資料
次に山田支隊の兵数を示す資料、もしくは山田支隊の兵数を推計するのに参考となる資料を紹介する。
歩兵第65連隊
『郷土部隊戦記 第1』(1964年)
(K-K註:12月2日に江陰要塞の戦闘が終り6日まで同所の警備に当った時の記述として)
『郷土部隊戦記 第1』(福島民友新聞社、1964年)p.98
警備の期間中、部隊はつぎの作戦行動のために兵員、弾薬などの補給を行なった。兵員の補充は三百七十四人、すでに馬家宅で四百二十三人を補充したが、あわせてようやく全部隊二千二百人である。上海上陸いらい満二カ月。この間に老陸宅、馬家宅で六百十六(新聞連載では「五百四十二」)人、そのご江陰城攻略までに八十人の将兵が戦死、負傷者は実に千五百余にも達した。歓呼のアラシに送られ、会津若松の兵営を出たときは三千七百人、それが千四百余人に減ってしまった。
本書は福島民友新聞が連載した「郷土部隊戦記」を書籍化したものである。
ここに記されている数字は江陰城を攻略した1937年12月2日時点の歩65のもので、それによれば同時点の兵数は2200名、戦死は老陸宅・馬家宅(10月7日~11月11日)で616名、その後の江陰城攻略(11月15日~12月2日)で80名、全戦傷者(10月7日~12月2日)は1500名強という。また補充員については、馬家宅423名、江陰城で374名とする。最後の一文からすると、編制時(9月18日)の総兵数は3700名だったことも分かる。
ちなみに「老陸宅」「馬家宅」とは上海戦における歩65の攻撃地域で時期的には10月7日~11月1日まで期間を言う。歩65を含む第13師団はその後、11月2日~11月11日にかけて上海西方の羅店鎮で警備を行った。11月12日以降、南京への追撃戦が始まり、南京東方に位置する江陰城要塞に向けて進攻する。11月15日から江陰城戦が始まり、12月2日に江陰城を占拠した(江陰城戦の開始時期は記録によって若干時期が前後する)。
本書では非常に詳細な数字が挙げられ、何らかの資料に依拠して記述されたものと推定されるが、何を根拠としたか明記はされていない。ただし、この連載の執筆に携わった阿部輝郎氏は、自著で以下の様に述べている。
歩兵六十五連隊全戦没者名簿を私は持っているが、南京作戦の戦死者六人の名がある。
『南京の氷雨』p.102
この記述からすると、死者数は「戦没者名簿」から抽出したものと推定できる。
『若松聯隊回想録』(1967年)
pp.163-164
〃(昭12) 9・18 福島県若松市歩兵第二十九聯隊留守隊に於て編成完結。
聯隊長 陸軍歩兵大佐 両角業作
将校 百九名
下士官兵 三千五百四十六名pp.164-165
昭12・11・11 聯隊は上海上陸後直に戦線に参加、上海北西部の要衝老陸宅、馬家宅(要図七〇頁参照)の攻撃を命ぜられたるも、堅固なる要塞、クリーク、我々に数倍する敵のため言語に絶する悪戦苦闘を強えられ、戦死、傷病者は千七百十九名に上がった。
戦死者(中略)以下将校三〇 下士官一七〇 兵四二〇 計六二〇名
昭12・10・10 第一次補充員到着(上海)下士官兵五五名
〃 10・24 第二次補充員到着(〃)将校二四、下士官兵三九九、計四二三名
〃 11・15 江陰城攻略戦(江蘇省)
12・6 軍は南京攻略を企図した。聯隊は敗走する敵を追撃、揚子江沿いに所在の敵を撃破、南京防衛の第一線謝家橋鎮及揚子江封鎖線の江陰城を攻略することになった。江陰城一番乗りは平少佐の率ゆる第三大隊であった。
戦死者(中略)以下将校四、下士官兵七六、計八〇名p.167
『若松聯隊回想録』(1967年)
昭12・12・5 第三次補充員到着(江陰)将校一七、下士官兵三五七、計三七四名
〃 12・5 南京攻略戦(江蘇省)
