国際法からみた便衣兵の処罰[06]戦争犯罪の処罰に裁判を実施した事例

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国際法からみた便衣兵の処罰ic
国際法からみた便衣兵の処罰 総目次
1.はじめに
2.研究者の議論
3.便衣兵とは何か
4.便衣兵の法的性質
5.戦争犯罪人の処罰方法
6.戦争犯罪の処罰に裁判を実施した事例
7.無裁判処罰を違法とした判例
8.まとめ
9.参考文献

 ここまでで明らかなったように、戦時国際法上、戦争犯罪を処罰するには裁判が必要とされてきた。当然、戦争犯罪の一つである便衣兵の処罰にも裁判が必要であることが推測され、先に挙げた国際法学者の中には、その点を明記する者もいた。
 そのことを踏まえた上で、次に、実際に軍律法廷で便衣兵を処罰したという事例を紹介したい。

李新民、陳金金軍律違反事件

(昭和13年1月20日)
午後二時頃より李新民、陳金金の各軍律違反事件に付き審判、五時近く迄かかる 李新民は我が警備隊が蘇州河を下航中 他の李桂山、王考四と共に手榴弾を投下したるものにして同人は所謂遊撃隊に加入し之を脱せんとするも 李桂山等より脱せんとすれば殺すと脅迫され、又食ふに困る為彼等と共にしたりと述べ 自分が死の要求を為したるときは何れにしても進退きはまり食ふに困るゆえ無したるものなれば諦めると言ひながら涙を流して悲哀した

小川関治郎『ある軍法務官の日記』p160

周継棠外六名軍律違犯事件

(昭和13年1月26日)
周継棠外六名軍律違犯事件の論告要旨を作成す 結論として「被告等は多数相結束して党を為し以て帝国軍に対し危害を加へんとする不逞団に属するものにして彼等の行為は帝国軍の安寧を害すること甚しきのみならず帝国の期待する東洋の平和を妨ぐるものなれば絶対に斯かる極悪分子は之を撲滅するの要ああること論を俟たざる所なり 故に厳重の制裁を以て之に臨み彼等全部は最も重き罰に処するを相当とす」
○周継棠外六名の軍律違犯事件に付き捜査報告を為し意見の通り司令官の審判請求の命令を受く 近く審判開始すべく着々その準備を為す

(昭和13年1月28日)
○午前九時より周継棠外六名軍律違犯事件を審判す この内にて周継棠は首領株にして第二区隊長たる地位にあり又元来流氓即ち無頼漢侠客にして以前子分五百名を有せしものなりといふ 見た所も他の者に比し相当しっかりした者と思はれたり 一時頃審理を終り直に執行の準備を為し五時半執行を終らす 自分は検察官として審判にも立会ひ続いて執行の指揮を為し憲兵をして執行せしめたり

小川関治郎『ある軍法務官の日記』p167-168・p170-171(抜粋)

陸丹書軍律違犯事件

(昭和13年2月3日)
○陸丹書軍律違犯事件捜査報告あり
○午後同上事件被告を尋問す 本件は淞滬義勇軍遊撃隊の第二大隊にして配下の者二人に煙草の空缶に爆薬を詰めたる手榴弾を一個交付し日本軍に投擲せしめんとしたるものなり 被告は貸人力車業にして使用人百人余あり 外に兵器の密輸入も為したる如く資産も二十万円も有すと 遊撃隊の隊長としては四十人余の部下あり 連名簿ともいふべき義記と記せし部下の名を揚げたるものを所持し居たり 総隊長ともいふべきものは趙錫光といふ者なりと

(昭和13年2月 6日)
○次で陸丹書軍律違犯事件に付き審判に立会ふ 死の宣告ありたるにより午後上海北站停車場北方空地に於て執行す 三名の射手により小銃にて射撃したるも完全ならず 尚他の憲兵軍曹に於て拳銃にて二三発対撃して漸く執行し終るを見る

小川関治郎『ある軍法務官の日記』p179、181-182

 以上の3つの事例は、小川関治郎氏の日記(『ある軍法務官の日記』みすず書房)より引用した。小川氏は1885年生まれで、南京事件の起きた1937年は52歳、第十軍法務部長として杭州湾に上陸し、同年12月、南京に入城している。
 引用した記述は、南京入城後に第十軍法務部長から中支那方面軍付法務官と配置転換となり、上海で勤務している時の記述である。
 ここで取り上げたいずれの事例も便衣兵を取扱ったケースであり、正規の軍律法廷を経て処罰を行っていることが分かる。(ただし、1番目の陳金金の場合は処罰を執行する前に逃亡されている)。
 日本軍も、国際法学者が述べるように、戦争犯罪人又は便衣兵に対する無裁判処罰の禁止を遵守していることが分かる。

「即決処刑」の実態

 先に取り上げた軍律法廷のうち3番目に示した陸丹書のケースでは、次のような記述が為されている。

小川関治郎『ある軍法務官の日記』
(昭和13年2月9日)
△遊撃隊長逮捕銃殺さる(上海毎日新聞)殊勲!憲兵隊の活躍 河向ふの暗黒面を頼り小癪にも我に刃向ふ内部紛糾も表面化(四分五烈)。淞滬義勇軍遊撃隊の名を以て敗戦支那の誇大宣伝に踊らされ小癪にも皇軍に刃向はんと共同仏両租界の暗黒面を頼みに手榴弾投擲を唯一の手段として跳梁 最近漸く内部紛糾を醸して赤裸々に裏面を暴露しつつあるこの遊撃隊に対し我が憲兵隊本部ではこの機に徹底検挙を行ふべく同部全署員を動員 去る一月三十一日払暁共同租界某所を襲つて該義勇軍遊撃隊第二隊長某を逮捕、直ちに租界憲兵隊本部に留置取調べ中であったが去る六日午後二時憲兵隊死刑執行場にて銃殺に処した。この第二大隊長某は去る九月頃より一党を組織して目下共同租界内に本拠を置き近く皇軍に対し手榴弾投擲の挙に出でんとしてゐたるものであるが敗戦支那の宣伝に依るこの義勇軍組織にも漸く内訌の兆しが来しこの統制に必死となつていた処を我が憲兵隊本部の探知するところとなり同部員の手を動かして逮捕となるに至つたものである。

上記の隊長と言ふは六日自分が検察官として立会ひたる軍律会議に於て死を宣告し死を執行せし陸丹書なり

 小川は『上海毎日新聞』の陸丹書事件を報じる記事を引用している。この記事で注目するのは、記事中に軍律会議についてまったく触れられていないことだ。記事では憲兵本部で取り調べた後、すぐに銃殺したように見える。事情が分からない一般読者が見れば、即決処刑を行ったと理解する内容だ。
 軍律会議は審判過程は公開されるものではなく、まして審判記録も公表されるものではないので、軍律会議に関わった者でない限り、『上海毎日新聞』の記事のように 逮捕→銃殺 とまるで即決処刑に処せられたと見えるだろう。
 軍律会議の事例を調べる難しさはこの様なところにあり、また、世に言う「即決処刑」なるものも、実際には軍律会議の後の処刑である事例も多くあるものと推測できる。

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