佐藤和男「南京事件と戦時国際法」批判05 捕虜殺害論 事例検討

佐藤和男「南京事件と戦時国際法」批判 戦時国際法
佐藤和男「南京事件と戦時国際法」批判
佐藤和男「南京事件と戦時国際法」批判 総目次
1.はじめに
2.戦数論
3.便衣兵殺害論
4.捕虜殺害論 オッペンハイム所論について
5.捕虜殺害論 事例検討
6.まとめ
7.参考資料

「緊迫した「軍事的必要」が存在した」か 

 その二は、戦闘中に集団で捕えられた敵兵の処断である。同じように戦闘中に捕えられながらも釈放された支那兵が多数いたことを見れば(前出『南京戦史』第五表を参照)、日本軍の側に捕えた敵兵を組織的に絶滅させる計画的な意図が無かったことは明白である。具体的な熾烈な戦闘状況を調べてみると(本稿では詳述する余地がない)、日本軍の関係部隊には緊迫した「軍事的必要」が存在した場合のあったことが知られる。

佐藤和男「南京事件と戦時国際法」『正論』2001年3月号、p.317

 佐藤氏は「具体的な熾烈な戦闘状況を調べてみると(本稿では詳述する余地がない)、日本軍の関係部隊には緊迫した「軍事的必要」が存在した場合のあったことが知られる」というが、具体的な戦闘状況は「本稿では詳述する余地がない」として一切触れることがない。

 そこで、佐藤氏が「その具体的な人数等に関しては、『南京戦史』三四二~三四三頁の第五表に詳しい」と評した『南京戦史』に掲載されている「第五表 捕虜、摘出逮捕した敗残兵、便衣兵に対する対応概見」を基礎として、捕虜殺害事例を摘出して検討してみたい。
 なお、否定論者である板倉由明氏、東中野修道氏のそれぞれの著作『本当はこうだった南京事件』『「南京虐殺」の徹底検証』より、各事例をどの様に検証しているか、同時に確認したいと思う。

第五表捕虜、摘出逮捕した敗残兵、便衣兵に対する対応概見南京戦史
「第五表 捕虜、摘出逮捕した敗残兵、便衣兵に対する対応概見」『南京戦史 増補改訂版』pp.342-344

事例1 12/13 歩兵第66連隊第1大隊 

第五表 事例「1」 部隊/概況「歩六六第一大隊/雨花門外で十二、三日午後、処断」 対応内訳/処断「一、六五七」

 以下、『南京戦史』から捕虜殺害前後の状況を要約する。
 12月12日午後4時30分から午後7時50分の間、中華門城壁に迫る戦闘で多数の中国兵が投降し、それを捕虜とした。この時、最初に捕獲した中国兵3名を伝令として投降を呼びかけたことが大量の捕虜を得る契機となった。捕獲した捕虜に対して武装解除をした後、医療を施すなど寛大な処置を行っていることを宣伝し、更なる投降勧告を行った。
 第一大隊の戦闘詳報によると、この後、12月12日午後7時50分に大隊長より発令された大隊命令により、第一大隊は周囲を警戒しつつ夜営に入る。捕虜は第4中隊が「警備地区内洋館内ニ収容シ周囲ニ警戒兵ヲ配備」し食事を与えている。
 明けて12月13日朝より中華門城壁の東側の攻撃が始まり、午前10時に同城壁を占領する。この際、さらに捕虜を得ている(第一大隊戦闘詳報「掃蕩愈々進捗スルニ伴ヒ投降スルモノ続出シ」)。
 13日午後2時、連隊長から「旅団命令ニヨリ捕虜は全部殺すへし」という命令を受け、午後5時30分から午後7時30分の間に捕虜殺害(刺殺)を実施した。

第114師団南京付近戦闘経過要図12101214
第114師団 南京付近戦闘経過要図12/10~12/14
歩兵第66連隊第1大隊南京東南側付近警戒配備要図12/12
歩兵第66連隊第1大隊 南京東南側付近警戒配備要図12/12

 歩兵第66連隊が13日午前10時に中華門城壁を突破し、午後5時に捕虜殺害を実施する前後に、部隊がどの様な行動を取っていたかを示す記録は少ない。二次的史料ではあるが『サンケイ新聞栃木版』に掲載された「郷土部隊奮戦記」の記述を紹介する。

