山田支隊 歩兵第65連隊 本部他

歩兵第65連隊
本部

・両角業作 歩兵第65連隊 連隊長 歩兵大佐

・斎藤次郎 歩兵第65連隊本部通信班小行李 輜重特務兵 [陣中日記]
・堀越文男 歩兵第65連隊本部通信班(有線分隊長) 編成 伍長 [陣中日記]

連隊機関銃中隊
・大友登茂樹 第65連隊 連隊機関銃中隊 少尉 [証言]

連隊砲中隊
・平林貞治 第65連隊 連隊砲中隊 少尉

・菅野嘉雄 歩兵第65連隊連隊砲中隊 編成 一等兵 [陣中メモ]

所属不明
・丹治善一 第65連隊 第三次補充兵 上等兵

・佐藤一郎(仮名) 歩兵第65連隊所属 一等兵 [日記]
・鈴木氏 [証言]
・関係者 [証言]
・氏名・所属・階級不明 NEW
・歩兵第65連隊 機関銃隊員 (A) NEW
・歩兵第65連隊 機関銃隊員 (B) NEW
・歩兵第65連隊 機関銃隊員 (C) NEW

参考資料


歩兵第65連隊 本部他


両角業作 歩兵第65連隊 連隊長 歩兵大佐22期

写真

引用元 『我殲滅譜』1938年 『支那事変郷土部隊写真史』1938年 『支那事変郷土部隊写真史』1938年 『郷土部隊戦記 第1』1964年 『若松聯隊回想録』1967年
写真
両角業作 我殲滅譜
両角業作 支那事変郷土部隊写真史
両角業作 支那事変郷土部隊写真史
両角業作 郷土部隊戦記第1
両角業作 若松聯隊回想録



『ふくしま 戦争と人間 1』(1982年)より

[回想ノート]
(K-K註:本書には、ここより以前の記事も存在するが割愛した)
p.111
≪十二月十二日――若松連隊は鎮江の金山寺西方地区に達した。この地方は寺院や名勝が多く、通常の旅なら、何日もかけて見て回りたいところだ。だが、いまは進撃に次ぐ進撃――。とある学校に夜営していると命令が下った。「第百三旅団長山田少将は、若松連隊並びに配属部隊を合わせ指揮し、烏竜山砲台並びに幕府山砲台を占領し、軍主力の南京攻略を容易ならしむべし」と。
師団主力は揚子江北岸へ進出することになっており、若松連隊には渡河援護が命ぜられると思っていたのに、思いがけない命令だった。しかし若松連隊はこれまで裏街道の進撃だっただけに、こんど初めて表舞台の片隅に出してもらえるのだな、という思いを否めなかった。≫

p.111
≪十二月十三日――早くも軍から”南京攻略せり”の通報あり。若松連隊はまず未明に田山芳雄少佐の第一大隊を烏竜山砲台占領のため出発させ、続いて主力部隊は後藤常治少佐の第二大隊を先頭隊として幕府山東方地区を目標に前進す。この地方には南京戦の余波は受け、敗残の中国兵が出没、一般住民はとまどい、物情おだやかならぬものあり≫

p.112
≪十二月十四日――午前一時、私は角田栄一中尉と第五中隊に敵の大軍のなかを挺身し、幕府山攻略の命令を与えた。この敵中ではなにごとが発生するかわからない。私は水杯で彼らの成功を祈った。第五中隊(機関銃一個小隊配属)が出発したあと、連隊主力は中国兵の武装解除をしながら進んだ。数が多く、下手をすれば暴発しかねない空気が……≫

p.115
≪十二月十四日――午前十一時、連隊主力は幕府山東方地区に達す。同時に幕府山砲台に日の丸の旗がひるがえるのを見る。角田中尉と第五中隊は、どこをどう突破したのか、日の丸は現実に山上にあるのだ。おびただしい中国兵だった。彼らは断じて通れば抵抗はしても、すぐ手をあげるという戦意のない兵隊だった。連隊は昼ごろまでに周辺を抑え、幕府山砲台の完全占領をなしとげた≫

p.115
≪幕府山一帯で得た捕虜の数は膨大なものだった。当初の報告では一万五千三百余あった。しかしよく彼らを調べてみると、婦女子や老人など非戦闘員(南京から落のびた市民)もまじっていたため、これをより分けて解放した。残りは八千人程度だった≫

p.121
≪八千人の捕虜は、幕府山のふもとに十数むねの細長い建造物(思うに幕府山砲台の使用建造物らしい)があったので収容した。周囲には不完全な鉄線が二本か三本張られているだけだった。食糧はとりあえず砲台の地下倉庫に格納してあったものを運び、彼ら自身で給食するよう指導した≫

pp.121-122
≪当時、若松連隊は進撃に次ぐ進撃で兵力消耗が激しく、幕府山のこの場所にいたのは千数十人でしかなかった。この兵力で多数の捕虜の処置をするだから行き届いたことはできない。四隅に警戒兵を配置して監視をするのみだった。夜の炊事で火事が起こった。火はそれからそれへと延焼し、その混乱はたいへんだった。直ちに第一中隊を派遣して鎮静にあたらせたが、火事は彼らの計画的なものであり、この混乱を利用し、申し訳ないことだが、半数の捕虜に逃亡されてしまった。もちろん射撃をして逃亡を防いだのだが、暗闇に鉄砲では当たるものではない。報告によると”逃亡四千名”とあった≫

