【幕府山事件】上海派遣軍の捕虜殺害に対する認識について

上海派遣軍の捕虜殺害に対する認識について 第13師団
上海派遣軍の捕虜殺害に対する認識について

 幕府山における山田支隊の捕虜殺害事件は、南京事件の中でも最も規模の大きい虐殺事件として知られている。また、朝日新聞等で報道されたほか、東京裁判でも取り上げられ、かつ日本軍将兵の日記・証言なども多く発掘されており、残された資料が豊富であるという点でも注目できる。
 事件の歴史的事実に関しては、日本軍兵士の日記を独自に掘り起こした小野賢二氏の論文で明らかになっているが、それでも否定論者の反論も尽きない。
 この幕府山事件に関し上海派遣軍が捕虜殺害についての指示・命令を出していないとする否定論があるので、本稿において幕府山の捕虜に対する上海派遣軍司令部の認識を検証しつつ、この否定論に批判を加えたい。

幕府山事件の経緯

山田支隊進攻ルート 鎮江~幕府山

 第13師団第103旅団長である山田栴二少将は、12月12日13時、鎮江の西方3里(約12km)高資鎮にて、歩兵第65連隊、山砲兵第19連隊第3大隊、騎兵第17大隊を率いて南京攻撃へ参加せよとの命令を受ける(山田支隊の編組)。
 揚子江南岸を南京へ向かい進行中だった山田支隊は、12月14日、幕府山付近で大量の投降兵を捕虜とした。その数は1万4000人以上という。この捕虜を幕府山付近の建物(学校とも兵舎とも言われている)へ収容した。
 12月15日、南京城内へ司令部を置いている第16師団へ捕虜対応の指示を受けに伝令を出したところ「皆殺せ」との命令を受ける。
 12月16日、今度は山田支隊と第16師団の上部組織である上海派遣軍司令部へ捕虜の処置方法について伝令を出す。
 同日の夕方、山田支隊は軍の命令として約3000名の捕虜殺害を実行する。残りの捕虜も17日夜に殺害する。この捕虜殺害の際に、捕虜の反抗にあい山田支隊は損害を出した。
 以上が、事件のあらましとなる。

上海派遣軍司令部は捕虜殺害を意図していないという主張

 以上のような事件の中、上海派遣軍司令部では捕虜殺害を意図していなかったという主張がある。代表的な主張として、『南京戦史』の記述が挙げられる。同書p.324~p.327「五、幕府山付近における山田支隊の捕虜収容とその後の対応」で、上海派遣軍司令部の認識を下記のように主張する。

「五、幕府山付近における山田支隊の捕虜収容とその後の対応」(抜粋)
「以上を検討すると、上海派遣軍司令部では参謀長、参謀副長とも殺害命令を出したと断定し得る記述はなく、むしろ捕虜担当の第三課参謀・榊原少佐が労役に使うため連絡に行ったことから、「捕虜を収容する」方針であったように思われる。」

『南京戦史』p.326

 一方、ネット上の否定論者も『南京戦史』の見解に沿った主張をしている。これらの主張の根拠は、上海派遣軍参謀長 飯沼守少将の以下の日記である。

飯沼日記
十二月十五日 霧深し 快晴
 山田支隊の俘虜東部上元門付近に一万五、六千あり 尚増加の見込と、依て取り敢へす16Dに接収せしむ。
十二月二十一日 大体晴
 荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒かれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃けられたりとの噂あり。上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし。

『南京戦史資料集1』p.164

 上海派遣軍司令部は第16師団に捕虜を接収させており(飯沼日記12/15)、その捕虜を上海へ送り労役に付かせる予定だったのだから(飯沼日記12/21)、捕虜殺害を意図しておらず、指示・命令を出すはずがないという。
 そこで上海派遣軍が幕府山の捕虜についてどの様な認識を持っていたのかを確認したい。