郷土部隊奮戦記
残敵掃討の終わった第一大隊はひるすぎから雨花台の戦場整理にかかった。味方の死傷者は一人もいなかった。激戦のさなかに戦友が後方の野戦病院に収容したのだ。敵兵も動けるものは逃げさっていた。兵隊は動けない敵兵の口に、水筒の水をふくませた。手を合わせて死んでいく戦死者のなかには”娘子軍”(女兵)もいた。最前線に督励にきていたのだろう。

郷土部隊奮戦記 209/日華事変/ 南京総攻撃 21『サンケイ新聞栃木版』(昭和38年)

 この「郷土部隊奮戦記」の記述を加味すると、城壁占領以降の歩兵第66連隊の行動は、12月13日午前10時に中華門城壁を突破した後、残敵掃討を実施、午後過ぎから雨花台の戦場整理に入る。その後の午後5時30分~7時30分に捕虜殺害を実施。その夜は連隊本部と掃討隊は市内で宿営し、それ以外は市外で宿営した(歩六六作命甲六十八号)。

 『南京戦史』p.215の「捕虜の刺殺について」の項で、第1大隊に所属した三人の手記と証言を紹介している。(※1)
 第三中隊長・西沢弁吉氏の『われらの大陸戦記』では捕虜の処分について記述がない。
 第四中隊長・手塚清氏の『聖戦の思い出』では、中国兵1240名を捕虜とし、「捕虜に給する食料がない」ことを理由とし、第一、第三中隊その他に分配して「適宜処置した」という。
 第四中隊第四分隊の高松半市氏の証言では、捕虜の数は「その半数」だったとして、それを他の中隊と「処分」した。理由として「当時中隊で満足に行動できる兵は七、八十名で、捕虜監視に多くの兵力を割くことは不可能であった」という。

 捕虜殺害の前後の状況をまとめてみたが、歩兵第66連隊は捕虜殺害時点では、残敵掃討の後、戦場整理(戦場に残された死者・負傷者の対応)に当っており、連隊付近での戦闘が終わっていたことが分かる。この状況から考えて、軍の死命を制するような急迫性のある事象は存在しないことは明らかだろう。
 『南京戦史』で紹介された部隊員の証言では、捕虜への食料が不足していたこと、捕虜を監視する人員が不足していたことを証言している。ただし、南京が陥落した時点で、これらの理由をもって捕虜殺害の理由足り得るのかは疑問である。すでにホールの見解を紹介したが「俘虜にして之を安全に収容し置く能はざる場合には之を解放すべきである」というのが国際法上の見解である。別の部隊では捕虜を実際に解放している(12/14 歩兵第45連隊第2大隊)。

 ちなみにこの問題に関し、板倉由明氏および東中野修道氏は虐殺の規模や命令系統等に疑義を提示しているものの、捕虜を殺害したという事実に関しては認めている。(※2)

※1 この事件に関しては、阿羅健一氏が月刊誌『丸』1990年6月~8月の「兵士たちの「南京事件」 城塁」という連載の中で、新しく証言を掘り起こしている。下記のページで証言をピックアップしたので参考にしてほしい。
http://kk-nanking.main.jp/butaibetu/114D/114D_1.ht…

※2 板倉由明『本当はこうだった南京事件』 p.129
「ただし歩六六Ⅰが十三日夜、捕虜を殺害したことは事実である。この捕虜は生命を保証して投降させたものといわれ、そうだとすれば卑劣な行為である。」
東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』 p.109
「ともあれ、第一大隊は何らかの理由で投降兵を処刑した。しかし戦闘終了後、戦闘詳報に処刑の理由を書く段になった時、実際にはありもしなかった「捕虜ハ全部殺スベシ」という架空の旅団命令に、その理由を求めた。」

事例3 歩兵第33連隊 

第五表 事例「3」 部隊/概況「歩三三 十日~十四日にいたる紫金山北方―下関附近、太平門、獅子山付近の戦闘間掃滅」 対応内訳「処断 三、〇九六」

歩兵第33連隊南京攻撃経過要図1213
歩兵第33連隊南京攻撃経過要図1213

 歩兵第33連隊が捕虜殺害に至る時系列は次の様になる。(以下、『南京戦史』p.153-158、歩兵第33連隊戦闘詳報による)
 歩兵第33連隊は、12月13日早朝より、主力(第一大隊欠)は紫金山天文台を攻略し(午前7時30分)、第6中隊をもって太平門を占領(午前9時10分)。第6中隊を太平門守備に残し、主力は玄武湖東側(太平門―和平門―下関道)を通り下関へ到着(午後2時30分)、歩兵第30旅団に復帰する。太平門占領にあたっていた第6中隊は付近の敗残兵千数百名を撃滅した。下関では、揚子江対岸を目指して舟や筏で逃走する中国兵を主力は攻撃し、2000名を下らない損害を与えている。
 その後、下関で露営した後、翌14日以降、第二大隊は城内西北角一帯を、第1・第3大隊は下関の掃討をそれぞれ実施した。

