山田支隊の兵力推計 [02] 研究者の見解

山田支隊の兵力推計 第13師団
山田支隊の兵力推計ic
山田支隊の兵力推計 総目次
1. はじめに
2. 研究者の見解
3. 資料
4. 刊行資料の根拠につい
5. 兵力推計
6. まとめ
7. 参考資料

研究者の見解

 これまでの研究において、山田支隊の兵数についてどの様に捉えられていたか確認する。

秦郁彦氏

支隊は上海の激戦で損耗して兵力は二千人前後しかなかったが、十二月十一日南京への前進を命令されたので、翌日鎮江を出発、十三日烏龍山砲台、十四日朝に幕府山砲台を占領した。

『南京事件』(1986年)p.140

 秦氏は、山田支隊の総兵数を2000名。前後としているが、その算出根拠は示されていない。

阿部輝郎氏

実をいうと、歩兵六十五連隊の兵力は、このとき僅か二千二百人だった。

『南京の氷雨』(1989年)p.58

 阿部氏は歩65の兵力数として2200名としているが、その算出根拠は示されていない。

小野賢二氏

当時の六五連隊は二〇〇〇人以上(7)だが、仮に半分の一〇〇〇人が死体処理に加わったとしても、虐殺三〇〇〇人なら一人当たり三人の死体を片付けるだけで終ってしまう。(p.145)

注(7)歩兵第六五連隊戦友名簿によると歩兵第六五連隊の編成時は三六九五人だが、上海戦で戦死約七〇〇人、戦病傷約一八〇〇人、南京まで補充合計一二七九人とみられている。(p.147)

『南京大虐殺の研究』(1992年)

 小野氏は、幕府山事件東神の歩65の兵数を2000名以上とし、その根拠は「歩兵第六五連隊戦友名簿」とする。戦友名簿に依拠した数字として、編成時3695名、上海戦での戦死者約700名、戦病傷者約1800名、補充1279名とする。これを単純に計算すると2474名となる。

南京戦史

十二月十三日未明、進発した第一大隊は烏竜山砲台に向かい、午後烏竜山山頂に日章旗を掲げたが、烏竜山の日の丸を右に眺めつつ幕府山に直進した聯隊主力二千余は、夕闇迫るころ、思いがけず我に倍する中国兵の大群に遭遇、これを武装解除しつつ十四日午前十時、軽戦ののち幕府山を占領した。

『南京戦史 増補改訂版』(1993年)p.80

 南京戦史では、連隊の主力が二千余名だとする。この数字は「聯隊主力」としているので、山田支隊の総数ではないようだ。ただし、算出根拠は示されていない。

渡辺寛氏

いくら山田支隊の兵員が少なくなっていたとしても、合計で二〇〇〇人以上はいるのだから、この程度の人員の確保は可能だろう。…警備部隊としてなら二〇〇〇人余であれば人員としてもかなり余裕があったはずである。

『南京虐殺と日本軍』(1997年)p.122-123

 渡辺氏は、山田支隊の総数として2000人以上としているが、その根拠は示していない。

板倉由明氏

日記によれば、総数一千数百人の日本兵の一部は集成中隊を作って十七日の入城式に参列し、南京市街を見物してきた者もいる。

「南京事件――「虐殺」の責任論――」板倉由明『軍事史学』(1997年12月号)p.191

総数一千数百名の同聯隊の一部は集成中隊を作って十七日の入城式に参列し、南京市街を見物してきた者もいる。

『本当はこうだった南京事件』(1999年)p.136

 二つの資料から板倉氏の見解を紹介したが、『軍事史学』に掲載された文章には「日記によれば」という文言があるのに対し、『本当は』にはこの文言が省かれている。なぜ省略したかは分からないが、「総数一千数百人の日本兵」というのは日記から読み取れないので、誤解を避けるために「日記によれば」を省いたのではないだろうか。いずれの記述においても「総数一千数百人の日本兵」の算出根拠は書かれていない。

東中野修道氏

会津若松六十五連隊は、福島を出発するとき三千六百九十五名であったが、上海上陸いらい多数の戦死傷者を出していたため、幕府山では一千四百人に減っていた。幕府山までの間に約八百人を補充されていたが、木村守江軍医少尉(戦後衆議院議員を経て福島県知事)の『突進半生記』(昭56)によれば、それでも会津若松六十五連隊は「二千二百人」(二一四頁)に過ぎなかった。

『再現南京戦』(2007年)p.156

 東中野氏は、根拠を示していないが歩65の部隊編制時の兵数を3695名とし、幕府山時点で編制時の兵数は1400名に減ったが、補充人員800名を受けたと述べ、木村守江軍医少尉の回想記を根拠に幕府山時点での歩65の兵数を2200名とする。
 その後の記述を見るところ、この2200名を山田支隊の総兵力と見なしているように見える。

小括

 以上、それぞれの研究者の見解を紹介したが、その多くは算出根拠が示されていなかった。これは山田支隊の総兵数に関して、板倉氏以外の研究者は特段論点としていないからだろう。そうである以上は、論点化した板倉氏は算出根拠を明示すべきではなかったかと思う。

 以上に挙げた研究者の中では、小野氏と東中野氏は根拠を挙げている。小野氏は「戦友名簿」、東中野氏は木村守江手記を算出根拠としたいう。このうち戦友名簿にはついては筆者は閲覧出来ていないが、『若松聯隊回想録』の別冊の戦友名簿と、残桜会の『歩兵第六十五連隊戦友名簿』が福島県立図書館に所収されている。木村手記は後に紹介する。

 山田支隊の総兵数については、板倉氏は(歩65のみで)千数百名とするが、それ以外は概ね2000~2200名とする。ただし、いずれの場合も、山田支隊の総兵数を記述するべきところで歩65の兵数のみを提示することに止め、山田支隊の歩65以外の部隊の兵数について言及がない。一見すると、山田支隊のうち歩65以外の兵数はカウントする必要がない程度の小規模だったようにも思えてしまうのではないだろうか。
 字数の関係もあっての判明している部分のみに言及することで正確性を期す表現方法と思われるが、事情を知らないと誤解を生む記述と思われる。

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