両角手記の検証[08]史料批判:箭内証言・平林証言

両角手記の検証 第13師団
両角手記の検証
両角手記の検証 総目次
1.はじめに
2.両角業作の経歴
3.掲載資料の紹介
4.各資料における文面比較:両角日記
5.各資料における文面比較:両角手記
6.両角日記・手記の出自
7.史料批判:郷土部隊戦記 第1
8.史料批判:箭内証言・平林証言
9.史料批判:両角手記
10.まとめ
11.参考資料

史料批判:箭内証言・平林証言 

本項では、両角手記と関わりの深い箭内享三郎准尉(第65第1機関銃中隊 )と平林貞治少尉(第65連隊連隊砲中隊)の証言を検証する。

箭内享三郎准尉 

 箭内は歩兵第65連隊第1大隊第1機関銃中隊に所属しており、准尉という階級から考えて優秀な下士官だったと思われる。箭内は『ふくしま戦争と人間』(1982年)と『南京の氷雨』(1989年)で証言を残している。

船着場の造作

箭内享三郎 証言(第1機関銃中隊 准尉)『ふくしま 戦争と人間』(1982年)
田山大隊長は私たちの第一機関銃中隊の中隊長宝田長十郎中尉と相談し、揚子江岸に船着き場をつくる話し合いをした。私たちが仕事を命ぜられ、江岸に出てヤナギの木を切り倒し、乗り場になる足場などを設けた。また集合できるぐらいの広さの面積を刈り払いした。切り倒した木、刈り払いをした枝などはそのままにしておいた。実をいうと、私たちはそのとき、あの木や枝が彼らの武器となり、私たちを攻撃してくる元凶となるなどとは、神ならぬ身の知る由もなかったのです。船を集めるため江岸を歩き回って探し歩き、十隻前後は集めてきたことを記憶しています

『ふくしま 戦争と人間』 p.125(1982年)

 箭内は、第一大隊長 田山少佐から第一機関銃中隊長 宝田中尉へ「揚子江岸に船着き場をつくる」という命令があり、箭内らは「江岸に出てヤナギの木を切り倒し、乗り場になる足場などを設けた。また集合できるぐらいの広さの面積を刈り払いした」という。これらの証言はいずれも舟で捕虜を移送する準備に関係するものであり、両角手記における捕虜解放説を裏付ける内容と言えるだろう。

 箭内証言は『南京の氷雨』でも同様の証言をしているが、その証言の内容は『ふくしま 戦争と人間』と比べて若干変化している。

箭内享三郎 証言(第1機関銃中隊 准尉)『南京の氷雨』(1989年)
「実は捕虜を今夜解放するから、河川敷を整備しておくように。それに舟も捜しておくように……と、そんな命令を受けていたんですよ。解放の件は秘密だといわれていましたがね。ノコギリやカマは、河川敷の木や枯れたススキを切り払っておくためだったんです」
  解放のための準備だったという。
「実は逃がすための場所設定と考えていたので、かなり広い部分を刈り払ったのです。刈り払い、切り払いしたのですが、切り倒した柳の木や、雑木のさまざまを倒したまま放ったらかしにして置いたんです。河川敷ですから、切り倒したといっても、それほど大きなものはありませんでしたがね。ところが、後でこれが大変なことになるのです」

『南京の氷雨』 p.98-100

 『南京の氷雨』での証言では、捕虜解放のため準備をしたがその作業の内容は「河川敷を整備」であり「河川敷の木や枯れたススキを切り払っておく」というだけで、『ふくしま戦争と人間』にあった「船着き場をつくる」という話が抜けている。
 『ふくしま戦争と人間1』と『南京の氷雨』の箭内証言を比較すると、分量としては『南京の氷雨』の方がだいぶ多い。この二つの証言が同じ取材から得た証言なのか、別々の取材のものなのか、阿部の記述から判断することはできない。同じ取材から得た証言だとすると、後に発行された『南京の氷雨』で、船着場の造作についての言及をわざわざ省略したことになり不自然である。また、別の取材による証言だったとすると、当初出ていた船着き場造作の話に言及がなかったことを更問いしなかったのも不自然だろう。
 残念ながら現在の史料状況からは、証言にブレがあるのか、取材方法・表記方法に問題があったのかの判断は付かない。いずれにしても証言の真実性を低減させる結果となっている。

