佐藤和男「南京事件と戦時国際法」批判02 戦数論

佐藤和男「南京事件と戦時国際法」批判 戦時国際法
佐藤和男「南京事件と戦時国際法」批判
佐藤和男「南京事件と戦時国際法」批判 総目次
1.はじめに
2.戦数論
3.便衣兵殺害論
4.捕虜殺害論 オッペンハイム所論について
5.捕虜殺害論 事例検討
6.まとめ
7.参考資料

戦数論 

 佐藤は、ハーグ陸戦規則第23条で定められた禁止行為のうち、C項「兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段尽キテ降ヲ乞へル敵ヲ殺傷スルコト」、同条D項「助命セサルコトヲ宣言スルコト」を挙げた上で、「激烈な死闘が展開される戦場では、これらの規則は必ずしも常に厳守されるとは限らない」といい、「学説上では、助命を拒否できる若干の場合のある」とし3つの学説を提示している。その3つめ学説を次のように説明する。

 第三は、軍事的必要の場合である。交戦国やその軍隊は、交戦法規を遵守すれば致命的な危険にさらされたり、敵国に勝利するという戦争目的を達成できないという状況に陥るのを避ける極度の必要がある例外的場合には、交戦法規遵守の義務から解放されるという戦数(戦時非常事由)論が、とりわけドイツの学者によって伝統的に強く主張されてきたが、その主張を実践面で採用した諸国のあることが知られている。
 この「軍事的必要」原則は、第二次世界大戦後の世界においてさえも完全には否認されていない。例えば、ミネソタ大学のG・フォングラーン教授は、無制限な軍事的必要主義は認めないものの、「必要」に関する誠実な信念や確実な証拠が存在する場合には、この原則の援用や適用を容認している。
 もっとも、同教授は、極度の緊急事態の不存在や、軍事的成功への寄与の欠如が明らかにされたならば、軍事的必要を根拠にした違法行為は、戦争犯罪を構成するものになると警告している。
 わが国の戦時国際法の権威である竹本正幸教授も「予測されなかった重大な必要が生じ、戦争法規の遵守を不可能ならしめる場合もあり得る」と認めている。
 ちなみに、オッペンハイムの前記著作第三板(一九二一年)は、「敵兵を捕獲した軍隊の安全が、捕虜の継続的存在により、死活的な重大危険にさらされる場合には、捕虜の助命を拒否できるとの規則がある」と主張している。同書第四版以降の改訂者は、同規則の存続は「信じられない」との意見を表明している。
 学界の通説は、右のような場合には、捕虜は武装解除された後解放されるべきであるというものである。
 一般に国際武力衝突の場合に、予想もされなかった重大な軍事的必要が生起して交戦法規の遵守を不可能とする可能性は皆無とはいえず、きわめて例外的な状況において誠実にかつ慎重に援用される軍事的必要は、容認されてしかるべきであるという見解は、今日でも存在しているのである。
 なお第二次世界大戦末期に連合軍が日本の六十有余の都市に無差別爆撃を加え、広島、長崎には原子爆弾を投下するという明々白々な戦争犯罪行為を、”軍事的必要”を名目にして行った事実は、日本国民がよく記憶するところである。

佐藤和男「南京事件と戦時国際法」『正論』2001年3月号、pp.315-316

ドイツにおける戦数説 

 ここで佐藤氏が言及している「軍事的必要」原則は、「戦数」という表現の方が一般的と思われる。
 戦時国際法学者の信夫淳平によれば、戦数論の草分けはクラウゼヴィッツ(プロイセン、1831年没)の『戦争論』にあり、その後、この論理はドイツの国際法学者を中心に論じられたという。
 1902年にドイツ参謀本部が発行した『陸戦慣例』(当時のドイツ陸軍の交戦法規マニュアル)の「総則」は、「戦時無法主義(=戦数)の意義を解説したる重要文書」であると信夫は評し、その要旨を引用している。※1
 以下、その「総則」を要約して紹介したい。