第33連隊戦闘詳報第3号付表
第33連隊戦闘詳報第3号付表

 この戦闘行動を記した『歩兵第三十三聯隊「南京附近戦闘詳報」』の第三号附表には、次の様な記述がある。

【俘虜】
将校14/准士官・下士官兵3,082/馬匹52
【備考】
「一、俘虜ハ処断ス」
「三、敵の遺棄死体」 (表組) 十三日 五、五〇〇
備考 十二月十三日ノ分ハ処決セシ敗残兵ム含ム

『歩兵第三十三聯隊「南京附近戦闘詳報」』第三号附表

 歩兵第33連隊の12月13日以降の行動の概略は上記の通りであるが、どの様な状況で捕虜を殺害したのか戦闘詳報には記載がない。また、関連する資料もなく、その状況に関してはほとんど詳細が分からない。このケースに関しては、板倉氏・東中野氏ともに論じていない。

 第三号附表の記述を素直に読むならば、捕獲された捕虜3092名(将校・准士官・下士官兵)は全て殺害されたのであろうし、備考の記述「十二月十三日ノ分ハ処決セシ敗残兵ム含ム」とは、殺害した捕虜も含まれていると思われる。

 余談となるが、12月14日午前4時50分に発令された歩兵第30旅団命令で「六、各隊は師団の指示ある迄捕虜を受付るを許さす」となっている。有名な中嶋今朝吾日記12月13日にある「捕虜はせぬ方針」が隷下部隊まで伝達されていることを確認できるが、この様な方針や命令が捕虜処断に繋がったことは容易に判断出来るだろう。

 いずれにせよ、資料から読み取れる捕虜殺害状況は不明確と言わざる得ないだろう。 

事例10 山田支隊 

事例「10」 部隊/概況「山田支隊(歩六五基幹) 十四日幕府山付近で収容した兵士約八千のうち十四日夜四千逃亡、残りを釈放のため観音門に連行」 対応内訳「逃亡 約七、〇〇〇/処断 約一、〇〇〇」

山田支隊進攻ルート
山田支隊進攻ルート

 山田支隊による幕府山での捕虜殺害事件の概要は下記の通りとなる(以下、『南京戦史』による)。

 山田支隊の歩兵第65連隊第1大隊が南京から見て揚子江の下流側にある烏竜山砲台を攻略したのが12月13日午後、その間、山田支隊主力は烏竜山から揚子江沿いに上流へ向い南京へ侵攻する途中で4000名を超える中国兵に遭遇し捕虜とする。山田支隊主力は、翌12月14日午前10時、幕府山砲台を占領した。これらの侵攻および砲台占領において捕虜の総数は1万5300名となった。

 『戦史叢書』によると、12月14日、1万5300名のうち約半数の非戦闘員を解放し、残り8000名を幕府山麓の建造物に収容した。しかし、その夜には半数が逃亡した。捕虜の処置に困った山田旅団長の命令により、17日夜に揚子江対岸へ捕虜を釈放しようと揚子江江岸へ移動させたところ、捕虜が暴動を起した為、やむなく捕虜を攻撃した。結果、1000名を射殺、他は逃亡した。『南京戦史 増補改訂版』では、非戦闘員を解放した後、16日に収容所で火災があり半数が逃亡、同日、捕虜を解放するため揚子江岸へ連行するものの暴動が発生しやむなく捕虜を殺害。17日も前日同様に解放しようとして揚子江岸へ連行し、暴動が発生し捕虜を殺害したという。
 以上が、『戦史叢書』『南京戦史』が主張する幕府山事件の概略だが、この説明を研究者の間では自衛発砲説と呼ばれている。ただし、その後、資料の発見が進んだことにより自衛発砲説では説明できない部分が生じた為、東中野氏などにより自衛発砲説を修正した説が唱えられている。板倉氏は、概ね『南京戦史』に依拠した事実認識に基づき、新資料の難点や捕虜数について論じている。
 一方、初期の自衛発砲説が主張された後、小野賢二氏によって多数の陣中日誌や証言が収集され、その一部が公刊されることになった(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』)。これらの資料を加味した小野氏の研究では、捕らえられた捕虜の半数を解放したという事実は当時の記録になく、捕虜の殺害は軍命令に基づいたものであった、捕虜を移動した揚子江岸は予め機関銃等で殺害準備が整えられていたことを明らかにし、捕虜1万数千人を虐殺したと結論づけている。

