国際法からみた便衣兵の処罰 総目次 |
1.はじめに 2.研究者の議論 3.便衣兵とは何か 4.便衣兵の法的性質 5.戦争犯罪人の処罰方法 6.戦争犯罪の処罰に裁判を実施した事例 7.無裁判処罰を違法とした判例 8.まとめ 9.参考文献 |
以上のように、「便衣兵」は戦争犯罪人・戦時重罪人であることが確認できたが、このような戦争犯罪人に対して、国際法ではどのように処置することを認めていたか検証してたい。
立作太郎の見解
立作太郎
立作太郎『戦時国際法論』p53
凡そ戦時犯罪人は、軍事裁判所又は其他の交戦国の任意に定むる裁判所に於いて審問すべきものである。然れども一旦権内に入れる後、全然審問を行はずして処罰を為すことは、現時の国際慣習法規上禁ぜらるる所と認めねばならぬ。
この記述における「権内」とは、捕獲者の権力の及ぶ範囲内に陥ったことを意味し、捕獲され身体の自由を奪われた状態をさしている。
立作太郎氏の見解によれば、このように敵の権力に陥った「戦時犯罪人」に対して軍事裁判所で審問すべきものであり、審問せずに処罰をすることは慣習法で禁止されているという。裁判を行わないことを禁止しているのだから、裁判を義務付けている見なすことが出来る。
信夫淳平の見解
戦時重罪とその処罰
信夫は戦時重罪を次のように定義する。
戦時重罪犯とは、敵国の交戦者若くは非交戦者に依りて行はれ我軍に有害なる結果を与ふる所の重罪性の犯行で、例へば交戦者にありては、陸戦法規慣例規則の第二十三條に於て特に禁止してある害敵諸手段、第二十五條の無防守の土地建物に対する砲撃、その他陸海の交戦諸法規の禁ずる諸事項の無視等、要するに戦時法規違反の行為は勿論、或は間諜行為の如き、将た間諜ならざるも変装して我軍の作戦地、占領地、その他戦争関係地帯内に入り我軍に不利の行為に出づるが如きを言ひ、又非交戦者の行為としては、その資格なきに尚ほ且敵対行為を敢てするが如き、孰れも戦時重罪犯の下に概して死刑、若くは死刑に近き重刑に処せらるゝのが戦時公法の認むる一般の慣例である。
信夫淳平『上海戦と国際法』 p.125
戦時重罪とは、交戦者による交戦法規違反、間諜、不利の行為、非交戦者の敵対行為などをいう。この戦時重罪と重なるのが、軍律に規定する罪科だ。
軍律に規定する罪科
一四〇二 占領軍司令官が軍律に於て規定する罪科には種々あるも、その最も多く且制裁の重きは戦律罪(War crime で、或は戦時重罪犯とも言はれる)及び敵軍幇助罪(War treason で、叛逆罪の称もある)である。この二者は世の国際法教科書往々説いて明唽を欠く嫌もあるが、その性質は必しも不判明のもではない。戦律罪及び敵軍幇助罪
信夫淳平『戦時国際法講義 第2巻』869-870
一四〇三 戦律罪とは、簡単に云へば交戦の法規慣例の違反である。而して敵軍幇助罪とは、必しも交戦の法規慣例に違反はせざるも、交戦国に於て自国の作戦上に有害と認定する所の特定行為である(例へば間諜又は叛乱鼓吹の如き)。
軍律に規定する罪科として、戦律罪と敵軍幇助罪という。なお、この2者の類型名は信夫のオリジナルの名称で、一般的には前者を交戦法規違反、後者を戦時反逆罪と呼ばれることが多い。
軍律で処断する機関を、次のように説明する。
軍事法廷の性質
信夫淳平『戦時国際法講義 第2巻』p.908-909
一四一八 軍律に依りて犯罪を処断する機関は、稀には陸海軍法会議を以て之に充つることあるも、多くは軍司令官に於て任意に構成する所の特設の軍事法廷である。その名称は或は日清戦役に於けるが如く軍事法院といひ、日露戦役に於けるが如く軍事法廷といひ、支那事変に於けるが如く軍罰処分会議といふも可なりで、要は