上海派遣軍 12月14・15日の認識

 山田支隊は12月14日に大量の捕虜を捕獲・収容している。上海派遣軍司令部ではこの状況を以下のように認識していた。

上海派遣軍参謀 西原一策大佐 日記
(12/14)13D山田支隊の捕たる俘虜約二万あるも食糧なく処■に困る

西原一策日記

上海派遣軍参謀長 飯沼少将 日記
(12/15)山田支隊の俘虜東部上元門付近に一万五、六千あり 尚増加の見込と、依て取り敢へす16Dに接収せしむ。

『南京戦史資料集1』p.158

※以下、飯沼守少将の日記を「飯沼日記」、西原大策大佐の日記を「西原日記」とする。

 西原大佐は飯沼少将より1日早く情報を受け取っており、捕虜の数を「約二万」(西原)と「一万五、六千あり 尚増加の見込」(飯沼)としていることから考えて、両者の情報の出所が違った可能性がある。

 山田少将の日記(以下、山田日記とする)12月14日付では「一四、七七七名を得たり」としており、歩兵第65連隊本部通信班 堀越文男伍長の12月14日付日記では「第一大隊は一万四千余人の捕虜を道上にカンシしあり(午前)」、歩兵第65連隊第4中隊 宮本省吾少尉12月14日付日記では「夕方南京に捕虜を引率し来り城外の兵舎に入る無慮万以上に達す」と記していることから、12月14日の昼もしくは夕方の時点で、支隊では暫定的な捕虜数を把握していたようだ。

幕府山事件より以前に第13師団の部隊が捕虜を殺害していた事例 歩兵第116連隊戦闘詳報

 そもそも第13師団では、捕虜を捕獲した場合、多数の時は「之を射殺することなく武装解除の上、一地に集結監視し師団司令部に報告する」、少数の時は「所要の尋問を為したる上適宣処置する」と指示していた(第13師団戦闘詳報 戦闘に関する教示S12/10/19付)。
 実際に、同師団の歩兵第116連隊では昭和12年10月21日~11月1日の戦闘において「俘虜ハ全部戦闘中ナルヲ以テ之ヲを射殺セリ」(歩兵第百十六連隊「自昭和十二年十月二十一日至昭和十二年十一月一日劉家行西方地区ニ於ケル戦闘詳報」)としており、捕虜殺害が実行されている。

 山田日記12月14日付では「捕虜の仕末に困り」「斯く多くては殺すも生かすも困つたものなり」と記しており、多数の捕虜の処置に困っていることが伺える。

 山田少将は、多数の捕虜を捕獲した為、その時点での直上組織に当たる上海派遣軍へその処置を問いに伝令を出しただろう。その伝令により、西原大佐・飯沼少将の知るところとなり、飯沼少将は第16師団へ接収させることを命じたのだと考えられる。

 飯沼少将から第16師団への引渡し命令を受けた山田少将は、12月15日、捕虜の対応を聞くために南京城内にいる第16師団司令部へ本間騎兵少尉を向かわせている。それに対し、第16師団は「皆殺せ」と命じてきたという(山田日記12/15)。

山田栴二 山田支隊長 少将
[日記]12月15日
捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
皆殺せとのことなり
各隊食糧なく困却す

『南京戦史資料集2』pp.330-333

 なお、資料では確認できないものの、上海派遣軍は、山田支隊に対し捕虜を第16師団に引き渡すよう命令を出すと同時に、第16師団に対しても捕虜を接収するよう命じていた考えるべきだろう。その際には、捕虜移送について第16師団と山田支隊とで直接指示が出せるよう、第16師団には山田支隊への区処権を与えたと考えられる。
 というのも、第16師団は、山田支隊へ直接命令する権限がないにも関わらず、大量の捕虜を移送する任務が与えられた。任務遂行のため詳細なやり取りが必要である両部隊が、上海派遣軍を経由しなければ命令の発令・受領が出来ないのであれば不効率極まりない。
 この様な不効率を避けるため、軍には区処権というものがある。区処権とは「指揮隷属上の命令権はないが、特定事項に関して指示する権限を持つことを言う」(吉田裕『日本軍兵士–アジア・太平洋戦争の現実』)。この区所権を与えることで、第16師団は山田支隊に対し、捕虜の処置について命令権限を持つことが可能となる。

