両角手記の検証[04]各資料における文面比較:両角日記

両角手記の検証 第13師団
両角手記の検証
両角手記の検証 総目次
1.はじめに
2.両角業作の経歴
3.掲載資料の紹介
4.各資料における文面比較:両角日記
5.各資料における文面比較:両角手記
6.両角日記・手記の出自
7.史料批判:郷土部隊戦記 第1
8.史料批判:箭内証言・平林証言
9.史料批判:両角手記
10.まとめ
11.参考資料

各資料における文面比較 

 各資料における両角日記・手記の文面を比較する。本来、正当な史料引用をしていればこの様な検証を行う必要はない。しかし、両角日記・手記では各資料での引用文に多くの異同が見られる。資料の異同状況を確認する為、文章の比較が必要である。
 ただし、本稿では先に挙げた4つの資料の全てを比較はしない。理由は下記の通りである。
 『郷土部隊戦記1』(1964年)は、両角手記・日記を直接引用した部分が無い。したがって、外形的な比較は不可能である。
 『ふくしま戦争と人間1』(1982年)は、両角手記を≪≫で囲って引用しているため、引用箇所は明確である。ただし、新聞紙上の連載記事であり、可読性の向上、字数制限、編集ルール等の制約があったことが推測でき、その為の細かな字句の変更、加除修正が加えられているとも考えられる。その為、文言の比較としては不適当と考えた。
 以上のことから、『郷土部隊戦記』と『ふくしま戦争と人間』は比較検討の対象とはせず、『南京の氷雨』と『南京戦史資料集2』の文面を比較する。

両角日記 

文面比較

 まずは、両角日記から比較する。
 この日記は、「『両角日記(メモ)』は、研究者・阿部輝郎氏が筆写した南京戦前後の部分しか現存せず」(『南京戦史資料集2』「資料解説」より)ということなので、現存しているのは、阿部が書き写した一部分となる。おそらくは、『南京戦史資料集2』に掲載されている12月12日~31日の部分が、その全部ということなのだろう。一方、『南京の氷雨』で引用されているのは、そのうち12月12日~14日の3日分だけである。
 以下、文面を比較するために、この12月12日~14日の3日分を一日ごとに並べる。

日付『南京の氷雨』『南京戦史資料集2』
12月12日鎮江の金山寺西方地区に到達し、蚕糸学校に入る。命令「山田少将は六十五連隊に配属部隊を併せ指揮して、烏竜山砲台および幕府山砲台を占領し、軍主力の南京攻略を容易ならしむべし」下る。午後五時半出発、午後九時倉藤鎮到着。同地宿営。午後五時半、蚕糸学校出発。午後九時、倉頭鎮着、同地宿営。
12月13日晴。午前八時半出発。南京攻略せり――の報あり。午後六時午村到着。同地宿。敗残兵多し。第一大隊(長田山少佐)を烏龍山に向けて先遣、これを占領せり(晴) 午前八時半出発。午後六時、午村到着、同地宿。敗残兵多シ。 南京ニ各師団入城。Ⅰ大隊烏龍山砲台占領。
12月14日午前一時、第五中隊(長角田中尉)を幕府山占領に先遣。本隊は午前五時出発、午前十時東部上元門に進出、同時に幕府山上に万歳起こる。おびただしい敗残兵あるも戦意皆無。昼まで付近一帯を掃討、幕府山要塞を完全占領。午前一時、第五中隊及聯隊機関銃一小隊幕府山ニ先遣。本隊ハ午前五時、露営地出発。午前八時頃、第五中隊ハ幕府山占領。本隊ハ午前十時、上元門附近ニ集結ヲ了ル。午前十一時頃、幕府山上ニ万歳起ル。山下ヨリ本隊之ニ答ヘテ万歳ヲ送ル。

 一見して分かるように、明らかに文章の内容が違う。
 12月12日では、『南京の氷雨』の最初の2文が『南京戦史資料集2』には存在しない。
 12月13日は、『南京の氷雨』「南京攻略せり――の報あり」が『南京戦史資料集2』「南京ニ各師団入城」と対応している。また、『南京の氷雨』「第一大隊(長田山少佐)を烏龍山に向けて先遣、これを占領せり」が『南京戦史資料集2』「Ⅰ大隊烏龍山砲台占領』と対応している。
 12月14日は、先遣隊として幕府山へ向かった部隊のうち「聯隊機関銃一小隊」が『南京の氷雨』では省かれている。後段は、文章が大きく入れ替えされている。特に、『南京の氷雨』で描かれている敗残兵の様子、付近の掃討の状況、幕府山の完全占領に関しては、『南京戦史資料集2』には描かれていない。
 以上の異同は、手書きで字が読み取れなかったというレベルをはるかに超えたものと言える。

どちらが正確か? 

