第十三師団「戦闘ニ関スル教示」

第十三師団「戦闘ニ関スル教示」 その他
第十三師団「戦闘ニ関スル教示」

はじめに

 第13師団「戦闘ニ関スル教示」とは、第13師団司令部が過去の戦闘の教訓や矯正・注意すべき事項を、指揮下の部隊宛に訓示した文書である。南京事件の議論では、この「戦闘ニ関スル教示」のうち、1937年10月9日に出された「別紙第七 戦闘ニ関スル教示(続其ニ)」の「十一、捕虜ノ取扱ニ就テ」の項が取り上げられる。当該部分は下記の通りとなる。

十一、捕虜ノ取扱ニ就テ
  捕虜ノ利用取扱等ニ関シテハ昨八日師団情報収集要領ニ於テ指示セシモ多数ノ捕虜アリタルトキハ之ヲ射殺スルコトナク武装解除ノ上一地ニ集結監視シ師団司令部ニ報告スルヲ要ス又捕虜中将校ハ之ヲ射殺スルコトナク武装解除ノ上師団司令部ニ護送スルヲ要ス此等ハ軍ニ於テ情報収集スルノミナラズ宣伝ニ利用スルモノニ付キ此ノ点部下各隊ニ徹底セシムルヲ要ス但シ少数人員ノ捕虜ハ所要ノ尋問ヲ為シタル上適宣処置スルモノトス

「第13師団戦闘詳報別紙第1~第54(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C11111762700 (簿冊「第13師団上海附近の会戦 戦闘詳報 別紙及附図 昭和12年10月1日~12年11月1日」)
「戦闘ニ関スル教示」表紙
「戦闘ニ関スル教示」表紙

 多数の捕虜がある場合は殺害せずに司令部へ護送し、少数の捕虜の場合は「適宜処置」すなわち殺害すると指示していると読むことができる。多くの研究者も、この記述を捕虜を殺害することを認めている史料として取り上げてきた。ところが、東中野修道氏(亜細亜大学名誉教授)は、それまでの解釈とは違い、小数の捕虜を得た場合も「投降兵は射殺しないで武装解除後に適宜追放せよ」と訓示しているのだという。
 そこで本稿では、「戦闘ニ関スル教示」の内容といくつかの研究者の見解を確認した上で、その多数の研究者と異なる見解を示した東中野氏の解釈を検討してみたいと思う。

資料の概要

 問題となる「戦闘ニ関スル教示」が最初に引用されたのは、おそらく秦郁彦『南京事件』(1986年)ではないかと思われる。資料は防衛省防衛研究所に所蔵されており、現在はアジア歴史資料センター(アジ歴)にてウェブ閲覧が可能である。
 アジ歴では、簿冊「第13師団上海附近の会戦 戦闘詳報 別紙及附図 昭和12年10月1日~12年11月1日」(Ref.C11111762400)の中の「第13師団戦闘詳報別紙第1~第54(1)」(Ref.C11111762700)に所収されている。このファイルは、昭和12年10月1日から同11月1日までに発令された戦闘詳報の別紙や附図を集積したものである。
 「第13師団戦闘詳報別紙第1~第54(1)」の中には「戦闘ニ関スル教示」という資料が2点確認できる。一つは「別紙七 戦闘ニ関スル教示 続其ニ」(10月9日付)、もう一つは「別紙二十 戦闘ニ関スル教示 続三」(10月17日付)である。おそらくは一番目に発令された「戦闘ニ関スル教示」もあったはずだが、資料の中から発見することはできなかった。

 この「戦闘ニ関スル教示 続其ニ」が発令された時期の第13師団の行動は、10月1日~8日にかけて上海に上陸し、月浦鎮南方地区に集結を実施しており、その後、10月13日を期日とする攻撃の準備していた(第十三師団戦闘詳報 上海附近ノ戦闘)。この様な状況から、「別紙七 戦闘ニ関スル教示 続其ニ」が出された10月9日時点では、第13師団は未だ本格的な戦闘を行っていない時期と考えられる。

 師団司令部は「戦闘ニ関スル教示」を発令する理由を次のように述べている。

三、戦闘教示の附与
此日まてに於て歴戦部隊より知得したる事項にして教示を要すへきもの並に爾来の結果より見て矯正し或は注意を倍徙すへしと認めたる事項を摘録し別紙第七の如く戦闘に関する教示を与へたり