pp.122-123
≪捕虜の逃亡は、通常ならたいへんなことだが、私は逃亡してくれて逆に幸いだと思った。食糧が足りなかったからである。このため上司には逃亡を報告することなく、なんでもないような顔をすることに決めた≫

p124
≪軍司令官の入城式が十七日に行われることになったので、万一にも失態があってはならないから、軍から「捕虜を処置せよ」と第百三旅団長山田栴二少将に命令が出たのである。しかもひんぱんに軍は処置を督促してきた。山田旅団長はこれをがんとしてはねつけた。私もまた山田旅団長を力づけて「処置はまっぴらごめん」と拒否の態度をとった。しかし軍は強引にも命令をもってその処置をせまってきたのである≫

p.124
≪山田旅団長は涙をのんで私の隊に因果を含めた。いろいろ考えた結果、夜陰に乗じて捕虜を逃亡させるほかない。それは連隊長である私の胸三寸でどうにでもできることである。私は第一大隊長田山芳雄少佐を呼び、次の命令を与えた。「十七日夜、逃げ残っている捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じ、船にて北岸に送り解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、中国人のこぎ手を準備せよ」――これが私の命令だった≫

pp.126-127
≪十七日、私は山田旅団長とともに軍旗を奉じ、南京の入城式に参加した。馬上ゆたかに松井司令官、次に鳩彦王宮、柳川司令官が続いた。信長、秀吉の入城もかくやありなんと往昔を追憶し、晴れの入城式に参列し得た幸運を胸にかみしめる。このあと松井司令官ら諸将と乾杯があった。終わって紫金山などを見学、夕刻、幕府山の露営地に帰った。戻るとすぐ第一大隊長田山芳雄少佐から「なんら支障なく捕虜の集結を終わった」と報告があった。日が沈み、暗くなった。捕虜たちはいまごろ揚子江の北岸に送られ、解放の喜びにひたっているだろうと、宿舎の机で考えていた。ところが、にわかに江岸方面から銃声が起こった。されは……と思ったが、銃声はなかなか鳴りやまない。不測の事態が突発したのだが、いきさつは次の通り。
捕虜が集結したあと、軽舟艇で第一陣が揚子江へ乗り出した。二百人か三百人は乗っていた。中流付近までくると、対岸から射撃を受け、軽舟艇は押し流され始めた。対岸の中国兵が日本軍の渡河攻撃と誤認したらしい。集結していた捕虜たちはこの銃声を聞き、日本軍が江上に連れ出して銃殺する銃声であると即断した。一瞬にして集結地は混乱のちまたと化した。多数の捕虜集団がワッとたけり立ち、死にもの狂いで逃げまどうので、いかんともしがたい。やむなく発砲してこれが静止につとめるも、暗夜のことで大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込んだ。わが銃火に倒れたるものは、翌朝になって私も見たのだが僅少の数に止まっていた。すべてはこれで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。表面に出ることは誇張が多すぎる。処置後、ありのままを山田旅団長に報告したところ、旅団長も安心され、わが意を得たりの顔をしていた。解放した兵は、再び銃をとるかもしれない。しかし、昔の勇者に立ちかえることはできないであろう。それにしても少数といえども捕虜を射殺したことは、なんとしても後味が悪い。逃亡するものは射殺してもいいと国際法では認めているものの……である ≫

『南京の氷雨』(1989年)より

[日記]
pp.65-66
12月12日 鎮江の金山寺西方地区に到達し、蚕糸学校に入る。命令「山田少将は六十五連隊に配属部隊を併せ指揮して、烏竜山砲台および幕府山砲台を占領し、軍主力の南京攻略を容易ならしむべし」下る。午後五時半出発、午後九時倉藤鎮到着。同地宿営。
12月13日 晴。午前八時半出発。南京攻略せり――の報あり。午後六時午村到着。同地宿。敗残兵多し。第一大隊(長田山少佐)を烏龍山に向けて先遣、これを占領せり。
12月14日 午前一時、第五中隊(長角田中尉)を幕府山占領に先遣。本隊は午前五時出発、午前十時東部上元門に進出、同時に幕府山上に万歳起こる。おびただしい敗残兵あるも戦意皆無。昼まで付近一帯を掃討、幕府山要塞を完全占領。