上海派遣軍との打合せと捕虜殺害

 山田少将は12月15日に第16師団より捕虜殺害命令を受けた(山田日記12月15日付)が、翌16日、副官の相田俊二中佐を上海派遣軍へ捕虜の対応の打合せに出している(山田日記12月16日付)。

山田栴二 山田支隊長 少将
[日記]12月16日
相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合はせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、砲台の兵器は別とし小銃五千重機軽機其他多数を得たり

『南京戦史資料集2』pp.330-333

 山田少将は、第16師団より捕虜の殺害命令が受けているにも関わらず、さらに上級司令部へ捕虜の対応について打合せを行っている。上意下達の日本軍組織としては通常から外れる対応である。なぜ、山田少将はこのような対応をとったのだろうか?

 山田少将が第16師団の捕虜殺害命令に異論がなく、実行可能であれば、上海派遣軍へ相田中佐を派遣する必要性がないことは言うまでもない。この様な行動をとった理由として、次の2通りの可能性が考えられる。一つは捕虜殺害に反対であった、もう一つは、捕虜殺害に賛成ではあるが軍の助言・助力が必要だった。

山田少将は捕虜殺害に反対だったという可能性

 まずは山田少将が捕虜殺害に反対だったという可能性について検討する。この可能性について裏付ける資料が三つある。

 一つ目は歩兵第65連隊長両角業作大佐は戦後の手記において「丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である」と述べている。両角大佐は、人道的・騎士道的理由をもって捕虜殺害に否定的見解を持っており、「山田少将を力づける」という表現から、同様の見解を持っていた山田少将に加勢していたことが伺える。

両角業作 歩兵第65連隊長 大佐
[手記]
 十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入場式である。万一の失態があってはいけないとういうわけで、軍からは「俘虜のものどもを”処置”するよう」・・・山田少将に頻繁に督促がくる。山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するように逆襲していた。私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。

『南京戦史資料集2』pp.339-341

 二つ目は山田少将の戦後の証言として、捕虜殺害を督促にきた憲兵将校に対して「君、これが殺せるか」と問いかけ捕虜殺害を拒否をしていたことを証言している。

鈴木明による山田栴二へのインタビュー
この日、軍司令部の方から「捕虜がどうなっているか?」と憲兵将校が見廻りに来た。山田少将(当時)は自分で案内して、捕虜の大群を見せた。「君、これが殺せるか」と山田少将はいった。憲兵将校はしばらく考えて「私も神に仕える身です。命令はお伝えできません。

『「南京虐殺」のまぼろし』 p.194

「それにしても戦闘中ならいざ知らず「無抵抗の捕虜八千人をみな殺しにしろ」には山田旅団長も驚いた。両角連隊長と相談してその日は砲台の付属建て物にとりあえず収容したのである。」
「翌十六日、山田旅団長は副官相田中佐を軍司令部に派遣して、”捕虜を殺すことはできぬ。軍みずから収容すべきである”とかけ合わせたがやはりダメだった。」
「その日、こんどは逆に軍司令部から憲兵将校(階級、氏名不詳)が旅団司令部に調査にやってくる始末だったが、山田旅団長はこの若い憲兵将校をじゅんじゅんとさとし、かえって
「閣下のお考えはよく分かりました」
 と帰っていったのだ。しかし最後にはついに
「捕虜は全員すみやかに処置すべし」
 という軍命令が出されたのである。通信兵が電話で鉛筆がきで受けた一片の紙きれにすぎないのだが……。」