  1. 交戦国軍隊は開戦と同時に「交戦状態」という相互関係になり、その関係は交戦国すべての軍隊・市民、動産・不動産に波及する。
  2. 渾身の努力で実施する戦争では、戦闘員や作戦地に対してだけではなく、「敵国の精神的及び物質的の全資源」を破壊することに力を傾注することになるのだから、戦争における人道的要求は戦争の性質や目的が許容する範囲でのみ認めればよい。
  3. 故に、戦時には法は無いものとし、戦争に勝つために必要なあらゆる手段を取ることを妨げない。
  4. 交戦方法を人道化する試みは今日文明国で広く承認されており、それを進めて19世紀以降は拘束力のある交戦規則を作ろうとしてきたが、若干の例外を除いて概ね失敗した。したがって、「交戦法規」とは拘束力のある国際法規を意味するのではなく、各交戦国がその適用を自由に選択できる程度の制限に過ぎず、その拘束力は報復によるものでしかない。
  5. 将校は、戦争における危険を避ける為に、戦争そのものを十分に理解する必要がある。本当の人道とはかえって手加減することなく峻厳を加えることを、戦史を研究することで知ることができる。交戦法規の起源や発達の歴史、現行の慣例の得失・当否・その取捨を識別するには、あらかじめ戦史を研究し、国際的・軍事的推移を知ることにがもとより必要となる。

※1 要旨の全文は、WS南京事件資料集で紹介している  独逸『陸戦慣例』の指導原理

 この見解が1864年ジュネーブ条約(赤十字条約)以降から1899年ハーグ条約(陸戦条約ほか)にいたる諸国際条約が締結されていることを踏まえた上での見解であることに留意すべきだろう。

 立作太郎は『戦争と国際法』の「第二附録 独逸参謀本部の見たる陸戦法規」で、上述のドイツ参謀本部『陸戦慣例』の概略を紹介している。その冒頭の節では「タイムス」の論説の一文を紹介しているが、これは『陸戦慣例』に対する当時の世界的な評価の一端と言えるのだろう。

此の出版物の説く所につきて、千九百五年一月下旬の「タイムス」新聞の論説の如きは、此の如き恐るべく賎しむべきの教旨は、曽て革命の激昂の際にありては唱へられたることあり得べきも、斯の如き嫌悪すべき所論にして、大文明国の当局者に依り、熟慮の後決定されたる如きは、耶蘇教国の歴史に於て、又世界の歴史に於て、未曾有の事なりと為すに至れり

立作太郎『戦争と国際法』(外交時報社出版部、1916年) 附録 p.73

 以上の様な評価を見ても分かるように、戦数論というのは古くから肯定説・否定説と意見が大きく分かれる学説だったと言える。

戦数に対する諸国際法学者の評価 

 戦数に対する評価について、肯定論・否定論を区別し、戦前・戦後・近年という時代に分けていくつか代表的な事例を紹介したい。

戦前における戦数肯定論

有賀長雄『戦時国際公法 上』
p.115
学者の間には交戦條理(戦数)を許すへきや否に付議論粉々たり、然れとも全く之を許さすとするの論は到底行はれさるか故に、寧ろ許すへきものとして其の之を許す場合を限定し、以て濫用を防くに如かすとするに帰着せり
p.117-118
(リューダーの所説を紹介した後)
之を要するに交戦條理として戦規違反を犯さんとする者は之を犯す前に、後に至り其の必要止むを得さりし所以を弁明するの口実を研究し、世間より非難を受けさるに先き立ち、違反の事実を世間に伝はると同時に其の弁明の発表せられんことを謀るへし、非難ありて後弁明するときは半は効力を減するものと知るへし。

有賀長雄『戦時国際公法 上』(早稲田大学出版部、1904年)

