山田支隊・山砲兵第19連隊

山砲兵第19連隊
・目黒福治 山砲兵19連隊第3大隊 伍長 [日記]
・黒須忠信 山砲兵第19連隊第3大隊 上等兵 [日記]
・近藤栄史郎 山砲兵第19連隊第8中隊 伍長 [日記]
・E氏 山砲兵第19連隊 [手記]

参考資料



目黒福治 山砲兵第19連隊第3大隊 段列 伍長 編成

[陣中日記]
十二月十三日 晴天
午前三時起床、四時出発、南京爆布(幕府)山砲台攻撃の為前進す、途中敵捕慮(虜)各所に集結、其の数約一万三千名との事、十二三才の小供より五十才位 迄の雑兵にて中に婦人二名有り、残兵尚続々の(と)投降す、各隊にて捕い(え)たる総数約十万との事、午後五時南京城壁を眺めて城外に宿営す。

十二月十四日 晴天  南京城外
首都南京も落つ、休養、午前中南京市内見物旁々支那軍馬の徴発に行く、城内の膨大なるに一驚す。

十二月十五日 晴天  南京城外
休養。

十二月十六日 晴天 南京城外
休養、市内に徴発に行く、到(至)る処支那兵日本兵の徴発せる跡のみ、午後四時山田部隊にて捕い(え)たる敵兵約七千人を銃殺す、揚子江岸壁も一時死人の山となる、実に惨たる様なりき。

十二月十七日 晴天 南京城外
午前九時宿営地出発、軍司令官の南京入城式、歴史的盛儀に参列す、午後五時敵兵約一万三千名を銃殺の使役に行く、二日間にて山田部隊二万人近く銃殺す、各部隊の捕慮(虜)は全部銃殺するものの如す(し)。

十二月十八日 晴天 南京城外
午前三時頃より風あり雨となる、朝起床して見ると各山々は白く雪を頂初雪となる、南京城内外に集結せる部隊数約十ヶ師団との事なり、休養、午後五時残敵一万三千程銃殺す。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.373




黒須忠信 山砲兵第19連隊第3大隊 段列 上等兵 編成

[陣中日記]
拾二月拾三日 晴
 七時半某地を出発した、揚子江附近の道路を通過する際我が海軍の軍艦がゆうゆうと進江(航)して居るのがよく見えた、敵の敗残兵は諸所に殺されて居た、午后八時某地に到着宿営す。

拾二月拾四日 晴◎
午前三時半出発して前線に進む、敵弾は前進するに従って頭上をかすめて来る、敵の真中を打破りぐんぐん前進する途中敗残兵を六五にて一千八百名以上捕慮(虜)にして其の他沢山の正規兵で合計五千人の敗残兵を拾三師団にて捕慮(虜)にした、全部武装解除をして(た)のも見事なものである、命令我が大隊は馬風(幕府)山砲台を占領して東外村に宿営す、残敵に注意すべしと、本日の感想は全く言葉に表す事が出来ない位 であった、捕慮(虜)兵は両手をしばられ歩兵に警戒せられて或る広場に集められて居た、馬風(幕府)山砲台には日章旗高く揚げられて万歳を唱へられた、種々なる感想を浮べて前進を続け東外村に宿営す、××××氏に面 会する事が出来て嬉しかった。

拾二月拾五日 晴
南京城外其地に我が拾三師団は休養する事となった、午前馬糧の徴発に忙しかった、敵首都南京城も助川部隊(十六師団)が拾三日午前拾時三十分に占領してしまったのである、城内にも入城する事が出来た。

拾二月拾六日 晴
午后一時我が段列より二十名は残兵掃湯(蕩)の目的にて馬風(幕府)山方面 に向ふ 、二三日前捕慮(虜)せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す、其の后銃剣にて思う存分に突刺す、自分も此の時ばが(か)りと憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう。
山となって居る死人の上をあがって突刺す気持ちは鬼をもひしがん勇気が出て力一ぱいに突刺したり、うーんうーんとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供も居る、一人残らず殺す、刀を借りて首をも切って見た、こんな事は今まで中にない珍しい出来事であった、××少尉殿並に××××氏、×××××氏等に面 会する事が出来た、皆無事元気であった、帰りし時は午后八時となり腕は相当つかれて居た。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.350-351




近藤栄四郎 山砲兵第19連隊第8中隊 伍長 編成

[出征日誌]
〔十二月〕十四日
午前四時起床、鞍を置き直ちに出発する、道路暗くて而も寒い、前進して午前八時頃敵の降伏兵の一団に逢ひ敗残者の悲哀、武装解除に珍らしき目を見張る、更に数団、全部にて三千名に達せん、揚子江を船で逃げる兵を小銃軽機にて射撃するのも面 白し、南京を目の前に南京城を見て降伏兵の一段を馬上より見下すのも気持が悪くない、南京牧場宿営、女を混じへた敵兵の姿。

〔十二月〕十五日
出発命令なく午前御令旨及訓示の伝達式あり。
午后、米徴発に行く、幸南京米が沢山あったので六本駄馬を持って取って来る、支那の工兵の材料集積所らしい。

〔十二月〕十六日
午前中給需伝票等を整理する、一ヶ月振りの整理の為相当手間取る。
午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る、丁度見本の様だ、お陰で随分酩酊した。
夕方二万の捕慮(虜)が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。
月は十四日、山の端にかかり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし、戦場ならざれば見るを得ざるところなり、九時半頃帰る、一生忘るる事の出来ざる光影(景)であった。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』p.325-326




