紅卍字会の埋葬経費について 

紅卍字会の埋葬経費について 埋葬隊
紅卍字会の埋葬経費について

はじめに

 1937年12月13日に中華民国の首都南京が日本軍によって陥落された後、戦闘や日本軍の虐殺によって南京では多数の死体が市中に残された。日本軍将兵の死体は日本軍により収容され、同じく日本軍により通常の戦場清掃が行われたが、それでも多数の死体が市中に残された。これら死体の埋葬は、おそらく個人で行われたもの多くあったと思われるが、その多くの埋葬は埋葬団体により実施された。埋葬を実施した主要な団体としては、慈善団体(崇善堂、紅卍字会)、紅十字会(赤十字の現地団体)、自治委員会(日本軍占領下の南京の行政組織)が挙げられる。

南京自治委員会発会式 アサヒグラフ1938年1月26日p21
南京自治委員会発会式 アサヒグラフ1938年1月26日p21

 紅卍字会について若干説明したい。紅卍字会は、正式名称を世界紅卍字会といい、道院という宗教団体の社会事業実行団体である。道院は1916年山東省で発祥し、200余の支部、300余万の信徒を有していた。南京の道院では、会長は陶錫山、会員数300余人を有していた。(井上久士「遺体埋葬記録は偽造史料か」(『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房、2012年)参照)
 陶錫山(陶保晋、宗教名である道名は陶道開)は、1875年、江蘇省江寧県南京に生まれる。日本の法政大学に留学後、弁護士として長く勤務するし、江寧県弁護士会会長、金陵法政学院院長、中華民国衆議院議員など要職を歴任する。1922年に世界紅卍字会南京支部を設立し、亡くなるまで会長を務めた。1923年の関東大震災、1927年の北丹後地震の際には、会員を率いて救援活動を行うために渡日している。1937年12月13日の南京陥落後、日本軍によって組織された自治委員会委員長に就任させられたが(発会式は1938年1月1日)、1月11日に病気休暇を申請、1月24日に辞職を願いでるが日本軍に却下される。同年3月14日に再度辞表を提出、日本軍に承認を得る。『南京人民日報』1938年3月15日付には陶の辞表が掲載されたが、その中で自治委員会委員長職は実際の責任を負っていないと訴えていたいう。その後、中華民国維新政府の立法会議員を勤めた。戦後、1946年4月、中華民国軍に逮捕され、懲治漢奸条例に基づき、日本軍と共謀し反逆を企てた罪で有罪となり懲役2年を言い渡される。刑期を終え出所した1948年6月、世界紅卍字会南京事務所で脳出血のため倒れ亡くなった。(wikipedia「陶保晋」を参照)

 本稿では、紅卍字会が南京で行った埋葬活動の経費に着目し、これまで通説と南京特務機関が残した宣撫班報告書の内容と比較し、その違いを明らかにしたい。

紅卍字会埋葬経費に関する通説

 南京事件における埋葬問題で最も詳細な研究をしている井上久士氏(駿河台大学教授)は、紅卍字会の埋葬経費については次のように説明している。

南京特務機関は二月と三月、紅卍字会の埋葬費のかなりを負担したと思われる。それがこのふた月埋葬がはかどった理由のひとつであろう。

井上久士「遺体埋葬記録は偽造史料か」『南京大虐殺否定論13のウソ』p.130

 残念ながら、井上氏がここで述べている根拠資料が何かは示されていない。これまでの史料状況で、特務機関が埋葬費用を負担したであろうことを推測させる史料として次のものが挙げられる。

東京裁判 弁護側不提出証書
昭和一三、四、一六『大阪朝日新聞』北支版より抜粋(弁証二六九〇)
南京便り第五章衛生の巻 林田特派員
『仕事は死体整理 悪疫の猖獗期をひかへて 防疫委員会も大活動』
 そこで紅卍会と自治委員会と日本山妙法寺に属するわが僧侶らが手を握って片づけはじめた。腐敗したのをお題目とともにトラックに乗せ一定の場所に埋葬するのであるが、相当の費用と人力がかかる。人の忌む悪臭をついて日一日の作業はつづき、最近までに城内で一千七百九十三体、城外で三万三百十一体を片づけた。約一万一千円の入費となってゐる。苦力も延五、六万人は動いてゐる。しかしなほ城外の山のかげなどに相当数残ってゐるので、さらに八千円ほど金を出して真夏に入るまでにはなんとか処置を終はる予定である。

