国際法からみた便衣兵の処罰[07]無裁判処罰を違法とした判例 

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国際法からみた便衣兵の処罰 総目次
1.はじめに
2.研究者の議論
3.便衣兵とは何か
4.便衣兵の法的性質
5.戦争犯罪人の処罰方法
6.戦争犯罪の処罰に裁判を実施した事例
7.無裁判処罰を違法とした判例
8.まとめ
9.参考文献

 ここまでに、国際法上、戦争犯罪人である便衣兵を処罰するには裁判を経ることが必要だったこと、そして、実際に便衣兵を裁判し処罰した事例を確認したが、次にこの国際法に違反したことで処罰されたという判例を紹介しする。

第一モールメン・タキン事件

イギリス軍BC級戦犯法廷、裁判地ラングーン

 被告席に座ったのはビルマ方面軍憲兵隊司令官・久米真多男憲兵大佐以下十八名で、四名を除くほかはすべて憲兵であった。起訴事実の概要をみると、
「被告たちはビルマ国テナセリウム地区モールメン方面において憲兵隊員として勤務中、昭和二十年七月二十四日、またはそのころ、モールメン郊外においてビルマ国市民コウスルウインほか二十五名を反日行動の罪ありとして何ら裁判をおこなうことなく殺害し、戦争の法規ならびに慣習に違反した」(p.213)

 ゲリラ部隊の暗躍に悩まされたモールメン憲兵分隊は、軍の命令にもとづいてモールメン地区および近郊を捜索した。その結果、ビルマ防衛軍の反乱と関連してゲリラ活動をおこなっていると思われる現地民およそ八十名を逮捕し、取調べの末に、二十六名を残した。多くはその地域のボスといっていい存在の人物たちであった。この摘発を直接におこなったのは東登憲兵大尉以下十七、八名の分隊である。
 ゲリラ活動の指導者や実行者に間違いないと判断して、東分隊はこれら二十六名(ほかは釈放)をモールメン郊外のチャイマロ七マイル(約十一キロ)の地点に連行し、全員を射殺し、処刑する。ゲリラを討伐せよというのは全軍の死活に関する命令であり目的であったし、東登大尉も憲兵隊の指揮系統を配慮するような余裕はなかった。(pp.215-216)

 正式の裁判を行う余裕もまたなかった。軍の法務部といったところで法務部長が一人だけ残っているにすぎない。法務将校はもちろんのこと記録をとる者ものなく、軍法会議や軍律会議を開くことができるような状態ではなかった。(p.216)

 裁判になってからは、すでに詳細を自白させられているので、事実そのものを否認することはできなかった。日本人弁護側としてはまず”戦時反逆罪”であることを主張し、
「取調べの結果、反日集団の主謀者または実行者であったことを確認し、かつ、武器・弾薬を隠匿していた証拠が明らかになったので、日本軍に反逆する者であると断定して処刑した」
 と弁護した。正式な裁判を開かなかったかという追及にたいしては、
「戦況は日本軍に不利で混乱状態にあり、軍律会議を開く時間的余裕もなく、また会議を開いても死刑と宣告されることは明らかであったので会議をおこなわなかった」
 とした。さらに、処刑の命令はビルマ方面軍最高司令官から出されたものであり被告人などには責任がないこと、当時の処刑は緊急状態のもとで発令されていた治安粛清要綱によっても適法であること、当時は日本人にたいする虐殺がおこなわれており国際法の戦時復仇の理論からみても違法性は問われないこと、などを主張し、
「戦争法規ならびに慣例に違反するところなく、被告人らの行為は当然無罪である」
 と述べた。
 この戦時反逆罪の主張について検察官側は被告の一人ひとりにその理由をたずね始めたが、それぞれ、当時のゲリラが日本軍将兵をいかに悩ませ、殺戮したかを具体的に列挙して答えていったので、途中で、「もうよろしい」と証言を中止させてしまった。
 結局、検察官側が最も重点を置いて追及したのは、軍律裁判をなぜおこなわなかったかという一点となり、戦況不利の混乱状態で開くことができなかったという弁護側の抗弁にたいして英軍検察側は、「時期を延期してもあくまで開くべきであった」と主張した。(pp.216-217)