12・14 戦死者 下士官、兵、七名
昭和12・12・15(~)昭和13・1・12 南京附近の警備
昭和12・12・17 第四補充員到着
将校一三、下士官兵四一四、計四二七名
本書は福島県北会津郡若松市(現・福島県会津若松市)を連隊区とする部隊の回想録である。同連隊区では主に歩兵第29連隊、歩兵第65連隊、歩兵第129連隊、歩兵第155連隊、歩兵第214連隊などの部隊が所在していた。本書には、これらの部隊の歴史や部隊関係者の回想録で構成されている。
歩65に関しては、日中戦争における連隊史や編成表、感状等の記載がある。連隊史は叙述が箇条書きとなっており、上記引用したように兵数に関する記述も多く見られる。
第二次上海事変から幕府山事件までの間の兵数の増減に関する数字を挙げてみる。編制時の兵数は将校109+下士官兵3546名=合計3655名、戦死者は上海戦620名、江陰城戦80名、南京戦7名、合計707名、負傷者は上海戦1012名(「戦死、傷病者」合計1719名-戦死者合計707名)、補充は第1次(10月10日)55名、第2次(10月24日)423名、第3次(12月5日)374名となる。
これらの数字は詳細なものが多く、何らかの資料に基いて記述されたと思われるが、根拠資料の表記はなく、巻末にも参考資料・参考文献の記述がない。数字の出所については不明と言わざるを得ない。
『第四中隊史』(1977年)
p.34
■歩兵第六十五聯隊再編成 若松入隊 昭和十二年九月十五日
これに対し、日本軍も荻洲立兵中将を長とする精鋭第十三師団の派遣に及ぶのである。平和でのどかな東北地方のすみずみまで、戦時気分と緊張感を呼び起こす、第十三師団再編成のため大動員令が下ったのである。男子の名誉これにすぐるものなし、とする召集令状が配られたのである。福島、宮城、新潟の三県から召集された東北健児は、其の数実に二万三千にのぼった。真夏の猛暑もようやく去り、涼風かよう九月十五日、会津若松に入隊したが郷土部隊歩兵第六十五聯隊は、両角業作大佐を長とし、三、六九五名により編成されたのであった。p.40
十月二十五日 二次補充入る
第二補充員入隊沼崎、阿蘇両少尉伊藤准尉(後の中隊長)外兵七名(聯隊に三九九名)pp.41-43
■前線を交代 十月三十日夕
(中略)
師団の戦死 一、九〇〇名 戦傷 三、九〇〇名
連隊の戦死 六一二名 戦病死 一七一名 戦傷 九三二名
中隊の戦死 五六名 戦傷八〇名 師団全面の敵の遺棄死体 四、一三〇体
連隊全面老陸宅・馬家宅に 八七〇名p.45
十二月五日
第三次補充員鈴木高七中尉以下十八名到着、更に活気付く。(聯隊に三五七名)p.46
『第四中隊史』(1977年)
十二月十八日
第四次補充員中隊に二十六名入隊(聯隊に四一四名)
本書は、歩65第4中隊の叙述で、第二次上海事変から終戦まで行動概要が描かれている。その中には中隊の戦闘ごとの戦死者氏名や補充員の状況が書かれており、稀に連隊や師団の状況も書かれている。
10月30日時点として、連隊の戦死者数を612名、戦病者数を171名、負傷者数932名としている。
p.133~の「兵員補充状況」表では補充員の状況が詳細に記載されている。引用している表には第1次(昭和12年10月10日)~第16次(昭和14年6月8日)しか書かれていないが、同表はこの後も続き、最終的に第53次(昭和20年7月28日)まで続いている。
歩65の幕府山事件までの補充状況を抜き出すと下記の通りとなる。
日付 | 総数 | 将校 | 下士兵 | |
第1次補充 | 10/10 | 55 | 0 | 55 |
第2次補充 | 10/24 | 423 | 24 | 399 |