「第5章 各時期に於ける戦闘経過及之に関連せる隣接兵団の行動(1)」アジア歴史資料センター Ref.C11111759700 17コマ、簿冊:「第13師団上海附近の会戦 戦闘詳報 昭和12年10月7日~12年11月1日」

 特設師団である第13師団を危ぶんでこの様な教育的訓示を出すことにしたのかもしれないが、その真意は定かではない。
 参考までに「戦闘ニ関スル教示 続其ニ」に記載されている項目を提示しておこう。

一、小銃射撃特ニ夜間射撃ニ就テ
二、敵ノ夜襲ニ対スル処置
三、敵軍ノ突撃ニ対スル処置
四、前進ノ要領ニ就テ
五、工事ノ利用ニ就テ
六、支那軍ノ我国旗並ニ萬歳ノ逆用ニ就テ
七、兵特ニ幹部ノ姿勢ニ就テ
八、部下ノ掌握ト兵力ノ派遣ニ就テ
九、各隊ノ師団ニ対スル連絡及報告ニ就テ
十、敵ノ内応者ノ取扱ニ就テ
十一、捕虜ノ取扱ニ就テ
十二、馬匹ノ管理衛生ニ就テ
十三、補給ニ就テ
十四、通信隊ノ保護ニ就テ
十五、将校ノ肩章ヲ脱スル件ニ就テ

「十一、捕虜ノ取扱ニ就テ」の評価

 問題となる「十一、捕虜ノ取扱ニ就テ」の解釈について研究者の見解を紹介する。

藤原彰氏の見解

 藤原彰氏(一橋大学名誉教授)は、「十一、捕虜ノ取扱ニ就テ」を引用した後、次のように見解を述べている。

 多数の捕虜や将校は司令部に報告しなければならないが、少数の捕虜は各隊で適宜処置せよというのである。そしてこの師団の会津若松の歩兵第六十五連隊が、南京で大量の捕虜を捕らえることになったのである。

藤原彰『新装版 南京大虐殺』p.34

 問題となる「適宣処置」の解釈は明記していないものの、この教示を受けた部隊が、後に南京事件で大規模な捕虜殺害事件を起した歩兵第65連隊だったことを指摘し、訓示とその捕虜殺害事件との関係を示唆している。

秦郁彦氏の見解

 秦郁彦氏(日本大学ほか教授)は『南京事件』(p.68-69)で、第13師団には「捕虜の取り扱いについては一応の基準らしいものはあったようだ」として「十一、捕虜ノ取扱ニ就テ」を引用した後、「どうやら少人数のしかも下級兵士は、その場で処刑してかまわないという方針だったようで」と評している。

吉田裕氏の見解

 吉田裕氏(一橋大学名誉教授)は次のように引用している。

 この問題(K-K註:中国兵捕虜は交戦法規で定められた捕虜の待遇を享受できないという方針を日本軍中央が決定した可能性があるという問題)をについては、これ以上の確証をえられないが、少なくとも法務官という軍の法律専門家のレベルでさえ、捕虜取扱いの準拠的方針を与えられていないということだけは確実である。そして、そうした状況のもとでは、捕虜の取扱いは各部隊の恣意にゆだねられ、勢いのおもむくところ、さまざまな残虐行為が発生するのは必然であった。実際に上海戦線においても師団幹部の指示で捕虜の「処分」がおこなわれている場合がある。一〇月九日付の第一三師団司令部の「戦闘ニ関スル教示(続其ニ)」は、「多数ノ捕虜アリタルトキハ之ヲ射殺スルコトナク武装解除ノ上一地ニ集結監視シ師団司令部ニ報告スルヲ要ス」としながらも、「少数人員ノ捕虜ハ所要ノ尋問ヲ為シタル上適宣処置スルモノトス」と各部隊に指示していたのである(「第十三師団戦闘詳報第一号別紙及附図」)。

吉田裕『新装版 天皇の軍隊と南京事件』p.47

 吉田氏によれば、日本軍として中国兵捕虜取扱いに関する明確な方針が示されておらず、各部隊の独自の判断で捕虜を処理していた事例として「戦闘ニ関スル教示 続其ニ」を示し、師団の判断で捕虜殺害を指示したケースだと説明する。

 以上の研究者の見解からすると、「戦闘ニ関スル教示 続其ニ」の「十一、捕虜ノ取扱ニ就テ」における「適宣処置」とは適宜捕虜を殺害すると解釈するのが一致した見解だといえる。