『軍事法廷は大体軍法会議と同じやうに、軍事刑法に通ずる将校を以て構成する。その審理の指針として軍事刑法典を参考するは妨げなきも、そは必しも義務的ではない。審問には特定の手続法とては無く、随つて手続法に違ふたるの故を以て被告を免訴するといふ普通の裁判とは異なる。又審問に記録を取るも取らざるも可なりで、宣告の効力には関係が無い。勿論軍事法廷の係員は正義、名誉、人道の主義及び交戦の法規慣例に遵由して行動すべく、且俘虜には自身の弁明を為すに就て相当の便宜を与へ、不必要の厳酷に出づることなきを要する。且審問調書も、宣告を与ふるに先だち上級官憲の査閲に供するを望ましとする。……軍事法廷は民事事件の管轄権を有せず、その審案するものは(一)交戦の法規及び軍並に国家の安全に対する犯罪、(二)普通の司法機関の停止に由り当時の手続に依る能はざる所の尋常の犯罪である。占領軍官憲は時には始審の普通裁判所にその職務続行を要望することもある。この場合には軍事法廷は右の(一)のみを取扱ひ、尋常の犯罪及び非行は普通の裁判所の審理を受くるの利益を奪はれざることになる。』(Fairman, Ibid., pp. 199-200)
といふが如き性質のものと解さば足りる。
信夫は、軍律で処断する機関を軍事法廷、軍事法院、軍罰処分会議という名称を挙げているが、現在では軍律法廷(裁判)と呼ばれることが多い。
軍律法廷の性質としてフェアマンの記事を引用しているが、そこに書かれている法的手続きの内容は若干緩きに過ぎるように思える。信夫自身の言葉で説明すると、軍律法廷の性質は次のようになる。
軍事法廷の審理手続
信夫淳平『戦時国際法講義 第2巻』p.912
一四二一 軍律法廷とても文明国に於ける一の軍事司法機関であるから、犯罪者の審理は特定の手続を履んで行ひ、然る上にて相当の判決を下すべく、何等の審理をおも行はず、行ふも初めより被告を犯罪者と断定して審理し、漫然処分するが如きは正道ではない。独逸系のブルンチュリも『軍事法廷は普通の訴訟手続には必しも則るの要なきも、専断的に且感情を以て処理すべきでなく、正義の根本法則を尊重するを要す。殊に被告に与ふるに自由に自身を弁護するの権を以てし、暴力に訴ふるなく、如何に略式に依るとするも犯罪は鄭重に立証せしめ、且その犯罪に相当するそれ以上の刑罰を課するなきを要す。』(Bluntschli,§548, p.319)と言へるが、これは犯行者を処断するに方りて遵由すべき当然の指針たるものである。
軍事的必要の要求に従いその審理手続は略式となったとしても、文明国の一所為として適正手続を踏むことを求められている。
便衣兵の処罰
次に便衣兵の処罰手続に言及している部分を紹介する。
たゝ然しながら、彼等は暗中狙撃を事とし、事終るや闇から闇を傳つて逃去る者であるから、その現行犯を捕ふることが甚だ六ケしく、會々捕へて見た者は犯人よりも嫌疑者であるといふ場合が多い。嫌疑者でも現に銃器弾薬類を携帯して居れば、嫌疑濃厚として之を引致拘禁するに理はあるが、漠然たる嫌疑位で之を行ひ、甚しきは確たる證據なきに重刑に處するなどは、形勢危胎に直面し激情昂奮の際たるに於て多少は已むなしとして斟酌すべきも、理に於ては穏當でないこと論を俟たない。
信夫淳平『上海戦と国際法』p.126
この見解をまとめると次の通りとなる。
- 便衣隊を捕らえても、それは「嫌疑者」である場合が多い
- 「嫌疑者」であってもその嫌疑が濃厚である証拠があるならば、「引致拘禁」することは国際法論理上妥当である
- しかし、漠然とした「嫌疑」で「引致拘禁」すること、ましてや証拠が無いにも関わらず重刑に処することは国際法論理上不当である
この論に従うならば、「便衣隊」容疑者を無裁判で殺害することは禁止されている上、曖昧な容疑ならば逮捕することさえも否定している。信夫の見解では、これが戦時国際法上の「理」であるということになる。信夫は「便衣隊」を交戦法則違反・戦律罪と捕らえている以上、戦争犯罪と同様に考えていると推測される。
篠田治策の見解
「北支事変と陸戦法規」篠田治策
『外交時報』第788号
軍律に規定すべき条項は其の地方の情況によりて必ずしも画一なるを必要とせざるも、大凡を左の所為ありたるものは死刑に処すを原則とすべきである。
一、間諜を無し及び之を幇助したる者
二、通信交通機関を破壊したる者
三、兵器弾薬其他の軍需物件を掠奪破壊したる者
四、敵兵を誘導し、又は之を蔵匿したる者