暴動発生の時期

 箭内は捕虜暴動の模様を次のように証言する。

箭内享三郎 証言(第1機関銃中隊 准尉)『ふくしま 戦争と人間』(1982年)
[証言]江岸への集結のさなか、一瞬にして暴走が起こった。彼らはいっせいに立ちあがり、木の枝などを振り回しながら警備兵を襲撃し、これを倒して逃走を始めた。

『ふくしま 戦争と人間』 p.130(1982年)

箭内享三郎 証言(第1機関銃中隊 准尉)『南京の氷雨』(1989年)
[証言]集結を終え、最初の捕虜たちから縛を解き始めました。その途端、どうしたのか銃声が……。 突然の暴走というか、暴動は、この銃声をきっかけにして始まったのです。

『南京の氷雨』 p.101-102(1989年)

 この二つの証言で着目するのは捕虜暴動が発生した時期である。『ふくしま 戦争と人間』では「江岸への集結のさなか」としているが、『南京の氷雨』では「集結を終え、最初の捕虜たちから縛を解き始めました。その途端、どうしたのか銃声が」と述べており、捕虜の暴動が発生したのが、集結の途中なのか、集結が終わったの後なのか証言がぶれている。この点に関しては次頁で他の資料との比較検討行うことにする(註:捕虜の集結と暴動?)。

平林貞治証言 

 平林は歩兵第65連隊歩兵砲中隊に所属しており小隊長だった。核心氏の調査によると、平林は、昭和12年9月18日の歩65の編成時から連隊歩兵砲中隊小隊長となっており、昭和15年1月1日に同中隊長(中尉)、昭和18年12月31日に歩65第2大隊長(大尉)、昭和21年6月の復員時には歩65副官(少佐)を勤めていたようだ。平林は確認できるだけで5つの資料で証言を残している。刊行年順では、鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)、『ふくしま戦争と人間1』(1982年)、『世界日報』昭和59年7月17日(1984年)、『南京事件の総括』(1987年)、『南京の氷雨』(1989年)となる。

捕虜数の変遷

 山田支隊の捕虜の数は、幕府山で捕虜を捕獲した時点、収容所へ収容した時点、揚子江岸へ連行した時点において、非戦闘員の解放や収容所の火災による逃亡があり捕虜数が減少した証言する者がいるが、平林もその一人だ。しかし、平林の証言では、資料によってその人数にブレがある。そこで、各資料から平林が言及している「当初の捕獲数」「非戦闘員の解放した後の捕虜数」「収容所の火災による逃亡した後の捕虜数」「揚子江岸への連行した捕虜数」に着目して検証する。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)
大量の捕虜を収容した、たしか二日目に火事がありました。その時、捕虜が逃げたかどうかは、憶えていません。(中略)われわれが食べるだけで精一杯なのに、一万人分ものメシなんか、充分に作れるはずがありません。
(中略)
とにかく江岸に集結したのは夜でした。(中略)向こうは素手といえども十倍以上の人数です。

『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)p.198-199

 「われわれが食べるだけで精一杯なのに、一万人分ものメシなんか、充分に作れるはずがありません」と述べていることから、収容した捕虜は「一万人」と認識していることが分かる。
 この後、「捕虜は揚子江を舟で鎮江の師団に送り返す」ために揚子江岸へ連行するが、その際、捕虜の数を「(護送部隊の)十倍以上の人数」としている。この時の護送部隊の数について『「南京大虐殺」のまぼろし』では言及がないが、『南京事件の総括』では「④(中略)監視兵は千人足らず」と証言していることから、揚子江岸へ連行した数は、収容者数と同数の「一万人」と認識していることが分かる。
 この証言で重要なことは、収容所火災の際に「捕虜が逃げたかどうかは、憶えていません」として、自身の記憶について言及している点である。
 まとめると、ここでは非戦闘員の解放、収容所火災による逃亡について認識しておらず、当初の捕虜捕獲数「一万人」を揚子江岸へ連行したというのである。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『世界日報』(1984年)
≪確かに捕虜が投降してきた当初の総数は一万五千人くらいと推定されます。しかし、非戦闘員約七千人は直ちに解放したので、最終的に捕捉したのは八千人ほどでした。(略)≫
(中略)
結局、最終的判断は山田旅団長にゆだねられる形となり、十五、十六の二日に分けて捕虜四千人ずつを揚子江岸から解放することになった。