 久米真多男憲兵大佐は禁錮十五年の刑、粕谷武世憲兵中佐は禁錮十二年と軽い刑を宣せられたが、実際に行動した東登憲兵大尉以下、中山伊作憲兵少尉、月館孝吉憲兵曹長、下司久夫憲兵准尉、大野教山憲兵曹長、日高実雄憲兵曹長、檜垣信幸憲兵曹長、新田水一憲兵曹長、馬場満憲兵軍曹、早坂太憲兵軍曹の十名はいずれも絞首刑であった。審理の過程で”戦時反逆罪による反日分子の処分”を認めながら、”軍律会議の有無”にこだわり、結果として現地民の側に立った判決となった。(p.219)

岩川隆『孤島の土となるとも』

 裁判の内容は次のようになる。
 検察側の起訴内容は、日本軍憲兵隊はビルマ国モールメンで反日活動の疑いのある住民25人を逮捕し、裁判もせずに殺害したというものだ。
 これに対し弁護側は次のように弁護した。

  1. 「証拠が明らかになったので、日本軍に反逆する者であると断定して処刑した」
  2. 「戦況は日本軍に不利で混乱状態にあり、軍律会議を開く時間的余裕もなく、また会議を開いても死刑と宣告されることは明らかであったので会議をおこなわなかった」

 弁護側の論述に対し検察側の反論は「軍律裁判をなぜおこなわなかったか」「時期を延期してもあくまで開くべきであった」というものだった。

 『孤島の土となるとも』には判決理由が書かれていないが、有罪という判決が出ていることから検察側の主張が認められたと判断できる。
 これは、無裁判処罰を禁止した国際法に違犯したことが、有罪の理由となったものと考えられる。

カラゴン事件

イギリス軍BC級戦犯法廷、裁判地:ラングーン

 このカラゴン事件は前記の事件とまったく同じころ、同じ軍命令によっておこなわれた「ゲリラ殲滅作戦」だったが、現地人の怒りと恨みを買うに十分の事件といえた。起訴事実の概要は、
「被告たちはビルマ国テナセリウム地区モールメンのカラゴン村において、昭和二十年七月八日ごろ、共同して村の住民である男女および子どもの不法殺害に関与し、約六百人の男女および子どもを殺害し、また共同して住民を不法に殴打、拷問、傷害その他の虐待を加え、戦争の法規ならびに慣習に違反した」
 という内容である。「約六百人の男女および子どもを殺害」とは理由はどうあれ、まことに残虐な行為だ。これもモールメン憲兵分隊が関与しており、東登憲兵大尉以下六名の憲兵も被告となったが、実行者の主体は陸軍第三三師団歩兵第二一五連隊第三大隊で、大隊長の山川宗義陸軍少佐(以下仮名)のほか柳谷吉三陸軍大尉、黒川立雄陸軍大尉、大島五郎陸軍中尉など八名が主要な被告であった。
 事件の発端はモーメルンの東北およそ五十キロのところにあるカラゴン村付近に英印軍の空挺部隊が降下して、村民たちと協同して総攻撃をかけてくるという情報が入ったことになる。敗走中の日本軍としては退路を断たれ、攻撃を受けたのでは軍司令部ともども壊滅してしまうしかない。軍はただちに憲兵四名(東登大尉は直接たずさわっていない)を現地に派遣し、調査を命じた。
 現地住民たちを取り調べてみると、たしかにカラゴン村の近く二、三キロの地点に空挺部隊が降下し、住民たちの全面的な支援を受けていることが判明した。そこで討伐を命じられたのが第三大隊つまり山川大隊で、現地に急行して降下した地点を襲撃したが、空挺部隊はすでに移動しており、無電機を押収するのにとどまった。(p.221)

