昭和史NO.5 新版 南京大虐殺 』藤原彰 岩波書店 1988年10月20日
  • 『新装版 天皇の軍隊と南京事件 もうひとつの日中戦争史』吉田裕 青木書店 1998年6月15日
  • 『「南京虐殺」の徹底検証』東中野修道 展転社 1998年8月5日第1刷発行

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