[回想ノート]
pp.69-72
  江陰城を出発したのは十二月七日のこと。第十三師団は依然長江(揚子江)に沿う地帯を南京に向かい追撃行動を続行する。連隊も途中で小戦闘を行いつつ、十二月十二日鎮江に入り、金山寺方面に達した。この地方は昔から有名で、名勝・古刹が多く、通常の旅なら幾日あっても見足りないであろうに、今はただホコリにまみれ、進撃に次ぐ進撃――。
  とある学校に宿営していると「山田少将は六十五連隊に配属部隊を併せ指揮して、烏竜山砲台及び幕府山砲台を占領、軍主力の南京攻略を容易ならしむべし」と命令が来る。師団は今より揚子江を渡河し、北岸へ進出して揚州に向かい前進する。この時点まで山田旅団は「上流に於いて長江を渡り、師団主力の渡河を援護すべき任務」であり、渡河作戦に不慣れなので内心困ったことだと思っていたところへ、南京攻略に一役買え!という命令。まさに棚からボタモチ、追撃戦開始以来場末の裏街道ばかり歩まされた連隊に、恐らく歴史に残るであろう晴れの敵首都南京攻略であってみれば、片隅にでも顔を出したいのが心情であり、勇躍したことはいうまでもない。
  十二月十三日出発。途中で「南京攻略せり」の通報あり、部隊に歓声あがる。既に戦わずして敵を呑むの気分である。この日の早朝、部隊は山田少将の命令で烏龍山砲台占領のため第一大隊(長・田山少佐)を出発せしめ、主力はこのあと幕府山東方地区を目標に前進する。
  途中、某地に宿営したが、南京戦の余波は受け、この地方の住民は恐れおののいており、南京の敵残兵も出没し、物情おだやかならず。
  十二月十四日午前一時、連隊は秘蔵っ子角田栄一中尉(剣道五段)を、幕府山占領の目的をもって先遣し、敵中を挺身せしめた。角田中尉は剛胆、沈着、機略あり、この任務に適す。彼に一個中隊を指揮させて敵中を突破、幕府山の占領を命じた。折悪く酒もなく、水筒の水を水盃にして、その成功を祈る。あとで考えて無茶なことをしたものだと冷汗が出たが、このときの状況――戦場の心理は何のためらいも不思議もなく、このような処置をとらせたのだ。
  角田中尉は夜間出発、幕府山に向かわせ、主力は敵残兵の武装を解除しつつ前進す。この間、田山少佐の第一大隊は烏龍山砲台を占領したあと主力に合流する。部隊は後藤大尉の第二大隊を先頭にして、逐次抵抗する敵を突破し、十二月十四日午前十一時、幕府山東側地区に達する。同時に幕府山上に日章旗ひるがえるのを見る。角田中尉はどこをどう突破したのか、日章旗は現実に上がっているのだ。
  この方面の敵は全くおびただしい数であった。
  それもそのはず、南京方面の敗残兵が長江を北に渡って逃げようとしたのが無数に集合していたので、既に抵抗力なき烏合の衆であった。日本軍が断じて通れば、抵抗しても、すぐ手をあげるという戦意皆無の兵隊であった。
  部隊は昼ごろまでに付近一帯を掃討、幕府山要塞の完全占領を行った。
  幕府山東側地区及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は二万とか書いたが、実際には、当初数えた数では一万五千三百余であった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民も多数)がいたので、これを選り分けて解放した。残りは八千人程度であった。
  これを運よく幕府山南側にあった厩舎か鶏舎か、細長い野営場のバラック(思うに幕府山要塞の使用建物で、十数棟併列し、周囲に不完全ながら鉄線が二〜三本張りめぐらされている)――とりあえずこの建物に収容し、食糧は要塞地下倉庫に格納してあったものを運び、彼ら自身の手で給養するよう指導した。
  当時、我が連隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。この兵力で、この多数の捕虜を処置をするのだから、とても行き届いた取扱いなどできたものではない。周囲の隅々に警戒兵として五、六人の兵を配置し、彼らを監視させた。

pp.73-74
  夜の炊事が始まった。某棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、その混雑ひとかたならず、連隊からも直ちに一個中隊を派遣して沈静に当たらせたが、もとよりこの火事は彼らの計画的なもので、この混乱を利用して、ほとんど半数が逃亡した。わが方も極力逃亡を防いだが、闇夜の鉄砲、ちょっと火事場から離れるともう見えぬので、四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。
  私は部隊の責任にもなるし、今後の給養のことを考えると、少なくなったことを却って幸いに思い、上司に報告せず、なんでもなかったような顔をしていた。

pp.78-79
  十七日には軍司令官の入城式がある。万一の失態があってもいけないと、軍から「俘虜のものどもを処置するよう」山田少将に頻繁に催促がくる。山田少将は頑としてはねつけ、軍団に収容してくれるよう逆襲していた。私もまた「丸腰の者を、何もそれほどまでにしなくてもよい」と、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施を迫ったのである。

pp.94-95
  軍は強引にも命令をもってその実施(処分)を迫ったのである。ここに於いて山田旅団長は涙をのんで私の隊に因果を含めたのである。しかし私にはどうしてもできない。いろいろ考えたあげく、こんなことは実行部隊のやり方一つで如何ようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ――。よし、と考え、田山大隊長(第一大隊)を招き、ひそかに次の指示を与えた。

p.95
  十二月十七日夜、逃ゲ残リノ俘虜ヲ幕府山北側ノ揚子江南岸ニ集合セシメ、夜陰ニ乗ジテ船ニテ北岸ニ送リ解放セヨ。コレガタメ付近ノ村落ニテ船ヲ集メ、マタ支那人ノ漕ギ手ヲ準備セヨ。モシ実砲事件ノ起コリタル際ヲ考エ、二個大隊分ノ機関銃ヲ配備スル。

p.95
  十二月十七日、私は山田少将と共に軍旗を奉じ、南京の入城式に参加した。馬上豊かに松井司令官が見え、柳川司令官がこれに続いた。信長、秀吉の入城式もかくやありなん――と往昔をしのび、この晴れの入城式に参加し得た幸運が胸に沁みた。新たに設けられた式場に松井司令官始め諸将が立ち並び、聖寿の万歳を唱し、次いで戦勝を祝する乾杯があった。この機会に南京城内の紫金山などを見学し、夕刻、幕府山の宿営地に戻った。

pp.96-97
  宿営地に戻ると、田山大隊長より「混乱なく集結を終了した」との報告を受けた。宿舎で私は「捕虜は今ごろは自由になっているだろう」と宿舎机に向かって考えていた。火事で半数以上が減っていたので大助かり、今ごろは揚子江の北岸で俘虜たちは解放の喜びにひたっているにちがいない。
  ところが、十二時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。
「さては……」と思った。
  銃声はなかなか鳴りやまない。