『世界日報』昭和59年7月17日 第1面(1984年)

 当初の捕獲数を「一万五千人」とし、非戦闘員を解放して収容数は「八千人」となったという。その後、12月15日・16日の二日間にわたり4000人ずつ揚子江岸へ連行したというので、連行数は8000人ということになる。
 非戦闘員の解放には言及しているが、収容所の火災による逃亡は認識しておらず、結果、非戦闘員の解放により8000人となった捕虜を揚子江岸へ連行したことになる。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『南京事件の総括』(1987年)
①(略)しかるに自分たちの十倍近い一万四、〇〇〇の捕虜をいかに食わせるか、その食器さがしにまず苦労した。
②(略)山田旅団長命令で非戦員(※K-K註:ママ)と思われる者約半数をその場で釈放した。
③二日目の夕刻火事があり、混乱に乗じてさらに半数が逃亡し、内心ホッとした。(略)
④(略)捕虜は約四千、監視兵は千人足らず、しかも私の部下は砲兵で、小銃がなくゴボー剣のみ。(略)

『南京事件の総括』(1987年)p.187-189

 「一万四、〇〇〇の捕虜をいかに食わせるか、その食器さがしにまず苦労した」と言いながら、「非戦(闘)員と思われる者約半数をその場で釈放した」ともいい若干混乱した証言だが、「一万四、〇〇〇」を捕獲し収容所まで連行し、「非戦(闘)員…約半数をその場(上元門の校舎のような建物)で釈放した」ということだろう。さらに収容所の火災で「半数が逃亡」し、揚子江岸へ連行したのは「約四千」という。
 平林はこれまでの証言で『「南京大虐殺」のまぼろし』で「(収容所火災により)捕虜が逃げたかどうかは、憶えていません」と述べ、『世界日報』でも火災による逃亡は認識していなかったが、『南京事件の総括』で初めて収容所火災により捕虜数が半減したことを言及するようになった。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『南京の氷雨』(1989年)
十七日夜の事件はね、連行した捕虜を一万以上という人もいるが、実際にはそんなにいない。 四千か五千か、そのぐらいが実数ですよ。

『南京の氷雨』(1989年)p.108-109

 『南京の氷雨』では、揚子江岸へ連行した数を「四千か五千か」と述べている。当初の捕獲数、非戦闘員の解放、収容所火災による逃亡ついていずれも言及がないが、連行数から考えて、非戦闘員解放・火災による逃亡を折り込んでの連行数と考えることができる。

 以上、捕虜数の推移を検証したが、平林は当初、非戦闘員の解放での半減、収容所火災による逃亡での半減を認識していなかったが、時を経るとともに非戦闘員の解放、収容所火災による逃亡による捕虜の減少を証言するようになり、証言を変化するごとに、最終的な連行数を変化させるようになっている。これは時を経るとともに記憶以外の情報を付加させて証言していることを示しており、この点に関して平林証言の信憑性は低いと考えられる。

平林証言における捕虜数の変化
資料名捕獲時非戦闘員解放収容所火災による逃亡連行数
『「南京大虐殺」のまぼろし』一万推定1万
『世界日報』一万五千人八千二日に分けて捕虜四千人ずつ
『南京事件の総括』一万四、〇〇〇約半数をその場で釈放し半数が逃亡し四千
『南京の氷雨』四千か五千か

