両角手記の検証[10]まとめ

両角手記の検証 第13師団
両角手記の検証
両角手記の検証 総目次
1.はじめに
2.両角業作の経歴
3.掲載資料の紹介
4.各資料における文面比較:両角日記
5.各資料における文面比較:両角手記
6.両角日記・手記の出自
7.史料批判:郷土部隊戦記 第1
8.史料批判:箭内証言・平林証言
9.史料批判:両角手記
10.まとめ
11.参考資料

まとめ 

 最後に簡単にまとめたい。

 各資料における両角日記・手記の文面を比較したがそこには多くの異動が見られた。両角日記に関しては、NNNドキュメント「南京事件Ⅱ」で文面のコピーが確認できたため『南京戦史資料集2』の引用が正しいことが判断できた。両角手記に関しては多くの異同が認められるたが、そのどちらが「正しい」引用なのか判断はつかない。

 しかし、その「正しさ」とは何を意味するのか。両角日記・手記は、いずれも阿部輝郎が1963年に福島民友新聞で連載された「郷土部隊戦記」の取材の際に入手したものという。その際、阿部の言葉によれば、阿部自身の手で「日記の重要部分、回想ノートの重要部分を筆写」したという。『南京戦史資料集2』でも同様の説明をするが、その一方で両角日記は「阿部輝郎氏が筆写した南京戦前後の部分しか現存せず、その原本との照合は不能の状況」とし、手記は「原本は阿部氏所蔵」と述べている。つまり『南京戦史資料集2』では、両角手記に関して、一方で原本はないと述べ、一方で原本は阿部が所蔵していると述べるという矛盾する記述となっている。性急な結論を出せる問題ではないが、周辺事情を加味すると後者の可能性も十分ある。
 それだけではない。各資料の両角手記には、上述の「原本」を引用したものと、阿部が筆写したものと、二つ元資料が引用されている可能性さえある。そうであるならば、文面の異同もそのことが由来とも言える。
 この問題に関しては、さらなる資料の探求と考察が必要と思われる。

 『郷土部隊戦記』第3章「南京虐殺事件の真相」には両角手記を直接引用する部分はないが、そこで語られる大筋は両角手記とほぼ一致する。阿部輝郎によれば、同連載にあたり両角を取材し、その際に手記・日記を入手したという。第3章「南京虐殺事件」が両角手記と一致する部分が多いのは、阿部の両角への取材が反映されたと見るべきである。本書(連載)の特徴として、後に発表される『ふくしま戦争と人間』と比較すると、上海派遣軍司令部の対応を批判する姿勢が強いことである。この軍司令部への批判的態度と関係あるのかは分からないが、本書では、軍司令部が捕虜殺害に積極的だったという証言が掲載されている。

 史料批判として、両角手記を検証する前に『郷土部隊戦記』、箭内証言、平林証言を検証した。
 箭内・平林はともに複数の資料で証言を残しており、資料間で比較検討するのに適している。証言を比較すると、それぞれ証言を重ねるごとに矛盾が出ることが確認できる。これは一種やむ得ないことで、何も意図的に事実を歪曲しているわけではないのだろう。不確かな記憶や記憶の空白を後に得た情報で補強して意図せずに「記憶」としているケースもあるだろうし、インタビュアーの影響を受けたことも十分に考えられる。いずれにしても証言が変遷しているが、その部分に限り信憑性は低いと言わざるを得ず、その様な部分が複数あった。

 両角手記の検証は長くなった。「非戦闘員の解放」「火災による捕虜逃亡」で明らかにしたように、両角手記が記すような捕虜が半減したりまたは四分の一に減少するような事実は無いことが明らかだ。戦後の証言の中には、両角手記と同様のことを証言する者もいるが、先に発表された『郷土部隊戦記』の影響を受けたものと思われる。

 また、両角手記の主要なストーリーである「捕虜の解放を試みた」という主張自体が創作であることは一次史料からも明らかになっている。例えば第4中隊宮本省吾少尉の日記が挙げられる。宮本は捕虜の捕獲から、収容、監視・管理、二回の連行、二回の殺害に深く関与していたが、その宮本が捕虜の連行の目的を殺害であると明言している。また、第8中隊遠藤高明少尉の日記でも、同様に捕虜連行の目的は殺害であることを明記している。一方で、この解放説を裏付ける一次史料は一つも存在しない。捕虜解放説が戦後作られたストーリーであることは明白だろう。

 捕虜暴動の端緒として、両角手記は捕虜を舟に乗せて渡河している途中で八卦洲より銃撃が受けたと語っている。しかし、両角以外で捕虜を舟に乗せたと証言するものは、両角にこのことを報告した田山しかいない。300名もの捕虜を渡河させていたといならば、他の将兵がそのことを目撃していなければ不自然だろう。資料を総合すると、暴動の端緒は宗形少尉らが捕虜に襲われたことであり、宗形少尉らは捕虜と一緒に銃撃されて死亡してしまったようだ。このような不名誉な戦死の状況を隠蔽するために、両角や田山は渡河中に八卦洲より銃撃を受けたという偽の端緒を創作したと思われる。

 銃撃で倒れた捕虜に対し、生き残ったものを発見するために着火し、生き残りを見つけた場合は銃剣で止めを刺した。この様な処理は、殺害するという強い意思を感じるものであるであり、両角手記のメインテーマである捕虜解放という人道的処置から程遠いものである。この事実からも、両角が唱える捕虜解放説は否定されるものと思われる。

 殺害された人数を、両角手記では「僅少」とするが、他の資料から浮かび上がるのは、とても僅少にとどまらない数字である。多くの一次史料が示すところでは、収容された捕虜数1万5000名~2万名とし、その同数が殺害されたと述べている。

 全般的に言うならば、両角手記は幕府山事件の規模や犯罪性を実際に起こった事よりも小さく見せようとする意図が見て取れる。しかし、だからといって取り分けこの史料が他の資料に劣っており、史料価値がないと言うつもりはない。本論考の過程で明らかになったように、戦後の証言には、実際に起こった出来事を証言しているのではなく、両角手記に沿って証言されたと思われるものがあった。歴史資料とは往々にしてその様なことはあり得るものである。両角手記も他の資料同様に、裏付けを見極め、史料の傾向に注意しながら利用する必要があるということだろう。

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