 では、どちらが正確な記述のか。
 2018年5月13日に日本テレビで放送された番組「NNNドキュメント’18 南京事件Ⅱ」で、阿部を取材する場面があるが、ここで両角日記のコピーが映し出されている。

NNNドキュメント 南京事件2 00.42.46
日本テレビ「NNNドキュメント 南京事件2」00.42.46付近
NNNドキュメント 南京事件2 00.43.10
日本テレビ「NNNドキュメント 南京事件2」00.43.10付近

この画像を読む限り、『南京戦史資料集2』の文面と一致していることが確認できる。その意味では『南京戦史資料集2』の内容が正確と言える。

※K-K註:なお、小野賢二「目撃・南京大虐殺――歩兵第六五連隊と中国人捕虜」(『週刊金曜日』1994年2月4日)には、次のような記述がある。
「先の「両角メモ」はそもそも阿部氏が両角氏への取材時に入手したものだ。調査の初期に俺は阿部氏との資料交換の際すでにこれを入手していた。南京戦史編集委員会も阿部氏から提供を受けたと思われる。しかしある友人からの情報によると、この「両角メモ」は「両角氏が別室で原本から書き写したものをいただいた」と阿部氏自身が語ったという類のものでもある。」(p.26)。
「NNNドキュメント’18 南京事件Ⅱ」に協力していた小野氏から、同番組は「両角メモ」(両角日記)のコピーを入手したものと思われる。

異同の理由

 問題となるのは『南京の氷雨』『南京戦史資料集2』の異同の理由である。
 理由としては3つの可能性が考えられる。
一、阿部が資料を引用する際に改変を加えた
ニ、阿部が資料を引用する際に「何か」と取り違えた(例えば、取材メモ等を日記の文面と勘違いしたなど)
三、別内容の両角日記があり引用している。

 『南京の氷雨』の著者である阿部は新聞記者として福島民友新聞社に在籍し、その間、『郷土部隊戦記1』(1964年)『ふくしま戦争と人間』(1982年)の作成に関わっており、幕府山事件については相当の資料・知識・見解の蓄積があると推定される。阿部自身も次のように述べている。

私は、以前から多くの証言を集め、ノートに書きとめていた。かつて福島県の『郷土部隊戦記』(全三巻)や『ふくしま戦争と人間』(全八巻)など一連のものを執筆するための取材(昭和三十六年から三年間、昭和五十年から五年間にわたる)を通じ、関係者多数の話を聞いていたからだ。山田旅団長の日記、両角連隊長の回想ノートも、そうした中の一部である。

『南京の氷雨』p.92

 『南京の氷雨』の記述からも、南京事件の議論の動向も充分把握していたことが伺える。四十年近くこの問題を取材してきた阿部が、資料改変や取り違える様なミスを犯すというのも疑問に思うが、一方で三の「別内容の両角日記」の存在というのは非常に特殊なケースと言えるだろう。

南京戦史編集委員会の問題点

 なお、この問題では、南京戦史編集委員会の対応にも疑問がある。
 『南京戦史資料集2』の「資料解説」では次のように書かれている

残念なことに『両角日記(メモ)』は、研究者・阿部輝郎氏が筆写した南京戦前後の部分しか現存せず、その原本との照合は不能の状況である。

『南京戦史資料集2』p.12

 この文章からすれば、南京戦史編集委員会は「阿部輝郎氏が筆写した」両角日記のコピーを入手したのであろうし、そうであればその入手元は阿部本人ということになる。
 『南京戦史資料集2』の発行は1992年で『南京の氷雨』の3年後のことであり、当然、『南京の氷雨』に掲載されている日記も確認しただろう。確認すれば文面に明らかな異同があることは誰の眼にも明白だ。南京戦史編集委員会は、この様な大きな異同が生じた理由を阿部に調査しなかったのだろうか?史料編纂の態度としては誠実さに欠けるように思われる。

小括

 以上をまとめると、

  1. 『南京戦史資料集2』と『南京戦史資料集2』の両角日記には明らかな異同がある
  2. 資料(コピー)の画像を見る限り『南京戦史資料集2』の内容と一致する。また、資料の筆跡は明瞭であり、『南京の氷雨』『資料集』に見られるような大きな異同が出るほど読み取りが難しい資料ではない。
  3. 『南京戦史資料集2』で両角日記を掲載するにあたって、両者の異同について何ら説明がなされなかった。
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