第3次補充 | 12/5 | 374 | 17 | 357 |
第4次補充 | 12/17 | 427 | 13 | 414 |
詳細な数字が挙げられており何らかの資料に基いた記述と思われるが、それぞれの数字が何に基いたものかは記されていない。ただし、巻末に下記の参考文献が挙げられている。
引用文献
『第四中隊史』p.213
郷土部隊戦記(福島民友新聞社)
参考文献
冬季攻勢(竹田正夫)
太平洋戦争(世界文化社)
若松聯隊回想録
山砲兵第十九聯隊史
中隊行動概史(西沢正守)
第十三師団湘桂作戦戦記(野々山秀美)
悲劇の中国大陸(サンケイ新聞)
一億人の昭和史(毎日新聞)
遥かなる山河(杉山雄三)
帝国陸軍の最後(伊藤正徳)
ふくしま一世紀(福島民友社)
「兵員補充状況」表の連隊の補充員数については、参考文献として挙げている『若松聯隊回想録』の「歩兵第六十五聯隊史(支那事変以降)」(pp.163-191)に記載されている補充員の記述を抽出することが可能である。しかし、同表の第四中隊の補充状況については、何を根拠とした分からない。
木村守江『突進半生記』(1981年)
p.214
木村守江『突進半生記』(1981年)
警備の期間中、部隊はつぎの作戦行動のため、兵員弾薬などの補給を行なった。兵員の補充三百七十四人。すでに馬家宅で四百二十三人補充したが、これで全部隊やっと二千二百人である。
上海上陸以来、満二カ月。この間に老陸宅、馬家宅で六百十六人、その後、江陰城攻略まで八十人の死者と千五百人の負傷者を出している。
歓呼のアラシに送られ、会津若松を出たとき三千七百人、それが千四百人余に減ってしまった。
木村守江氏は、大学を卒業し福島県石城郡四ツ倉町(現・いわき市四倉町)で医院を開業していたところ、1937年9月10日(当時37歳)に歩65に召集され、軍医見習として中支戦線へ赴くことになった。戦後は衆議院議員・参議院議員、福島県知事を歴任したが、公選法違反で県知事を辞職、後に贈収賄事件で有罪判決を受けている。県知事時代には原子力発電所の誘致・立地を尽力したことで知られる。
本書は木村氏の敗戦までの自伝であるが、引用した文中の冒頭の「警備の期間中」とは江陰城陥落後の警備期間を意味し、その後の記述は『郷土部隊戦記 第1』とほぼ同様の内容となっている。本書の出版時期から考えて、この部分は『郷土部隊戦記 第1』に依拠して書かれたものと思われる。
東中野氏は、歩65の幕府山事件時点での兵数の根拠として本書を挙げている。
両角業作手記(1982年~)
両角業作手記(歩兵第65連隊 連隊長 大佐)
『ふくしま 戦争と人間 1』(1982年)pp.121-122
当時、若松連隊は進撃に次ぐ進撃で兵力消耗が激しく、幕府山のこの場所にいたのは千数十人でしかなかった。『南京の氷雨』(1989年)pp.69-72
当時、我が連隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。『南京戦史資料集Ⅱ』(1993年)pp.339-341
当時、我が聯隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。
両角業作氏は、歩65の連隊長で当時の階級は陸軍大佐だった。連隊長である以上、自身が指揮する連隊の兵数は把握していただろうが、この手記は戦後に書かれたものであり、増減の激しかった南京戦当時の兵数を正確に記憶していたとは思えない。また、ここで言及しているのは歩65の兵数であって、山田支隊全体の兵数ではない。
なお、両角手記は引用される書籍によって文言が異同がある為、引用された全てのバージョンを引用した。