田岡良一『戦争法の基本問題』
p.129
何人も知る様に、凡そ法規は、其の文言の通常の意義が及ぶ範囲に完全に妥当するものではなく、妥当の範囲は其の法規の存在理由に照らして、一定の限界を持つ。戦争法規も亦其の存在理由に照らして一定の限界があることは言ふまでもなく、如何なる場合に法規が妥当性を失ふかは、各個の戦争法規の解釈の問題として、研究さるべき事柄である。此の研究は畢竟平時法と戦争法と通じて国際法学者の任務である所の、法規の存在理由を究め、之に基いて法規の拡充の限界を定めることに外ならない。
p.131-132
従来戦時国際法の著述を書く者は、屡々其の序論的部分に於いて、戦数に関する一節を設け、肯定説又は否定説を主張した。そして此の場合に、肯定論者は、一般に戦争法規は軍事的必要によつて破られる、と唱へ、否定論者は、一般に戦争法規は、軍事的必要約款あるものを除き、軍事的必要によつて破るを許さず、と唱へるのを常とした。併し私の信ずる所によれば、軍事的必要と戦争法の効力との関係に就いて、斯かる概括的一般的な立言をなすことは危険であつて、問題は個々の戦争法規の解釈に移されねばならぬ。

田岡良一『戦争法の基本問題』(岩波書店、1944年)

戦前における戦数否定論

信夫淳平『戦時国際法講義 第二巻』
pp.280-281
追て説く如く陸戦法規慣例規則第二十二条には『交戦者ハ害敵手段ノ選択ニ付無制限ヲ有スルモノニ非ズ』と明規してある。戦時無法主義は明かにこの規定を否認するものである。勿論国家自衛のため絶対必要なる行為は不法のものと雖も寛恕せらるること国際法の一般的原則の承認する所である。けれども、そは真個絶対の必要の場合に就て言ふべきで、名を必要に藉りて如何なる不法行為も之を演ずるに妨げずと言ふべきでない。法律は畢竟斯かる必要の濫用を牽制せんがために存するのである。然るに戦時無法主義は自衛と単なる作戦上の利益若くは便宜とを混同し、苟も軍隊指揮官の判断にて普通の交戦法則を遵守することが作戦上不利なりと見ば、之を必要に藉りて全然之を無視するも可なり、といふ広汎且不当の原則を設定したのである。随つてこの主義の論理的結論は、作戦上の利益の至上主義となり、国際法そのものを非認するに至らずんば已まない。戦時無法主義の無制限的適用は、海牙平和会議を促したる一般的精神に正反対なるのみならず、前掲の陸戦法規慣例規則第二十二条を根本的に覆へすものである。一方に於ては国際法の存在を承認し、交戦法則の戦時各国を律すべき規矩準縄たることを承認しながら、他方に於て戦時無法主義といふ交戦法則の拘束力を根抵より破壊するが如き主義を認むるのは大なる矛盾で、この矛盾はまさしく戦時国際法そのものを非認すると同じである。戦時国際法の尊重を期するには、先づ戦時無法主義を根蔕から芟除するを要すべく、さもなくば百の交戦法則を立つるも無益の業であらう。

信夫淳平『戦時国際法講義 第二巻』(丸善、1942年)

立作太郎『戦時国際法論』
p.40
(ニ)戦時復仇は、現時の慣習国際法上認めらるる所なるも、「クリーグスレゾン」に至つては、或る学者が国際法上有効なるものとして主張するに拘はらず、現実国際法上有効として認むべからざるものである。

立作太郎『戦時国際法論』(日本評論社、1944年)

戦後における戦数肯定論

国際法学会編『国際法辞典』
p.400
 このように両説(肯定論・否定論)は、全く相反する主張をしているように見える。戦争法は、過去における経験から通常発生すると思われる事態を考慮し、その場合における人道的要請と軍事的必要の均衡の上に作られている。予測されなかったような重大な必要が生じ、戦争法規の尊守を不可能ならしめる場合もありうるのである。戦数を肯定する学者も、一般には戦争法が尊守しうるものとして作られていることを認める。ただ、きわめて例外的な場合にのみ戦数を主張しているにすぎない。他方、否定的立場をとる学者は、軍事的必要条項を含んでいない法規について、解釈上例外を認めている。すなわち、肯定説は、戦数を一般的理論として述べるのに対して、否定説は、個々の法規の解釈の中に例外を認めようとするのであって、その表面的対立にもかかわらず両説は実質的にはそれほど大きな差はないと思われる。
(竹本正幸)

