両角手記の検証[06]両角日記・手記の出自

両角手記の検証 第13師団
両角手記の検証
両角手記の検証 総目次
1.はじめに
2.両角業作の経歴
3.掲載資料の紹介
4.各資料における文面比較:両角日記
5.各資料における文面比較:両角手記
6.両角日記・手記の出自
7.史料批判:郷土部隊戦記 第1
8.史料批判:箭内証言・平林証言
9.史料批判:両角手記
10.まとめ
11.参考資料

阿部輝郎の説明 

 日記・手記の文面の差異について検証したが、その中で、差異がある理由の一つとして、「非常に特殊なケース」「可能性は相当に低い」としながら「三、別内容の両角日記があり、それを引用した」「別の両角手記がある」こと挙げた。なぜ、この様なケースを想定したのかというと、両角日記・手記の出自に疑問があるからだ。
 日記・手記の取得状況について、阿部は次のように述べている。

すでに故人となられた両角連隊長がその生前、記者にひそかに貸し与え、それを書写しておいたものである。

『ふくしま 戦争と人間1』p.127-128

昭和三十六年から三十七年にかけ、取材のため何回か訪問した私に、詳細に当時の事情を説明し、また分厚いノートを貸してくれた。「日記は簡単な記述なので、これを基礎にしながら戦後になって激戦の思い出を書きとめたものですよ。人に見せるつもりで書いたものではないが……」とのことだったが、戦術の反省なども含め、詳細に書きとめてある。日記の重要部分、回想ノートの重要部分を筆写することを快諾された。筆写したものは今も私は持っている。

『南京の氷雨』p.65

 同じく阿部は、「NNNドキュメント’18 南京事件Ⅱ」で次のように証言している。

「両角聯隊長さん大佐の方ですけど/その自宅に2回ほどお邪魔して長いお話…/1日5時間くらい2日間聞いて」00.41.52-00.42.07
「記者:両角さんは現場にいなかったから見ていない?/はい/記者:阿部さんが見た(両角さんの)メモは戦後書いたもの?/戦後になって昭和30年代になって書いたものである」00.42.52-00.43.08
NNNドキュメント 南京事件2 阿部輝郎

NNNドキュメント’18 南京事件Ⅱ(2018年5月13日 日本テレビ)

 また、『南京戦史資料集2』の注記にも同様のことが書かれている。

昭和三十七年一月中旬、求めに応じ阿部輝朗に貸し与えられたものを筆写し、保存しておいた。原文はノートに書かれ、当時の日記をもとに書いたという。

『南京戦史資料集2』p.341

 上記の事情をまとめると、現存する両角資料の取得状況は次のようになる。

  1. 阿部は、福島民友新聞で連載する「郷土部隊戦記」の取材で、昭和36年~37年に両角大佐宅へ2回訪問し、各5時間ほど話を聞いた。
  2. その取材の際に、昭和30年代に戦術の反省なども含め詳細に書きとめた分厚いノートを両角から貸し与えられた。
  3. 阿部は、そのノートのうち日記の重要部分、回想ノートの重要部分を書き写した。

 一方、この説明とは若干、趣きが異なる説明が『南京戦史資料集2』の「資料解説」に書かれている。

残念なことに『両角日記(メモ)』は、研究者・阿部輝郎氏が筆写した南京戦前後の部分しか現存せず、その原本との照合は不能の状況である。
 『手記』は明らかに戦後書かれたもので(原本は阿部氏所蔵)、幕府山事件を意識しており、他の一次資料に裏付けされないと、参考資料としての価値しかない。

『南京戦史資料集2』p.12

 両角日記について「原本との照合は不能の状況」としていることから、日記には原本が現存しないということで、これは先に挙げた説明と符合する。一方、両角手記に関しては「明らかに戦後書かれたもので(原本は阿部氏所蔵)」としている。つまり、手記の「原本」を阿部が所蔵しているというのである。そうであるならば、日記も手記も阿部が書き写したという阿部自身の記述・証言と矛盾する。

洞富雄の記述 

 この辺りの事情について、研究者 洞富雄(元早大教授)は興味深い記述を残している。

両角日記は阿部輝郎氏の持っておられる「自筆」本が唯一の抄本であろう。内聞するに、これは阿部氏が『郷土部隊戦記』執筆のための取材に両角家を訪れた際、両角氏が別室で原本から書き写して阿部氏に与えられたものだという。ところが、阿部氏は近著『南京の氷雨』では、「日記の重要部分、回想ノートの重要部分を筆写することを快諾された。筆写したものは今も私は持っている」(六五ページ)と書いておられる。だとすれば、「内聞」はまちがいかもしれない。が、とにかく両角未亡人宅にもご子息宅にも、日記の原本は残っていない。最近、偕行社の『南京戦史』編集委員会も両角氏の日記抄本のコピーを入手している。専門家に筆跡鑑定をしてもらったところ、原本は自筆本にまちがいないという。このコピーが阿部氏から譲られたものであれば同氏所持本は自筆の抄録本ということになるのではないか。現存する日記が自筆本であっても、その記述内容に疑問を感じるのはこうした経緯が知られるからである。
『南京大虐殺の研究』p.168