東中野修道氏の見解

 先に示した研究者の見解と違い、東中野氏の見解はだいぶ難解な経路をたどる。最初にその結論部分のみ紹介する。

(K-K註:教示中の「少数人員ノ捕虜ハ…適宣処置スルモノトス」の解釈を巡り)
 そうなると、採るべき道は(処刑でもなく監視でもないから)捕虜を適宜追放することしかない。第十三師団司令部の「戦闘ニ関スル教示」という通達は、投降兵は射殺しないで武装解除後に適宜追放せよ、と訓令していたことになる。
(中略)
 では、なぜ「適宜釈放」とは書かれず、「適宜処置」と書かれたのか。その理由も簡明であろう。適宜釈放と書けば、いかに悪質な投降兵でも、釈放が必至となる。それは絶対にできないことであった。命令に服さない捕虜は、処刑もあり得るという含みを残した表現、それが「適宜処置」であったのである。

『「南京虐殺」の徹底検証』pp.93-94

 東中野氏は「少数人員ノ捕虜ハ…適宣処置スルモノトス」の「処置」の意味を「追放」と読むという。また、実際の文言として「釈放(追放)」とせず「処置」とした理由は、命令に従わない捕虜に対しては「処刑もあり得る」という「含みを残した表現」なのだという。
 他研究者がこの「処置」を「殺害」と読んでいることからすると、まるで逆転した読み方と言えるだろう。
 東中野氏がどの様な経過をたどりこの解釈となったのか確認してみたい。

解釈の根拠

 東中野氏は「少数人員ノ捕虜ハ…適宣処置スルモノトス」の「処置」を解釈するにあたり、1937年8月5日陸軍次官通牒「交戦法規ノ適用ニ関スル件」(陸支密198号)を援用して次のように述べる。

(K-K註:秦氏が「適宜処置」を「その場で処刑してもかなわない」と解釈したことに対し)
 しかし、そうすることは、陸軍次官が「降ヲ乞ヘル敵ヲ殺傷スルコト」を禁じた戦時国際法の規定を「努メテ尊重」せよと通達したことに反する。昭和十二年八月の陸時間通牒(陸支密一九八号)に反する指令を、上海派遣軍第十三師団司令部が昭和十二年十月に発令した!とは考えられない。誤った推定が陸支密一九八号に違反することになったのである。適宜処置とは、適宜処刑の意味ではなかったことになる。

『「南京虐殺」の徹底検証』p.93

 つまり、「処置」を「処刑」と読むと陸軍次官通牒の指示に反することになるから、「処置」は「処刑」と解釈することは出来ないというのである。東中野氏がこの「処置」の意味を「追放」と解釈した根拠は、この陸軍次官通牒の指示が唯一の根拠となっている。

 適宜処置が適宜処刑の意味ではなかったとすれば、ではどうすればよいのか。少数の捕虜を監視し続けるのか。しかし、それでは現状維持であって、処置したことにはならない。第一、戦闘中に、それでは自軍に危険が及ばないとも限らない。
 そうなると、採るべき道は(処刑でもなく監視でもないから)捕虜を適宜追放することしかない。第十三師団司令部の「戦闘ニ関スル教示」という通達は、投降兵は射殺しないで武装解除後に適宜追放せよ、と訓令していたことになる。

『「南京虐殺」の徹底検証』p.93

 捕虜の処置方法は「収容」、「殺害」、「解放」という三つの選択肢しかないが、そのうち「収容」では処置したことにならず、陸軍次官通牒に基くと「殺害」と解釈することも否定されるので、消去法で処置の解釈は「解放」を意味することになるというのである。

東中野見解の検討

文章の解釈

 「戦闘ニ関スル教示」に対する東中野氏の解釈の特徴は、専ら陸軍次官通牒の指示に基づいて「処置」を「追放」と読み替えるものであり、文章そのものを文意を汲取るという作業が一つもないことだ。あえて、詳細な文意の検討を避けているかのようにさえ思える。
 そこで、文章を理解する上で当然行うべき文意の検討から始めてみたい。