国際法学会編『国際法辞典』(鹿島出版会、1975年)

戦後における戦数否定論

『国際関係法辞典』国際法学会編
戦数
〔独〕Kriegsraison,krieksnotwendigkeit 〔英〕militery necessity 戦時国際法を逸脱できる正当な事由としての必要ないし緊急な事由。戦時の必要は戦時の慣例に優位するとし、戦争の目的達成のためには、戦時慣例を破ることを含む必要なあらゆる行為が許されるとの考えに基づく。ドイツを中心に論じられていたが、国際法の原則としては確定せず、同様の行為を認めるにしても、この理由では否認する考えが強いが、英米で認められきた「自己保存」の事由も、これと同様の効果をもつとの指摘もある。
 陸戦規則23条gは、敵の財産を破壊し、押収することは「戦争の必要上万已を得ざる場合を除くの外」禁止されるとし、1949年の文民の保護に関するジュネーブ条約53条も、これを同趣旨の規定を置く。そのほかにも、必要性が強調されつつ認められる戦時法上の規定がある(陸戦規則27条、52条の表現)。第1次大戦で、ドイツはベルギーの中立を侵犯し、それを緊急の必要で説明し、イギリスも戦争の意図なくして一方的にギリシャに進駐するなど、jus ad bellumの領域で、同様の行為がなされることもある。jus in belloの逸脱は、別に、戦時復仇としてもなされるが、復仇が相手側の客観的な戦時法違反行為への対応としてなされ、少なくとも、相当性の限界があるのに対し、この場合は、いわば、主観的な必要・緊急事由のみからなされ、合理的限界も示されてない。もともと、戦時法は、軍事的必要と人道確保の必要とのバランスの上に成り立っており、戦争法規には、最初から必要事由が組み込まれているとみれば、とりたててこれを認めるまでもない。緊急事由は、自衛権、緊急行為として、別途用意されているとみることも可能である。これが行き着くところ、戦時法そのものが否定される結果になりえることも、正当な概念・慣行として、否認される事由になる。これまで援用されたケースが、単に違法を糊塗するためのものであったとみられる(2度の大戦の諸例)ことからも、これを独立の逸脱事由とみるべきではない、との立場が説得性をもつ。もっとも、前述諸条約のように、明文規定があれば、それから解釈できる範囲で、これが認められることは、いうまでもない。 (筒井若水)

『国際関係法辞典』国際法学会編、三省堂(1995年 8月第1刷発行)p.488

藤田久一『新版 国際人道法 〔増補〕』
p.65
しかし、戦争法や人道法分野にこれを不用意に導人することはきわめて危険である。戦争や武力紛争の状態は、そもそも国家の重大な利益やその生存のかかった事態であるから、あらゆる戦争法、人道法の無視が、戦数を理由に正当化されてしまうからである。また、ドイツ流の戦数論を批判しつつ、戦数とは別のより狭い特別の軍事必要(Military Necessity)概念を認め、その場合にのみ戦争法侵犯を肯定する見解もある(たとえば、O`Brien,W.V.,”Legitimate Military Necessity in Nuclear War,”World Polity Ⅱ[1960],P48参照)。しかし、この軍事必要概念も戦数と実際上区別し難く、結局戦数論と選ぶところがなくなってしまうと思われる。そもそも、戦争法、人道法の諸規定は軍事必要により多くの行動がすでに許容される武力紛争という緊急状態においてなお遵守が要請されるものであるから、それらの規定は予め軍事必要を考慮に入れたうえ作成されている。したがって、条約規定中、とくに、「緊急な軍事上の必要がある場合」とか「軍事上の理由のため必要とされるとき」といった条項が挿入されている場合を除き、戦数や軍事必要を理由にそれらを破ることは許されない。このいわば戦数否定論は、ユス・コーゲンス的色彩の濃い人道法の性質に照らしても、またジュネーブ条約の規定や米英の軍事提要の動向(The Law of Land Warfare,FM27-10[1956] sec3.; The Law of War on land,The War Office [1958], sec.633)からみても正当であるといえよう。