『郷土部隊戦記 第1』pp.111-112

 これら三つの資料はいずれも捕虜殺害を拒否する理由として人道上・騎士道上の理由を示唆している。しかし、いずれの資料も戦後に為されたものであり、捕虜殺害事件への弁解が加味されている可能性は否定できない。
 なぜならば、既に示した「第13師団戦闘詳報 戦闘に関する教示S12/10/19付)」や「歩兵第百十六連隊 自昭和十二年十月二十一日 至昭和十二年十一月一日 劉家行西方地区ニ於ケル戦闘詳報」において、この部隊では(もしくは当時の日本軍においては)捕虜を殺害することはある意味で規定路線だった。ここにおいてのみ人道や騎士道を理由に捕虜殺害を厭うというのも一貫した考え方とは言い難いからである。

 また、山田日記12月15日の「皆殺せとのことなり/各隊食糧なく困却す」という記述も、部隊の食糧が少なく困り果てていることを理由に、捕虜殺害命令を正当化しようという揺れる心を表しているようにも見えなくはない。

捕虜殺害に賛成だったという可能性

 一方、上海派遣軍司令部へ相田中佐を派遣した意図として「捕虜殺害に賛成ではあるが軍の助言・助力が必要だった」という可能性に関しては、それを裏付ける根拠はない。
 助言に関しては、わざわざ中佐を派遣してまでの「助言」がどの様なものだったか想像もつかない。
 助力でいうならば、この場合考えられるのは武器弾薬もしくは資材の要求だろう。ただし、捕虜殺害の実行は、相田中佐を派遣した当日(16日)そして翌日(17日)であり、武器弾薬・資材の調達を要求したにしてはこれらの調達品が届くまでの猶予があまりにも無いので、この可能性い低いのではないか。
 もしくは、物資の要求を拒否された為、すぐに殺害を実行したとも考えられるが、すぐに殺害出来るのであれば物資要求などせず最初から殺害すればよいので、このストーリーもスッキリしない。
 15日の本間騎兵少尉よりも上級の相田中佐を伝令に出したことを考えても、余程強く訴えることがあったと考えるべきであり、簡単に引き下がるようなストーリーでは不釣り合いだと思われる。

打合せ直後の捕虜殺害

 山田少将の意図が奈辺に在るのかは図りがたいところだが、いずれにしても、12月16日、相田中佐を上海派遣軍へ伝令に出した後、同日午後3時に最初の捕虜殺害が実行された。

宮本省吾少尉(歩兵第65連隊第4中隊)
[日記]12月16日
午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮(虜)兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.133-134

 この捕虜殺害は軍命令であることも資料に残されている。

遠藤高明少尉(歩兵第65連隊第8中隊)
[日記]12月16日
夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し1(第1大隊)に於て射殺す。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.219-220

 相田中佐が上海派遣軍の誰と捕虜について打合せしたのか資料が残っていないので分からないが、時系列から見ると、この打合せの結果として捕虜の殺害実行を実行したものと考えられる。

上海派遣軍 捕虜殺害への積極的関与

 以上のように資料を追ってみると、上海派遣軍の認識は、15日、山田支隊の捕虜を第16師団へ接収させた後、16日、山田支隊からの将校伝令(相田中佐)により、第16師団が山田支隊へ捕虜殺害命令を出した出たことを認識した。その上で、捕虜殺害命令を追認したということになる。
 一方、上海派遣軍が捕虜殺害について積極的だったことは、先に提示した山田少将の戦後の証言でも裏付けられている。

山田栴二へのインタビュー
この日、軍司令部の方から「捕虜がどうなっているか?」と憲兵将校が見廻りに来た。山田少将(当時)は自分で案内して、捕虜の大群を見せた。「君、これが殺せるか」と山田少将はいった。憲兵将校はしばらく考えて「私も神に仕える身です。命令はお伝えできません。

『「南京虐殺」のまぼろし』 p.194

 また、山田少将の指揮下にあった第65連隊長 両角業作大佐も同様の趣旨の記述を残している。

両角業作 歩兵第65連隊長 大佐
[手記]
十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入城式である。万一の失態があってはいけないとういうわけで、軍からは「俘虜のものどもを”処置”するよう」・・・山田少将に頻繁に督促がくる。山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するように逆襲していた。