E氏 山砲兵第19連隊所属

[手記]
『実録・日中戦争の断面』(私家版)
  南京の爆風山砲台は、我が十三師団の手によって陥落させた大砲が何門も掘り付けられていた砲台で有名である。その山の下に支那の兵舎があり、藁葺き屋根であったがその数は二十棟位あったと思うが、その兵舎に捕虜達を収容していたのである。食事も与える事なく、兵舎の周囲は我が歩兵隊の機関銃が二十丁も並べられて逃げ出せぬよう厳重に警戒されていた。腹が減っても食糧を与えることが出来なく、収容はして見たものの実際は処置に困っていたのである。兵舎に火をつけて騒ぎ出し、看守の者も手に余り上司の命を待っていたところ、「戦争はまだまだ終わらない、全員虐殺せよ!」との指令が出たようである。我々はそこいらにある布切れを引き裂いて紐を作った。 そして命令どおり中から出て来る捕虜たちを後ろ手に縛り、二人一組につないで表の広場に立たせた。中には捕虜の手を縛らず時計や金など専門に取り返していた兵隊もいた。
  南京付近で捕虜にした数は全部で九万人とも言われていた。我が若松両角部隊の捕虜はここだけで二万人いたと言われ、いくら縛っても一ぺんには縛ることが出来ず、しまいには縛るものがなくなり捕虜のゲートルをほどいて縛るようになって来た。半日もかかって五千人位は縛ったことであろう。もう表は暗くなり月の光だけが照って人の見さかい位がようやくつく時間となって来たが、夕食など食う余裕はなかった。
  兵隊たちの銃には皆着剣をして捕虜の両側に二米おき位に警戒にあたりながら、捕虜をいづこか分らぬ闇の中へと歩かせたのである。二人つながれているので一人転べば続いて次ぎの者も転び、それが中々起きることが出来ないのである。 次に行く捕虜も暗いからつまづいてまた転ぶ。兵隊たちは起こすどころか持っている銃剣でザクリと刺し殺してしまう。後の列の者は驚いて廻り道をして前に続いて行った。 途中珍しく我が○○出身の宗形少尉○○並びに〇〇、当時伍長○○、○○の○○等に道端で行き会ったのである。宗形さんには召集されて来ていると言われておりましたが、初めて会ったので本当に懐かしかった。だが長話も出来ず「俺ら、これからこれをやりに行くのだ」と人を突くまねして見せましたところ僕らもこれから行かなくてはならぬと言っておりました。外の二人は二回位は会っていたと思う。
  約一時間位かかって揚子江岸の、とある建物のあるところに着いた。川幅は夜目でも広く見えた。建物は二階建であり、庭の前方は二十尺もあろうかと思われる石垣が積まれ川まで少しの砂原があった。その広い庭に捕虜たちは次から次へと座らせられたのである。入口があるだけで庭の向こうは高い山であり、逃げることが出来ないところであった。 全部捕虜たちを庭に座らせたので、今度は支那兵を連れて来て首を切ったり、銃剣で刺し殺したりする者もあった。 我は首を切ったことがないので曹長の持っていた軍刀を借り、死んで寝ている人の首を切って見たが、死人のせいか半分位しか切れなかった。刀も大して日本刀のような切れ味がなかったのであろう。
  そうこうしているうちに「ワァー」という歓声が上がったと思うまもなく、機関銃の音が闇をつんざくように一斉に何十丁も発射されたのであった。私等はいつも後方部隊なので、銃など射ったことがない。此の際射とうと思い兵隊の間から弾を込めて二、三発うった。捕虜たちは一たまりもなくペタペタと庭にうづくまって死んだのである。しかし、全部に弾はあたって居るわけではありませんので、今度は着剣して死人の上を渡り歩き△△△ざくりざくりと刺して歩いたのであるが、中には死にきれず銃をおさえる者もあった。おそらく三十人以上は突いたであろう。明日になって腕が上がらぬ位に痛かった。明日になって、日本兵が二人その場で戦死した。一人は機関銃小隊長であるというニュースが入った。さては宗形少尉がやられたと私は直感した。「俺もこれから行く」と言った言葉がそれであった。殺されることを知った捕虜たちは「ワァーワァー」と全部が立ち上がったため、制止に入った宗形少尉に飛びかかった。 少尉の居ることは分かっていても発射せざるを得なかったとのことである。しかしこの事実は誰も実家には知らせていない。ただ南京付近の戦死で名誉の戦死であるということになっている。
  今一人の兵隊は、石垣の下で着剣をして飛び降りて来る捕虜を待ち受けて突き刺すため河原の上に何十人かの友軍の歩兵がいたのである。あの高い石垣から飛び降りて揚子江に入り、木材や色々のものに捕まりながら逃げて行った者も数多くあったのである。中には勇敢な捕虜もいて、飛び降りるやいなや日本の兵隊を抱きかかえて川に飛び込んだのであった。不意を突かれて水を飲みながら濡れ鼠になって上がって来たところを友軍の兵隊が敵と間違えて、いきなり銃剣で突き刺してしまったそうである。それから毎日残敵掃討の名目で次から次へと捕虜たちは殺されて、死骸は揚子江へと投げ入れられたのである。その死体であの揚子江の水の流れが一時は止まったと言われたほどである。筏や材木等に捕まって逃れた人達によって南京の残虐行為も広がり、終戦時の戦犯者にも死刑の宣告を受けた師団長をはじめとして数多くの将官がいたことは申すまでもない。私らは南京が陥落したのだから今度こそは凱旋間違いなしだなんてみんなで語り合っておりましたが、戦いは今考えて見るとまだ序の口でありました。

『南京大虐殺の研究』p.140-114


参考資料
  • 『南京大虐殺の研究』編者洞富雄・藤原彰・本多勝一、晩聲社
    (1992年5月1日初版第1刷発行)
  • 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』小野賢二ほか編、大月書店
    (1996年3月発行)