揚子江岸へ連行する目的

 平林は、捕虜を揚子江岸へ連行する目的について次のように述べている。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)
「捕虜は揚子江を舟で鎮江の師団に送り返す」と聞いていた

『「南京大虐殺」のまぼろし』pp.198-199(1973年)

 「鎮江の師団に送り返す」と証言する。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『ふくしま 戦争と人間』(1982年)
私たち将校は極秘の形で、彼らを対岸へ送るか、不可能なら下流の鎮江方面へ送る――という内命を与えられた

『ふくしま 戦争と人間』 p.126(1982年)

 「対岸へ送るか、不可能なら下流の鎮江方面へ送る」という「内命」を受けたという。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『世界日報』(1984年)
十五、十六の二日に分けて捕虜四千人ずつを揚子江岸から解放することになった

『世界日報』昭和59年7月17日 第1面(1984年)

 「揚子江岸から解放する」と述べているが、併せて船が来ていないことも述べている。揚子江岸から船に載せるつもりだったようだが、どこへ輸送するかについては証言していない。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『南京の氷雨』(1989年)
私たちは『対岸に逃がす』といわれていたので

『南京の氷雨』p.108-109(1989年)

 「対岸に逃がす」と証言している。

 平林の述べる連行の目的地は、「鎮江の師団に送り返す」、「対岸へ送るか、不可能なら下流の鎮江方面へ送る」、「揚子江岸から解放する(船の目的地は不明)」、「対岸に逃がす」と証言内容が変遷しており一定しない。
 鎮江へ送るというが、幕府山から鎮江までは直線距離でも約60kmもあり、4000名もの捕虜を舟で往復するのは非現実的である。そのことを意識してか、解放の目的地を「鎮江」から「対岸」へと証言を変遷させたように見える。

連行目的の秘匿

 平林少尉によれば、捕虜の連行について「極秘の形」「内命」を受けたという。
 一体、誰に対して解放の意図を秘匿しようというのだろうか?
 「私たち将校」と述べていることから考えて、将校以外の下士官・兵に対して解放の意図を秘匿しようとしたのだろうか?しかし解放を実行するのは下士官・兵なのだから、彼らが解放作戦に従事すればそのことを目の当たりにするわけで、その内容を秘匿する意味がない。
 では、山田支隊以外の部隊に秘匿しようというのか?ところが、2回目の捕虜殺害が行われた翌日の12月18日には、上海派遣軍参謀 西原一策大佐は捕虜殺害の情報を日記に書き留めており、12月20日には、同参謀長 飯沼守少将、同副参謀長 上村利通大佐も同様の情報を日記に書いている。情報を秘匿しているようには見えない。

 「私たち将校は極秘の形で…内命を与えられた」というが、平林と同階級である第4中隊 宮本省吾少尉、第8中隊 遠藤高明少尉は、いずれも捕虜の連行目的を殺害することと認識している。小銃の配備の少ない歩兵砲小隊の平林少尉に「解放」の「内命」が届いているのに、「解放」作戦の主力部隊となる歩兵中隊の将校に「内命」が届いていないのは不自然である。特に、宮本少尉は捕虜管理の中心部隊だった第1大隊に所属しており、捕虜の捕獲から収容、警備、二日間にわたる連行作戦にも参加している将校である点を考えると不自然さが増す。

平林が捕虜を連行した日付

 『世界日報』昭和59年7月17日(1984年)の平林証言より、平林が捕虜を連行した日付を摘出する。
①「両角部隊は昭和十二年十二月十四日、南京城北東の幕府山付近で城内からのおびただしい敗走兵に遭遇した。」
②「十五、十六の二日に分けて捕虜四千人ずつを揚子江岸から解放することになった。」
③「悪いことは重なるもので、十六日にも同じ場所で捕虜の暴動が発生、武力で鎮圧せざるを得なかった。」

※K-K註:『世界日報』の平林証言は、≪≫で囲われている部分と、そうでない部分がある。≪≫で囲われている部分は平林が実際に証言した内容であることは当然として、そうでない部分が証言の要約なのか、証言にない経緯を記事執筆者が補っているのか判別がつかない。ここで示した①~③はいずれも≪≫で囲われていない文章である。

