第114師団 証言ほか

証言ほか

△歩兵第127旅団
△△歩兵第66連隊
第1大隊
歩兵第六十六連隊第一大隊戦闘詳報
大関初次 証言 上等兵(大隊本部勤務)
一兵士の日記

第3中隊
原貫一 証言 (中隊指揮班)
森尾市太郎 証言 上等兵(中隊本部勤務)
渡辺紋蔵 証言 少尉(第1小隊長)
藤沢藤一郎 証言 上等兵
久保田和三郎 証言
水沼兼吉 証言

第4中隊
手塚清 証言 中尉(中隊長)
小宅伊三郎 証言 曹長(第1小隊長代理)
  阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城塁」
  高橋文雄『野州兵団奮戦記』
田波希平 証言 (分隊長)

第2大隊
青柳忠夫 証言 少尉(大隊副官)

第6中隊
田村猛 証言 (第6中隊第3小隊長)

第3大隊
第10中隊

大貫酉一 証言 (指揮班長)
日向野博 証言 軍曹(分隊長)

参考資料

































































第114師団 目次



一一四師作命甲第六十二号

第百十四師団命令 十二月十三日午前九時半  於 朱家楼子北方高地
一、城内の敵は頑強に抵抗しつつあり
国崎支隊は既に浦口に達し敵の退路を遮断しあり 集団の掃
蕩地区は共和門−公園道−中正道−漢中路(含む)以南の
地区とす
二、師団は攻撃を続行し城内の敵を殲滅せんとす
三、両翼隊は城内に進入し砲撃は固より凡ゆる手段を尽くして敵
を殲滅すへし之か為要すれは城内を焼却し特に敗敵の欺瞞
行為に乗せられさるを要す

両翼隊砲兵の配属を解く
四、砲兵隊は逐次陣地を曽家門、李家凹附近の線に推進し城内
の破壊に任し且両翼隊の城内掃討に協力しへし
五、騎兵隊は前任務を続行すへし
六、戦車第五大隊は城内に進入し両翼隊の掃討に協力すへし
七、師団通信隊は前任務を続行すへし
八、予備隊は箕家門(曽家門)に位置すへし 九、予は箕家門に至る
師団長 末松中将

『南京戦史資料集1』P450

 

第66連隊
第1大隊

歩兵第六十六連隊第一大隊戦闘詳報
自昭和十二年十二月十日 至昭同十二月十三日

(12月13日)
八、午後二時零分連隊長より左の命令を受く
左記
イ、旅団命令により捕虜は全部殺すへし
其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何
ロ、兵器は集積の上別に指示する迄監視を附し置くへし
ハ、連隊は旅団命令に依り主力を以て城内を掃蕩中なり
貴大隊の任務は前通り 九、右命令に基き兵器は第一第四中隊に命し整理集積せしめ監視兵
を附す
午後三時三十分各中隊長を集め捕虜の処分に附意見の交換をな
したる結果各中隊(第一第三第四中隊)に等分に分配し監禁室
より五十名宛連れ出し、第一中隊は露営地南方谷地第三中隊は
露営地西南方凹地第四中隊は露営地東南谷地附近に於て刺殺せ
しむることとせり
但し監禁室の周囲は厳重に警戒兵を配置し連れ出す際絶対に感
知させさる如く注意す
各隊共に午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺
殺を終り

連隊長に報告す
第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失
敗せり
捕虜は観念し恐れす軍刀の前に首を差し伸ふるもの銃剣の前に
乗り出し従容とし居るものありたるも中には泣き喚き救助を嘆
願せるものあり特に隊長巡視の際は各所に其の声起れり

『南京戦史資料集1』P567-568



大関初次 証言 上等兵(第一大隊本部勤務)

「私はたおれた一刈大隊長とともにいたので、第一線のことは知りません。部隊の後をついて行きましたが、捕虜のことは聞いたことがありません。
戦闘中のことだから、捕虜というより敵という感じが強かったのではなかろうか」

阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第19回 『丸』1990年7月 p.211



一兵士の日記

(12月13日)
午後五時、南京外廊にて敵下士官6名を銃剣を以て刺殺す。亡き戦友の敵をとった。全身返り血を浴びて奴ののど笛辺りをつきたるや、がぶ血をはいて死ぬ 。背中と云はず腰と云はず、刺して刺して刺しまくり、死ぬるや今度は火をつけてやる。中に、ウナリ乍ら(なが・ら)二、三尺はい出すのがある。生温い血が顔にはねる。
手を洗はず夕食を全く久し振りで食べる。

秦郁彦『南京事件』P159



第3中隊

原貫一 証言 (中隊指揮班)

「負傷したものですから第一線に遅れて雨花台の方に進みますと、中国兵の捕虜がいました。そこは戦線の後方で、一旦捕らえて放したものでしょう。問題の捕虜は第一線にいた捕虜だと思います。
戦闘詳報に書いてあるのでしたらそういうことがあったのでしょうが、私はそれは見ていませんからなんとも言えません。
しかし、南京事件を調べている人たちに、そのときの様子をどんなに説明しても分かってもらえないでしょう。戦場にいなかった人にその場をいくら説明しても正確には伝えることができないからです。
私は中隊の指揮班で給与係をやっていましたから、食料がないことはよく知っていました。だからああいう戦闘の状況で捕虜を処刑したと聞いても分かります。戦場を知っていれば、その処置に対して何も言えません。それが戦争です。
それに世の中は勝てば官軍ですから、第六十六連隊は何を言われてもしょうがありません。そう思っています」

阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第20回 『丸』1990年8月 p.210-211



森尾市太郎 証言 上等兵(中隊本部勤務)

「十二月十二日夜、中隊長と一緒の濠の中にいましたが、まわりには死んだ者や負傷者もおり、そのとき、中隊長のそばにいた兵隊はわずか十二、三人でした。
そのうち、上から、明日、南京城突入という命令が来まして、中隊長は、この兵力で攻撃か、と涙を流していました。
十三日朝、城壁の前の高台で中隊長と一緒だったことは記憶していますが、私は昼前、中華門から入り、そのとき中隊長も一緒だったかどうか記憶にありません。
城内では煉瓦作りの建物を中隊本部にして、中隊長もここにいました。
十三日、十四日と二晩南京城内にいて、私は十五日か十六日、中隊の遺骨を持って日本に帰るよう命令され、下関から船に乗りました。師団の遺骨を持っていた渡辺さんと一緒です。
捕虜については何も聞いておりません。捕虜を捕まえたり、命令があったということを陣中日誌に書いたこともありませんでした。
南京で一番記憶に残っていることは、下関に相当死体があったことです。下関から船に乗るとき見ました。凄惨だと思いました。
三月に原隊に戻りましたが、虐殺という話は戦後聞いたことで、中国兵は軍服を脱いで市民になりすましていたのでそういう兵隊をやったことを虐殺と言われているのでしょう」

阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第19回 『丸』1990年7月 p.212



渡辺紋蔵 証言 少尉(第1小隊長)

「第三中隊は十三日、十四日と城内にいたので捕虜を捕らえるということはありませんでした。
  城内に入ってしばらくするうち、私は師団の四百柱の遺骨を持って内地に帰るように命じられたので、南京から上海に向かいました。入城式(十七日)の前のことで、ですからあの入城式は全く知りませんでした。
  翌年二月に原隊に復帰したとき、南京では捕虜が二百人から三百人いたと聞いたことがあります。
  いま南京で虐殺があったと話題になっていますが、当時私が知っていたのはそれだけです。
  南京虐殺ということは戦後になって初めて聞きました。

阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第19回 『丸』1990年7月 p.211



藤沢藤一郎 証言 上等兵

----戦闘詳報によると、第三中隊も捕虜をやったとありますが。
「全然知りませんでした。第三中隊は十三日からずっと城内に入っていましたから」
----捕虜をやったことを第三中隊の他の人から聞いたことはありませんか。
「ありません」
----第三中隊は十三日全員城内に入ったのですか。
「全員かどうかわかりませんが、ほとんど入ったと思います」
----戦闘詳報を持っていらっしゃいましたが、捕虜処刑のところを読んでどう思いましたか。
「戦闘処刑は全部読んだわけではなく、自分の戦ったところだけを見たものでしたから。そのところを読んでどう思ったかについては特別記憶はありません」
----戦闘詳報がまるっきり嘘を書くことはないと思いますが。
「そうです。戦闘については中隊から来た戦闘詳報をもとに書きます。嘘を書くということはありません。ただし鹵獲兵器などは数字が来ますけど、もともと正確に数えていませんから、九十とあったら百と書くとかそういうことはあります。しかし、捕虜のことはよくわかりません」
----投降してきた中国兵がいたといいますが。
「さあ、私らが城壁の前で中国兵と向かい合っていたときはそういうことはありませんでした」
----西沢中隊長からは何か聞いたことはありませんか。
「西沢さんは本を書いていますが、そういうことは載っておりません。中隊会などでも虐殺したなどということは聞いたこともありません。
  お役に立てずにすみません」

阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第19回 『丸』1990年7月 p.210



久保田和三郎 証言

「南京城を見たときは感動しました。
  十二日ごろ、城壁を前にしていたとき、くすんだ白旗を揚げた丸腰の中国兵が来た。線路上に腰をおろしていたのを覚えている。その日と翌日の二晩、近くの校舎のようなものに泊め、二回食事を与えた。城外の濠には相当死体があって、そこを超えて南京城に向かったが、私は入城式には参加しなかった」

阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第19回 『丸』1990年7月 p.211



水沼兼吉 証言

「南京城壁の前で戦っていたとき、白旗を揚げて中国兵が投降してきたのをおぼえています。人数は百人弱でした。
  第三中隊が城内に入ったのは朝か昼かはっきりしませんが、夜ではありませんでした。そのとき第三中隊はまとまっていたと思います。
  中国兵のことですが、我々が城内にいたとき、中隊の幹部の人、西沢さんじゃありませんでした、指揮班の人あたりだったと思います、その人が、捕虜をやる、といって希望者を募っていました。
  戦闘詳報に書いてあるものでしたら、そのとき何人かが城外に戻ってやったのではないかと思います。ただし捕虜をやった場面は見ていませんからそれは私の想像です」

阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第19回 『丸』1990年7月 p.211-212



第4中隊

手塚清 中尉(中隊長) 証言
 

 昭和十二年十二月七日、南京に向かっている途中、手塚隊長は負傷し、平沢少尉と交代した。すぐ後方の野戦病院に運ばれた。野戦病院といっても形だけのものである。それから一週間ほどで南京は陥落し、入城式の日になって手塚隊長は南京城内に運び込まれた。それから数日後、上海に運ばれ、そこの病院に入院した。
 翌十三年一月にほぼ傷が治って、第四中隊に復帰して平沢代理と引き継ぎをすることになった。引き継ぎをした際、その間のさまざまな報告を受けたけれど、捕虜を殺したというような話は何も聞かなかった。
 しばらくすると、別の部下から、南京で中国兵を殺したという話を聞いた。そのときは、別段気にもとめていなかったので詳しく聞くことはしなかったが、数人の中国兵をやった、というニュアンスで部下の話を聞いた。
 南京で中国兵をやったという話を聞いたのはそれだけである。もし戦闘詳報のようなことがあったとするなら、そのことではなかろうか。
こういう話である。
 その後、誰が命令したと考えられるか、捕虜に対して手塚隊長はどのような考えを持っていたかなどを質問すると、手塚中隊長は次のように言った。
「激しい戦闘でしたから敵愾心は相当なものでした。
あのころ、一刈さんも負傷していましたから、渋谷さんが命令したのだろうか。
渋谷さんは現役の将校で、第一大隊の現役は一刈さんと二人だけでした。連隊が編成されるというので満州から急遽やってくることになったが、宇都宮まで来る時間がなかったので五島列島で私たちと一緒になりました。まあ豪胆な人でした。
しかし、中国兵をどうするというのは大きい問題だから上のほうに問い合わせたと思います。」

阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第18回 『丸』1990年6月 p.211


小宅伊三郎 証言 曹長(第1小隊長代理)

阿羅健一『兵士たちの「南京事件」 城塁』 連載第19回(『丸』1990年7月号)P212-213
「十二月十二日、第四中隊の戦力は半減していたが、第一線で戦っていた第三中隊の右側に進むように命令を受けて、私は第一小隊、第三小隊、指揮班の計六、七十人を指揮して第三大隊の掩護に向かった。ですから、当時の第四中隊は私が指揮していたことになります。もちろん第一線の戦場ですから、我々の中隊長がどこにいるのか、他の小隊がどこにいるのか分かりませんでした。
兵士廠の建物の前にある陸橋で指揮を取っていたが、やがて中国軍が後退し、その中に白布を振っている兵も見えたので射撃を禁止し、彼らに対して手招きをした。すると、城壁上から私を狙って撃ってきて、五、六発が私の近くに当たった。
それでも中国兵は三三五五降伏してきたので、私のところで検問して後に送った。検問している途中、中国軍の逆襲にそなえたり、井上戦車隊長との打ち合わせ等があり、どのくらい捕虜がいたのか正確には分からない。あとで千二百の捕虜がいて、他の隊が捕まえた捕虜二、三百も合わせると千五百人になると聞いた記憶がある。
しかし、あのとき千二百人の捕虜を検問して武装解除するだけの時間があったのかと考えてみると、とても千二百人もいたとは言えない。
その日の夕方だったと思うが、先輩の大根田副官から、この日の捕虜で誉められ、また、極秘だが引き続き杭州作戦があるといわれた。それを聞いて、兵隊たちは極度に疲労しており、さらに作戦があるのはひどいと思いました。
その後捕虜についてはどうしたのかはっきりした記憶がない。それでも捕虜収容状況を見に行き、行ってみると、収容所が騒然としていて警戒にあたる兵隊の苦労は大変だと思っていたのが印象に残っています。また、部下から捕虜への給与がなくなるとの問い合わせもあり、警備の交代と給与のことを大隊長に言った記憶がある。
一刈(大隊長)さんは負傷していましたが、片足になっても南京に突入するという頑固な人で、担架かなんかで運ばれてついてきました。大隊長に捕虜の件について言ったような気がしますが、大隊長からどういう答えがあったのか記憶にないのです。私は引き続き城内掃討もしなくてなりませんし、忙しかったのでその間も飛び回っていたと思います。
ただし、満州事変にも参加しており、常に軍紀に厳しく言っていました。捕虜を殺すように命令したなどということはありません。
城内に入っても兵隊の編成替え、誰を入城式に参加させるか、戦闘詳報の整備などで忙しく、私自身は入城式にも参加していません。
城内の大隊本部に行ったとき、外国の新聞記者二人が城内と雨花台を見たいといっているので失礼のないようにと言われ、(平沢)中隊長代理にそのことを言ったことがあります。中隊長代理とはそのとき久し振りに会ったくらいです。中隊といっても第一線ですからそれほど命令系統は混乱していました。
戦闘詳報について言えば、第四中隊の戦闘詳報は私が書いていました。もちろん捕虜処刑などありませんから、そんなことは書いていません。
大隊の戦闘詳報は、一刈さんがたおれ、まともなのは渋谷(大隊副官)さんだけです。渋谷さんは実際の指揮を取っており作戦の責任者ですが、戦闘詳報をどうするという時間はなく、また、大根田副官は実戦の経験から考えて戦闘詳報について詳しくはありません。ですから素人ばかりの大隊ではまともな戦闘詳報はなかったと思います。
戦闘詳報は文字どおりこの戦闘に関するすべての事実を詳報するもので、副官または書記が作製し、大隊長の決裁を経て連隊に報告するもので、責任者は大隊長ということになります。
捕虜の取扱は国際条約で定められており、捕虜とは戦意を失い、降伏して我が方の命令指示に従順に従う者をいいます。しかし、捕虜と言われている中には、戦闘に敗れ抗戦力を失い一時降伏の意を表し、収容されると群れをなしてただちに反乱したり、偽装降伏して再度戦線復帰の機をうかがうものがいます。捕虜護送中、捕虜が護送兵を急襲して武器を奪い、大脱走した例もあり、捕虜として確認するのには相当の日時を要することが多いのが現実です」
以上が小宅曹長の話である。
第一大隊戦闘詳報には「最初の捕虜を得たる際、隊長は三名を伝令として抵抗を断念して投降せば助命する旨を含んで派遣せるに」とあり、このときの隊長とは一刈大隊長ではなく小宅小隊長代理のことであることが分かったが、小宅小隊長代理は、捕虜を捕らえたのは確かだが三人を伝令に出したりとかそういうことは一切なかったという。
そして、中国兵を捕らえた小宅小隊長代理が捕虜虐殺命令を出したことも、そのような考えを持っていなかったことも分かった。
最後に、渋谷第一大隊長代理、平沢第四中隊長代理あたりが実際命令したらしいという話もあるが、どう思いますか、という問いに小宅氏は、
「あの前後、渋谷さんや平沢さんがどうしていたかはっきりしませんが、ともに第一大隊本部いたのではないかと思います。また、捕虜がいたことについては一刈大隊長も知っています。問題は捕虜についてですから、連隊長以下でできることではありません。
しかし実際どうだったのか、捕虜を捕らえて第四中隊を指揮していた私すら知らないので、相当混乱していたと思います。誰がどうしたのか私には全く分かりません。
第一大隊戦闘詳報に書いてあるのでしたら、形の上では一刈大隊長ということになるのでしょうか」
このように答えた。