pp.100-101
  あの銃声はなんだったのか、捕虜たちになにかあったのか。あとで第一大隊長田山少佐の報告を受けたが、その内容は次の通りだった。
  集結を終え、軽舟数隻に二、三百人の俘虜を乗せて、中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟のカジを預かる支那の土民、肝を潰して江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。ところが、江岸に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が江上に(捕虜たちを)引き出し、銃殺する銃声と即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。俘虜たちが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍はやむなく銃火をもってこれが制止に努めても、夜のこととて大部分は陸地方向に逃亡、一部は揚子江に飛び込む。わが銃火により倒れたるものは、翌朝、私も見たのだが、僅少の数に止まった。すべてこれで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。
  処置後、ありのままを山田少将に報告したところ、さも、わが意を得たりの顔をしていた。解放された兵は、再び銃をとるかもしれない。しかし、昔の勇者に立ちかえることはできないであろう。
自分の本心はどうであったにせよ、俘虜としてその人の自由を奪い、少数といえども射殺したことは(逃亡する俘虜は射殺してもいいと国際法で認めてはいるが)なんとしても後味の悪いことで、亡くなった俘虜の冥福を祈るばかりだ。

[証言]
p.81
――「殺せ」の命令は、歩兵六十五連隊にもきていた。両角連隊長は当時のことを次のように述懐している。
「戦場で戦友が数多く死んでいます。だから激戦の、苦戦の戦場では、敵側の兵を一人でも多く殺そう――という心情にはなります。そうしなければ、次はこちらが死なねばならんですからね。しかし、いったん捕虜にしてみると、おとなしくなった彼らに向けて、憎い!という感情はなかなか湧かない。皆殺しの銃口を、そう簡単には向けられるものじゃないですよ。これは現場にいた人でないと、わかってもらえないのではないか」
「殺せ」と命令を受け、肚の中では「解放」を考えていたというのだ。


『南京戦史資料集2』(1993年)

(資料解説)『両角業作日記』と『手記』について
  山田支隊の基幹であった会津若松歩兵第六十五聯隊の聯隊長『両角業作大佐の日記』は、メモと言った方がよいかも知れぬ簡単なもので、問題の幕府山で収容した捕虜の処置については、その全体像を明らかにすることはできない。
  ただ、注目すべきは「T(大隊)ハ俘虜ノ開放準備、同夜開放」(12/17)、「俘虜逸脱ノ現場視察」(12/18)の記述で「開放」を「解放」と解すれば、司令部?からの「殺せ」という指示に対して、山田支隊の指揮官たちは江岸で捕虜を解放する意図があったことになる。残念なことに『両角日記(メモ)』は、研究者・阿部輝郎氏が筆写した南京戦前後の部分しか現存せず、その原本との照合は不能の状況である。
  『手記』は明らかに戦後書かれたもので(原本は阿部氏所蔵)、幕府山事件を意識しており、他の一次資料に裏付けされないと、参考資料としての価値しかない。

『南京戦史資料集2』p.12

南京大虐殺事件
 幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは八千人程度であった。これを運よく幕府山南側にあった厩舎か鶏舎か、細長い野営場のバラック(思うに幕府山要塞の使用建物で、十数棟併列し、周囲に不完全ながら鉄線が二、三本張りめぐらされている)―とりあえず、この建物に収容し、食糧は要塞地下倉庫に格納してあったものを運こび、彼ら自身の手で給養するよう指導した。
 当時、我が聯隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。この兵力で、この多数の捕虜の処置をするのだから、とても行き届いた取扱いなどできたものではない。四周の隅に警戒として五、六人の兵を配置し、彼らを監視させた。
 炊事が始まった。某棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬ ので、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。
 私は部隊の責任にもなるし、今後の給養その他を考えると、少なくなったことを却って幸いぐらいに思って上司に報告せず、なんでもなかったような顔をしていた。
十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入城式である。万一の失態があってはいけないとういうわけで、軍からは「俘虜のものどもを”処置”するよう」…山田少将に頻繁に督促がくる。山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するように逆襲していた。私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。
 しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである。ここに於いて山田少将、涙を飲んで私の隊に因果を含めたのである。
 しかし私にはどうしてもできない。
 いろいろ考えたあげく「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」―田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。
「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」
 もし、発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配属する。
 十二月十七日、私は山田少将と共に軍旗を奉じ、南京の入城式に参加した。馬上ゆたかに松井司令官が見え、次を宮様、柳川司令官がこれに続いた。信長、秀吉の入城もかくやありならんと往昔を追憶し、この晴れの入城式に参加し得た幸運を胸にかみしめた。新たに設けられた式場に松井司令官を始め諸将が立ち並びて聖寿の万歳を唱し、次いで戦勝を祝する乾杯があった。この機会に南京城内の紫金山等を見学、夕刻、幕府山の露営地にもどった。
 もどったら、田山大隊長より「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」の報告を受けた。火事で半数以上が減っていたので大助かり。
 日は沈んで暗くなった。俘虜は今ごろ長江の北岸に送られ、解放の喜びにひたり得ているだろう、と宿舎の机に向かって考えておった。
 ところが、十二時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。さては…と思った。銃声はなかなか鳴りやまない。
 そのいきさつは次の通りである。
 軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。すべて、これで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。表面 に出たことは宣伝、誇張が多過ぎる。処置後、ありのままを山田少将に報告をしたところ、少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、さも「我が意を得たり」の顔をしていた。
 解放した兵は再び銃をとるかもしれない。しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう。
 自分の本心は、如何ようにあったにせよ、俘虜としてその人の自由を奪い、少数といえども射殺したことは<逃亡する者は射殺してもいいとは国際法で認めてあるが>…なんといっても後味の悪いことで、南京虐殺事件と聞くだけで身の毛もよだつ気がする。
 当時、亡くなった俘虜諸士の冥福を祈る。

