国際法からみた便衣兵の処罰[01]はじめに

国際法からみた便衣兵の処罰ic 戦時国際法
国際法からみた便衣兵の処罰ic
国際法からみた便衣兵の処罰 総目次
1.はじめに
2.研究者の議論
3.便衣兵とは何か
4.便衣兵の法的性質
5.戦争犯罪人の処罰方法
6.戦争犯罪の処罰に裁判を実施した事例
7.無裁判処罰を違法とした判例
8.まとめ
9.参考文献

経緯

 1937年12月の日本軍による中華民国首都 南京に対する戦闘では、12月12日夜から13日未明にかけて日本軍が城壁を占領し、13日朝より南京城内へ侵入するに至り、中国軍の敗退が決定的となった。中国軍の一部は撤退したが、多くが撃滅され、捕虜となり、もしくは私服に変装し市民の中へ潜伏した。

 本稿で論じる「便衣兵」とは、敗退した中国軍将兵が私服(便衣)となり市民の中へ潜伏した者に対する通称でだ。南京での便衣兵は逃走の一手段として便衣と化した。その一部に武器弾薬を隠匿する者がいたが、実際に便衣兵の日本軍に対する抵抗がほとんど見られなかったことから、武器弾薬の隠匿は逃走の一手段だったと考えられる。

便衣兵取調べ 支那事変画報第14輯-大阪毎日新聞社-1938年1月
便衣兵取調べ 支那事変画報第14輯-大阪毎日新聞社-1938年1月

 この便衣兵に対し日本軍は治安対策として厳しい摘出を行った。例えば、歩兵第7連隊は12月14日から24日にかけて国際安全区内で掃討を実施し、その結果「二、刺射殺数(敗残兵) 六、六七〇」(歩7戦闘詳報)と報告しているが、その多くは便衣兵と考えられる。また、12月24日から翌年1月5日までの間に、歩兵第30旅団長 佐々木到一少将の指揮の下、良民証の発行に基づく兵民分離が実施され、その結果として敗残兵2000名を摘出し収容した(佐々木到一手記)。記録には残っていないものの、日本軍による南京城内外の掃討戦が行われたが、その際、歩7や佐々木少将のケースのように便衣兵を摘出したものと推測される。

 本稿では、この様な便衣兵に対し、国際法上、どの様に対応することを求めているか明らかにしたい。

便衣兵摘出の状況

 国際法上の対応を検討する前に、便衣兵摘出の実情を表す史料を紹介する。

歩兵第7連隊第1中隊 水上荘一等兵
日記
12月14日
「昨日に続き、今日も市内の残敵掃蕩に当たり、若い男子の殆ど、大勢の人員が狩り出されて来る。靴づれのある者、面 タコのある者、きわめて姿勢の良い者、目付きの鋭い者、等よく検討して残した。昨日の二十一名と共に射殺する。」
12月16日
「午後、中隊は難民区の掃蕩に出た。難民区の街路交差点に、着剣した歩哨を配置して交通 遮断の上、各中隊分担の地域内を掃討する。
 目につく殆どの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行してくる。各中隊とも何百名も狩り出して来るが、第一中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引き立てて来る。その直ぐ後に続いて、家族である母や妻らしい者が大勢泣いて方面 を頼みに来る。
 市民と認められる者は直ぐ帰して、三六名を銃殺する。皆必死に泣いて助命を乞うが致し方もない。真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだいう。多少の犠牲者は止む得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃討せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃討は厳しいものである。」

『南京戦史資料集1』p.395-397

第7連隊第2中隊 井家又一上等兵
日記 12月16日
「午後又で出ける。若い奴を三百三十五名を捕らえて来る。避難民の中から敗残兵らしき奴を皆連れ来るのである。全く此の中には家族も居るであろうに。全く此を連れ出すのに只々泣くので困る。手にすがる、体にすがる全く困った。
(略)
 揚子江付近に此の敗残兵三百三十五名を連れて他の兵が射殺に行った。
 この寒月拾四日皎々と光る中に永久の旅に出ずる者そ何かの縁なのであろう。皇軍宣布の犠牲となりて行くのだ。日本軍司令部で二度と腰の立て得ない様にする為に若人は皆殺すのである。」

『南京戦史資料集1』p.p.368-373

 市民の中から便衣兵を摘出するにあたり、「靴づれのある者、面 タコのある者、きわめて姿勢の良い者、目付きの鋭い者」(水谷日記)で判断したり、「目につく殆どの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し」(水谷日記)という乱暴な選定だったことが分かる。

 また、次のような事例も報告されている。

東京裁判 M.S.ベーツ証言
 或る場合では日本の将校が中国人に向って斯り云ふことを言ひました。若し君達が以前支那の兵隊であり或は中国軍隊の為に労役に服したことがあるにせよ、若し今此の労働奉仕団体に進んで参加するならば、さう云ふことを総て忘れて上げようと言ったのであります。斯くの如くして一日の午後で南京大学校内より二百名の健康な人間を拉致し、直ちに何処かへ伴れて行って、同日夕方、安全地帯内の他の地域から同様な手段を以て拉致した人間と共に射殺したのであります。

『日中戦争史資料8』p.50

 ベーツは日本軍の行為を「一つの裏切行為」と評しているが、この様な評価を下されてもやむを得ないだろう。

東京裁判判決による認定

 東京裁判判決では、南京事件での便衣兵容疑者の殺害行為を次のように認定している。

極東国際軍事裁判 判決 第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為)
「南京暴虐事件」
「 男子の一般人に対する組織立つた大量の殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に混りこんでいるという口実で、指揮官らの許可と思われるものによつて行われた。中国の一般人は一団にまとめられ、うしろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機関銃と銃剣によつて、そこで集団ごとに殺害された。兵役年齢にあつた中国人男子二万人は、こうして死んだことがわかつている。」

 判決では、摘出された便衣兵に殺害に対し、「男子の一般人に対する組織立つた大量の殺戮」としていることから、殺害されたのは兵士ではなく市民(「男子の一般人」)と認識しており、違法行為と認定した。

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