山田支隊の兵力推計 [05] 兵力推計

山田支隊の兵力推計 第13師団
山田支隊の兵力推計ic
山田支隊の兵力推計 総目次
1. はじめに
2. 研究者の見解
3. 資料
4. 刊行資料の根拠につい
5. 兵力推計
6. まとめ
7. 参考資料

兵力推計

 これまで紹介してきた資料に基いて山田支隊の各部隊の兵力推計を試みる。

歩兵第65連隊の兵数

 歩65の兵数推計をするに当り、これまで紹介した資料に基いて推計を実施するが、両角手記と平林貞治証言については、述べている内容と根拠が曖昧なため推計根拠から外す。
 資料の内容を表にまとめると次のようになる。

歩65兵数一覧
歩65兵数一覧

編制時兵数

 歩65の編制時(1937年9月18日)の兵数について、一番大きな数値を示しているのは、歩65戦闘詳報「死傷表」の3760名、一番小さい数値は『ふくしま戦争と人間』の3600名となる。
 資料の信憑性は、第13師団戦闘詳報「死傷表」や歩65戦闘詳報「死傷表」の戦闘参加人員が高いと思われるが、これとて前者が3720名、後者が3760名と資料間でばらつきが見られる。
 『ふくしま戦争と人間』(1982年)では3600名としているが、同じ福島民友新聞社が刊行した『郷土部隊戦記第1』(1964年)では3700名とする。どの様な由来でこの様な差が出たのかは分からない。
 編制時の兵数の記述が違う原因としては、動員予定数と実際に動員された数との違い、資料によっては戦闘開始時点の参加人数が記載されているため、第1次補充兵(10月10日)55名が含まれている可能性があり、また、戦闘開始以前に病気や怪我で欠員となった可能性が推測できる。
 総じて言うならば編制およそ3700名とするのが妥当だろう。

補充兵

 編制時の兵数に対し増加要因として補充兵がある。既に紹介した通り補充兵は、第1次10月10日55名、第2次10月24日423名、第3次12月5日374名、第4次12月17日427名となっている。このうち、第4次補充兵は捕虜殺害2日目の12月17日に到着しており、幕府山での投降兵の捕獲や捕虜の管理には携わっていなかったので推計外とする。
 補充兵数に関しては資料間でほぼ一致している。刊行資料による最初の補充兵の数が、420名~478名とブレがあるが、これはおそらく、第1次55名と第2次423名を合計した478名、第2次のみ数値である423名、423名を四捨五入(もしくは一の位の切捨て)して420名という違いだろう。

死者数

 死者は最も重要な要素であり、かつ資料的裏付けも多い。
 刊行資料では696名~700名となっている。『第四中隊史』のみ10月30日時点の数字として612名としているが、他の刊行資料ではその後の追撃戦・江陰城戦(11月12日~12月2日)で80名の死亡を計上しているので、この『第四中隊史』の数値も刊行資料とほぼ一致する内容と言える。
 一方、戦闘記録は追撃戦・江陰城戦の記録がないものの、上海戦・羅店鎮警備(10月7日~11月11日)の死者数は496名~515名となっており、刊行資料の同期間の死者数612名~620名と比較すると100名前後の開きがある。

 阿部輝郎氏によれば歩65の全期間の戦没者名簿を閲覧したというので、阿部氏が関わった『郷土部隊戦記 第1』『ふくしま戦争と人間』の戦死者数は、この戦没者名簿から割り出したみられ、その信憑性は高いと思われる。
 先にも説明した通り、戦闘記録というのは一次史料であり信憑性は高いことは言うまでもないが、資料の同時代性という利点は、逆の結果となる場合も考えられる。例えば、歩65や第13師団の戦闘詳報の作製根拠となった資料が戦闘直後のものだった場合、報告が遅くなる等で集計からもれた数字があった可能性がある。例えば野戦病院へ運ばれた後に死亡したケースなどが想定できる。そう考えると、一次史料だからといっても必ずしも真実性を担保するものではないとも言える。
 刊行資料が根拠とする戦没者名簿は軍の内部資料ということもあり、死亡していない者を死亡したとすることも稀だろうから信憑性は高いと思われる。もっとも、幕府山事件の捕虜殺害で返り討ちにあった宗像少尉のケースでは、不名誉な事件ということもあって死亡時期が偽装されたとも言われる(『南京の氷雨』 pp.102-103)が、これもまた特殊なケースだったのではないだろうか。
 以上、それぞれの資料の状況を考えてみたが早計に結論を出すことは出来ず、死者数は600名~700名とするのが妥当だろう。