 この記述の中で目に付くのは次の部分である。
「最近、偕行社の『南京戦史』編集委員会も両角氏の日記抄本のコピーを入手している。専門家に筆跡鑑定をしてもらったところ、原本は自筆本にまちがいないという。」
 南京戦史編集委員会が入手した両角日記のコピーの筆跡鑑定を行ったというからには、わざわざ阿部の筆跡を確認したとは考えにくい。両角自身の筆跡なのか鑑定を行い、結果、両角の筆跡であることを確認したということになる。つまり、日記が両角筆跡の原本だというのである。
 しかし、当の南京戦史編集委員会は『南京戦史資料集2』における「資料解説」で、日記は「阿部輝郎氏が筆写した南京戦前後の部分しか現存せず」と書いているので、洞の記述と異なる。一方、同じく「資料解説」で、手記は「原本は阿部氏所蔵」としている。
 これらのことから推測するに、南京戦史編集委員会は、入手した両角手記のコピーを筆跡鑑定し、結果、両角の筆跡だと確認した。つまり、「資料解説」の「(手記)原本は阿部氏所蔵」という記述は正確だったということではないだろうか。

 洞の「内聞」した内容も興味深い。
「これは阿部氏が『郷土部隊戦記』執筆のための取材に両角家を訪れた際、両角氏が別室で原本から書き写して阿部氏に与えられたものだという。」
 洞は、この「内聞」の内容を、『南京の氷雨』の記述と照らし合わせて「まちがいかもしれない」としている。しかし、上記の通り「(手記)原本は阿部氏所蔵」が正確だとすると、「両角氏が別室で原本から書き写して阿部氏に与えられたもの」というのは両角手記だったのではないか。両角が抜き書きし阿部へ手渡したものが「原本」となり、南京戦史編集委員会はそのコピーを筆跡鑑定し、両角の筆跡と鑑定されたのではないか。

「手記」原本の存在を示す根拠 

 次のことも指摘しておきたい。『南京戦史資料集2』では、両角手記・日記がp.339-341に掲載されている。その中でp.341の下部に次の筆跡が掲載されている。

 阿部自身の説明では、両角日記・手記ともに両角から原本を借りて阿部が筆写したという。そうすると、この筆跡は阿部の手によるものとなるが、資料提供者である阿部のメモ書き程度の筆跡をわざわざ資料集へ掲載するだろうか?普通に考えれば、この筆跡に史料的価値がある、つまり、両角の手の物であるから掲載したと考えるべきではないか。もし、そうだとすれば、南京戦史編集委員会には手記の原本(両角の筆跡)のコピーがあることを裏付ける根拠と言えるだろう。
 
 さらにこれらの事情を踏まえた上で、もう一つ指摘しておきたい。

 先に、各資料間での両角手記の文面比較を行った際、手記の引用の始まりが、『ふくしま戦争と人間』では12月1日、『南京の氷雨』では12月7日から確認できるが、『南京戦史資料集2』では12月14日の幕府山での捕虜捕獲の場面から始まっていると指摘した。また、『南京戦史資料集2』には「南京大虐殺事件」という見出しが付されているとも指摘した。
 ここで気になるのは、なぜ、『南京戦史資料集2』は12月13日以前の記述を掲載しなかったのかということである。同書に掲載されている資料は、全てとは言わないまでも南京事件とは直接関係のない事件前後の記述を広く掲載している。例えば、山田日記は9月9日~12月31日、荒海日記は11月21日~12月31日、大寺日記は11月21日~12月25日という期間を掲載している。
 『南京戦史資料集2』で両角手記を掲載するにあたり、12月14日以降のみを掲載した理由として、戦後に書かれた手記で史料的価値が低い為、焦点となる捕虜捕獲時点からだけでよいと考えたのかもしれない。一方で、次のような説明も可能だろう。
 先に書いたとおり、両角手記の原本は阿部が所蔵しており、それは、両角が自身で書き写したものだとする。南京戦史編集委員会が入手した手記コピーはこれなのだろう。一方で、別の両角手記が存在する。それは阿部が書き写した両角手記である。つまり、両角が自ら書き写した両角手記と、阿部が書き写した両角手記という2つの両角手記が存在するのではないか。
 こう考えると、『南京戦史資料集2』の両角手記が12月14日より前の記述について何ら触れることもなく掲載したことの説明が付く。編集委員会が入手したコピーは、両角手記の原本である「分厚いノート」から両角自らが書き写した「両角手記」であり、そこには12月14日以前の記述はなかった。『南京戦史資料集2』の引用文に「南京大虐殺事件」という見出しが付されているのも、編集委員会が入手したコピーには見出しが付されていたのだろう。『南京の氷雨』と『南京戦史資料集2』で文面に異同があるも、阿部が書き写した両角手記と、両角自身が書き写した両角手記の文面に違いがあったからではないだろうか。

本項のまとめ 

 だいぶ想像の翼を羽ばたかせた考察となったが、以上の様な経緯があることが、各資料の間で文面に異同があることの理由判断できず、それぞれ別の史料に依拠している可能性を指摘せざるを得ない理由である。

 当然、上記推測がまったく外れているともことも十分にあり得る。つまり、

  • 「資料解説」における「(手記)原本は阿部氏所蔵」という記述は単なる書き間違い
  • 洞が述べている筆跡鑑定の話は誤情報
  • 『南京戦史資料集2』が、手記を12月14日部分からしか掲載しなかったのは資料的価値が低かったからで、それ以前の記述の有無について何にも触れていないのは単なる偶然
  • 『南京戦史資料集2』掲載の手記に付いている「南京虐殺事件」という見出しは、編集委員会が勝手に付けたもの
  • 『南京戦史資料集2』p.341下部に掲載した筆跡は、資料提供者の阿部のメモ書きを載せただけ
  • 『南京の氷雨』と『南京戦史資料集2』の手記・日記で文面に多くの異同があるのは、阿部の引用方法に問題があっただけ

 以上のようなことが重なって起きただけなのかもしれない。
 ただし、仮に上記のどれかが偶然が重なって起こった為の「疑惑」だったとしても、その出自に疑問があることに変わりがない。

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