『南京戦史資料集2』p.339-341

 上海派遣軍は、山田支隊から派遣された相田中佐によって第16師団より山田支隊へ捕虜殺害命令を出ていたことを認識し更にそれを追認した。そして、上記の戦後証言・手記が正しければ、その後も積極的に捕虜を殺害するよう山田支隊へ働きかけていたことが分かる。

飯沼日記12月21日の矛盾

 飯沼日記12月21日付には、山田支隊が捕虜を殺害する際の不手際で自軍に損害を出し、さらに多数の捕虜が逃亡したことが記述されているが、続けて次のような記述がある。

飯沼守 上海派遣軍参謀長 少将
[日記] 12月21日
上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし。

『南京戦史資料集1』p.164

 これまで説明してきたとおり上海派遣軍の認識は、第16師団から山田支隊へ出された捕虜殺害命令を追認する、もしくは積極的に働きかけるというものだったが、ここで初めて捕虜を上海へ送って労働に従事させるという意図が登場する。
 南京事件否定論では、この飯沼日記12月15日付「接収せしむ」と飯沼日記12月21日付「上海に送りて労役に就かしむる」をもって、上海派遣軍は捕虜を殺害する意図がなかったと主張するわけだが、その真偽も含めてこの日記の記述を検討したい。

 ここに出てくる「榊原参謀」とは、上海派遣軍司令部第三課の榊原主計歩兵少佐である。上海派遣軍司令部の参謀組織は以下のように部署されていた。

参謀長 飯沼守少将
参謀副長上村利通大佐
参謀部第1課 長・西原一策大佐
参謀部第2課 長・長勇中佐
参謀部第3課 長・寺垣忠雄中佐

 なお、それぞれの課の職務分担は、第1課は作戦、第2課は情報、第3課は後方担当と言われている(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』p.178)。榊原少佐は、後方担当の第3課長 寺垣中佐の部下だったことになる。

 既述の通り上海派遣軍は、16日に行われた山田支隊の相田中佐との打合せにより、第16師団より山田支隊へ捕虜殺害命令が出ていることを認識し、捕虜殺害を追認もしくは積極的に働きかけていた。ところが、この飯沼日記12月21日「(捕虜を)上海に送りて労役に就かしむる」というのは、一見すると矛盾した内容の記述と見える。

 ところで、この記述で疑問に感じるのは、仮に上海派遣軍司令部が当初(12月14日・15日)より捕虜を上海へ送り労働に従事させることを意図していたのであれば、12月16日の相田中佐との打合せにおいてその旨の命令を下していただろう。
 そうであれば、山田支隊がその捕虜を殺害・逃亡させたということは、上海派遣軍の命令を真っ向から違反したことになるわけで、飯沼日記・西原日記・上村日記に山田支隊の命令違反を咎める旨の記載がないことは不自然である。
 16日の打合せ直後に捕虜殺害を実行していることから考え併せても、軍司令部が12月16日時点で捕虜保護を意図していたとするには無理がある。

 そこで捕虜殺害と捕虜移送という2つの認識を両立させるには、以下、二通りの可能性があるのではないだろうか。

  1. 12月16日に相田中佐が捕虜の処置の打合せを行った人物(もしくは所属部署)と、捕虜移送を企図した人物(もしくは所属部署)が異なっており、両者に意思疎通が欠けていた。例えば、相田中佐が捕虜の処置の打合せした人物が参謀長 飯沼少将であったとし、捕虜を上海へ送致することを考えていたのが参謀部第3課であった場合、飯沼少将は捕虜殺害の話を知っていたが、第3課はこの事を知らずに榊原少佐を連絡に出した為、榊原少佐は空振りに終わった。
  2. 12月16日の相田中佐との打合せによって、捕虜を殺害することは司令部内で一致して認識していた。ところが、12月21日直前に捕虜を上海へ送致するという話が持ち上がり(上海方面からの依頼?)、大量の捕虜のことだから未だ捕虜殺害を実施しあぐねていると考えて榊原少佐を急派したが、結局、空振りに終わった。

