山田日記の解釈 捕虜殺害の命令経路についての考察
(eichelberger_1999氏の投稿より)

 はじめまして。南京大虐殺については詳しくはないのですが、前から自分が考えていたのと同じ意見の持ち主がおられるのを見かけたので、無礼をかえりみずコメントいたします。
 一ヶ月以上前の記事ですが、こう書かれてあります。

●渡辺さんの- 02/06/05 03:16:36の記事

もうひとつ、うっかりしていましたが、 「山田支隊ノ俘虜東部上元門附近ニ一万五、六千アリ 尚増加ノ見込ト、依テ取リ敢 ヘス16Dニ接収セシム。」[飯沼守日記(上海派遣軍参謀長)南京戦史資料集? P158] とあり、これは一三師団の「山田支隊ノ俘虜」を一六師団が「接収」という意味だと思 います。山田支隊の移動の日程が迫っていたからでしょう。つまり、幕府山の捕虜処刑 は、あの一六師団から出ていたわけです。
(略)
なぜ南京(南京城)へ行ったかというと、一六師団に指示を仰いだということ になるのでしょう。なお、一三師団本体は揚子江の対岸にいるので、本体の指 示は、仰げないわけです。

●K−Kさんの - 02/06/05 22:14:34の記事

 これは確かに注目すべき点ですね。私は気付きませんでした。
 しかし、即断することはできません。
 飯沼日記以外に、このことを記しているものがありません。中島中将や16 D参謀のなかで、この辺の事情を記していてもおかしくはないのですが、日 記・記録等を見た限りでは、そのことを臭わす記述がありません。
 いまのところは、結論をだすだけの資料に欠けると思われます。しかし、こ の点は頭に入れて置いた方がいいですね。私のHPの方に載せさせてもらおう と思います。
 それにしても、山田少将は捕虜の処置に関して、15日に本間少尉を使いに 出しただけではなく、翌日、相田中佐も南京に送っています。この意味も興味 があるところです。



 飯沼日記から、12月15〜16日の時点では上海派遣軍司令部は南京城内に位置せず、その郊外の湯水鎮にいたことがわかります(※1)。15日の時点で南京城内にいたのは第16師団です(※2)
 そうすると山田旅団長が本間騎兵少尉を南京に派遣したのは、飯沼少将の日記にある「依テ取リ敢ヘス16Dニ接収セシム」(※3)という上海派遣軍の指示を実行に移すべく、第16師団司令部との連絡をとるためであったと考えられます。

 それにたいして第16師団司令部は捕虜の接収を拒否し、捕虜の「始末」(「皆殺せ」)を命じたのだと思われます(※4)。この対応は中島師団長ならば十分考えられることです。本間少尉はその顛末を山田旅団長に復命し、山田少将は「皆殺せとのことなり」と日記に記したのですが、渡辺さんも仰るように、この師団は第16師団のことをさしていると解すべきです。

 対応に困った山田少将は翌16日、さらに相田中佐を上海派遣軍司令部に派遣し、指示をあおぎます(※5)。派遣軍は山田支隊を長江北岸の第13師団本隊に合流させるために(※6)、大量の捕虜を第16師団に収容させるという方針をとったにもかかわらず、第16師団がその命令に従わないことが判明したわけです。

 ここで山田支隊および第16師団に対して派遣軍司令部がどのような指示を与えるかは、その後の事態の帰趨を左右しかねない決定的な意味をもっていたといえるかもしれません。
 通常ならば第16師団の態度は重大な軍規違反であり、派遣軍司令部は断固たる態度をとるべきところですが、それができなかったところに南京大虐殺を引き起こした原因があるといえましょう。

 飯沼日記や山田日記からは、軍司令部が与えた指示の中身は不明です。しかし、軍司令部が何らの指示も出さなかったとは考えられません。
 私は、飯沼日記の「萩洲部隊山田支隊ノ捕虜一万数千ハ逐次銃剣ヲ以テ処分シアリシ処」(※7)とある記述から、軍司令部も内々に捕虜の殺害を認めたのではないかと考えています。つまり、派遣軍司令部は第16師団の命令違反を問うどころか、逆にその捕虜処分方針に同調し、山田支隊にそれを命じたのではないか、と。
 その16日の午後から山田旅団が捕虜を「銃剣ヲ以テ処分」しはじめたのわけですが、それが軍司令部の了解無しに行われたとは思われません。

 以上の仮説に対して、同じ飯沼日記に「上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日=20日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし」(※8)とあるのをあげて、派遣軍司令部は捕虜を上海に後送する方針であったとの異論がだされるやもしれません。

 この点については、翌17日の入城式の際に、松井軍司令官から厳重な注意を受けた軍司令部は捕虜を移送することに方針を変更し、慌てて榊原参謀を山田支隊に派遣したがすでに16、17、18日の間に捕虜の殺害は終わっており、間に合わなかったのだと解釈できます。
 つまり、派遣軍司令部の方針は、16師団に接収→捕虜の殺害→上海へ後送と三転したのだ考えれば、うまく説明できるのではないでしょうか。

※1
『飯沼守日記』
十二月十二日 朝九・三〇出発湯水鎮軍司令部……に移る。(『南京戦史資料集1』P154)
十二月十五日 四・〇〇頃松井方面軍司令官湯水鎮着、殿下に代り報告に行く。(『南京戦史資料集1』P158)

※2
『中島今朝吾日記』
十二月十五日 一、各隊は事後処理の任務遂行に差支なき範囲に於て代表部隊を堵列せり師団司令部各部隊長培(賠)従の上午後一時三十分中山門より入城し/国民政府庁舎を師団司令部に充当しありたれば同庁舎に入り国旗を掲揚し各部隊長及将校の参列の上大元帥陛下の万歳を三唱し…… (『南京戦史資料集1』P222)

※3
『飯沼守日記』
十二月十五日 山田支隊の俘虜東部上元門付近に一万五、六千あり 尚増加の見込と、依て取り敢へす16Dに接収せしむ。 (『南京戦史資料集1』P158)

※4
『山田栴二日記』
十二月十五日 捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す/皆殺せとのことなり/各隊食料なく困却す (『南京戦史資料集2』P331)

※5
『山田栴二日記』
十二月十六日 相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合はせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、砲台の兵器は別 とし小銃五千重機軽機其他多数を得たり(『南京戦史資料集2』P332)

※6
『飯沼守日記』
十二月十五日 山田旅団(三大基幹)は十九日南京にて渡江。(『南京戦史資料集1』P158)

※7・8
『飯沼守日記』
十二月二十一日 荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒かれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃けられたりとの噂あり。上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし。(『南京戦史資料集1』P164)