高橋文雄『野州兵団奮戦記』 (昭和58年4月10日発行)
p260-261
その第一大隊も、北支戦線にいる五十九聯隊のように、内地宇都宮の留守隊から補充兵が未到着であり、わずか近衛の独立機関銃大隊の二個小隊が配属されただけ。第一線の第一、第三中隊は編成定員百九十四人が相次ぐ激戦で半数を割った。岡田恒房中尉(高根沢町)の第二中隊は聯隊の予備隊。第四中隊は南京総攻撃前に大貫龍男(大田原市野崎)、加藤箕三郎(宇都宮市)小隊長が戦死。総攻撃開始直前に頼みの綱の手塚清中隊長(宇都宮市)も負傷したため、ただ一人残った将校の平沢新次郎小隊長が中隊長代理として第一大隊の予備隊となった。小宅伊三郎中隊指揮班長が第一小隊長兼務となり、戦場に残されている第一大隊の負傷者の収容と仮包帯所への後送任務を渋谷大尉から命ぜられ、任務に当たっていた。
当時の状況を第四中隊の小宅伊三郎さん(益子町生田目)は、
ひとことの痛みも口に出さない部下思いの手塚中隊長殿。秣陵関の敵攻撃中、半身に敵機関銃弾四発を受けて重傷の五島善作軽機関銃手(塩原町関谷)。五発の敵弾を受けたが右のポケットに入れてあった大貫小隊長殿の遺骨と認識票で奇跡的に生命が助かった県栄分隊長(宇都宮市二条町)など数多くの重傷者と衛生兵を抱え、敵の真っただ中、逆襲を考えながらの一夜はつらかった。師団主力は急行列車のように、南京へ南京へと前進して行き、夜明けには友軍の姿はなく、ウチの小隊の五十人足らずとなった。計画どおり負傷者を後送し、身軽になった小隊は第一線に追及のため、南京街道上を出発したとたん、敵の攻撃を受け、街道上は前進不能となり、田んぼのアゼを遮蔽物として各兵の距離二、三メートルとり、匍匐前進した。山頂の敵の射撃は正確で、前後左右に横なぐりに突きささった。このため苦しい匍匐を約一キロして、やっと危機を脱した。何回も敵襲に遭ったが応戦せず、夕刻大隊の後尾についた。奇跡的に一人の負傷者もなかった。師団は敵に行動をわからせないよう戦死者をダビするほか火気の使用を厳禁していたので、私は天幕をかぶり、ローソクの光で地図と地形を照合したら、南京近くきたのがわかった。そのころ兵隊は谷間に火を発見。腹が減っては戦にならぬと、飯ゴウを並べて飯をたいた。私もそこに行った。兵隊は少しでも早く炊きあがるようにとそばに丸太が五、六本あったので、それを燃やせと火の中に入れようとした。よく見たら、丸太の先に焦げた軍靴がついていた。兵隊が炊事をしていた火は、戦友たちの遺体を火葬にした火と知った。今さら他に火を求めることもできないので、涙ながらにこの火で炊いた飯ゴウ飯をたべた。
と回想してくれた。