負傷者・病気

刊行資料の概観

 負傷者数に関しては不確定要素が多い。
 福島民友新聞社が出している『郷土部隊戦記 第1』と『ふくしま戦争と人間』、そしておそらくは『郷土部隊戦記 第1』を基礎資料としている木村守江『突進半生記』は1500名としている。しかし、『ふくしま戦争と人間』はこの負傷者1500名とは別に病気300名を計上しているので、同じ負傷者1500名でも意味合いは大きく違ってくる。
 『若松聯隊回想録』は、上海戦・羅店鎮警備(10/7~11/11)の期間で、負傷・病気を合わせて1719名とする。この時点でこの死者数というのは他と比較すると飛び抜けて過大な数値である。一の位までの数値であることから何らかの資料に依拠したものと思われるが、何を根拠資料したか判断できない。これは普通に考えると、上海戦~江陰城戦(10/7~12/2)の数字と見るべきではないだろうか。
 『第四中隊史』では、10月30日時点の数値として、師団・連隊・中隊の死者・負傷者(連隊のみ病気)を挙げている。このうち師団の死傷者数は概数として死者1900名、負傷者3900名としているのに対し、連隊は戦死612名、負傷932名、病気171名、中隊は戦死56名、負傷80名と詳細な数値を出している。ちなみに、補充員数も第四中隊の数値を出していることから、第4中隊に関する詳細な戦闘記録を参照したと思われる。面白いのは連隊の戦死者数は他の刊行資料と一致し、病者数は歩65戦闘詳報と一致する点だ。連隊の負傷者数を932名としているが、第13師団死傷表の819名、歩65死傷表び803名と比較しても100名以上の差がある。
 以上、刊行資料の負傷者数を概観してきたが、いずれにしても根拠資料が分からないので、甲乙付けることは難しい。

戦闘記録の概観

 次に戦闘記録だが、まず、第13師団戦闘詳報と歩65戦闘詳報の負傷者数を比較すると、採録期間が違うためか若干の数値の違いが見られる。また、歩65戦闘詳報には編成表と死傷表で兵数の記述があるが、両者の間にも数値の違いが見られる。

 歩65戦闘詳報の編成表と死傷表の数値を比較すると、両表では病気(平病・伝染病)の人数でいずれも合計171名と一致している。一方で軽傷者数は、編成表で132名、死傷表では152名(士官7名、下士官兵145名)として数値が一致しない。
 この軽傷者の人数が一致しない理由だが、編成表の軽傷者数は野戦病院に入院している軽傷者数を意味し、死傷表の軽傷者数は軽傷を負ったまま連隊内に留まっている者を意味していると考えられる。
 なぜならば、編成表の軽傷者数は「本表ニハ伝染病患者(三五)平病患者(一三六)軽傷(一三二)ヲ含マス」と書かれている。編成表は現在連隊内に存在する人数を表すもので、表記された軽傷者数が「本表ニ…含マス」というのであれば、その軽傷者は連隊に存在せず野戦病院に収容されていると考えることが出来る。
 一方、死傷表の軽傷者数は備考欄において「本表外軽傷ニシテ隊中ニ在ル者」と書かれている。これが意味するのは、死傷表の負傷数803名に含まれない軽傷者が連隊内にいるということで、その数が152名(士官7名、下士官兵145名)というわけだ。
 つまり、「軽傷」といっても編成表と死傷表で意味が異なり、編成表の軽傷は野戦病院にいる者の人数を意味し、死傷表の軽傷は連隊に留まっている者の人数を意味していることになる。

