③上元門崗
▼上元門崗
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上元門崗は、板倉由明氏が「東部上元門」と呼び、収容所のあったと主張した場所である※1。
また、栗原氏が収容所から捕虜を連行するルートを描いたスケッチで※2、収容所と幕府山の位置関係、道の形状・地物の関係を照らし合わせるとここが収容所と解釈することが出来る。
交差点の中央に[1][2][3]と番号を付した大きな建物があり、その周辺にも建物が点在している。兵舎とするならば、この3つの大きな建物ということになる。
しかし、周辺の中・小規模の建物は民家と思われるが、その中心部に軍事施設(兵舎)があるというのは考えにくい。並び方も不揃いであり、軍事施設のような規則性に乏しい。建物規模(「十数棟」「二十数棟」)や建物形状(栗原スケッチ(下図)、「併列し」)が、他の資料の表現と違う。
ここを捕虜収容所とするのは難しそうである。
※1板倉由明「南京北部」(『月曜評論』昭和62年2月2日号p.3)
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