(6)雷庫
▼雷庫
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[1]この建物は地図で雷庫と記されている。ここから、北の揚子江岸には水魚雷営という海軍の施設があることから、ここ一帯も軍事施設と思われる。建物の形状から、中庭を複数もつ大規模な建物と複数の小さな建物が確認できる。周囲は壁で囲われているように見える。
[2]地図には描かれていない施設で、北側に3つの大きな建物が確認できる。その建物の南側に何があるか確認できないが一帯を囲うような壁があるように見える。
[3]中庭のある大きな建物が確認できる。その周囲から南側は平地(広場か)のように見える。
[4]ここに掲載した写真では切れてしまっているが、陸上競技のトラックの様なものが確認できる。ただし、大きさから考えて、現在の公式競技用の400mトラックとは違い一周が800m近くある。地図に描かれていないことを考えると、1933年以降に築造されたものと思われる。
[5]中規模の建物が確認できる。
この雷庫に関しては、『写真帖』28コマ目に「幕府山西砲台」として、別角度から撮影した写真が掲載されている。
上掲の写真の右上に位置する雷庫周辺を拡大すると下のようになる。
北から南に向かって上空より撮影した写真だが、角度がついている為、建物の様子が立体的に見ることができる。
全体的に見ると、だいぶ整備された土地であることがわかる。また、[4]の様なトラックがあることから考えて、学校の施設もあるように推測する。
この一帯だけでも10以上の建物があり、山田日記12月14日付「上元門外の学校に収容せし」とも一致する。一方、栗原スケッチにある「廠舎」の様子、両角手記にある「これを運よく幕府山南側にあった厩舎か鶏舎か、細長い野営場のバラック(思うに幕府山要塞の使用建物で、十数棟併列し、周囲に不完全ながら鉄線が二、三本張りめぐらされている)」とは様子が違う。
この位置は幕府山南麓ではなく、幕府山の西隣にある烏龍山南麓であることもこれまでの資料との不一致点として留意すべきだろう。ただし、『写真帖』28コマのタイトルにあるように、日本軍は老虎山を「幕府山西砲台」と呼称していたようで、幕府山・老虎山を合せて幕府山砲台と認識していた可能性もある。
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