 この証言は特徴的点がいくつかある。
 一点目は、平林が捕虜を揚子江岸へ連行した日付を12月15日・16日としていることである。実際は、12月16日・17日であり日付が1日ずれているのは記憶違いとも言える。しかし、平林が2日間に渡って捕虜連行を行ったということは他の証言に見られないことである。

 二点目は、ここで語っている実際の捕虜連行の状況は初日の12月15日(実際は16日)の内容であり、二日目の12月16日(実際は17日)の状況については、③にあるとおり「十六日にも同じ場所で捕虜の暴動が発生、武力で鎮圧せざるを得なかった」と述べるだけで、詳細な状況は語られていない。この点について、他の資料の平林証言と比較してみよう。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)
だから、「捕虜を江岸まで護送せよ」という命令が来た時はむしろホッとした。平林氏は、「捕虜は揚子江を舟で鎮江の師団に送り返す」と聞いていたという。月日は憶えていない。

『「南京大虐殺」のまぼろし』pp.198-199(1973年)

 ここでは「月日は憶えていない」と証言している。しかし、語られている捕虜暴動の内容は一日分の内容であり、しかし、その状況は『世界日報』で語られた内容と類似する。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『南京事件の総括』(1987年)
⑤騒動が起きたのは薄暮れ、左は揚子江支流、右は崖で、道は険岨となり、不吉な予感があった。

『南京事件の総括』pp.187-189(1987年)

 ここで言う「左は揚子江支流、右は崖で」というのは、揚子江支流の夾江(西側)と幕府山(東側)との間を北上している様子を語っており、12月17日大湾子での捕虜連行と推測される。捕虜暴動の状況は一日分だけだが、その内容は他の資料の証言と一致する部分が少ない。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『南京の氷雨』(1989年)
「十七日夜の事件はね、連行した捕虜を一万以上という人もいるが、実際にはそんなにいない。 四千か五千か、そのぐらいが実数ですよ。私たちは『対岸に逃がす』といわれていたので、そのつもりで揚子江岸へ、ざっと四キロほど連行したんです。途中、とてもこわかった。これだけの人数が暴れ出したら、抑え切れない。銃撃して鎮圧できるだろうという人もいるが、実際には心もとない。それは現場にいた人でないと、そのこわさはわかってもらえないと思う。第一、暴れ出して混乱したところで銃撃したら、仲間をも撃ってしまうことになるのだからね」

『南京の氷雨』p.108-109(1989年)

 捕虜を連行した日付を12月17日と明言している。捕虜暴動の状況は『「南京大虐殺」のまぼろし」『世界日報』と類似する。

 捕虜連行の日付に関して『南京の氷雨』は12月17日と明言しており、『「南京大虐殺」のまぼろし』は日付について言及はないが捕虜連行は一日のみで、状況から考えて12月17日と推測され、『南京事件の総括』も日付について言及はないが、捕虜連行は一日のみである。『世界日報』のみが二日間に渡って捕虜を連行したと証言している点は異質である。

 三点目は、先の①~③の引用にはないが「≪われわれは捕虜を運ぶ船がふ頭で待っているものと思っていました。(略)≫」と語っている部分を指摘したい。現在、多くの研究者で認められている説明では、捕虜の連行先は12月16日が水魚雷営、12月17日が大湾子だったと言われている(目的の如何を問わず)。仮に捕虜連行先が「ふ頭」であったとすれば、それは12月16日の水魚雷営ということになる。なぜならば二日目(12月17日)の連行先である大湾子は砂洲で船を係留する施設はない。箭内准尉の証言では、大湾子に切り払った柳の木で「乗り場になる足場などを設けた」というが、これは実際に作ったとしても半日程度で作り上げた仮設のもので、「ふ頭」と表現するには粗末にすぎる。したがって、仮にこの「ふ頭」へ連行したと証言したのが事実であれば12月16日水雷営での出来事を証言していることになる。