板倉由明氏の見解「総数一千数百人」の根拠ではないかと思われるが、両角手記では「千数十人」としているので若干の数値に開きがある。
『ふくしま戦争と人間1』(1982年)
『ふくしま戦争と人間1』(福島民友新聞社、1982年)p.107-108
若松連隊は上海の老陸宅・馬家宅戦で六百十六人の戦死者を出し、このあと謝家橋鎮―長径鎮―江陰城と続く進攻作戦で八十人の戦死者を出した。これら戦死合計六百九十六人。若松兵営を出るときの編成兵力が三千六百余人だったので、戦死率は二割にも達している。このほか戦傷千五百余人、戦病三百余人がでており、いずれも隊列から離れていった。戦死と傷病を合わせて二千五百人。若松の兵営を一緒に出た三千六百余人の戦友のうち、いまなお無事でいるのは千百余人にすぎない。…上海の馬家宅で四百二十余人、江陰城で三百七十余人の兵隊が補充要員として到着したが、これを合わせても連隊の総兵力は二千人未満だった。
本書は、福島民友新聞に1978年2月~1982年6月まで連載された「ふくしま・戦争と人間」をまとめたものである。記述の内容は、同じ福島民友新聞に連載され書籍化された『郷土部隊戦記 第1』(1964名)と似たものとなっているが、異なる部分もある。
数字を挙げると、江陰城攻略後の時点(12月2日)で、歩65の総兵数は2000名未満、戦死者は老陸宅・馬家宅(10月7日~11月11日)に616名、その後の謝家橋~江陰城攻略(11月12日~12月2日)に80名、負傷者は1500名余、戦病者300名余とする。補充員は、馬家宅420名余、江陰城で370名余があったとする。
『郷土部隊戦記 第1』と大きく異なるのは戦病者数300名余を計上しているところだ。おそらく戦病者数を計上したことで、江陰城攻略後の総兵数を『郷土部隊戦記 第1』では2200名としていたのを、『ふくしま戦争と人間』では2000名未満と引き下げたものと思われる。
根拠資料に関しては、本書も『郷土部隊戦記 第1』同様に提示がない。
平林貞治証言(1987年)
平林貞治証言(歩兵第65連隊 連隊砲中隊 小隊長 少尉)
①わが方の兵力は、上海の激戦で死傷者続出し、出発時の約三分の一の一、五〇〇足らずとなり、そのうえに、へとへとに疲れ切っていた。
田中正明『南京事件の総括』(1987年)p.187-189
平林貞治氏は、歩兵65の連隊砲中隊で小隊長をしており、当時の階級は少尉だった。当時の平林氏の立場からすると、連隊全体の総兵数を知りえるとは考えづらい上に、これが戦後の証言であることも考え合せると、ここで述べている兵数は当時の記憶に基いたものではなく、戦後に見聞きして得た知識ではないだろうか。そういう意味では信憑性には疑問を感じる。
なお平林氏は、ここで引用した『南京事件の総括』以外にもいくつか証言を残しているが、兵数に言及したのは『南京事件の総括』だけのようだ。
歩兵第65連隊 編成表(1937年11月4日調製)
本資料は、歩兵65の戦闘詳報で、「自昭和十二年十月十六日 至昭和十二年十月三十日 劉家行西方地区ニ於ケル戦闘詳報(老陸宅、馬家宅、三家村、孟家宅)」に掲載されている編成表で、作成日は11月4日付となっている。
11月4日時点という制約はあるものの、この時点での兵数の実数が分かること、備考欄には「ニ、本表ニハ伝染病患者(三五)平病患者(一三六)軽傷(一三二)ヲ含マズ」と書かれていることから、傷病者数を把握することが出来る。
歩兵第65連隊死傷表
本資料は、上掲の編成表と同じ歩65の戦闘詳報に掲載されているものであり、期間は昭和12年10月12日~11月4日となっている。戦闘参加数、死傷者・不明者数が分かるとともに、表外のものとして傷病者数が分かる。また表中に括弧で囲われた数字の意図は分からないが、戦闘参加人員を合計すると3760名となり、外の資料と近似値となることから、括弧内の数字も加算する。