 歩65戦闘詳報の編成表と死傷表の軽傷数の違いについては上記の通り整合性を取ることが出来るが、一方でこの戦闘詳報の数値に補充数を加味した場合、編成表で示された現員数と、死傷表で示された戦闘参加人員・損耗数から割り出される現員数は整合性が取ることが出来ない。これらの数値を計算すると次のようになる。

【編成表】11月4日時点の現員数2566名
【死傷表】戦闘参加人員3720名(※)+補充員423名-死者496名-負傷者803名-病気171名=11月4日時点の現員数2673名(編成表との差+107名)
※ 10月11日からの戦闘参加人員のため、10月5日の第1次補充員55名は含まれるとみなす。

 同じ戦闘詳報による2つの表において、この様に単純計算では現員数を一致させることは出来ない。この差が何に由来するのかは推測になるが、補充員数が違っている可能性、または負傷者や病者が復帰したケースによる差が出ている可能性もある。いずれにせよ、全ての整合性を求めることは難しいようである。

追撃戦・江陰城戦での負傷者数

 『郷土部隊戦記 第1』に基いて上海戦~江陰城戦(10月7日~12月2日、以下通期とする)の負傷者数を1500名と仮定すると、第13師団や歩65の戦闘詳報における上海戦・羅店鎮警備(10月7日~11月11日、以下前期とする)の負傷者数は約800名だから、追撃戦・江陰城戦(11月12日~12月2日、以下後期とする)の負傷者数は約700名となる。
 負傷者数のうち前期800名と後期700名を比較すると、前期の上海戦は激戦であったことが知られているのにも関わらず、後期にも同程度の負傷者があったというのは不自然に見える。実際に死者数を比較すると、前期は616名で後期は80名となっており、後期は前期の約13%程度しか死者数は発生していない。
 この割合を負傷者数に当てはめるならば前期800名の13%で後期は104名となり、全期間の負傷者数は904名(約900名)と推計できる。仮に病者数にも同様の割合を当てはめるならば前期171名の13%で後期は22名となり、全期間の病者は193名(約190名)と推計される。

負傷者数・病者数の推計

 以上により、負傷者数は900名(戦闘記録推計)~1500名(刊行資料)、病者数は190名(戦闘記録推計)~300名(刊行資料)ということになる。

小括

 それぞれの項目の推計を試みてきたが、その推計に基いて歩65の幕府山事件時の兵数を計算する。
編制数3700名+補充員852名-死者600名~700名-負傷者900名~1500名-病者193名~300名=兵数2052名~2859名
 それぞれの項目には推計幅があり、最終的には800名を超える推計幅となった。板倉氏を除く研究者が2000名~2200名と述べていた数値を包含する推計と言うことは出切る。