 以上をまとめると、平林少尉が捕虜を連行した日付は、『「南京大虐殺」のまぼろし』「月日は憶えていない」(1973年)、『世界日報』「十五、十六の二日に分けて」(1984年、ただし平林の証言ではない可能性がある)、『南京の氷雨』「十七日」(1989年)と資料によって大きなブレがある。これは推測となるが、1973年『「南京大虐殺」のまぼろし』で証言した「月日は憶えていない」というのが記憶としては正確なところなのではないだろうか。1973年以降に事件についての情報を入手し、もしくはインタビュアーの誘導等により証言を変化させたと思われる。

 ただし、平林が所属していた歩兵砲中隊は12月16日・17日の二日間に渡って捕虜連行に参加した可能性はある。

菅野嘉雄 歩兵第65連隊連隊砲中隊 編成 一等兵
[日記]
12月16日「夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す」
12月17日「捕虜残部一万数千を銃殺に附す」

『南京大虐殺を記録した皇軍たち』p.309

 この記述から見ると、平林の所属していた連隊砲中隊は12月16日・17日ともに捕虜連行・殺害に参加していたと考えられる。したがって平林の証言内容は二日間の記憶が混合しているの可能性も否定できない。

暴動発生のタイミング

 捕虜を収容所から揚子江岸へ連行し暴動が発生するが、その暴動発生のタイミングについて平林は次のように述べる。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)
出発は昼間だったが、わずか数キロ(二キロぐらい?)のところを、何時間もかかりました。とにかく江岸に集結したのは夜でした。…とにかく、舟がなかなか来ない。(略)捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。突然、どこからか、ワッとトキの声が上った。日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。

『「南京大虐殺」のまぼろし』p.198-199(1973年)

 「とにかく江岸に集結したのは夜でした」として、捕虜の暴動が始まる前に揚子江岸に「集結した」と証言している。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『世界日報』(1984年)
この時はまだ薄明かりがあり、船がきていないことがわかりました。あれ、おかしいなと思っていた矢先に「ワァ-」という声が上がり、それに続いて「パンパン」という音がしました。予想さえしなかった捕虜の暴動が起きたのです。船が見当たらなかったので、捕虜の不安が高じたのでしょう。

『世界日報』昭和59年7月17日 第1面(1984年)

 「船がきていないことがわかりました」と述べていることから、揚子江岸に平林自身が到着していたと思われる。捕虜の暴動はその後に発生したようである。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『南京事件の総括』(1987年)
⑤騒動が起きたのは薄暮、左は揚子江支流、右は崖で、道は険岨となり、不吉な予感があった。突如中洲の方に銃声があり、その銃声を引金に、前方で叫喚とも喊声ともつかぬ異様な声が起きた。
⑥最後列まで一斉に狂乱となり、機銃は鳴り響き、捕虜は算を乱し、私は軍刀で、兵はゴボー剣を片手に振りまわし、逃げるのが精一ぱいであった。

『南京事件の総括』pp.187-189(1987年)

 「前方で叫喚とも喊声とも…」「最後列まで一斉に狂乱となり…」と述べているように、捕虜の連行の列がまだ形成されている時点で暴動が始まっている。捕虜を運搬するはずの船が揚子江岸へ来ていないことの言及がなく、捕虜が揚子江岸へ到着する前の状況を語っている。

 平林は、『「南京大虐殺」のまぼろし』・ 『世界日報』では、捕虜が揚子江岸へ到着した後に暴動が発生したと証言しているが、一方で『南京事件の総括』では揚子江岸へ到着する前に暴動が発生した証言している。
 捕虜の暴動発生のタイミングについては他の資料でも異同があるので、その詳細は後述する(註:捕虜の集結と暴動?)。

揚子江岸での船の有無

 平林は捕虜を渡河させる為の船の状況について、次の様に証言している。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)
[証言]とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。

『「南京大虐殺」のまぼろし』pp.198-199(1973年)

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『世界日報』(1984年)
この時はまだ薄明かりがあり、船がきていないことがわかりました。

『世界日報』昭和59年7月17日 第1面(1984年)