十一、捕虜ノ取扱ニ就テ
  捕虜ノ利用取扱等ニ関シテハ昨八日師団情報収集要領ニ於テ指示セシモ多数ノ捕虜アリタルトキハ之ヲ射殺スルコトナク武装解除ノ上一地ニ集結監視シ師団司令部ニ報告スルヲ要ス又捕虜中将校ハ之ヲ射殺スルコトナク武装解除ノ上師団司令部ニ護送スルヲ要ス此等ハ軍ニ於テ情報収集スルノミナラズ宣伝ニ利用スルモノニ付キ此ノ点部下各隊ニ徹底セシムルヲ要ス但シ少数人員ノ捕虜ハ所要ノ尋問ヲ為シタル上適宣処置スルモノトス

「第13師団戦闘詳報別紙第1~第54(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C11111762700 (簿冊「第13師団上海附近の会戦 戦闘詳報 別紙及附図 昭和12年10月1日~12年11月1日」)

 この「十一、捕虜ノ取扱ニ就テ」の文章の構成は、捕虜を得た際に多数のケースと少数のケースの二通りの状況を想定し、その対応方法を論じている。この二つのケースを論じるにあたって、「但シ」と繋いでいることから、両ケースで対処方法が異なることが読み取れる。
 内容としては、多数の捕虜を得た場合は捕虜を集結させ師団に報告する、捕虜の中で将校は師団司令部に護送する、少数の捕虜を得た場合は尋問をした後に「適宜処置」するとして、捕虜を得た際の状況を想定し、それぞれの状況ごとに違う対処方法をとるよう指示している。
 東中野氏も認める通り、捕虜を得た際の処置方法は単純化すると「収容」、「解放」、「殺害(処刑)」の3つの選択肢があるが、多数の捕虜を得た場合ではその中の「収容」という対処方法となる。一方、少数の捕虜を得た場合は多数の捕虜の場合と対処方法が異なるので、その対処方法は「解放」か「殺害」のどちらかになる。

 では、少数の捕虜を得た場合、「解放」を指示しているのか、もしくは「殺害」を指示しているのか。この点を読み取るために注目すべき文言がこの文章には書かれている。それは「之ヲ射殺スルコトナク」という言葉である。
 文中では、多数の捕虜を得た場合に「之ヲ射殺スルコトナク」とし、その多数の捕虜の中に将校がいた場合にも「之ヲ射殺スルコトナク」とする。いずれの場合においても「之ヲ射殺スルコトナク」という言葉を二回も書いている。
 そもそも国際法では、捕虜を殺傷せずに保護することが規定されている(※1)。もし、そのことが教示の読み手に認識されていたのであれば、この様な文言を繰り返す必要はない。捕虜を殺害しないことを繰り返して強調するのは、捕虜の対処方法の事前の取り決めとして次の二通りがあったことを示唆している。
(A)捕獲した捕虜は殺害する
(B)捕獲した捕虜の処置について、選択肢の一つとして殺害する余地があった
 つまり、問題となる「適宜処置」の意味は、事前の取り決めが(A)だった場合は適宜「殺害」となり、(B)だった場合は「殺害」か「解放」かを適宜選択するということになる。
 以上のように文章の文意から考えると、「適宜処置」の意味は、「殺害」もしくは「殺害 or 解放」となり、いずれの場合においても「殺害」が含まれる文意となる。したがって文意上は東中野氏の見解のように「解放」を意味することにはならないのである。

 ちなみに、この事前の取り決めに関しては「捕虜ノ取扱ニ就テ」の冒頭文章に「捕虜ノ利用取扱等ニ関シテハ昨八日師団情報収集要領ニ於テ指示セシモ」と書かれているので、師団司令部発、10月8日付「師団情報収集要領」に何らかの指示があった可能性がある。しかし、残念ながらこの「師団情報収集要領」は発見することは出来なかった。
 また、別稿で指摘したが、陸軍歩兵学校で編纂した「対支那軍戦闘法ノ研究」、参謀本部で編纂した「対支那軍戦闘の参考」では、いずれも中国兵捕虜の殺害を容認している(※2)。

※1 陸戦の法規慣例に関する規則(1907年陸戦の法規慣例に関する条約附属文書)
【第三条】(兵力の構成員)
 交戦当事者の兵力は、戦闘員及非戦闘員を以て之を編成することを得。敵に捕はれたる場合に於ては、二者均しく俘虜の取扱を受くるの権利を有す。
※2 「「対支那軍戦闘法ノ研究」の解釈」
其二、捕虜ノ処置
一、捕虜ハ他国人ニ対スル如ク必スシモ之ヲ後送監禁シテ戦局ヲ待ツヲ要セス特別ノ場合ノ外現地又ハ他地ニ移シ適宜処置或ハ釈放スルヲ可トスルコト多シ