 裁判では村人たちの”反日行動”や空挺部隊の降下の事実などは証明されたが、”戦時反逆罪”の処分と認められるには無理があった。なにしろおよそ六百人という大量殺害である。憲兵たちは取り調べだけをおこなったことが判明したので裁判の途中から憲兵については拷問の件で、第三大隊については虐殺の件でと、分離して審理された。
 第一回の裁判なのでまだ日本人弁護人は不在であった。英軍の弁護人は、虐殺について、
「軍や上官の命令によって戦時復仇の方法として遂行された行為である。不法ではなかった」
 と主張し、弁護側証人として第二一五連隊の連隊長や作戦参謀を出廷させた。両将校は、カラゴン討伐行動は師団命令でおこなわれたこと、裁判など開く余裕はなかったこと、当時は日本軍を包囲殲滅する敵対状況にあり集団処刑もやむを得なかったこと、などを証言した。
 しかし検察官側から住民すべてを殺害する必要があったかどうかと追及されて、それについては山川大隊長にある程度の判断の自由が許されていたと、認めるしかなかった。(p.222)

 この事件の判決は昭和二十一年四月十日にくだり、大隊長の山川少佐は絞首刑、柳谷吉三大尉、黒川立雄大尉、大島五郎中尉は銃殺刑となり、第三大隊の関係者は一人を無罪として残る三人とも有期刑(いずれも禁錮十年)であった。憲兵関係者は東登大尉ほか二名が無罪で、三名が五年から七年の有期刑となった。三ヵ月後に”確認判決”が発表されたが、死刑も有期刑も、一人として減刑されることはなかった。(p.224)

岩川隆『孤島の土となるとも』

 事件の概要は次の通りとなる。歩兵第215連隊第3大隊は、1945年7月8日ごろビルマ国カラゴン村で、英印軍に協力したという嫌疑で村民約600名を殺害した。この事件の嫌疑者は、第3大隊長以下7名。裁判は、住民殺害と拷問を分けて審理された。弁護側は、上官命令、戦時復仇、「裁判など開く余裕はなかった」、戦況の不利を主張したが、被告8名のうち5名が有罪となった。

 弁護側証人に「裁判など開く余裕はなかったこと」を証言させていることから、この点も争点となっていたと考えられる。戦時犯罪に裁判の義務がないのであれば、自軍の安全を保つための軍事的必要から、市民を死刑にしたこのケースの行為は合法となるはずだが、直接殺害に関与した第3大隊の将兵が有罪になっていることから、このような状況であっても裁判が必要であったことを示している。

西ボルネオ抗敵陰謀事件

オランダBC級戦犯法廷、裁判地:ボルネオ島ポンティアナク

(K-K註:以下pp.307-311の要約
 ボルネオ島ポンティアナクに侵攻・占領した日本軍は、現地住民たちのゲリラ活動・謀略行為に直面した。
 昭和19年の初め、ゲリラ活動等を行ったと目される現地住民を「戦時反逆」罪として一斉検挙を行い約1000人を逮捕し、多くがその場で処刑されたが、首謀者と目される一部(43名)は、第二南遣艦隊軍律会議に送られた後に処刑された。
 また、この事件とは別に”日本人毒殺計画事件”により、現地住民・華僑1500人が逮捕・殺害された。

 戦後、上記事件につき、ポンティアナクBC級戦犯法廷(オランダ軍)において、岡島利耆大尉(海軍警備隊隊長・海軍特別警察隊長)、山野一之中尉(同隊副長)以下隊員30名、現地日本人191名が逮捕され、うち30名が起訴された。また、第22特別根拠地隊司令官醍醐忠重中将・鎌田道章中将、現場を指揮していた海軍分遣隊長上田義明中尉ら117名が逮捕され、うち37名が起訴された。

山野中尉の起訴状の概要は以下の通り。
「ポンティアナク特警隊副長・山野一之中尉は昭和18年12月より昭和19年5月までのあいだ、西ボルネオのマンドール島、スンガイ、ドリアンなどの各地において職権を濫用して多数の一般市民を検挙し、彼らを正当な裁判をおこなうことなく処刑にあたり、指揮官となって部下を命じ、テー・チャン・ワンなど約一千名(婦人五名を含む)を日本刀をもって斬首または胴体斬りなどの残虐なる方法をもって処刑した。また特警隊における取り調べにあたっては殴打、水責め、電気責めなどの拷問を加えて自白を強要し、虐待した」