 平林は、捕虜を揚子江岸へ連行したが船は来ていなかったと証言する。この船の有無に関しては史料によって分かれる部分があるので詳細は後述したい(註:舟の収集状況?)。

銃声の方向について

 捕虜暴動の端緒について各資料で平林は次のように語っている。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)
突然、どこからか、ワッとトキの声が上った。日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。

『「南京大虐殺」のまぼろし』pp.198-199(1973年)

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『世界日報』(1984年)
あれ、おかしいなと思っていた矢先に「ワァ-」という声が上がり、それに続いて「パンパン」という音がしました。予想さえしなかった捕虜の暴動が起きたのです。

『世界日報』昭和59年7月17日 第1面(1984年)

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『南京事件の総括』(1987年)
突如中洲の方に銃声があり、その銃声を引金に、前方で叫喚とも喊声ともつかぬ異様な声が起きた。

『南京事件の総括』pp.187-189(1987年)

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『南京の氷雨』(1989年)
一部で捕虜が騒ぎ出し、威嚇射撃のため、空へ向けて発砲した。その一発が万波を呼び、さらに騒動を大きくしてしまう形になったのです。

『南京の氷雨』pp.108-109(1989年)

 これら証言の中で銃声がした方向に着目してみると、『「南京大虐殺」のまぼろし』は「日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる」、『南京の氷雨』は「威嚇射撃のため、空へ向けて発砲した」と日本軍が発砲したものとしているが、『南京事件の総括』のみ「中洲の方に銃声があり」としており、証言にブレがある。
 この「中洲」とは八卦洲のことで、両角手記や田山証言でも中洲や前岸から発砲を受けたと述べられているので、両角手記や田山証言の影響を受け平林は「中洲の方に銃声があり」と証言したのかもしれない。また、『南京事件の総括』の著者が田中正明であることを考えると、インタビュアーによる改変の可能性も否定できないだろう(田中は松井石根日記を改竄したことで知られる)。

死者数

 平林は捕虜の死者数について次のように述べている。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)
殺された者、逃げた者、水にとび込んだ者、舟でこぎ出す者もあったでしょう。(略)向うの死体の数ですか?さあ……千なんてものじゃなかったでしょうね。三千ぐらいあったんじゃないでしょうか……

『「南京大虐殺」のまぼろし』pp.198-199(1973年)

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『世界日報』(1984年)
≪(略)捕虜の中には逃げ出したり運よく弾が当たらなかった者もいて、結局、死んだのは約三千です≫

『世界日報』昭和59年7月17日 第1面(1984年)

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『南京事件の総括』(1987年)
⑨その翌日全員また使役に駆り出され、死体の始末をさせられた。作業は半日で終ったと記憶する。中国側の死者一、〇〇〇~三、〇〇〇人ぐらいといわれ、(注(1))葦の中に身を隠す者を多く見たが、だれ一人これをとがめたり射つ者はいなかった。

『南京事件の総括』pp.187-189(1987年)

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『南京の氷雨』(1989年)
「乱射乱撃となって、その間に多数の捕虜が逃亡しています。結局はその場で死んだのは三千—-いくら多くても四千人を超えることはない。

『南京の氷雨』pp.108-109(1989年)

 『南京事件の総括』では「中国側の死者一、〇〇〇~三、〇〇〇人ぐらいといわれ」と証言するが、『「南京大虐殺」のまぼろし』では「千なんてものじゃなかったでしょうね。三千ぐらいあったんじゃないでしょう」、『世界日報』では「結局、死んだのは約三千です」、『氷雨』では「結局はその場で死んだのは三千—-いくら多くても四千人を超えることはない」と述べている。
 『南京事件の総括』の証言だけ死体数が低く見積もられている点は指摘しておこう。

逃げた中国兵の処置

 『南京事件の総括』の平林証言では、逃げた中国兵の処置について次のように言及している。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『南京事件の総括』(1987年)
⑨(略)葦の中に身を隠す者を多く見たが、だれ一人これをとがめたり射つ者はいなかった。

『南京事件の総括』pp.187-189(1987年)