山砲兵第19連隊第3大隊
『山砲兵第十九聯隊史』(1975年)
p.40
九月ニ四日には動員を完結、高田練兵場において軍装検査を実施す。聯隊長横尾闊中佐以下三、四八八名軍馬二、〇五六頭。p.63
一〇月四日第三中隊貞保才吉伍長(三条市出身)が戦病死している。これが聯隊の最初の犠牲者であった。pp.67-68
聯隊として将校の最初の戦死は4BA上羽正夫少尉で戦傷後聯隊本部をへて野戦病院に後送され一五日に戦没されている。
これに伴ない第一大隊副官大久保清少尉(後に戦傷右腕切断)第四中隊小隊長に、佐藤敬三郎少尉聯隊本部より第一大隊副官となる。この佐藤少尉は二六旅団司令部に行き旅団長沼田少将の水筒の蓋でウイスキーを飲みかわし後まもなくコレラにて死亡している。その頃第一大隊通信掛吉沢保少尉も聯隊本部と電話連絡中突然通話不能となったがこのとき既にコレラに罹り後死没している。(小野源次郎氏回想)
このように上海戦線ではコレラ、赤痢等の悪疫流行して戦力に多大の影響を及ぼしている。
本戦斗における戦没者
一〇月一九日 Ⅰ 上 篠塚正吉
一〇月一八日 1 上 小林滝雄
一〇月二六日 3 上 片野長右エ門
一〇月一六日 Ⅱ 上 古山政二
〃 上 佐藤操
一〇月二八日 4 上 大湊藤作
一〇月一五日 5 衛上 佐藤清
一〇月二二日 Ⅲ 伍 小林甚作
〃 〃 〃 酒井雄次
〃 〃 上 高野子之吉
〃 〃 〃 佐藤春松
一〇月二四日 7 伍 田畑長作
一〇月一五日 4 少 上羽正夫
将校の戦傷
善方少尉 大久保清少尉 宮本義太郎大尉p.74
(K-K註:謝家橋鎮附近の戦闘)
本戦斗における戦没者
一一月一九日 1BA 中尉 佐藤清次郎
一二月一日 〃 戦傷死 少尉 五十嵐政記
一一月二四日 5 中尉 池田博
一一月一三日 Ⅲ 上 折笠千代吉
一一月一六日 7 〃 浅見芳一
一一月一八日 〃 〃 木滑啓治
〃 〃 伍 滝沢盛治
<第一次補充員の到着>
一〇月二一日将校以下二三〇名の第一回補充員呉淞に上陸、聯隊本部阿部少尉の出迎えをうけ、老宅の聯隊本部に到着す。将校は鈴木常徳、池田博(5)伊藤忠(Ⅰ)吉田秀夫(Ⅲ)の四名であった。p.80
江陰要塞攻撃直前に5BA芳本少尉外補充となり着任した。pp.83-85
一二月二六日〔ジョ(サンズイ+除)〕県で師団は第一回慰霊祭が行われた。灰色の空が低くたれこめ、小雪ちらつき、寒風強く頬を打つ中に身のひきしまる日であった。
動員編成以来の19BAの戦没者は
戦死 二八
戦傷死 一四
戦病死 四〇
計 八二
であり、更に多くの傷病に倒れ病院に療養中のものがあった。
本書は山砲兵第19連隊の編制(第二次上海事変による動員)から敗戦までの叙述となっている。同連隊に関しては本書以外にも、『思い出集 : 山砲兵第十九聯隊第六中隊』(同編集委員会編刊、1990年)、『山砲兵第十九聯隊第八中隊戦史 : 大陸六、〇〇〇キロの足あと』(山寺久夫編、盛岡:第八中隊戦史出版委員会、1985年)という刊行物が出ているが、残念ながら両書とも筆者は閲覧できていない。
山砲19は、1937年9月9日の第2師団第9動員令に基づき、独立山砲兵第1連隊補充隊により編制された。編制地は新潟県高田市である。
本書で興味深いのは、上記引用したように叙述中に戦没者氏名が書かれており、おおよその戦死者数が確認できること、昭和12年度動員計画の編制表が掲載されており、連隊、大隊、中隊、段列のそれぞれの定格の編制数が分かることである。