この事件に関する日本側の見解(関係者の話として)
「現地民は一人ずつ独房に入れて尋問しなければ真相をつかむことは難しいのだが、多くの人間を収容しておく建物がなかった」
「ポンティアナク州の広さにたいして二百名の警備兵力では強引な措置しかできなかった」
「容疑者たちを収容・抑留しておいても現地民たちは彼らを幾度か奪い返しにきた」
「これら抗日活動は幾度となく手を替え品を替えておこなわれ、ついにはわれわれを巧妙に毒殺しようとする策にまでなった」
「銃器の音が民家に聞こえては一般人に不安を与えるので、射殺ではなく斬首にしたケースが多かった」

裁判結果
海軍特別警察隊の4件16名に対し、全員有罪、うち9名死刑。
海軍警備隊の3件8名に対し、1名公訴棄却、ほか全員有罪、うち3名死刑。
河井篤四法務大尉は未決拘留中に自殺。
南洋興発株式会社社員を被告とする事件も死刑。
第22特別根拠地隊司令官醍醐中将・鎌田中将に対しては、戦争犯罪刑法第9条にもとづく”指揮官責任”に問われ死刑。

岩川隆『孤島の土となるとも』

 事件概要は次の通り。日本軍は、1944年始めボルネオ島ポンティアナクで、ゲリラ活動等の疑いで戦時叛逆罪として現地住民約1000名を逮捕しその多くを処刑した。戦犯法廷での起訴内容は、住民に対する「正当な裁判をおこなうことなく処刑」ことだという。被告側の抗弁として、収容スペースが無かった、容疑者の収容に必要な兵力が無かった、執拗な抗日行動が繰り返されたというものだ。判決は、死刑16名、無期刑・有期刑20名、無罪0名だった(『東京裁判ハンドブック』p.223)。

 住民のゲリラ活動から自軍の安全を保つために軍事的必要が存在してたが、検察側は「正当な裁判をおこなうことなく処刑にあた」ったことを理由に起訴しており、判決では有罪となっている。無裁判が問われ、そのことについて違法性が認められている。

BC戦犯法廷の判例としての価値

 ここで挙げたケースは、第二次大戦後のBC級戦犯法廷の判例だ。BC級戦犯法廷では、多くの住民殺害に対する裁判が行われているが、ここに挙げたものはその一部分ということになる。
 このBC級戦犯法廷に対しては、法廷運営についての問題点が指摘されるが(例えば、先に引用した岩川『孤島の土となるとも』)、それでもなお、この法廷による判例は戦時国際法において重要性があると考えられる。
 足立純夫『現代戦争法規論』では次のような引用が為されています。

32)第2次世界戦争中の1945年3月ドイツ将校Karl Ambergerは部下2名を率いて連合軍捕虜5名を護送中、捕虜に逃走の企図があるとの容疑をかけ、捕虜4名を射殺したため、1946年3月の戦争犯罪裁判において有罪とされた(The Dreirwalde Case,Law Reports of Trials of War Criminals,1947,Vol. 1,p.82)。

足立純夫『現代戦争法規論』p215

 これはドイツに対する戦犯法廷のものだが、日本に対するBC級戦犯法廷(マイナーと同じように、戦時法規違反を裁いたものだ。足立の著作では上記の引用を含め、第二次大戦後における戦犯法廷の判例を多数利用している。
 また、前項で引用した森田桂子「タリバンの「不法戦闘員」としての地位」で引いているヴェルナー・ローデ事件もまた、戦後のBC級戦犯法廷である。
 これらのケースから考えて、BC級戦犯法廷の判例は、十分に学説の根拠となり得ることが分かる。

小括

 本項では、戦後のBC級戦犯法廷におけるゲリラ容疑者に対する無裁判処罰の判例を取り上げた。いずれのケースにおいても、検察側は裁判を行わなかったことを追及し、判決では有罪とされている。
 特に興味深いのは、無裁判であったという検察側の追及に対し、弁護側の抗弁は、戦況の不利、被疑者の収容スペースが確保できない、裁判を行う余裕が無い、軍事的必要があったことを主張するものだ。
 これらの抗弁は南京事件否定論でも見られるものであるが、南京での状況とここで取り上げた3つの事件の状況を比較すると、本項3事件がより過酷な状況であったことは容易に想像がつく。にも関わらず、弁護側が主張する軍事的必要は認められなかった。
 実際の戦犯裁判の判例においても、便衣兵に対する裁判が必要だったことが確認できたと思われる。

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