藤田久一『新版 国際人道法 〔増補〕』有信堂高文社、2000年5月29日初版第2刷発行(増補)

近年の戦数論の動向

鈴木和之『実務者のための 国際人道法ハンドブック 第3版』
p.30
86 UK Ministry of Defence, op. cit., p.15. なお、軍事上の必要性に関連して、「戦数論(Kriegsrason)」という主張が取り上げられることがある。戦数論とは、敗北を避けるため、甚大な損害を免れるため、又は、戦争目的の達成のために、必須である場合には、その必要性により指揮官は国際人道法(戦争法)の義務を免除されるとする理論である。第1次世界大戦前にドイツの法学者によって主張され、戦数論のほか、「戦時緊急必要」、「戦時非常自由」、又は、「交戦条理の理論」と訳される。本主張に対しては、当時から批判が多く、現在において用いられることはない。

鈴木和之『実務者のための 国際人道法ハンドブック 第3版』(内外出版、2020年)

東澤靖『国際人道法講義』
p.69
 戦争あるいは武力紛争の目的は、究極的には軍事的勝利を得ることによって敵に自らの意思を強制することである(藤田:82頁)。その目的のためには、「戦争の必要性が戦争の規則に優先する」、あるいはいわゆる戦時無法主義(Kriegsraison)の理論が主張され、また、第2次世界大戦において依然行われていた(API注釈:1386項)。
 しかし、19世紀以降に発展した戦争法規あるいは武力紛争法は、そうした主張を否定することからはじまった。サンクト・ペテルブルク宣言は、「国家が戦争中に達成しようと試みるべき唯一の正当な目的は、敵軍隊を弱体化させることであり」、その目的にとって過剰となる武器の使用を禁止した。さらにハーグ陸戦規則は「交戦者は害敵手段の選択に付、無制限の権利を有するものに非ず」(22条)と定めて、戦時無法主義の主張を正面から否定した。戦闘の方法及び手段を選ぶ権利が無制限ではないことは、第1次追加議定書においても再確認されている(API:35条(1))。

東澤靖『国際人道法講義』(東信堂、2021年)

まとめ 

 戦数論に関する評価の動向をみると、戦前においても肯定論・否定論と評価が大きく分かれるのみならず、戦後も引き続き評価が分かれ続けている。また、近年においては、もはや肯定する議論は見られなくなる。
 戦数論を肯定する評価が近年になるにつれて減少するという動向は、年を経ると共に戦時国際法(国際人道法)の法整備が進んだことに原因がある可能性は否定できない。ただし、戦前から近年にかけての戦数否定論を見ても分かるように、その評価の内容や理論には大きな変化がみられない。とするとその原因を戦時国際法(国際人道法)の法整備の進展に求めるよりは、その理論と実践において受け入れられなかったと見るのが妥当ではないだろうか。

 翻って「南京事件と戦時国際法」における佐藤氏の説明では、戦数肯定論を紹介するのみで、否定論の存在や国際法学における趨勢について触れるところがない。この様に評価が大きく分かれる見解の一方だけを紹介し、他方をまったく説明しないという態度は学術的に不適当であろう。ましてや本稿を発表している媒体は、専門家や研究者を対象とするような媒体ではなく、普通の一般読者を対象とする総合誌である。この様な一方的な説明に終始してしまえばいたずらに議論をミスリードすることになりかねない。

 佐藤氏は、南京事件における「国際法関連の問題点」として、一つは便衣兵殺害に関する論点、二つ目に捕虜殺害に関する論点、という二つの論点を論じているが、いずれの論点においても戦数論に依拠するところが大きい。そういう意味で佐藤氏の「法的適否の判断」は、賛否の大きく分かれる戦数論の、その一方の見解のみに依存するという偏ったものと言わざるを得ないだろう。

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