『日中戦争史資料8』p.393

 この資料によれば埋葬活動は、紅卍字会、自治委員会、日本山妙法寺の三者共同を行ったことになっている。その際に経費が1万1000円かかり、さらに8000円かかる予定であることが記されているが、その経費の出所については記されていない。自治委員会は日本軍が指導していたことから考えれば、特務機関から自治委員会へ埋葬資金が流されたと推測できる。実際に、南京特務機関の第2回報告書によれば、自治委員会の1月の総収入3万1085円のうち、「派遣軍司令官賜給」として1万円が計上されている(『十五年戦争極秘資料集13 華中宣撫工作資料』井上久士編、不二出版、1989年 p.152)。

 また、東中野修道氏(亜細亜大学名誉教授)は次のように説明する。

埋葬の賃金
 紅卍字会の埋葬は、日本軍特務機関(と自治委員会)からの委嘱によるものであった。中華民国の警官の月給が三円から五円であった当時、一体あたり三十銭(今のお金にして七百円程度)の経費が支払われるという、いわば金になる仕事であった。南京に居残った「最も貧しい人々」には、魅力的な仕事であった。ボランティア活動ではなかったのである。
 そこで後になって、崇善堂その他の弱小団体が自治委員会に作業を申し込んできたが、自治委員会の方では埋葬事務の窓口を紅卍字会に一本化していた関係上、その種の申し込みを受け付けなかった。彼らが紅卍字会の下請けとして従事したことはあっても、その埋葬作業量は紅卍字会の作業量に組み込まれていた—-と、氏は回想する。
 こうして一体あたり三十銭の謝礼金が支払われる関係上、埋葬の実績が、その都度、氏のもとへ報告されていた。だから、氏は埋葬状況を把握していたのである。

『「南京虐殺」の徹底検証』P307

 東中野氏は、『亜細亜大学日本文化研究所紀要』で「南京特務機関(満鉄社員)丸山進氏の回想」という丸山進氏のインタビュー記事をまとめている。上掲の文中の「氏」とは丸山氏を指し、同じく文中の「回想」は「南京特務機関(満鉄社員)丸山進氏の回想」から引用されていると思われる。
 東中野氏は、南京特務機関に所属していた丸山進氏の回想に基き、紅卍字会埋葬隊の経費は日本軍の特務機関が支払ってたと主張する。そして、埋葬作業は慈善事業ではなく多分に営利目的の意味合いがあった、崇善堂などの団体も利益確保の目的を達成するために下請けとして埋葬作業に従事した、と主張する。

 井上氏、東中野氏と立場が違う両論者であっても、紅卍字会の埋葬経費は特務機関(日本軍)から資金提供を受けていたと言うのがこれまでの通説と言えるだろう。

特務機関の資料

 通説では、特務機関が紅卍字会埋葬隊の経費を負担していたとされているが、一方で、特務機関が残した報告書には以下のように記されている。

南京班第三回報告(三月中状況)(抜粋)
(三)紅卍字会の屍体収容
本会の屍体収容工作開始以来既に三ヶ月黙々として其■清に当りつつある点真に賞讃に価すへく而も何等訴へる事無く遂に彼等全額の準備金は既に消費し蓋し最近に至り初めて行動不能の域に達したる旨の■願あり
尚各城外地区に散在せる屍体も少からす然して積極的作業に取かかりたる結果著■の成績を挙け三月十五日現在を以て既に城内より一、七九三、城外より二九、九九八計三一、七九一体を城外下関地区並上新河地区方面の指定地に収容せり
春暖に伴れ更に収容埋葬に■数を要する事となり疫病の発生其の他を考慮して極力其方策に対し講究中なるか既に紅卍字会のみの資力にては到底至難の業たる事も明白となり何等かの方法を以て資金援助の方途を講すへき時機に逢着せり現在使用中のトラック毎日五―六両人夫二―三百名を要し既にガソリンの補給並人夫賃捻出も同会にては其方途無き迄に立至る
然して右収容開始以来同会の費消せし金額は一万一千一百七拾五元に及尚埋葬と称するも只アンペラ包の儘該地区一帯に大部分は放置しある状況にして、埋葬済み以前の屍体の土盛並墓地の消毒作業は絶対的な必要条件と思考せらる同会作成の予算表に依れは右経費八千九百五拾元を計上しあるも同会としての今後の活動は全く不可能の域に到達したる為右経費援助に関し目下研究中にあり

井上久士編・解説『十五年戦争極秘資料集13 華中宣撫工作資料』P164

 埋葬経費に関して要約するならば、次のようになる。
 紅卍字会は、埋葬活動に準備した資金を使い果たしたが、まだ城外に死体が散在しており、また疫病を防ぐための作業も必要である。しかし、同会の資力では足りないことは明白となったため、特務機関としては経費援助の方法を考えている。

 この文書が書かれた詳細な日付が分からない為、文書中から探ってみたい。

  1. タイトルに「南京班第三回報告(三月中状況)」とあるように、3月の状況をまとめた報告書である
  2. 「屍体収容工作開始以来既に三ヶ月」と書かれていることから、紅卍字会の最初の埋葬日である1937年12月22日(埋葬表より)に3ヶ月を足すと3月22日となる
  3. 埋葬数の成績を「三月十五日現在を以て」と書いていること