幕府山事件の際は、山砲19のうち第3大隊が山田支隊に編成されていたことから、山砲19Ⅲの総兵数は1個大隊分960名(大隊本部225名、中隊194名×3個中隊、大隊段列153名×1個段列)だったことになる。
10月21日に第一次補充員230名が増員されたほか、江陰城戦の前にも補充があったとされている。
〔ジョ〕県の慰霊祭時点での戦死者総数が82名という。
騎兵第17大隊
『日本騎兵史 下巻』(1970年)
『日本騎兵史 下巻(明治百年史叢書)』(1970年、 原本は1960年萠黄会より刊行か)
p.207
特設師団の騎兵大隊には軍旗を授与されなかったが、その編制は在来の騎兵聯隊と同様乗馬二中隊と機関銃一小隊であった。師団捜索隊は騎兵聯隊又はその留守隊で編成され乗馬一中隊と軽装甲車一中隊であった。又右の内騎兵第一七大隊及び同第二二大隊は大正一四年軍備整理によって廃止された騎兵第一七聯隊及び第二二聯隊が動員されて復活したものであった。p.649
編制は他の師団騎兵聯隊と同様であったが大正一四年の軍備整理によって廃止された。しかし昭和一二年七月支那事変が起こるや八月第一三師団に動員を令され騎兵第一七大隊を編成された。その編制は二中隊と機関銃一小隊で軍旗は授与されなかった。
本資料は、陸軍騎兵部隊の創設以前から書き起こした騎兵部隊の叙述であり、上下巻各700ページにおよぶ大著である。しかし、この様な大著であっても、騎兵第17大隊に関する記述は少なく、その全容を知ることは出来ない。
とは言え、騎兵第17大隊の創設から再編制の経緯、さらには部隊編成の一端が書かれており、ほとんど資料の見当たらない同部隊の状況を垣間見ることが出来る。特に、その編成が「乗馬二中隊と機関銃一小隊」というのは、部隊規模を知る手がかりとなる。
騎兵連隊編制表(昭和12年度動員計画令附表第17)
本資料は、昭和12年度陸軍動員計画の附表で騎兵連隊の編制表である。これはあくまでも計画であり、実際に動員された時の数値とは異なるだろうが、おおよそ編制時の兵数を知ることが出来る。なお、この編制表は騎兵連隊のものであり、編成内容は連隊本部、4個騎兵中隊、1個機関銃中隊(2個機関銃小隊)となっている(同表より算出)。1個中隊は181名、1個機関銃中隊は92名(1個機関銃小隊は46名)となる。
その他
第13師団死傷表
本資料は、第13師団の第二次上海事変における戦闘詳報の附表である。アジ歴に掲載されている第13師団の戦闘詳報は、日中戦争関係では今回引用した第1号「上海附近ノ会戦 第一篇 劉家行西方地区ニ於ける戦闘」(昭和12年10月4日~11月1日)と第2号「上海附近ノ会戦 第二編 羅店鎮南北ニ於ケル防禦戦闘」(昭和12年11月2日~11月11日)の2冊しかないようだ(簿冊としては両号の別紙附図を集成したものもある)。
引用した死傷表は、第1号(昭和12年10月4日~11月1日)と第2号(昭和12年11月2日~11月11日)のもので、それぞれの期間の戦闘参加人員や死傷数が書かれている。
興味深い点の一つとして、限られた期間ではあるが歩65の戦闘参加数、死傷者数が分かるので、刊行資料に書かれた内容の裏付けることも出来る。
また、これまであまり考慮されなかった山砲19、騎17の戦闘参加数・死傷者数が書かれていることも興味深い。
先に紹介した歩65のケースでは、『郷土部隊戦記 第1』で紹介された上海戦の戦死者は616名に対し、その後の追撃戦・江陰城戦では80名となっており、戦死者の割合は1/7~1/8程度しかない。これまで明らかにされてこなかった山砲19と騎17の上海戦までの兵数と損害が明らかになることで、その後の損害も推計も容易となってくる。
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