日記
昭和十二年十二月
十二日 午後五時半、蚕糸学校出発。午後九時、倉頭鎮着、同地宿営。
十三日(晴) 午前八時半出発。午後六時、午村到着、同地宿。敗残兵多シ。 南京ニ各師団入城。T大隊烏龍山砲台占領。
十四日 午前一時、第五中隊及聯隊機関銃一小隊幕府山ニ先遣。本隊ハ午前五時、露営地出発。午前八時頃、第五中隊ハ幕府山占領。本隊ハ午前十時、上元門附近ニ集結ヲ了ル。午前十一時頃、幕府山上ニ万歳起ル。山下ヨリ本隊之ニ答ヘテ万歳ヲ送ル。
(以下原文は横書き)
十五日 俘虜整理及附近掃蕩。
十六日 同上。南京入城準備。
十七日 南京入城参加。Tハ俘虜ノ開放準備、同夜開放。
十八日 俘虜脱逸ノ現場視察、竝ニ遺体埋葬。
十九日 次期宿営地ヘノ出発準備。
二十日 晴 九時半出発下関ヲ経テ浦口ニ渡河。
二十一日 晴 西葛鎮ニ宿営。
二十二日 晴 全椒ニ向ヒ入城。同地警備。(途中山田少将ハ除県ニ)
二十三日 警備方針決定。中隊長以上ニ必要ノ指示ヲ与フ。
二十四日 附近視察。
二十五日 慰霊祭ノ為除県ニ出発(軍旗ヲ奉ジ)、同夜同地着。
二十六日 師団慰霊祭。(老陸宅ノ要図ガ天覧ニ供セラレ、且ツ朝香宮軍司令官ノ室ヲ飾ルモノハ此要図一枚アルノミニシテ他何物ナシ)
二十七日 全椒ニ帰還。
二十八日 慰霊祭場及陣地偵察。
二十九日 慰霊祭。(山田少将及師団代表トシテ吉原作戦主任参謀来着)
三十日 師団会議事項下達。
三十一日 陣地視察。此夜杉山陸相、椙村中隊長ノ未亡人ノ手紙ヲ受ケル。
〔注〕この記録は、第十三師団歩兵第六十五聯隊長両角業作大佐が、終戦後しばらくしてまとめたものである。昭和三十七年一月中旬、求めに応じ阿部輝朗に貸し与えられたものを筆写し、保存しておいた。原文はノートに書かれ、当時の日記をもとに書いたという。(※K-K註:本注記は『南京戦史資料集』編集部により書かれたものである)

『南京戦史資料集2』pp.339-341




斎藤次郎 歩兵第65連隊本部通信班小行李 編成 輜重特務兵(1938年1月一等兵へ進級)

[陣中日記]
十二月十三日 晴
(略)

 午前五時起床して朝の礼拝をする、橋頭鎮を出発して南京に向ひ皇軍する、今日の行程は十里、途中は山岳地帯で相当高い山が連なつて居り樹木も松や欅等があり故郷の風光に似て居り懐しい感じがする、トーチカーや塹壕もあり敵が強固に対抗する準備をする積りだつたらうが我が軍の追撃急だつたので使用せず退却した模様だ、飛行機から通信筒で連絡した、南京の敵は後退しつゝあり我が軍の追撃に会ひ混乱の状態との情報だ、夕刻南京東方四里の一寒村に宿営す、夜七時頃大行李二大隊の熊田君外一名が敗残兵一名を捕虜にして来る、捕虜にする際少し負傷し居つた、一将校が軍刀で日本刀の切味を試さんとしたら少しのすきをみて逃げ出したのを自分と××君と二人で追い四、五十間逃げる敵兵を田圃中を追ふ、若松で刃をたてた銃剣を引抜いて満月に近い月光をあびて追跡する様は内地でみる活動写 真の映画其のものの感がする、××君より早く追つき銃剣を以て肩先を力にまかせて一剣をあびせかける、手ごたえあり其の場に昏倒してしまふ、ようやく追いついた友軍の人達が集まり先の将校が脳天を真二つに割る、昏倒して居るのを切ったのでくびをはねる積だったのだろうが手元が少し違ったのだろう・・・・自分も戦地に来て始めて人に刃を向けてみる、敵兵も年齢廿六才か、これも妻子を残してやはり我等と同じく生命を賭して国難にあたって居るかと思えば敵兵をたおした痛快なる反面 、一種の悲哀の情が湧いて、めい福せよと頭を下げる…… (略)

十二月十四日 晴
(略)
第一大隊の捕虜にした残敵を見る、其数五六百名はある、前進するに従ひ我が部隊に白旗をかかげて降伏するもの数知れず、午後五時頃まで集結を命ぜられたもの数千名の多数にのぼり大分広い場所を黒山の様に化す、若い者は十二才位 より長年者は五十の坂を越したものもあり、服装も種々雑多で此れが兵士かと思はれる、山田旅団内だけの捕虜を合して算すれば一万四千余名が我が軍に降った、機銃、小銃、拳銃、弾薬も沢山捕獲した、入城以来本日の様に痛快な感じがした事はない、此辺一帯は幕府山要塞地帯で鉄条網を張り塹壕を掘り南京附近の最後の抵抗線だったらしい、真紅の太陽が正に西山に沈まんとする頃出発して宿営地に向ふ、吾等小行季一行が十字路を右に折れるのを左に入り十町程も迷つて行く、愈く連絡をとり南京市一里半前方の支那海軍の海兵団に到着する、此処が両角本部の宿営地、有我君が一足早かつたので宿舎を見あてゝ居つた(略)
[欄外記事]一万四千七百七十七名捕虜とす(十四日)旅団本部調査