 ここでは、幕府山事件の当否を論じることはしないが、上述の通り、同事件は自衛の為の発砲なのか、もしくは、軍命令による殺害なのかという部分で大きく見解の分かれる事件である。すなわち、「緊迫した「軍事的必要」が存在した」のか否かを分ける部分で事実関係に疑義が生じているのであり、これをもってフォングラーンが戦数の適用条件として挙げる「確実な証拠」というのは無理があるのではないだろうか。

事例12 歩兵第20連隊第2中隊・第2機関銃中隊 

第五表 事例「12」 部隊/概況「第十六師団歩十九旅団歩二〇第十二中隊及第三機関銃中隊 十二月十四日朝、馬群附近の掃蕩戦で捕えた敗残兵を銃殺」 対応内訳「処断 二~三〇〇」

 本事例について、『南京戦史』の記述は短い。

『南京戦史』
 また、歩二〇の第十二中隊は、十四日朝、馬群付近への増援を命ぜられ、輜重隊を襲撃した約二~三百名の敗残兵を捕え、応援に来た第三機関銃中隊と共に、これら全員を残敵掃討として銃殺した。(『牧原信夫日記』『小戦例集』)

『南京戦史』p.169

 準拠史料として挙げられている「牧原日記」「小戦例集」の記述は下記の通りとなる。

牧原信夫日記 歩兵第二十聯隊第三機関銃中隊・上等兵
十二月十四日
 午前七時起床す。午前八時半、一分隊は十二中隊に協力、馬群の掃討に行く。残敵が食うに食が無い為ふらふらと出て来たそうで直ちに自動車にて出発す。而し到着した時には小銃中隊にて三百十名位の敵の武装解除をやり待って居たとの事、早速行って全部銃殺して帰って来た。昨夜は此地の小行李を夜襲し、小行李も六名戦死して居た。

『南京戦史資料集Ⅰ』 p.405

小戦例集 第二輯 第四十四(輜重兵)
俘虜 九五

小戦例集 第二輯
小戦例集2-第44-馬群捕虜殺害
小戦例集2-第44-馬群捕虜殺害

 この事例については、上記の資料の他に佐々木元勝著『野戦郵便旗』と佐々木の日記で言及がある。

佐々木元勝『野戦郵便旗』
弾薬集積場であった馬群鎮では、敗残兵二百名の掃湯が行なわれた。
 私は疾走するトラックからこの弾薬集積所に、二本の新しい墓標を見た。一本は特に憐れな抗日ジャンヌダルクのために建てられたものである。それには「支那女軍士之墓」と墨書されてある。

佐々木元勝『野戦郵便旗』pp.215-P216

佐々木元勝日記
12月16日、快晴、風
 麒麟門で敗残兵との一戦では、馬群の弾薬集積所で五名の兵が、武装解除した二百人を後手に縛り、昼の一時頃から一人づつ銃剣で突刺した。……夕方頃、自分で通った時は二百人は既に埋められ、一本の墓標が立てられてあった。
(中略)
――馬群で女俘虜殺害の話――
 これは吉川君が実見したのであるが、わが兵七名と最初暫く応射し、一人(女)が白旗を振り、意気地なくも弾薬集積所に護送されて来た。女俘虜は興奮もせず、泣きもせず、まったく平然としていた。服装検査の時、髪が長いので「女ダ」ということになり、裸にして立たせ、皆が写真を撮った。中途で可愛相だというので、オーバーを着せてやった。
 殺す時は、全部背後から刺し、二度突刺して殺した。俘虜の中に朝鮮人が一名、ワイワイと哀号を叫んだ。俘虜の中三人は水溜りに自から飛び込み、射殺された。

証言による「南京戦史」(9) 『偕行』昭和59年12月号

 さらに、板倉由明氏によれば歩兵第20連隊第12中隊・田茂井重毅日記でも言及されているとのことだが、私蔵されている資料なのだろうか現時点で私は閲覧できておらず、その内容を伺い知ることはできない。