陸軍次官通牒

交戦法規ノ適用ニ関スル件9_10
交戦法規ノ適用ニ関スル件9_10

投降兵と捕虜との違い

 東中野氏の唯一の根拠と言える陸軍次官通牒について考えてみたい。
 東中野氏は、通牒では交戦法規中の「害敵手段ノ選用等」について「努メテ尊重」するよう指示しており、その中には陸戦の法規慣例に関する規則(陸戦規則)第23条C項投降兵殺傷の禁止が含まれていることから、「戦闘ニ関スル教示」における「適宜処置」は「投降兵は…適宜追放せよ」という意味だと解釈する。
 この東中野氏の説明は、ある意味で極めて「慎重」な文章である。何について「慎重」かというと、「戦闘ニ関スル教示」における「適宜処置」する対象は「捕虜」であるはずだが、東中野氏はこれを「投降兵」と混同するような説明をしていることだ。
 どういうことかと言うと、投降兵と捕虜は一見すると同じ意味と考えがちだが、本来、国際法上、両者は異なる概念を意味している。
 国際法上、投降兵とは「兵器を棄て、抵抗の意思を抛(なげう)つた」者を意味するが(信夫『戦時国際法講義 第二巻』p.354)、捕虜とは「敵に捕へられ又は降を乞ふて敵の権内に陥ゐるに至れる特定の者」(前書p.97)を意味する。投降兵がすべて捕虜となるかと言うとそうではなく、投降兵を捕虜として収容することが困難である場合は「之を解放するのが現代の国際法の要求する所」とするが(前書pp.360-361)、他方で「敵を助命すれば到底自軍が助からずといふ真個の絶対必要の場合」はこの限りではないともいう(前書pp.359-360)。このように、投降兵と捕虜とは明確に異なる概念であり、それぞれに与えられている権利義務関係も異なる概念である。
 仮に東中野氏の主張する通り陸軍次官通牒に投降兵の殺傷禁止が指示されているとしても、それはあくまでも敵兵が投降してきた場合の話であり、投降を受け入れ捕虜とした場合の処置を拘束するものではない。したがって、「戦闘ニ関スル教示」の「十一、捕虜ノ取扱ニ就テ」における「適宜処置」の意味を、陸軍次官通牒をもって裏付けるという東中野氏の主張は成立しないのである。

「害敵手段ノ選用等」を「努メテ尊重」

 陸軍次官通牒が交戦法規の中の「害敵手段ノ選用等」を「努メテ尊重」するよう指示しているとして、それをもって陸戦規則第23条C項投降兵殺傷の禁止を意図していたかというと、そこも疑問である。そもそも「害敵手段ノ選用等」という非常に広い範囲を指示しているだけで、具体的に何を意図しているか判断できない。その上、交戦法規規定を”適用”でも”順守(遵守)”でもなく、「努メテ尊重」するというような、あくまでも努力目標に過ぎない程度の拘束力しか設定されていないのである。

通牒は隷下部隊に伝達されたか?

 さらに根本的な問題がある。東中野氏は、陸軍次官通牒がすべての将兵に認識されているような前提で「戦闘ニ関スル教示」の解釈を行っている。東中野氏によれば、
「しかし、そうすることは(K-K註:秦氏のように戦闘教示「適宜処置」を「適宜処刑」と解釈することは)、陸軍次官が「降ヲ乞ヘル敵ヲ殺傷スルコト」を禁じた戦時国際法の規定を「努メテ尊重」せよと通達したことに反する」(『「南京虐殺」の徹底検証』p.93)
と述べている。「戦闘ニ関スル教示」の読み手が陸軍次官通牒を認識していたことを当然の前提として論じているのである。

 しかし、陸軍次官通牒は軍参謀長宛に出されたものであり、そこから隷下の部隊へ通牒の文章や趣旨が伝達されたという根拠はない。もちろん、中支那方面軍、上海派遣軍、第十軍の参謀長に宛てられたものだから、それぞれの軍司令部内では通牒の内容は共有されたと推測することはできるが、その内容が軍司令部より下の部隊に伝達されたことを示す記録は一つも存在しない。つまり、「戦闘ニ関スル教示」を出した第13師団司令部も、その教示を受けた第13師団指揮下の各部隊も、陸軍次官通牒の内容を把握していなかった可能性がある。いや、中支那方面軍という大規模な部隊で陸軍次官通牒の内容を下達したことを示す記録が一つも存在しない以上、その可能性が高いと評価すべきだろう。