 いずれにしても、12月16日における捕虜殺害の命令の追認(積極的指示)、12月21日における榊原少佐の空振りという2つの確定した事実に基づいての推測である。推測に関しては異論があるかも知れないが、確定している事実については動かし様がないといえるだろう。

まとめ 

 上海派遣軍司令部において、山田支隊が捕獲した捕虜について次のように認識していた。

  1. 12/14 「二万」の捕虜を捕獲(西原日記12/14付)
  2. 12/15 「一万数千」の捕虜を捕獲。第16師団へ「接収」させる(飯沼日記12/15付)
  3. 12/16 山田支隊 相田中佐が「捕虜の仕末其他」について打合せに来る。「捕虜の仕末」には、前日に第16師団より命令された「皆殺せ」が含まれていたと考えるべきだろう。
  4. 軍司令部は捕虜殺害に積極的関与(山田証言、両角手記)
    ※12/16 15:00 捕虜殺害作業開始(宮本省吾日記12/16付)
  5. 12/18 捕虜殺害実施中に捕虜暴動により自軍に損害が出た(西原日記12/18付)
  6. 12/21 捕虜殺害に失敗し、自軍への損害・捕虜散逸があった(飯沼日記12/21付、上村日記12/21付)。上海へ捕虜を送致するため派遣された榊原少佐は、派遣すべき捕虜が居ない為、目的を達成できなかった(飯沼日記12/21付)。同情報は西原大佐よりもたらされたもの(上村日記12/21付)

 最も重要なポイントは、12月16日、山田支隊の相田中佐が上海派遣軍司令部へ捕虜処置について打合せに行ったことで、第16師団から山田支隊へ捕虜殺害命令が出ていたことを軍司令部が認識したという事実である。そしてこの打合せの直後に山田支隊は捕虜殺害を実行に移している。つまり、この打合せが捕虜殺害の契機となったと考えるの自然である。軍司令部は捕虜殺害命令を追認した、もしくは積極的に求めていたことは既述の通りである。

 もし、軍司令部が捕虜を「接収」するよう第16師団へ命じたことに依拠し、軍司令部に捕虜を保護する意図があったというならば、12月16日に相田中佐よりもたらされた第16師団による捕虜殺害命令を軍司令部は否定し捕虜を保護するよう命じただろう。ところが、その日に山田支隊の捕虜殺害が始まっていることから、この可能性は否定される。

 また、仮に12月16日の相田中佐との打ち合わせで軍司令部が捕虜を保護することを山田支隊へ命令していたとしても、その後(西原日記12/18、飯沼日記・上村日記12/21)、山田支隊より捕虜殺害の報告を受け、予定していた捕虜の上海移送が出来なくなったにも関わらず、軍司令部がこの命令違反を咎める様子が一切見られないのは不自然である。

 そもそも軍司令部が捕虜を保護する目的で動いていたのであれば、山田支隊が揚子江岸へ捕虜を連行する理由が無くなってしまい、小野賢二説・自衛発砲説ともに成立し得なくなる。山田支隊が揚子江へ捕虜を連行した目的は、小野説では捕虜を殺害するためであり、自衛発砲説では捕虜を逃がすためであった。何れの説明においても捕虜殺害命令が出ていたことを前提としているのである。16日に行われた相田中佐と軍司令部の打合せにおいて捕虜を保護することになったのならば、山田支隊が捕虜を揚子江岸へ連行したという事実の前提(目的)を失ってしまうだろう。

 これらの状況から考えて、軍司令部は山田支隊の捕虜を殺害することを意図していたのであり、捕虜の上海移送という計画はこの命令系統から外れていたものと考えるべきである。

以上。

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