幕府山砲台航空写真の検証[03]①上元門

幕府山砲台航空写真の検証ic 第13師団
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幕府山砲台航空写真の検証 総目次
1.はじめに
2.検証素材
3.①上元門
4.②上元門―上元門崗道路
5.③上元門崗
6.④篆塘
7.⑤蔡家窪
8.⑥雷庫
9.まとめ
10.参考資料

①上元門 

▼上元門

上元門 地図写真
上元門 地図写真

▼上元門 地図拡大

上元門 地図拡大
上元門 地図拡大

▼上元門 航空写真

上元門 写真拡大
上元門 航空写真

  上元門附近の地理を説明したい。図の北西にある上元門から南東(上元門崗方面)にかけて道路が通っている(便宜上、上元門―上元門崗道路と呼ぶ)。この道路と上元門で交差する形で、下関から燕子磯へ向かう道路が通っている(便宜上、下関―燕子磯道路と呼ぶ)。
 多くの研究者の指摘するところでは、日本軍が捕虜を殺害する際の連行ルートとして、上元門崗方面から上元門へ至り、16日は下関―燕子磯道路を左折(西進)し「海軍倉庫」(水魚雷営)で、17日は下関―燕子磯道路を右折(東進)し燕子磯方面に進行、途中の「大湾子」で殺害に至っている。

 以下、航空写真に付した番号を検証する。

[1] ここは幕府山西麓に位置し、写真の中でも「守備隊営」と書いてあるとおり、幕府山砲台の施設と思われる。規模の大きな建物が5つ確認できるほか、小さな建物も複数確認できる。

[2] [3] 守備隊営から上元門部落に出た場所で、上元門―上元門崗道路の東側部分には規模の大きな建物が5つ確認できる。ここも軍事施設の一部なのかもしれない。

[4]上元門―上元門崗道路の西側には小さな建物が複数見える。民家だろうか。

[5]地図上には描かれていない建物が写真上にはいくつかある。この地図は1933年に撮影測量されて作成されているので、それ以降に建てられた建物が写真に写っているのだろう。大きい建物もあるようだ。

[6]写真では「火」と書かれており、地図では弾薬庫と書かれている。幕府山砲台で使用する弾薬庫だろうか。

[1][2][3]はいずれも捕虜を収容するのに適した大規模な建物のように見える。しかし栗原証言※1や両角手記※2、歩兵第65連隊第9中隊I氏証言※3では、収容所の位置を幕府山南麓としている点から考えると違うように思える。収容所が一地点ではなく、複数の地点に分散されていたと主張する研究者もあるが※4、そう考えるとここもその一部だと考えてもおかしくはない。


※1 栗原証言
栗原利一 歩兵第65連隊第2中隊 伍長
その位置は幕府山の丘陵の南側、つまり丘陵をはさんで長江と反対側だったと田中さんは記憶し、当時のスケッチでもそのように描いている。
本多勝一『南京への道』p312
http://kk-nanking.main.jp/butaibetu/yamada/kurihar…

※2 両角手記
両角業作 歩兵第65連隊 連隊長 大佐
これを運よく幕府山南側にあった厩舎か鶏舎か、細長い野営場のバラック(思うに幕府山要塞の使用建物で、十数棟併列し、周囲に不完全ながら鉄線が二、三本張りめぐらされている)
『南京戦史資料集2』p.339
http://kk-nanking.main.jp/butaibetu/yamada/65i.htm…

※3 歩兵第65連隊第9中隊I氏証言
I氏(伊達郡)証言 歩兵第65連隊第9中隊 伍長
捕虜収容所は幕府山の南側にあり、そこから見た幕府山はなだらかにみえた。山の下に”もろ”があり、捕虜はそこに全部収容した。洞富雄『南京大虐殺の証明』p.139
http://kk-nanking.main.jp/butaibetu/yamada/3daitai…

※4 例えば阿部輝郎『南京の氷雨』p.55-57

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