十二月十五日 晴
 午前七時起床、朝の礼拝をして武運長久を祈願をする、今日は滞在なのでゆっくり起きる、今日は歩兵は残敵掃討するのに朝九時頃出発して要塞地帯一帯に行く、自分と×××、×××君等三名で馬糧を徴発してくる午后から馬の治療があるので愛馬泰容の鞍傷を治療する、終ってから青田獣医殿の厚意で砂糖小豆を御馳走になる、今日も残敵五、六百名を捕慮(虜)にしたとか、今夜は早く就寝して疲れを医やす。

十二月十六日 晴
 今晩は寒かつたと思つたら真白な霜だ、朝食後××、××君等飯米徴発ながら要塞へ登り砲台を見る、発電機あり探照灯あり砲口八寸位の巨砲や精巧なる高射砲が沢山あり砲弾なども地下室に随分残つて居つた、其処に通ずる通路も偽装綱で覆ひ我が軍からの発見を防いで居る (略) 南京落城の報を受けて戦勝気分は何程の事やら、今夜はあちらの部屋こちらの室で戦勝気分で流行歌や俚謡やらで時ならぬ歓楽境が出来る、十時就寝する、宴芸会の主催者は××伍長で軍歌露営の歌を合唱する。
 露営の歌
[以下、歌詞の記載あり――]
南京郊外海軍水雷学校校舎にて

十二月十八日 曇、寒
 午前零時敗残兵の死体かたづけに出動の命令が出る、小行李全部が出発する、途中死屍累々として其の数を知れぬ 敵兵の中を行く、吹いて来る一順の風もなまぐさく何んとなく殺気だって居る、揚子江岸で捕虜○○○名銃殺する、昨日まで月光コウコウとして居ったのが今夜は曇り、薄明い位 、霧の様な雨がチラチラ降って来た、寒い北風が耳を切る様だ、捕虜銃殺に行った十二中隊の戦友が流弾に腹部を貫通 され死に近い断末魔のうめき声が身を切る様に聞え悲哀の情がみなぎる、午前三時帰営、就寝、朝はゆっくり起床、朝の礼拝をして朝食用意をして××、岡本、××の三君等と南京見学に行く、都市を囲んで居る城壁の構造の広大なるのに一驚する、城壁の高さ約三丈乃至四丈幅約十四、五間南京市内も焼け又は破壊され見るかげもない惨憺たる有様だ、敵の死体やら武装解除された品々が路傍に沢山ある、帰途は夕刻近く九時就寝する。
[欄外記事]銃殺捕虜の死体処理(十八日0時)

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.36-39




堀越文男 歩兵第65連隊本部通信班(有線分隊長) 編成 伍長

[陣中日記]
十二月十四日
 未明油座君支那の工兵大尉を一人とらへ来る。
 年、二十五才なりと、R本部は五時出発、吾は第五有線班の撤収をまちて八時半出発。
 午後一時四十分敗残兵一人を銃殺。
 敵の銃をひろひて撃てるものなり。
 第一大隊は一万四千余人の捕虜を道上にカンシしあり(午前)。天気よし、彼の工兵大尉に車をひかせて南京へ向かふ、鹵獲銃は道路に打ちくだく。
 一丘をこえて南京の城壁目(間)近に見ゆ。
 城壁一千米手前にて彼の工兵大尉を切る、沈着従容たり、時午後四時也。
 午後五時半、R本部に至るも、本部未着六時四十分頃着す。

十二月十五日
 午前九時朝食、十時頃より×××伍長と二人して徴撥(発)に出かける、何もなし、唐詩三百首、一冊を得てかへる、すでに五時なり。
 揚子江岸に捕虜の銃殺を見る、三四十名づつ一度に行ふものなり。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』pp.78-79




大友登茂樹 第65連隊 連隊機関銃中隊 少尉

[証言]
私の中隊でも将校が死んだ。彼らの暴走のウズに巻き込まれ、たしか七ヵ所ほど刺されていた。あの暴走で連隊の死者が七人にとどまったのは、むしろ少ないぐらいだったというべきかもしれない

『ふくしま 戦争と人間』 p.130




平林貞治 第65連隊 連隊砲中隊 少尉

『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年) [証言]

