両角手記の検証 総目次 |
1.はじめに 2.両角業作の経歴 3.掲載資料の紹介 4.各資料における文面比較:両角日記 5.各資料における文面比較:両角手記 6.両角日記・手記の出自 7.史料批判:郷土部隊戦記 第1 8.史料批判:箭内証言・平林証言 9.史料批判:両角手記 10.まとめ 11.参考資料 |
両角業作の経歴ほか
両角業作。1888年、長野県に生まれる。
1910年(22歳)、陸軍士官学校を卒業(第22期)、その後、歩兵第58連隊で中隊長まで勤め、軍教育機関、歩兵第59連隊で大隊長、歩兵第1連隊付、歩兵第29連隊留守隊を経て、1937年9月10日付で歩兵第65連隊長となる。連隊長として第二次上海事変、南京攻略戦に参加した後、内地勤務を経て少将へ進級。
1940年、第39兵団長として中国へ出征、その後、留守第5師団へ転属(内地勤務)。
1944年、中将へ進級し第30師団長としてフィリピン守備を担当、1945年9月7日に米軍に降伏し、1947年に復員する。
1963年9月に死去(75歳)。(以上、wikipediaによる)
なお、南京戦当時、歩兵第65連隊長の両角は大佐で49歳。上部組織の歩兵第103旅団長・山田栴二は少将で50歳、第13師団長・荻洲立兵は中将で53歳だった。
両角大佐の人物像を示す資料は少ない。「人情部隊長」などという表現を見るが、この様な表現は戦記物の定型文の様なものなので評価としては信憑性に欠けるだろう。経歴を見る限り、軍事官僚としては出世コースにいたとは言えない。最終的に中将まで進級したのは、戦争の長期化と日本の敗勢が主な要因と考えられる。
南京戦当時、両角大佐が率いた歩兵第65連隊は特設師団の一部隊であり、輜重はすべて駄馬編成、装備、訓練ともに見劣りのする部隊だったという(『郷土部隊戦記』より)。1937年9月10日付で連隊長となっていることから、上海戦の膠着状態による急ごしらえの編成だったと思われる。
この様な状況から考えて、歩兵第65連隊、引いては第13師団は精強な部隊とは言えず、両角自身も「追撃戦開始以来場末の裏街道ばかり歩まされた連隊」(両角手記)と述べているように、上海派遣軍内でも決して攻撃正面を担当するようなポジションに無かったことが分かる。
その様な部隊が敵首都である南京攻略戦に参加できるというのは、まさに「棚からボタモチ」で「片隅にでも顔を出したいのが心情であり、勇躍した」(両角手記)というのも無理のない話だろう。
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