山砲兵第19連隊第3大隊の兵数

p.40
 九月ニ四日には動員を完結、高田練兵場において軍装検査を実施す。聯隊長横尾闊中佐以下三、四八八名軍馬二、〇五六頭。

p.63
 一〇月四日第三中隊貞保才吉伍長(三条市出身)が戦病死している。これが聯隊の最初の犠牲者であった。

pp.67-68
 聯隊として将校の最初の戦死は4BA上羽正夫少尉で戦傷後聯隊本部をへて野戦病院に後送され一五日に戦没されている。
 これに伴ない第一大隊副官大久保清少尉(後に戦傷右腕切断)第四中隊小隊長に、佐藤敬三郎少尉聯隊本部より第一大隊副官となる。この佐藤少尉は二六旅団司令部に行き旅団長沼田少将の水筒の蓋でウイスキーを飲みかわし後まもなくコレラにて死亡している。その頃第一大隊通信掛吉沢保少尉も聯隊本部と電話連絡中突然通話不能となったがこのとき既にコレラに罹り後死没している。(小野源次郎氏回想)
 このように上海戦線ではコレラ、赤痢等の悪疫流行して戦力に多大の影響を及ぼしている。
本戦斗における戦没者
一〇月一九日 Ⅰ 上 篠塚正吉
一〇月一八日 1 上 小林滝雄
一〇月二六日 3 上 片野長右エ門
一〇月一六日 Ⅱ 上 古山政二
  〃      上 佐藤操
一〇月二八日 4 上 大湊藤作
一〇月一五日 5 衛上 佐藤清
一〇月二二日 Ⅲ 伍 小林甚作
  〃    〃 〃 酒井雄次
  〃    〃 上 高野子之吉
  〃    〃 〃 佐藤春松
一〇月二四日 7 伍 田畑長作
一〇月一五日 4 少 上羽正夫
将校の戦傷
善方少尉 大久保清少尉 宮本義太郎大尉 

p.74
(K-K註:謝家橋鎮附近の戦闘)
本戦斗における戦没者
一一月一九日 1BA 中尉 佐藤清次郎
一二月一日  〃 戦傷死 少尉 五十嵐政記
一一月二四日 5 中尉 池田博
一一月一三日 Ⅲ 上 折笠千代吉
一一月一六日 7 〃 浅見芳一
一一月一八日 〃 〃 木滑啓治
 〃     〃 伍 滝沢盛治
<第一次補充員の到着>
 一〇月二一日将校以下二三〇名の第一回補充員呉淞に上陸、聯隊本部阿部少尉の出迎えをうけ、老宅の聯隊本部に到着す。将校は鈴木常徳、池田博(5)伊藤忠(Ⅰ)吉田秀夫(Ⅲ)の四名であった。

p.80
 江陰要塞攻撃直前に5BA芳本少尉外補充となり着任した。

pp.83-85
一二月二六日〔ジョ(サンズイ+除)〕県で師団は第一回慰霊祭が行われた。灰色の空が低くたれこめ、小雪ちらつき、寒風強く頬を打つ中に身のひきしまる日であった。
動員編成以来の19BAの戦没者は
戦死 二八
戦傷死 一四
戦病死 四〇
計 八二
であり、更に多くの傷病に倒れ病院に療養中のものがあった。

山砲兵第十九聯隊史p44
山砲兵第十九聯隊史p44
第13師団死傷表-19BA
第13師団死傷表-19BA

編制数

 編制時の兵数については、『山砲兵第十九聯隊史』p.40で「九月ニ四日には動員を完結…聯隊長横尾闊中佐以下三、四八八名…」と書かれており、その数は3488名となっている。ただし、同書pp.44-45に掲載されている編成表では、連隊の総計は3448名となっている。どちらかが誤記された可能性もあるが、編成表は「昭和一二年度陸軍動員計画附表」と付されていることから、p.40の3488名は実際の動員数で、編制表の3448名は計画数だったと見ることも出来る。
 なお、山田支隊に編成されたのは山砲19のうちの第3大隊だけなので、1個大隊の編制数を編制表より抽出すると以下のようになる。
 1個大隊総数960名=大隊本部225名+中隊194名×3個中隊+大隊段列153名×1個段列

 一方、第13師団戦闘詳報 附表 死傷表によれば、戦闘参加人員として10/7~11/1は3276名、11/2~11/11は3536名を計上している。

 編制時の連隊兵数は3276名(10/7時点)~3448名と推計する。

補充兵

 補充兵については、『山砲兵第十九聯隊史』(p.74)で1937年10月21日に第1次補充兵230名が到着したという記述がある。また、日付は分からないがp.80には「江陰要塞攻撃直前に5BA芳本少尉外補充となり着任した」と書かれているので、11月15日前後に人数不明ながら補充があったようだ。