p268
ウチの大隊は雨花台の要塞に近い敵の築城地帯内で、陣地戦を展開。下関方面の敵重砲と雨花台の迫撃砲の猛砲撃を浴びて苦戦中であった。とくに第三中隊は敵陣地の真ッ正面で、四つに組んでの大激戦になり、相当の損害がでていたようだ。まだ予備隊であった私は破壊された中国民家内で、陣地攻撃の原則を考えた。陣地内の戦闘はどうしても白兵隊になるので味方に不利。敵が予期しない方面に引っぱりだしてたたくか、包囲しか手がないであろうと考えていた。そのとき、敵迫撃砲の集中射撃をくった。その一弾が目の前でさく裂し庭先にあった大きな中国ガメが吹っ飛んで姿を消し、あたり一面にハクサイのつけ物が散乱した。だれともなしにはいだして、泥によごれたつけ物をむさぼり食った。私もその一片を食べたが、そのうまいこと。とても言葉には表わしようがないほどだった。五十九聯隊に在隊中、満州事変に出征したが、そのとき砲煙弾雨のなかで戦友たちとキャベツを食べたことを思いだした。思えば今度の戦争で杭州湾上陸いらい、ふるさと益子の野山で遊び回った三人の幼な友達が壮烈な戦死をとげ、遺体の手を涙ながらに握りしめて別れたが、いま私が生きているのが不思議なような気がした。そのとき、第四中隊は第三中隊の右翼に進出せよとの大隊命令を受けた。攻撃前進を始めたとたん、中隊は乱戦にまき込まれ、うちの小隊は中隊主力から孤立した。各個躍進する小隊の先頭に立った私は、着剣した小銃を握ったまま戦死している戦友を発見した。軍服の名札に「竹井」と書いてあった。まさに味方のしかばねを乗り越えての戦闘であった。

p272
擲弾筒と手榴弾で敵を制圧していたら、軽装甲車隊長の井上中尉殿が私のところに「敵の対戦車砲で動きがとれない。宇都宮さんでこれを攻撃してくれ」といってきた。豪胆な田波希平分隊長(元小山市農業協同組合長)と山形徳治分隊長(西方村)に乏しい兵力のなかから二個分隊をさき、奇襲攻撃を命じた。田波分隊は敵将校が死守する対戦車砲陣地にひそかに近づき、石川寛軽機関銃手(真岡市)の発射を合図にこれを不意急襲し、敵を撃退したばかりでなく、砲二門を分捕って意気揚々と引き揚げてきた。このため、軽装甲車隊の行動が容易になったので、精強を誇る敵兵のなかにも白旗を立て投降するものが続出した。これを見た敵将校は城壁上や後方から投降せんとする味方の兵を有無もなく射殺した。戦争とはむごいものだと思った。