五、我が軍隊軍人を故意に迷導したる者
六、一定の軍服又は徽章を着せず、又は公然武器を執らずして我軍に抗敵する者(仮令ば便衣隊の如き者)
七、軍隊の飲料水を汚毒し、又軍用の井戸水道を破壊したる者
八、我が軍人軍馬を殺傷したる者
九、俘虜を奪取し或は逃走せしめ若くは隠匿したる者
十、戦場に於いて死傷者病者の所持品を掠奪したる者
十一、彼我軍隊の遺棄したる兵器弾薬其他の軍需品を破壊し又は横領したる者
而して此等の犯罪者を処罰するには必ず軍事裁判に附して其の判決に依らざるべからず。何となれぼ、殺伐なる戦地に於いては動もすれぼ人命を軽んじ、惹いて良民に冤罪を蒙らしむることあるが為めである。
篠田は軍律に規定すべき犯罪として「一定の軍服又は徽章を着せず、又は公然武器を執らずして我軍に抗敵する者」、その例示として「便衣隊」を挙げている。その上で、この様な犯罪者は「必ず軍事裁判に附して其の判決に依(らなければならない)」と主張する。
海軍省大臣官房
海軍省大臣官房『戦時国際法規綱要』p.50-53
(九)戦争法規違反及之が処罰
戦時国際法規綱要 海軍省大臣官房 1942年
(イ)敵国の戦争法規違反に対しては復仇等の手段に依り、之を防止し又は救済を求むることを得ること前述せる所なるが、個人の戦争法規違反に対しては復仇の手段に出づるの外に、直接違反者を処罰するの方法あり。
尤も、個人に対する処罰は、戦争法規違反に止まらず、自己に有害なる行為を、戦時重罪(War crime)として処罰し得べし。
(ロ)戦時重罪中、主なるもの左の如し。
(1)交戦者に依り行はるる戦争法規違反。(略)
(2)非交戦者の敵対行為。
(3)変装せる軍人又は非交戦者が、戦場其の他の地に於て行ふ有害行為。
(4)間諜。
(5)戦時反逆(War Treason)
(一)(略)
(二)(略)
(三)日露戦争の際、帝国軍に於ける軍に有害なる行為を罰する為の法令の内容、
概ね左の如し。(有賀長雄氏著日露陸戦国際法論第六三六―六三八頁)
(略)
(ロ)敵軍に随従し、成規の軍服を着用せずして抗敵すること。
(略)
(ハ)処罰
(1)戦時重罪は、死刑又は夫れ以下の刑を以て処断するを例とす。
之が審問は、各国の定むる機関に於て為すものなるも、全然審問を行ふことな
くして処罰することは、慣例上禁ぜらるる所なり。
(略)
この海軍省大臣官房の記述では、立と同様に「全然審問を行ふことなくして処罰することは、慣例上禁ぜらるる所なり」と明記している。
森田桂子
森田桂子「タリバンの「不法戦闘員」としての地位──破綻国家との国際武力紛争」
『防衛研究所紀要』第10巻第3号(2008 年3月)pp.58-59
文民を装い間諜行為やサボタージュを行った正規兵が敵に捕えられた場合、その者には捕虜資格を認められないという結論で国家実行(30)は一致しており、学説もこれを支持している(31)。米国連邦最高裁判所のキリン事件(32)のほか、日露戦争中にロシアに捕えられ処刑された横川省三および沖禎介の2 名の例(33)は、その代表例である。なお、こうして捕虜資格を否定された不法戦闘員は、一般予防の観点(34)から敵国により処刑(通常、死刑である。)されるのが常であるが、裁判所の審理を経ないで行う略式処刑は、戦争犯罪に該当する(1946 年ウェルナー・ローデ事件判決)(35)。
本稿は、2001年のアメリカ同時多発テロを起因とする米・アフガニスタン戦争で、米軍に捕獲されたアフガニスタン兵士の捕虜資格を論じている。
アフガニスタンには大きく分けると、正規軍、タリバン兵、アルカイーダ兵という3つの武装組織があった。このうち、タリバンはアフガニスタンの首都を含む大部分を支配する政府(武装組織)であり、タリバン兵はその政府に所属する兵士である。アルカイーダ兵は、当時、オサマ・ビン・ラディンが率いる国際テロ組織として知られるアルカイーダに所属する兵士である。
同時多発テロ以降、そして特に米・アフガニスタン戦争が始まって以降、米軍は多くの敵対者を捕獲するが、捕獲した者をどの様な扱うべきかを巡り、国際的にも、また米国内でも議論となった。その中でもタリバン兵に焦点を当て論じたのが本稿である。