死者数

 『山砲兵第十九聯隊史』(p.85)には、1937年12月26日の時点の記述として、「戦死二八 戦傷死一四 戦病死四〇 計八二名」と書かれている。
 第13師団死傷表による死者数は、10月7日~11月1日には17名、11月2日~11月11日は1名、合計18名となっている。
 興味深いのは聯隊史で書かれている戦病死数40名で、死者総数の半数に近い数値となっている。また、第13師団死傷表では11月11日までの死者数として18名を計上しているが、聯隊史の死者数と比較すると、死傷表の死者数には戦病死・戦傷死は含まれていないように見える。

負傷者

 負傷者に関する資料は第13師団死傷表しか存在しない。
 第13師団死傷表における負傷者数は、10月7日~11月1日は94名、11月2日~11月11日は1名、合計10月7日~11月11日は95名となっている。
 先にみた戦死者を時期で分けるならば、通期(10月7日~12月26日時点)28名、前期10月7日~11月11日時点は18名(死傷表)とすると、後期11月12日~12月26日は10名(通期28名-前期18名)となり、前期に対する後期の割合は55.6%となる。この割合を負傷者に当てはめると、前期95名の55.6%で後期約53名、通期で148名となる。

病者

 病者数についてはまったく資料がない。
 しかし、先に引用した聯隊史p.85に「戦病死四〇」となっていることを考えると相当数の病者がいたと推認される。
 ただし根拠資料がまったくないため、山砲19と歩65の兵数が近いことから考え、同数程度の病者があったと見なすことにする。つまり、190名~300名程度となる。

山砲兵第19連隊第3大隊の兵数推計

 以上、それぞれの項目の推計を行ったので、総合して幕府山事件当時の山砲19Ⅲの兵数を推計する。まずは山砲19の総兵数は下記のように推計できる。

連隊兵数の推計
編成数3276名~3448名+補充員230名-死者82名-負傷者148名-病者190~300名=現員数2976名~3258名

 この連隊兵数の推計値2976名~3258名から、第3大隊の兵数を求める方法は次の通りとする。まずは、連隊に対する1個大隊が占める兵数の割合を求め、次に、連隊兵数の推計値にその割合を掛ける。

第3大隊兵数の推計
■連隊に対する1個大隊の兵数の割合(数値は編制表より抽出)
 1個大隊兵数960名÷連隊兵数3448名×100=約27.8%
■連隊現員数2976名~3258名×27.8%=827名~906名

 山砲19Ⅲの兵数は827名~906名と推計する。

騎兵第17大隊の兵数推計

『日本騎兵史 下巻(明治百年史叢書)』(1970年、 原本は1960年萠黄会より刊行か)

p.207
 特設師団の騎兵大隊には軍旗を授与されなかったが、その編制は在来の騎兵聯隊と同様乗馬二中隊と機関銃一小隊であった。師団捜索隊は騎兵聯隊又はその留守隊で編成され乗馬一中隊と軽装甲車一中隊であった。又右の内騎兵第一七大隊及び同第二二大隊は大正一四年軍備整理によって廃止された騎兵第一七聯隊及び第二二聯隊が動員されて復活したものであった。

p.649
 編制は他の師団騎兵聯隊と同様であったが大正一四年の軍備整理によって廃止された。しかし昭和一二年七月支那事変が起こるや八月第一三師団に動員を令され騎兵第一七大隊を編成された。その編制は二中隊と機関銃一小隊で軍旗は授与されなかった。

騎兵連隊編制表(昭和12年度陸軍動員計画令)
騎兵連隊編制表(昭和12年度陸軍動員計画令)
第13師団死傷表-17K
第13師団死傷表-17K

編制時兵数

 騎兵第17大隊に関する資料は非常に少ない。
 『日本騎兵史 下巻』によると、編制時の騎兵第17大隊の編成は、乗馬2中隊と機関銃1小隊で編成されていたというが、実際にはこれらの戦闘部隊に加え大隊本部があったことになる。
 では、それぞれの部隊の兵数に関してだが、昭和12年度陸軍動員計画令附表の騎兵連隊編制表によれば、乗馬1個中隊は181名、機関銃1個小隊は46名(機関銃1個中隊の半分として算出)となり、乗馬2個中隊(181名×2中隊=362名)と機関銃1個小隊(46名)で408名となる。これに大隊本部の人数が加わるわけだが、その数は編制表にある連隊本部137名よりは少なかったものと思われるが、詳細は分からない。