pp.198-199
「大量の捕虜を収容した、たしか二日目に火事がありました。その時、捕虜が逃げたかどうかは、憶えていません。もっとも、逃げようと思えば簡単ににげられそうな竹がこいでしたから。それより、問題は給食でした。われわれが食べるだけで精一杯なのに、一万人分ものメシなんか、充分に作れるはずがありません。それに、向うの指揮者というのがいないから、水を分けるにしても向こうで奪い合いのケンカなんです。庭の草まで食べたという者もいます。ただし、若い将校はしっかりしていました。感心したのを覚えています。」
(略)日本の兵隊は捕虜のために昼夜兼行で食事を作ったが、作ることより、むしろ配ることの方が難事業だったに違いない。だから、「捕虜を江岸まで護送せよ」という命令が来た時はむしろホッとした。平林氏は、「捕虜は揚子江を舟で鎮江の師団に送り返す」と聞いていたという。月日は憶えていない。
「捕虜の間に、おびえた表情はあまりなかったと思います。兵隊と捕虜が手まねで話をしていた記憶があります。出発は昼間だったが、わずか数キロ(二キロぐらい?)のところを、何時間もかかりました。とにかく江岸に集結したのは夜でした。その時、私はふと怖ろしくなってきたのを今でも憶えています。向こうは素手といえども十倍以上の人数です。そのまま向って来られたら、こちらが全滅です。とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。突然、どこからか、ワッとトキの声が上った。日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。一挙に、われわれに向ってワッと押しよせて来た感じでした。殺された者、逃げた者、水にとび込んだ者、舟でこぎ出す者もあったでしょう。なにしろ、真暗闇です。機銃は気狂いのようにウナリ続けました。次の日、全員で、死体の始末をしました。ずい分戦場を長く往来しましたが、生涯で、あんなにむごたらしく、悲痛な思いをしたことはありません。我が軍の戦死者が少なかったのは、彼等の真の目的が、日本軍を”殺す”ことではなく、”逃げる”ことだったからでしょうね。向うの死体の数ですか?さあ……千なんてものじゃなかったでしょうね。三千ぐらいあったんじゃないでしょうか……」

『ふくしま 戦争と人間』(1982年) [証言]

p.126
「私たち将校は極秘の形で、彼らを対岸へ送るか、不可能なら下流の鎮江方面へ送る----という内命を与えられた」
p.130
やむを得ない発砲だったが、なんとしても残念な悲劇だ。結局は私は”戦闘状態の発生だったと回想している

「「南京大虐殺」はなかった 第3回」 『世界日報』昭和59年7月17日 第1面(1984年) [証言]

  そこで、ことの真相を確かめるため、65連隊砲中隊の小隊長(少尉)として南京攻略戦に参加した平林貞治氏(71・福島市在住)に当時の様子を証言してもらった。その証言は「『南京大虐殺』のまぼろし」(鈴木明著)にも引用されているが、平林氏はことのいきさつに詳しく、現在、65連隊関係者の集まりである「残桜会」会長でもあるので、あえて訪ねてみた。
≪確かに捕虜が投降してきた当初の総数は一万五千人くらいと推定されます。しかし、非戦闘員約七千人は直ちに解放したので、最終的に捕捉したのは八千人ほどでした≫
  両角部隊が捕捉した捕虜は”虐殺派”が主張する数のほぼ半分だった。平林氏の証言によると、「一万五千人の捕虜全部を銃殺した…」という記述は明らかに事実誤認である。
  両角部隊は昭和十二年十二月十四日、南京城北東の幕府山付近で城内からのおびただしい敗走兵に遭遇した。
≪武器を持たないとはいえ、われわれの数倍もの敵が突然出てきたので、本当に心配になりました。投降した側に指揮官がいて、ちゃんと秩序を維持してくれれば問題ないんだが、烏合の衆のような状態でいきなり白旗を上げられるとこれはもう手に負えません≫
  投降者約一万五千人のうち非戦闘員とみられる七千人を解放したのち、残り八千人を上元門近辺の兵舎のようなところに収容した。兵舎といっても竹囲いを泥で塗り固めた程度のしろもので、脱走者も少なくなかったという。そうこうするうち、山田旅団長に「捕虜を始末せよ」という命令が下った。
≪当時、軍は投降者を捕虜として認めない意向でした。つまり、中国軍は日本軍による投降勧告を無視して、徹底抗戦の構えでしたからね。「始末せよ」という命令はその意向に沿ったもので、「敵として」ということじゃないかと思います≫
  結局、最終的判断は山田旅団長にゆだねられる形となり、十五、十六の二日に分けて捕虜四千人ずつを揚子江岸から解放することになった。捕虜五十〜百人を一列に並ばせ、各中隊からの兵を出して護送した。
≪われわれは捕虜を運ぶ船がふ頭で待っているものと思っていました。敵も味方も和気あいあいで、捕虜にタバコをやっている日本兵もいたほどです≫
  ところが、揚子江岸のふ頭についてみると、捕虜を運ぶはずの船はどこにも見当たらなかった。
≪この時はまだ薄明かりがあり、船がきていないことがわかりました。あれ、おかしいなと思っていた矢先に「ワァ−」という声が上がり、それに続いて「パンパン」という音がしました。予想さえしなかった捕虜の暴動が起きたのです。船が見当たらなかったので、捕虜の不安が高じたのでしょう。将校の一人が捕虜に軍刀を奪われ、切りかかられたことがことの発端です。暴動など起きるはずがないと安心し切って捕虜の前を歩いたんですね。これは大変だというので遮二無二発砲した。そうなるともうパニックです。この状態が二時間ほど続いたでしょうか。捕虜の中には逃げ出したり運よく弾が当たらなかった者もいて、結局、死んだのは約三千です≫
  悪いことは重なるもので、十六日にも同じ場所で捕虜の暴動が発生、武力で鎮圧せざるを得なかった。
護送隊は少人数
≪日本軍から言わせれば、暴動を起こしたから銃殺したということです。死体は他部隊が処理しました。しかし、今でも本当にかわいそうなことをしたと思います。でもあれを鎮められるのは神様だけでしょうな≫
(後略)