引用した文中の「サボタージュ」の意味は注意が必要である。一般的にサボタージュは「怠業」と約され、「労働者が団結して意識的に作業能率を低下させる争議行為。」(ブリタニカ国際大百科事典)と解釈されるが、本来の意味は「変装を爲せる軍人又は私人が、敵軍の作戰地帯又は其他敵國の権力を行ふ地帯に侵入し、鉄道、電信、橋梁、兵器製造所等を破壊せんとする」行為(立『戦時国際法論』)であり、ここではこの意味で使用されている(p.58脚注28)。
引用文中の最後に書かれている判例「ウェルナー・ローデ事件」とは、本稿脚注35で次のように説明している。
「(35)占領下フランスのレジスタンスを支援するために平服で入国した英国兵が本件の被害者である。これらの者はドイツ軍によって捕らえられた後、薬物注射により隠密に処刑されたが、裁判所は処
刑前に裁判が行われたことは証明されなかったと結論して9名の被告人のうち6名に対して有罪判決を下した(1名は死刑、残り5名は禁固刑)(略)」
注意すべきは、戦後フランスで行われたローデ等に対する裁判では、ドイツ軍に捕獲された英国兵はスパイと認定されていた。つまり、ローデ以下ドイツ将兵は、スパイを裁判を経ずに処罰したことで、ハーグ陸戦規則第30条違反を問われ有罪となったなった。
森田は、「文民を装い…サボタージュを行った正規兵が敵に捕えられた場合」、「敵国により処刑…されるのが常であるが、裁判所の審理を経ないで行う略式処刑は、戦争犯罪に該当する」という。この説に沿うならば、便衣兵に対しても裁判の審理が必要だということになる。
なお、森田が引いているローデ事件は、上述の通りスパイの無裁判処罰を違法とした判例であるから、便衣兵の裁判の必要性に対する判例とするのは射程外だという主張がある。
しかし、森田は同論文で、不正規な間諜行為とサボタージュ(破壊行為)を区別せず捕虜資格を論じ、その後の「略式処刑が、戦争犯罪に該当する」という論においても両者に差異があると論じていない以上、ローデ判例は間諜のケースだけが射程に入っており、サボタージュのケースは射程外だということは出来ない。
そもそも、森田論文の主旨は、タリバン兵の捕虜資格を論じているのであり、引用内やその直近で論じているのもモハメド・アリ事件、キリン事件、横川・沖事件という不法戦闘員による敵対行為・破壊行為である以上、サボタージュこそより射程の内側にあると読むべきだろう。
ここで示されたスパイの裁判義務と同様に、ほかの戦争犯罪には裁判が必要だという学説を次に紹介する。
James Brown Scott
次に引用するのはアメリカの国際法学者であるJames Brown Scottの所論で、歴史研究者の渡辺久志氏のnoteに引用されているものであり、訳文も渡辺氏によるものを引用させていただく。
第30条(ブリュッセルの第20条)に関しては、罰則を適用する際に、他のすべての事案と同様にスパイ行為においても、事前の判決の必要が常に欠くことの出来ない保証であると指摘されており、この新しい言い回しはこれを、より明確に言う目的で採用された。
原文
James Brown Scott, “The Proceeding of the Hague Peace conferences 1899“,
With respect to Article 30 ( Article 20 of Brussels ) has been remarked that in applying the penalty the requirement of a previous judgment is, in espionage as all other cases , a guaranty that is always indispensable, and the new phrasing was adopted with the purpose of saying this more explicitly.