 一方、第13師団戦闘詳報 死傷表における戦闘参加人員数は、10月7日時点で24名、11月2日時点で500名となっている。この両時点における人数に大きな開きがあるが、その理由には次のような事情があったようだ。
 第13師団戦闘詳報の本文によれば第13師団が10月1日~8日に上海及び呉淞付近に上陸する際に、騎兵第17大隊は中国軍機による爆撃を受け「若干ノ死傷人馬ヲ生シタ」という(※1)。また、戦闘詳報別紙第1「第十三師団上陸状況一覧表」によれば、騎兵第17大隊の上陸地点は𧈝江碼頭・呉淞第五埠頭で、10月4日~5日にかけて上陸を実施したが、「上陸時敵飛行機ノ爆撃ヲ受ケ人馬ノ損傷ヲ受ク」と書かれている。
 つまり、騎兵第17大隊は10月5日までに上陸を完了したものの、その途中で中国軍機の爆撃に遭い、10月7日の戦闘開始に部隊の整理がつかず、10月7日時点での戦闘参加人員が24名となったものと思われる。11月2日時点での戦闘参加人員が500名となっているのは、全部隊が揃ったことを意味するのだろう。
 昭和12年度動員計画に基く推計は408名+大隊本部兵数だったが、第13師団死傷表の11月2日時点の戦闘参加人員数は500名となっているので、両者の兵数はおおよその整合性は取れているようだ。したがって、編制時兵数はおよそ500名強と見なすことが出来る。

※1 第13師団戦闘詳報 第1号上海附近ノ会戦 pp.9-10
※2 戦闘詳報別紙第1「第十三師団上陸状況一覧表」p.2

死傷者・病者数

 この時期の騎兵第17大隊の戦闘行動に関しては『日本騎兵史 下巻』p.650に次のように書かれている。

 支那事変にあたり復活した騎兵第一七大隊は昭和一二年九月上海方面に出動し、水田、クリーク地帯で騎兵の特性を発揮することができず辛酸をなめたが、追撃にあたりは臨時編成された騎兵第九聯隊長森吾六中佐の指揮する集成騎兵団に加って蘇州河に向かって敵を急追し、途中敵を撃破し、南京東方においては二師内外の優勢な敵と衝突し長時間の戦闘によってこれを撃退して軍の作戦を容易ならしめ大なる功績があった。

『日本騎兵史 下巻』p.650

 この記述からすると上海戦では騎兵という特性の弱点により、戦闘に参加することが少なかったようだ。実際に、第13師団死傷表の上海戦・羅店鎮警備(10月7日~11月12日)における死傷者は、死者1名、負傷者2名のみとなっている。ただし、その後は集成騎兵隊において一定程度の戦闘を行ったという。
 以上、資料からは編制兵数は約500名と分かったものの、死傷者・病者数はまったく分からなかった。上海戦における歩65が被った損害は50%を超える大激戦だったわけだが、通常の戦闘においてこの損耗率を使用することは不適当だろう。通常、部隊の3割の損害を受けると全滅判定をされるとも言われることを鑑みると、騎17が追撃戦・江陰城戦で全滅判定を受けるような激戦となったという資料も残っていない。そこで損害の最大値は2割程度だったと見なすことにする。編制500名の2割損害として、幕府山事件当時は400名程度とする。

山田支隊の総兵力の推計

 幕府山事件直前の山田支隊の各部隊の兵数の推計をまとめると次のようになる。

  • 歩兵第65連隊 2052名~2859名
  • 山砲兵第19連隊第3大隊 827名~906名
  • 騎兵第17大隊 400名

以上を合計すると幕府山事件直前の山田支隊の総兵数は3279名~4165名となる。

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