 以上の資料を総合すると、捕虜数は約95~300と違いがあるが、捕虜を捕えて殺害した事実は間違いないようだ。
 また、牧原日記「(中国兵が)食うに食が無い為ふらふらと出て来た」「(小銃中隊は)武装解除をやり待って居た」、佐々木日記「一人(女)が白旗を振り」「武装解除した二百人を後手に縛り」「服装検査」などの記述から、中国兵は投降した後、武装解除され、捕獲・捕虜とされたことが分かる。
 この様な捕虜を殺害する状況は、牧原日記「(小銃中隊が)敵の武装解除をやり待って居た」、佐々木日記「(捕虜を)後手に縛り、昼の一時頃から一人づつ銃剣で突刺した」「(女性捕虜を)裸にして立たせ、皆が写真を撮った」というものだった。
 この状況から察するに、捕虜殺害を正当化する為の「極度の緊急事態」「死活的な重大危険」を見出すことは困難であろう。

事例13 歩兵第33連隊・第38連隊、事例14 第30旅団 

  第五表のうち残りは2件あるが、それぞれのケースの概況・処断数・準拠史料を適示する。

第五表 事例「13」 部隊/概況「「第十六師団歩三十旅団 十二月十六、七日紫金山北方一帯掃蕩」 対応内訳「歩三三 数百/歩三八 数百」 準拠資料「佐々木少将私記」

佐々木到一少将私記 歩兵第三十旅団長・陸軍少将18期
十二月十六日
 命に依り紫金山北側一帯を掃蕩す、獲物少しとは云へ両聯隊共に数百の敗兵を引摺り出して処分した。

『南京戦史資料集Ⅰ』 p.274

第五表 事例「14」 部隊/概況「第十六師団歩第三十旅団 十二月二十四日より翌年一月五日ごろまでの間南京近郊、不逞の徒」 対応内訳「数千」 準拠資料「佐々木少将私記」

佐々木到一少将私記 歩兵第三十旅団長・陸軍少将18期
一月五日
 城外近郊に在つて不逞行為を続けつつある敗残兵も逐次捕縛、下関に於て処分せるもの数千に達す。

『南京戦史資料集Ⅰ』 p.276

 この2件はいずれも準拠史料の情報量が少ない為、捕虜殺害の状況を判断することは難しい。板倉・東中野両氏の著作を見ても、上記記述に該当する事例を具体的に論じている部分はないようだ。
 佐々木少将の記述を見るに、歩兵第30旅団では継続的に城外の掃討を実施していたようである。捕らえたという「敗残兵」が、実際に中国兵だったのか、便衣の者を主観的に中国兵と断定して殺害したのか、そこに「極度の緊急事態」や「死活的な重大危険」があったのかはまったく不明である。

まとめ 

 以上、『南京戦史』「第五表 捕虜、摘出逮捕した敗残兵、便衣兵に対する対応概見」に基づいて、捕虜殺害事例の殺害状況を確認してみた。捕虜殺害状況を大別すると、次の様になる。

①「極度の緊急事態」「死活的な重大危険」が見られない
事例1 歩兵第66連隊第1大隊
事例12 歩兵第20連隊第2中隊・第2機関銃中隊

②事実認識の見解が分かれる
事例10 山田支隊

③状況不明
事例3 歩兵第33連隊
事例13 歩兵第33連隊・第38連隊
事例14 第30旅団

 南京大虐殺否定論の側に立って事実認識を鑑みても、「極度の緊急事態」「死活的な重大危険」を主張できるのは、事例10 山田支隊のケースだけであり、急迫性が見られないもしくは状況不明なケースが大部分を占めている。
 総じていうのならば、既に南京及びその周辺地域は日本軍の絶対的優勢の状態にあったことは疑う余地はなく、その様な状態から察するに「極度の緊急事態」「死活的な重大危険」を読み取ることは出来ない。

 もちろん、佐藤氏が独自の調査に基づいて『南京戦史』やその他南京事件研究者の知り得なかった何らかの事実を察知し、「緊迫した「軍事的必要」」を読み取った可能性は否定できない。
 ただし、佐藤氏の所論が発表されてから20年以上がたった現時点で、未だ事実認識のアップデートに大きな変化がないことから考えて、その様な可能性は限りなく低いと言ってよいだろう。佐藤氏が如何なる事実認識に基づいたのか公表されることを期待したい。

 捕虜を殺害するという行為は、明らかに国際法違犯行為を構成するものである以上、戦数論という違法性阻却事由を主張するならば、フォングラーンやオッペンハイムが求める様な「極度の緊急事態」「死活的な重大危険」を立証する必要がある。しかし、既に見てきたとおり、『南京戦史』で示された捕虜殺害事例において、戦数が摘要されるような余地は非常に少ない。

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