この文章は、ハーグ陸戦規則第30条のスパイの処罰には裁判を必要とする条文に関する説明であるが、その中でスパイ行為を処罰するには「事前の判決の必要が常に欠くことの出来ない」とするが、その比喩として「他のすべての事案と同様に」と言い表している。つまり、同条ではスパイの処罰に裁判が必要だと規定するが、裁判が必要なのはただスパイの処罰のみならず、それ以外のすべての処罰についても裁判が必要だというのである。
水原進
水原進は、早稲田大学で講師を務めていたが、戦後の公職追放によって職を追われた。陸軍省から改組された第一復員省大臣官房の部局の一つであった俘虜関係調査部が、戦犯裁判に準備として「敵航空機搭乗員処罰に関する軍律に対する国際法的検討」という文書をまとめており、同書では国際法学者である信夫淳平、水原進、前原光雄の意見を取りまとめているが、水原はその中で次のように述べている。
第一 軍律制定の適否
昭和二十年十二月 敵航空機搭乗員処罰に関する軍律に対する国際法的検討 俘虜関係調査部
2、水垣進講師
(略)然し乍ら敵国人の処罰と雖も其の事実審査を厳重にし、過誤なからしめんとする主旨に於て、特に軍律審判規定を設ける事は、戦時重罪犯の処罰が許容されおる限り、違法ならざるは当然、特に慎重なる所為として高く評価せらる可きである。
ここでは、ドーリットル空襲を実行した米機搭乗員を処罰するために制定された空襲軍律について、「軍律制定の適否」という問いに対して水原が回答している。
ここで水原は軍律の一般的な特徴を述べている。国際法ではスパイを処罰するのに裁判を義務付けているのと違い、それ以外の戦争犯罪行為については裁判に関する規定がない。その様な中で軍律審判を規定することは「その事実審査を厳重にし、過誤の無いようにする主旨であり、特に慎重な所為として高く評価される」ものである述べている。
この説明からすれば、スパイ以外の戦争犯罪行為の処罰で、軍律審判規定が「特に慎重な所為」だとするならば、慎重ではない所為として他の方法が国際法上認められていると読めなくはない。
実際、南京事件否定論者の一部には、この記述を頼りに便衣兵に裁判は必要ないと主張する。しかし、水原は何も裁判が必要ではないと述べているわけではないので、否定論の主張は妥当ではない。
水原の見解をもう少し見ていくと興味深い記述があるので紹介しよう。
水原は空襲軍律の「軍律内容の適否」の問いの回答として、空襲軍律第3項に規定されている「特設軍法会議に関する規定」を準用するいう条項と、1929年ジュネーブ捕虜条約第60条以下の訴追手続きの内容と比較して、「実質的に大なる相違」があり「違反性を有するもの」と論じる。
その上で、次のように述べている。
又、解釈によりては敵機搭乗員は其の違反行為の理由に依り捕獲されたる場合、戦時犯罪人にして俘虜に非ず。従つて之に俘虜待遇條約の適用は不必要なりとの理論ありとするも、之は明に誤りなり。敵機搭乗員は、捕獲されたる場合、其の行為の如何に拘らず、一応は俘虜としての待遇を与へられる可く、其の後の審理に依り、戦時犯罪なりと断定せられたる時始めて俘虜たるの身分を失ふものである。従つて第六十條以下の適用は当然である。
昭和二十年十二月 敵航空機搭乗員処罰に関する軍律に対する国際法的検討 俘虜関係調査部