 仮に「戦闘ニ関スル教示」が軍以下の部隊に伝達されていたとしても、軍の実際の行動は「戦時国際法の規定を「努メテ尊重」」しているとは言い難い。陸軍次官通牒が発出されて以降も、捕虜殺害は上海派遣軍内でも第13師団でも記録されている。
 例えば、第13師団第116連隊の「劉家行(孟家宅 清水顧附近)西方地区に於ける戦闘詳報」(1937年11月1日)では、「俘虜准士官下士官兵二九」「俘虜ハ全部戦闘中ナルヲ以テ之ヲ射殺セリ」と記載されている。(※1)
 この歩兵第116連隊による捕虜殺害に関しては、その第13師団も認識している。第13師団の上海戦の戦闘詳報によれば「捕虜中ニハ現地ニ於テ処分セシモノアリ」と記載されている。(※2)

歩兵第116連隊戦闘詳報S121021附表2号
歩兵第116連隊戦闘詳報S121021附表2号
第13師団戦闘詳報別紙53
第13師団戦闘詳報別紙53

 また、上海派遣軍参謀長 飯沼守少将の10月19日付けの日記では、「3Dノ黄宅占領ノ際得タル俘虜中11名ハ負傷者ニテ処分」と記しており、捕虜が殺害されていることを記している。(※3)
 もちろん、南京戦における数々の捕虜殺害事件もその実例と言えるだろう。
 陸軍次官通牒が訓示されて1ヶ月も経たないうちに、捕虜殺害の実行を戦闘詳報に明記し、現地軍の参謀総長でさえその様な事実があることを認識していた以外でも、南京事件のケースは周知の事実といえよう。

 これらの実情から推測できることは3つある。
①仮に東中野氏が主張するように陸軍次官通牒に捕虜を保護する意図があった場合、同通牒には現地部隊を拘束する能力が無かった。
②陸軍次官通牒に捕虜を保護する意図があったという東中野氏の解釈は誤りで、次官通牒にはその様な意図が無かった。
③陸軍次官通牒(もしくはそのの主旨)は、軍以下の部隊に伝達されなかった。
 陸軍次官通牒に拘束力がないのであれば、それを前提として「戦闘ニ関スル教示」を出すことはあり得ない。同通牒に捕虜を保護する意図がない、もしくは同通牒が第13師団に届いていないのであれば、通牒は「戦闘ニ関スル教示」の文意を解釈する根拠になり得ない。いずれにしても、東中野氏の主張は成立し得ないのである。

※1 「劉家行(孟家宅 清水顧附近)西方地区に於ける戦闘詳報 昭和12年10月21日~11月1日(2)」アジア歴史資料センター Ref.C11112201500、簿冊:歩兵第116連隊 戦闘詳報 昭和12年10月21日~12年11月27日 Ref.C11112201200
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11112201500

※2 「第13師団戦闘詳報別紙第1~第54(3)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111762900、第13師団上海附近の会戦 戦闘詳報 別紙及附図 昭和12年10月1日~12年11月1日(防衛省防衛研究所)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11111762900

※3 飯沼守日記(上海派遣軍参謀総長、少将) 『南京戦史資料集Ⅱ』南京戦史編集委員会編、偕行社、1993年12月8日

「適宜釈放」と書かなかった理由

 では、なぜ「適宜釈放」とは書かれず、「適宜処置」と書かれたのか。その理由も簡明であろう。適宜釈放と書けば、いかに悪質な投降兵でも、釈放が必至となる。それは絶対にできないことであった。命令に服さない捕虜は、処刑もあり得るという含みを残した表現、それが「適宜処置」であったのである。

『「南京虐殺」の徹底検証』p.94

 東中野氏の説明によれば、「十一、捕虜ノ取扱ニ就テ」における「適宜処置」とは「適宜釈放」を意味するのであり、ではなぜ「適宜釈放」と直接的な表現をせずに「適宜処置」という曖昧な表現をしたのかというと、投降兵の中には「命令に服さない捕虜」がいるので、「処刑もあり得るという含みを残した表現」として「処置」と表現したというのである。