 以上3点から推測するに、この文書は1938年3月下旬から4月上旬に書かれたものと推測する。

 この文書の内容で重要な点は、「彼等全額の準備金」とは特務機関や自治委員会が用意した資金ではなく「紅卍字会のみの資力」としている点だ。
 また、「何等かの方法を以て資金援助の方途を講すへき時機に逢着せり」と書かれていることから、特務機関はそれまで資金援助を行っていなかったことが読み取れる。

 つまりこの資料からは、1938年3月下旬~4月上旬までの時点において、紅卍字会は独自に準備した資金のみで埋葬を行い、特務機関はこれに対して資金援助をしてこなかったことが読み取れる。この報告書は南京特務機関の内部文書であり、内容に関して事実誤認や虚偽を記している可能性は少ないだろう。この問題を考える上では、特務機関報告の内容を前提として考える必要がある。

『大阪朝日新聞北支版』と特務機関資料

 大阪朝日新聞北支版では、埋葬活動は紅卍字会、自治委員会、日本山妙法寺の三者が協力して行ったと書いてあるが、その資金源に関しての記述はない。これら三者のうち、現地において最も財政基盤が明確なのは、日本軍特務機関を背景としている自治委員会であると考えられる。
 井上氏や先行研究者の洞富雄氏が、この点から資金源が自治委員会(ひいては特務機関)であると考えたのは無理がないと思う。このような考えを基にして、特務機関が埋葬資金を援助したと考察したのではないだろうか。
 しかし、特務機関報告によれば、少なくとも3月下旬~4月上旬までの時点において、紅卍字会が特務機関の資金援助を受けていなかった。

丸山証言における紅卍字会の埋葬経費

 東中野氏が紅卍字会の埋葬経費の拠出元が特務機関だと判断した根拠は、先にも紹介した通り丸山進氏の証言である。その証言の中から、紅卍字会の埋葬経費について語っている部分を紹介する。

「南京特務機関(満鉄社員)丸山進氏の回想」
丸山 (略)ところが中国軍は逃走して南京にはいませんから当然ながら中国兵の死体はそのまま放置されていました。そこで大西特務機関長の前任者の佐方繁木特務機関長から意見が出まして気温の上がらないうちに遺体の後片付けを中国人にやらせようということになり、紅卍字会の埋葬活動を支援することになった訳です(pp.221-222)

丸山 そのことについては私は分かりません。私は特務機関長から埋葬の経費は自分が工面するから、お前が埋葬の実行に当たれと一任されて実行に当たった訳です(p.222)

丸山 自治委員会には全く金はなかったのです。特務機関長が軍の機密費から調達したのではないでしょうか。ただ日本軍から経費が出たことについては外部には一切公表されなかったので自治委員会から(後には市政公署から)出たものと、恐らく、一般には理解されたかも知れません。ともかく、それで、早速、自治委員会の幹部を連れて遺棄死体の状況を視察しました。(略)そして予算を計上した上で、自治委員会名で、死体の埋葬を一括して紅卍字会に委託しました。(略)(pp.222-223)

丸山 それは毎日の実績を報告させていたからです。なぜ報告させたかと言いますと、常に状況を把握しておくのが目的でしたが、そのほかに私は満鉄上海事務所から南京の特務機関に派遣されて来ていましたから毎月一回は業務報告をする義務があるので日報を作成し、月毎にまとめて特務機関の上司に報告するほか、同じものを満鉄上海事務所の伊藤所長に送っていた訳です。(略)(p.226)

丸山 三月二十二日と記憶をしておりますが、春分の日に、大西特務機関長の主催で、中国軍民犠牲者の慰霊祭が悒江門内で執行されるということになり、それで私は埋葬を三月十五日までに完了せよと自治委員会を通じて紅卍字会に通達を出しました。そのため紅卍字会は下請けを動員して大急ぎで埋葬を行い、埋葬は全て完了しました。(略)(pp.226-227)

丸山 つまり埋葬作業終了後、たしか一体当り三十銭と記憶していますが、中華民国の警官の月給が三円から五円であった当時、三十銭(今のお金にして七百円程度)の経費を支払っていました。しかしその埋葬量を私が承認しなければ、謝金は出ない訳です。謝金はそのつど何回か払っていましたが、埋葬作業完了後には全てを清算する必要がありました。合計三万一七九一体に三十銭を掛けると約九千五百円、それに搬送距離や地形的な困難度によって加算した場合があり、全体では一万一千円程になりましたから、未支払いの残金は市政公署に交付して、公署から全てを清算させました。(p.228)