水原は、捕虜の身分は「其の行為の如何に拘らず、一応は俘虜としての待遇を与へられる」とし、「其の後の審理に依り、戦時犯罪なりと断定せられたる時始めて俘虜たるの身分を失ふ」とする。つまり、裁判で戦争犯罪が確定するまで捕虜の身分を失わないという、無罪推定の原則と同様の効果を求めている。
しかし、これは一人水原のみが主張しているのではない。信夫は「一九二九年七月二十七日の俘虜待遇条約準用の意義及範囲の検討 俘虜関係調査部」という文書で次のように述べている。
一 準用の意義及範囲に就て
一九二九年七月二十七日の俘虜待遇条約準用の意義及範囲の検討 俘虜関係調査部
1信夫淳平博士(抜粋)
然れとも身見にては、俘虜の身分は彼か敵の政府の権内に陥ると同時に発生し、ために俘虜となれるに至れる事前又は事後に於て特定の事由に因り人道的取扱の一般的原則より除外さらることあるも、そは取扱上の差異なるに止まり、俘虜たるの身分に於ては変わりなきものと信す。
水原と信夫の見解を比較すると、捕獲された(権内に陥る)と同時に捕虜の身分が発生する点は共通している。しかし、水原は捕虜となり裁判で犯罪が確定すれば捕虜の身分を失うとするが、信夫は犯罪が確定しても捕虜の身分を失わないとする。信夫によれば、捕虜の身分を失わず、その取扱いが変わる(取扱上の差異なるに止まり)という。
水原の見解は、先に引用した森田の見解と一致するといえるだろう。
いずれにせよ、捕虜の身分を喪失するのか、捕虜としての取扱いが変わるにしても、それには裁判による犯罪事実の確定が必要であることは一致している。これを南京事件の便衣兵殺害に敷衍するならば、捕獲された便衣兵容疑者は、裁判で有罪が確定するまで捕虜として取り扱うべきだったということになるだろう。
まとめ
以上、戦争犯罪の処罰方法について国際法学者の学説を確認してきた。いずれの見解においても戦争犯罪の嫌疑のある者の処罰には裁判が必要であると述べている。
これはある意味当然のことである。なぜならば、戦時国際法を含め国際法とは文明国間を拘束するものと考えられていたからだ。例えばホールは次のように述べる。
国際法は、近代の文明諸国が相互の諸関係において拘束力を有すると考える一連の行為規則からなる。その強制力は、本質においても程度においても良心的な個人を国家法に拘束するそれに匹敵する。近代の文明諸国は、侵害行為があた場合には、適切な手段によってこの規則を強制しうるものと考える。
山内進「明治国家における「文明」と国際法」『一橋論叢』第115巻第1号 1996年1月号 p.19
(脚注:William Edward Hall, A Treatise on International Law, Oxford, 1880, p.1.)
つまり、国際法が適用される前提として、文明国として適用されるべき法原則に拘束されていると考えられる。そこには例えば近代刑事法の原則としての罪刑法定主義やデュー・プロセスの原則などが挙げられる。戦争犯罪の処罰のように国家が個人を処罰する際には、デュー・プロセス(法の適正な手続き)が必要であることは当然の前提と考えられているのだろう。
その当然の前提が守られていなかったからこそ、ハーグ陸戦規則第30条においてスパイの裁判義務が課されたのであり、そのことはスコットが指摘する通りである。また、信夫も軍律法廷の審理手続について、「軍律法廷とても文明国に於ける一の軍事司法機関であるから」と前書きするのも、同様の意味があると考えられる。
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