 しかし、この説明にも問題がある。
 取りあげられている「戦闘ニ関スル教示」は師団司令部より発出した文書であり、これを受け取るのは直接的には歩兵旅団司令部や師団直轄の連隊本部等である。もちろん、受け取った歩兵旅団司令部・連隊本部がさらに下級部隊に本教示を伝達した可能性があるが、その対象はあくまでも部隊指揮官、副官や参謀であろうし、もっとも広く見積もっても士官程度の見識を有した者を対象とした文書である。その事は教示の内容でも十分に推定可能である。つまり、本教示は部隊指揮について知識のある者を対象としたものである。「命令に服さない捕虜」には「処刑もあり得る」というのは、軍隊の慣習として一般的に認められている行為で、国際法でさえも認められているような初歩的な捕虜取扱いである(※1)。

 一方、本教示の発出した意図を第13師団司令部は次のように説明している。
「此日まてに於て歴戦部隊より知得したる事項にして教示を要すへきもの並に爾来の結果より見て矯正し或は注意を倍徙すへしと認めたる事項を摘録し別紙第七の如く戦闘に関する教示を与へたり」
 つまり、これまでの実戦経験より得た知見や注意点を教示するということで、いわば実戦に即した「戦闘に関する教示」なのである。
 この様な教示の発出意図から考えれば、東中野氏が主張するような初歩的な捕虜取扱いを教示していると解釈するには無理がある。

※1 信夫淳平『戦時国際法講義 第二巻』p.113 「俘虜は人道を以て取扱はるべきことの当然の条件として、捕獲者の軍隊に抵抗するを許されず、抵抗すれば本来の敵兵に還元し、随つて殺害に遭ふことあるべきは当然である。」

軍内の隠語

 日本軍で使用される言葉には軍特有の隠語があることが知られている。その中でも、「処置」「処分」「処断」「処決」という言葉は殺害を含意する隠語だった。東中野氏以外の研究者が押し並べて「適宜処置」を殺害することと読み取ったのは、この様な日本軍における特有の言葉遣いに基いているからだろう。
 日本軍においてこの様な隠語を使用していた事例を紹介する。

 歩兵第38連隊副官だった児玉義雄少佐は以下のように証言しているが、ここで児玉少佐は「処置」という言葉を殺害だと認識していることが分かる。

▼児玉義雄氏の述懐(歩兵第三十八聯隊副官33期、八十五歳で敬虔なクリスチャン)
 聯隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」と電話で伝えられた。私はこれはとんでもないことだと、大きなショックを受けた。(後略)

証言による「南京戦史」(5) 偕行1984年8月号 p.7

 歩兵第33連隊「南京附近戦闘詳報」の第3号附表では、備考に「一、俘虜ハ処断ス」、「備考 十二月十三日ノ分ハ処決セシ敗残兵ヲ含ム」として、「処断」「処決」が殺害を意味することが分かる。

 歩兵第68連隊第3大隊陣中日誌には藤田部隊(第3師団 長・藤田進中将)からの伝達事項として「捕虜兵は一応調査の上各隊に於いて厳重に処分すること」(1937年12月16日付)と記されており、この処分も殺害を意味すると考えられる。

 この様に日本軍で使用される「処置」「処決」「処分」「処断」という言葉には、多分に殺害を意味する言葉であることが分かる。

歩兵第33連隊戦闘詳報付表第3号
歩兵第33連隊戦闘詳報付表第3号
歩兵第68連隊第3大隊陣中日誌37年12月16日
歩兵第68連隊第3大隊陣中日誌37年12月16日

まとめ

 本稿では第13師団司令部より出された「戦闘ニ関スル教示」の「十一、捕虜ノ取扱ニ就テ」について検討してきた。
 論点となる「少数人員ノ捕虜ハ…適宣処置スルモノトス」という文言について、藤原氏・秦氏・吉田氏は少数の捕虜を得た場合には殺害することを容認するものと解釈したが、これら研究者の解釈とは対照的に東中野氏は「武装解除後に適宜追放せよ」と訓令したものだと解釈した。