 この平林の証言からすれば、逃げる捕虜はそのまま逃がすような状況だったと読める。しかし、多くの資料が示すところでは、銃撃で倒れた捕虜に火をつけて、息のある者には銃剣でトドメを刺すという処置を行い、生き残った捕虜を執拗に殺害する手段をとっていた。この証言は信憑性がない。
 この点に関しては次頁でも検討したい(捕虜死体の処理?)。

連行捕虜の最後尾の状況

 『南京事件の総括』の平林証言では、捕虜連行の際、平林は捕虜の列の最後尾にいたと証言している。

平林貞治証言(連隊砲中隊小隊長・少尉)『南京事件の総括』(1987年)
④彼等をしばったのは彼らのはいている黒い巻脚絆。殆んど縛ったが縛ったにならない。捕虜は約四千、監視兵は千人足らず、しかも私の部下は砲兵で、小銃がなくゴボー剣のみ。出発したのは正午すぎ、列の長さ約四キロ、私は最後尾にいた
⑤騒動が起きたのは薄暮、左は揚子江支流、右は崖で、道は険岨となり、不吉な予感があった。突如中洲の方に銃声があり、その銃声を引金に、前方で叫喚とも喊声ともつかぬ異様な声が起きた。
⑥最後列まで一斉に狂乱となり、機銃は鳴り響き、捕虜は算を乱し、私は軍刀で、兵はゴボー剣を片手に振りまわし、逃げるのが精一ぱいであった。

『南京事件の総括』pp.187-189(1987年)

 平林と同様に捕虜連行の最後尾にいたと証言する人物が他にもいる。第5中隊長 角田栄一中尉である。

角田栄一証言(第5中隊長・中尉)『ふくしま 戦争と人間』(1982年
(K-K註:17日夜、江岸で捕虜集結中に暴動が起こり鎮圧のため銃の乱射となった際の出来事として)
私は最後尾についていたが、銃弾が私たち味方のほうにもくるため、身を伏せて危難から避けなければならないほど、非常な混乱ぶりだった

『ふくしま 戦争と人間』 p.130(1982年)

角田栄一証言(第5中隊長・中尉)『南京の氷雨』(1989年)
「さて、河岸への連行にあたっては、私は役目を免除されました。が、収容所はからっぽになったし、ひまでしたので、連行の列の最後尾についていったのです。ところが、前方で乱射乱撃が始まり、どんどん銃弾が飛んでくる。私は道のわきにあるクリークのようなものに飛び込み、危難を避けました。味方の銃弾で死んではいられないし、恐ろしい思いをしました。また『突発だな』と私には感じられました。突発でなかったら、味方の方向に銃弾が飛んでくるなんて考えられませんよ。とにかく無茶な射撃でした。計画的に殺す気なら、あんなふうに銃弾は飛ぶわけないですからね」

『南京の氷雨』 p.110-111(1989年)

 平林「私は最後尾にいた」、角田「連行の列の最後尾についていった」としており、二人とも連行される捕虜の列の最後尾にいたと述べている。暴動発生時の状況としては、角田は、「どんどん(味方の)銃弾が飛んで」できて立っておられずに「道のわきにあるクリークのようなものに飛び込み、危難を避け」たというのに対し、平林は、剣・銃剣「振りまわし」て「捕虜」から「逃げるのが精一ぱい」だったという。同じ場所に居ながらこうも違う状況を証言をしていることから考えて、平林か角田のどちらかが不正確なことを述べているのだと思われるが、どちらが不正確なのかは判断できない。
 なお、平林が「(捕虜の列の)最後尾にいた」と証言しているのは、平林が証言を残した5つの資料の中で、ここで挙げた『南京事件の総括』だけである。興味深いのは、この『南京事件の総括』の証言では「最後尾にいた」という設定のためか、舟が河岸に来ていないという点が語られていない。『「南京大虐殺」のまぼろし』では「とにかく、舟がなかなか来ない」、『世界日報』では「船がきていないことがわかりました」と語っており、舟を待っている状況だったことになっている。参考までに指摘しておこう。

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