両角手記の検証[05]各資料における文面比較:両角手記

両角手記の検証 第13師団
両角手記の検証
両角手記の検証 総目次
1.はじめに
2.両角業作の経歴
3.掲載資料の紹介
4.各資料における文面比較:両角日記
5.各資料における文面比較:両角手記
6.両角日記・手記の出自
7.史料批判:郷土部隊戦記 第1
8.史料批判:箭内証言・平林証言
9.史料批判:両角手記
10.まとめ
11.参考資料

両角手記

 両角手記も日記と同様に多数の異同が見受けられる。その中では旧字/新字の違い、カタカナ/平仮名の違い、句読点の違いも見られるが、この様な編集上の異同とは性質の異なるものも多数見られる。
 この手記は、阿部によると「昭和三十六年から三十七年にかけ、取材のため何回か訪問した私に、詳細に当時の事情を説明し、また分厚いノートを貸してくれた」(『南京の氷雨』)と述べている。つまり、各資料で引用されているのは手記原本(前述「分厚いノート」)から一部分を抜粋したものとなる。
 その内容は、『ふくしま戦争と人間』では、12月1日の江陰城攻撃の記述から引用が開始されている(p.103)。『南京の氷雨』では12月7日江陰城を出発する部分から引用が開始されている(p.69)。一方、『南京戦史資料集2』では「幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて~」から始まっており、12月14日の幕府山での捕虜捕獲の場面から引用が始まっている。それ以前の文章がどうなっていたのかについては説明がない。
 また、『南京戦史資料集2』では「南京大虐殺事件」という見出しが付されているが、この見出しは他の資料には見られない。もともと、引用した資料に書かれていた見出しなのか、編集の際に付したものなのか分からない。

文面の比較

 次に、資料間の異同のうち主要なものを提示する。なお、表組の「No.」は、『南京戦史資料集2』の手記の一文ごとに番号をふったものである。

No.『南京の氷雨』(1989年)『南京戦史資料集2』(1992年)
2新聞は二万とか書いたが、実際には、当初数えた数では一万五千三百余であった。新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。
9夜の炊事が始まった。炊事が始まった。
11四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。
13十七日には軍司令官の入城式がある。十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入城式である。
29宿営地に戻ると、田山大隊長より「混乱なく集結を終了したの報告を受けた。もどったら、田山大隊長より「何らの混乱なく予定の如く俘虜の集結を終わった」の報告を受けた。
30-32宿舎で私は「捕虜は今ごろは自由になっているだろう」と宿舎机に向かって考えていた。火事で半数以上が減っていたので大助かり、今ごろは揚子江の北岸で俘虜たちは解放の喜びにひたっているにちがいない。火事で半数以上が減っていたので大助かり。日は沈んで暗くなった。俘虜は今ごろ長江の北岸に送られ、解放の喜びにひたり得ているだろう、と宿舎の机に向かって考えておった。
34あの銃声はなんだったのか、捕虜たちになにかあったのか。あとで第一大隊長田山少佐の報告を受けたが、その内容は次の通りだった。そのいきさつは次の通りである。
38俘虜たちが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、
42処置後、ありのままを山田少将に報告したところ、さも、わが意を得たりの顔をしていた。処置後、ありのままを山田少将に報告したところ、少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、さも我が意を得たりの顔をしていた。
45-46自分の本心はどうであったにせよ、俘虜としてその人の自由を奪い、少数といえども射殺したことは(逃亡する俘虜は射殺してもいいと国際法で認めてはるが)なんとても後味の悪いことで、亡くなった俘虜の冥福を祈るばかりだ自分の本心は、如何ようにあったにせよ、俘虜としてその人の自由を奪い、少数といえども射殺したことは<逃亡するは射殺してもいいと国際法で認めてあるが>…なんといっても後味の悪いことで、南京虐殺事件と聞くだけで身の毛もよだつ気がする。当時、亡くなった俘虜諸士の冥福を祈る。

 『南京戦史資料集2』の発行は『南京の氷雨』の3年後なので、『南京戦史資料集2』に両角手記を掲載するにあたって『南京の氷雨』に掲載されている手記の文面を参考にしたものと考えられる。この仮定に基づくならば、『南京の氷雨』に存在して『南京戦史資料集2』に存在しない字句というのは、『南京戦史資料集2』が所持している資料には、実際に存在していないということだろう。この事例はNo.2、9、29、34が該当する。
 逆に、『南京戦史資料集2』に存在して『南京の氷雨』に存在しない場合は、『南京の氷雨』が見落とした、もしくは省略したことになる。
 字句が修正されていると思われる部分もある。No.13の「軍司令官」→「松井大将、鳩彦王各将軍」、No.38「俘虜たち」→「二千人ほどのもの」、No.45-46「どうであったにせよ」→「如何ようにあったにせよ」
 30-32は、文章が入れ替わっている部分がある。
 45-46は、『南京戦史資料集2』にある「南京虐殺事件と聞くだけで身の毛もよだつ気がする」という一文が、『南京の氷雨』では省略された上で前後の文章を一体化させている。

 以上、両角手記について、文面の主要な異同部分を検討してみたが、文章の入れ替え、字句の修正、脱落の多さから考えて、手書き文字を判読する上での解釈の差異というレベルを超えるものであることは明白である。

正確性

 両角日記のケースとは違い資料の文面が確認できないので、どちらが正確なのか判断はできない。ただし、一般論として次のように言うことは出来るだろう。
 『南京戦史資料集2』は南京戦史編集委員会という複数の人員で編纂された資料集であり、この様な編纂方法をされていることを考えると資料の取り違いや改変が行われるとは考えにくい。
 また、両角日記で明らかになったように同編集委員会の史料引用は正確なものであった。
 これらの点から考えて、『南京戦史資料集2』の手記の文面は正確なものと考えるのが妥当である。

 では、『氷雨』の両角手記は不正確なのか。もちろん、その可能性もあるし、正確だった可能性もある。正確である可能性は相当に低いと思われるが、その場合は、『南京戦史資料集2』とは別の両角手記があることになる。この点に関しては、次に検討する。

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06 両角日記・手記の出自

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