 東中野氏の解釈の根拠は、陸軍次官通牒「交戦法規ノ適用ニ関スル件」である。同通牒では陸戦規則等の「害敵手段等ノ選用」の「尊重」することを求めており、この「害敵手段等ノ選用」には投降兵殺傷禁止(陸戦規則第23条C項)が含まれている。通牒を受けたはずの上海派遣軍隷下の第13師団は、同通牒に基き陸戦規則第23条C項を「尊重」していたはずだから、「適宜処置」の意味には殺害は含まれないはずであり、したがってその意味は「適宜追放」ということになる。これが東中野氏の主張だった。

 東中野氏の主張には多くの問題がある。問題点として「戦闘ニ関スル教示」の文意、陸軍次官通牒との関連性、「処置」の意味を取り上げてそれぞれを検討した。

 教示の文意については、前段の多数の捕虜を捕らえた場合の対処方法を述べる部分で、「之ヲ射殺スルコトナク」と繰り返し言及していることに注目すべきである。仮に、第13師団が通牒に基き交戦法規を尊重していたのであれば、この様な言及をする必要ない。「之ヲ射殺スルコトナク」と繰り返し言及するということは、捕虜を殺害すること、もしくは選択肢の一つとして捕虜殺害を容認することが、その前提にあったことを示唆している。したがって純粋に文脈上から考えても捕虜の殺害という選択肢を除いた解釈をすることはできず、東中野氏のように”解放”を意味していたと読むことはできない。

 陸軍次官通牒「交戦法規ノ適用ニ関スル件」で指示されているという投降兵殺傷禁止は、あくまでも投降兵についての規定であり、捕虜保護を求める規定ではない。投降兵に求められた指示を、捕虜に対して適用しようとする東中野氏の主張は、法解釈として誤りである。
 そもそも、東中野氏の主張では陸軍次官通牒「交戦法規ノ適用ニ関スル件」が、第13師団隷下の部隊に認識されていることが前提となっているが、この通牒やその内容が通達されたという記録・資料は一つも存在しない。おそらく第13師団には通牒の内容が通達されなかったと見るべきだろう。
 その事を裏付けるように、「戦闘ニ関スル教示」が出されて1ヶ月もしない時期に、同師団隷下の歩兵第116連隊の戦闘詳報には捕虜殺害した事実が明記されており、上海派遣軍でさえ、参謀総長 飯沼少将の日記に捕虜殺害の事実があったことを記している。
 これらの事実から推測できるのは、陸軍次官通牒は通達されたとしても部隊の行動を拘束する能力がなかった、通達は捕虜殺害を禁止していなかった、もしくは上海派遣軍以下の部隊には通達されなかったと言わざるを得ない。いずれの場合においても、陸軍次官通牒「交戦法規ノ適用ニ関スル件」は「戦闘ニ関スル教示」を解釈する根拠とすることは出来ないことを示している。

 東中野氏は、「十一、捕虜ノ取扱ニ就テ」で問題となった「適宜処置」について、これを「適宜釈放」という意味だと解釈したが、なぜ教示では「釈放」とせず「処置」と曖昧な表現としたかの理由として、「処置」には命令に不服従の捕虜がある場合には処刑することが出来るという意味が含意していたと主張した。しかし、不服従の捕虜に対して処刑することが出来る場合があるというのは、軍隊の慣習上、そして国際法上でも認められた行為である。その様な初歩的な説明を、実戦の経験則からくる教訓を伝える為に通達している本教示で行う理由はなく、氏の説明には無理がある。

 日本軍で使われる「処置」「処分」等はいずれも殺害を意味する隠語としても使われてきた。これは当時の記録・証言でいくらでも出てくる常識的なことであり、東中野氏以外の研究者はその事を前提として「適宜処置」を殺害と解釈したのだと考えられる。この様な常識的な解釈を考慮せずに、伝達されたという根拠がない陸軍次官通牒を「処置」の解釈を前提に据え、これを解釈する為の唯一の根拠にするというのは不自然な解釈方法であろう。

 以上、検討してきた様に、東中野氏の「適宜処置」の解釈は、文意や根拠からして妥当性が低い上、日本軍で一般的に使われてきた隠語に関する考慮も見られないという非常に不自然な解釈、もしくは妥当性のない解釈である。
 翻って「戦闘ニ関スル教示」を中国兵捕虜の殺害を容認するという解釈は、陸軍歩兵学校『対支那軍戦闘法ノ研究』、参謀本部『対支那軍戦闘ノ参考』にも通底した考え方である。この様な交戦法規に対するアブノーマルな態度が、その後の捕虜や一般市民の殺害の一因となったと考えるべきであろう。

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