丸山 (略)次に三月九日以降の埋葬が六二三一体も計上されていますが、或る程度の落ちこぼれはあったかも知れないけれども、そんなに多く残っていたとは考えられません。(略)(p.231)

『日本「南京」学会年報 南京「虐殺」研究の最前線 平成十四年版』

 ここで丸山氏は非常に詳細な説明をしている。その要点を埋葬経費の問題に限って抽出する。

  1. 特務機関長 佐方繁木騎兵少佐からの指示で特務機関が埋葬経費を支払うとし、丸山氏に埋葬実行を一任した。
  2. 丸山氏は自治委員会ともに南京市内の死体状況を調査し、紅卍字会に埋葬作業を依頼することとした。
  3. 作業実績を毎日報告させ丸山氏がそれを承認した。埋葬経費は一体当り30銭として、何回かに分けて支払った。
  4. 3月15日までに「埋葬は全て完了しました」。3万1791体を処理し、経費1万1000円が自治委員会から紅卍字会に支払われた。
  5. 3月19日以降も6231体が計上されているが、その様な多数の死体は残っていなかったはず。

 ここでは丸山氏の証言内容の詳細について判断はしないが、支払い単価や困難の度合いによる加算、支払いのタイミングまで具体的に証言しており、紅卍字会の埋葬は特務機関の指導と資金提供のもとで実施されたことを裏付ける証言となっている。
 ところが先に見たとおり、特務機関資料によれば、1938年4月前後(3月下旬~4月上旬)まで特務機関は紅卍字会に対して埋葬経費を負担しておらず、この時期まで紅卍字会は独自の資金のみで埋葬を行っていた事実が明らかになっている。
 特務機関報告書はその当時作成された一次史料であり、上海満鉄事務所へ送られた公式の報告書である以上、その信憑性が高いことは言うまでもない。紅卍字会の経費に関する丸山氏の証言は、特務機関報告書とまるで違う内容であるが、史料の信憑性から考えて、特務機関報告書が真実を語っていると考えるのが妥当だ。
 なぜ、丸山氏がこのような事実と違う証言をしたのかは判断しがたいが、この様な根本的な事実誤認に基くことをあたかも事実かのように詳細に語った証言では、その語られた内容全体をどこまで信用してよいのか判断が困難と言えるだろう。埋葬に関する丸山氏の証言には相当な裏付けをもって確認しない以上、史料として使用することは難しいと思われる。

まとめ

 以上見てきたように、紅卍字会の埋葬経費に関して、通説では特務機関が埋葬経費を援助していたと考えた。ところが、南京特務機関報告書では、「第三回報告(三月中状況)」(おそらく1938年3月下旬~4月初旬)が作製されるまで間、特務機関から紅卍字会に対し埋葬経費の援助を行っていなかった。この特務機関報告書は当時書かれた特務機関の内部資料であり、一次史料として信憑性は極めて高いと考えられる。
 大阪朝日新聞北支版では、埋葬活動は紅卍字会、自治委員会、日本山妙法寺が共同で実施したと書かれているが、その経費を誰が負担したかは書かれていない。この3者のうち、日本軍の後ろ盾のある自治委員会が最も財政基盤が磐石と考えられることから、自治委員会が埋葬経費を負担したという推測は成り立つ。
 また、丸山進氏は特務機関が歩合制で埋葬経費を負担したとことを事細かに証言している。
 しかし、これら史料と特務機関報告書では史料的価値の違いは圧倒的であり、「第三回報告(三月中状況)」までの期間で日本軍や特務機関が埋葬経費を負担という見解は成立しない。
 ただし、「第三回報告(三月中状況)」以降に日本軍や自治委員会(南京市政公処)が支払った可能性はあるだろう。特務機関報告書は3月分までしか現存しておらず、その後の埋葬経費に関しての史料は見つかっていない。この点に関しては、新たな史料の発見を待つ必要がある。
 いずれにしても、特務機関資料と丸山証言には大きな乖離があり、史料価値から考えて丸山証言には信憑性がないと判断せざるを得ない。

参考資料

  • 『アサヒグラフ』朝日新聞社 第30巻第4号 1938年1月26日
  • 『日中戦争史資料8 南京事件1』日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編 河出書房新社 1973年11月25日初版発行
  • 『十五年戦争極秘資料集13 華中宣撫工作資料』井上久士編、不二出版、1989年
  • 『「南京虐殺」の徹底検証』東中野修道 展転社 1998年8月5日第1刷発行
  • 『日本「南京」学会年報 南京「虐殺」研究の最前線 平成十四年版』東中野修道編著 展転社 2002年9月16日第1刷発行
  • 『南京大虐殺否定論 13のウソ』南京事件調査研究会編、柏書房
  • (2012年3月1日新装版第1刷発行)
  • wikipedia「陶保晋」を参照

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