田波希平 証言 (分隊長)

「南京城には城壁からでなく、城門から入りました。中華門だったと思います。入った日にちははっきりしませんが、昼だったと思います。
  捕虜は城外にいたとき、何人かいてご飯を食べさせました。その後、大隊から命令が来たのか、その捕虜を処分することにしました。夕方でした。平沢(第四中隊長代理)あたりからの命令のような気がします。
  捕虜にご飯を食べさせたことも、やったことも、考えてやったことではありません。すべて命令です。あのときは無我夢中で、それが戦争だと思っていました」

阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第19回 『丸』1990年7月 p.212



第2大隊

青柳忠夫 証言 少尉(大隊副官)

  青柳氏にとって、軍隊時代の体験は今でも心の中で大きな部分を占め、大切に保存しているハードカバーの陣中日誌をたまにひもとくこともある。陣中日誌には第六十六連隊から受けた命令と、それを受けて第二大隊が出した命令がすべて記録されている。大隊副官の陣中日誌であるけれど、第二大隊の戦闘詳報はこれを基に書かれたものであるから、第二大隊戦闘詳報の原本にあたる。第一大隊戦闘詳報と同じ価値を持つ。
  青柳氏は大隊本部にいただけに軍の命令には詳しく、第六十六連隊の命令について具体的に聞くことができた。
  青柳氏は陣中日誌をもとに命令の実際について話をし、また、陣中日誌に書いていないことも話してくれたが、まず、たずねたことは、第二大隊にはどのような捕虜処刑の命令が来ていたかということである。
  しかし、青柳氏の陣中日誌には捕虜処刑の命令が書かれていない。
  そこで、日誌には書かれていないけれど命令はあったのではないかたずねると、青柳副官は、連隊から捕虜処刑という命令を受けた記憶はないときっぱり答えた。
  その代わり青柳氏は自分が直面した捕虜の話をしてくれた。
  十二月十二日のことである。もしかすると、一日のずれがあるかもしれないが、十二日前後のことで、南京突入を今か今かと身構え、連隊、旅団、師団の各司令部がだんご状態になっていたときのことである。第二大隊は師団司令部の護衛をしていたが、そのとき、中国兵を捕らえた。中国軍と日本軍は入り乱れていたから師団司令部の近くにも中国兵がたくさんいて、中国兵を捕まえたからといって特別奇異なことでもない。捕らえた数は三百から五百であった。
  青柳副官ははじめての経験だったためどうしたものかと近くにいた師団参謀長磯田三郎大佐に指示を仰いだ。銃声、砲声がひっきりなしで、混乱している中でのことである。すると、磯田参謀長からは、
  「厳重に、しかるべく処理せよ」
  と指示がきた。
  その指示を受けると、青柳副官は、捕虜に銃と弾と持ち物をその場に置いて、前に進むように、と通訳に言わせた。銃弾は部下に命じて集めさせ、持ち物は没収させた。中国兵は全員を戦線の後方に連れていって釈放させた。
  没収した中国兵の持ち物とは米の入った袋であるけれど、青柳副官は参謀長から指示されたとき、すぐにこの袋を狙おうとしたのだ。なにしろ数日間、満足に食べていないので、中国兵を見たとき、これが真っ先に目に入り、結局、日本兵で食べた。
  当時、何人かの新聞記者が師団司令部にいて、その中に青柳副官と大学で同窓の三船四郎朝日新聞記者もいた。これをそばで見ていた新聞記者の一人が、青柳副官の行動は連隊長の指示どおりなのかと青柳副官にたずねたので、連隊長の指示どおりだと答えた。
  このような捕虜の話であった。
  それでは、第一大隊の戦闘詳報の話についてはどうなのか。青柳氏は自分の体験からと言って、次のように推測した。
  第一大隊でも捕虜を捕まえて同じように上に指示を仰いだのではなかろうか。作戦命令の記録も残っていないから、命令というものではなく、いわゆる指示を仰いだものだろう。たぶん、青柳副官が磯田参謀長から受けたと同じ指示が第一大隊にも行ったのではないか。
  そのように判断するのは青柳氏が上の人の考え方をよく知っているからである。
  青柳副官は南京入城直前、旅団長の秋山充三郎少将から、兵隊は戦闘中は軍紀を守るが、戦いが終わると気がゆるんで何をするか分からないから、これからが大切だ、と念を押された。また、磯田参謀長からは先ほどのように厳重にしかるべく処理せよとの指示を受けている。磯田参謀長はのちに日米が開戦するときの駐米大使館の武官をつとめる人であるけれど、南京に向かう途中も話す機会があり、ある程度、参謀長の考え方を知っていた。だから「捕虜は殺すべし」という命令が師団や旅団から出されるということはどうしても考えられない。
  しかし、その後、指示を受けて第一大隊はどうなったのか、そしてどう行動を取ったのか。捕虜を処刑したという話は当時聞いたことがなかったし、第一大隊もたぶん自分と同じような処置を取るとしか考えられないので、戦闘詳報にあるようなことは想像ができない。

阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第20回 『丸』1990年8月 p.208-209



第6中隊

田村猛 証言 (第6中隊第3小隊長)

「捕虜がいたとか、それをどうしたとかということは知りません。雨花台ではどうやったら勝って生きて行けるかだけを考えていました。虐殺ということは戦後になって始めて聞いたことです」

阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第20回 『丸』1990年8月 p.206



第3大隊
第10中隊

大貫酉一 証言 (指揮班長)

「虐殺の話はどういう場面なのか全然わかりません。十一日ごろだったと思いますが雨花台のほうにたくさんの捕虜いたのを見たことがあります。捕虜の数は、本当かどうか七、八千人とか一万人とか聞いたこともあります。その後、私らは城壁の攻撃があったので、捕虜がどうなったかは知りません。
  私は十二日、銃剣を持った中国兵に飛びかかられてどうにか助かりましたが、そういう中でのことですから殺すか殺されるかで、戦場はすごいものでした。虐殺という話は中国の宣伝ではないでしょうか」

阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第20回 『丸』1990年8月 p.206



日向野博 証言 軍曹(分隊長)

「他の大隊のことだが、各中隊で八十人から百人くらいの捕虜がいて、これをやったと聞いたことがある。そのとき、工場に追い込んで手榴弾を投げ込んだとも聞いた。
  その話を聞いたのは南京戦の後か戦後のことかはっきりしないが、捕虜を連れて攻撃もできないのでやったのではないか。
  我々の隊も一人とか二人の中国兵を処刑したことがある。移動しているから処刑するしか方法がなかった」

阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城壘」第20回 『丸』1990年8月 p.207

 



参考資料

  • 『野州兵団奮戦記』高橋文雄著、渋谷行雄編、発行者:塩井貴信、発行所:中央通信社
    (昭和58年4月5日印刷、昭和58年4月10日発行)
  • 『南京戦史資料集 1』南京戦史編集委員会
    (初版平成元年11月3日、増補改訂版平成5年12月8日)
  • 阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城塁」連載第18-20回
    (『丸』1990年6-8月号)
  • 『南京事件』秦郁彦、中央公論社
    (1986年2月25日初版、1998年9月20日19版発行)