田中正明「南京事件 虐殺否定の13の論拠」(『じゅん刊世界と日本』第449・450合併号 内外ニュース 1985年4月5日/15日発行)[証言]

pp.94-99
…平林氏の語る事件の真相の概要は、次の通りです。
「十二月十二日、第一大隊が烏龍山を占領、十四日第二大隊は四時半出発、幕府砲台に向かう。砲台付近に到達すると、右からも左からも莫大な投降兵がうようよ出てくる。すでに戦意はなく、指揮官もいない、烏合の衆で、服装もまちまちで、中には掠奪品を身に一ぱいつけた者もいる。
  われわれは上海戦で多くの戦友を失い、ヒゲぼうぼうで、食糧もなく、軍衣袴も破れ、半張りはとれ、疲労していた。そこへ無統制な大量の捕虜である。校舎のような建物に簡単な竹矢来をつくり、ここに収容したものの、まず食わせるものをどうするか、その食器をどうするか、何もかも困ったづくめ。そこで山田旅団長命令で、老人や少年兵、非戦闘員を釈放し、約半数の八〇〇〇人ほどにしぼった。その夜われわれは上元門の村落に露営した。
  二日目の夕刻火事があり、その混乱に乗じてさらにまた約半数が逃亡した。われわれはむしろホッとした思いであった。われわれが食べるだけでも精一杯なのに、一万人もの食糧をどうするか。指揮者がいないから、水を分けるにしても奪い合いの喧嘩である。それでも日本兵は、彼らに何とか食べ物を与えようとして、いじらしいほど苦労したものです。
  わが方の兵力は第一大隊一三五、第二大隊二七〇、第三大隊約五〇〇、その他砲兵大隊、機関銃中隊、輜重兵など、合わせて一五〇〇足らず、出発時の三分の一の兵力です。それが素手とはいえ、一〇倍近い屈強な捕虜の集団を抱えている。そのまま手向かってこられたら全滅だ!という恐怖感は常にあった。
  月日ははっきり覚えていないが、捕虜は船で揚子江対岸の中洲へ解放することになったと聞いた時、私は正直、やれやれこれで難を逃れた!という感じがしました。
  捕虜を縛ったのは、彼らのはいている黒い巻脚絆です。はいていない者もいたが、ともかくあの厚手の幅広い脚絆ゆえ、ほとんど縛ったが縛ったことにならない。それで数珠つなぎにしたのです。だから、ほどこうと思えばいくらでもほどけるわけです。
  私の隊は連隊砲中隊ですから、使役として駆り出されたわけで、最後列を受け持った。機関銃中隊も歩兵砲中隊も、われわれ同様、兵隊は歩兵銃を持っていません。ゴボー剣一本だけです。捕虜は四〇〇〇、これを監視する兵は一〇〇〇人足らず。つまり四、五人に一人の割合で護衛したのです。
  出発したのは午過ぎでしたが、やがて薄暮が迫ってきた。道は今までの平坦からだんだん狭まり、左は揚子江支流、右は崖に挟まれ、険岨な道となった。そのとき、私は何か不吉な予感を覚えた。来るべき船が来ていない。捕虜の方でも、不安な気持ちが昂じたに違いない。そのとき、突然、中洲の方から銃声が聞こえた。敗残兵が攻撃されると思って撃ったに違いない。だが、この銃声が引き金となって、ただならぬ叫喚とも喚声ともつかぬ声が前方で起こった。それを合図に、あとはもう大混乱です。彼らの一部がわれわれに向かって押しよせて来たのです。逃げる者、水に飛び込む者、泳ぐ者……何しろあたりは夜闇です。二、三挺の機関銃は気違いのように鳴り、もうあとは無茶苦茶と言うより外ありません。私の部下など、ゴボー剣一本を片手に振り回しながら逃げるのがやっとでした。
  戦闘は一時間か二時間続いたでしょうか。静寂にかえった六時半ころ、この戦闘の修羅場にスコールのような軽いにわか雨があり、そのあと上弦の月が雲間から顔をのぞかせ、煌々と照らし出しました。鬼哭愁々とでも形容したいその凄惨な風景を、青い月が照らす――何とも印象的な風景で、今でもそのときのことをはっきり覚えています。
  翌朝、私は将校集会の席上で、一人の将校(特に名を秘す)が捕虜に帯刀を奪われて刺殺され、兵六人が捕虜の群れに引きずり込まれて死亡し、十数名が重軽傷を負ったことを知らされました。
  翌日も全員使役に駆り出され、死体の始末をさせられました。始末は半日ほどで終わったと記憶していますが、私の長い軍隊生活の生涯で、あんな悲痛な思いをしたことはありません。わが軍の死傷者が少なかったのは、彼らの目的が日本軍を殺すことではなく、逃げることだったからでしょう。中国側の死者は一〇〇〇人くらいと言われています。翌日、死を免れて重軽傷を負った捕虜が、身の丈以上もある葦の中などにがさごそ身をひそめたり、逃げ出す者もいましたが、日本兵は誰一人これを撃とうとか、追跡しようなどという者はいませんでした」
  以上が平林氏の証言であります。

『南京事件の総括』(1987年)[証言]

pp.187-189
  二度電話したがアポイントがとれないので、私は福島にとび、この捕虜事件に関係した第六十五聯隊の聯隊砲小隊長平林貞治氏(当時少尉)にお目にかかり事件の真相を聴取した。平林氏は鈴木明氏のインタビューにも応じており、その内容は『「南京大虐殺」のまぼろし』にあるので、ここでは詳細は省略し、概略のみにとどめる。
@わが方の兵力は、上海の激戦で死傷者続出し、出発時の約三分の一の一、五〇〇足らずとなり、そのうえに、へとへとに疲れ切っていた。しかるに自分たちの十倍近い一万四、〇〇〇の捕虜をいかに食わせるか、その食器さがしにまず苦労した。
A上元門の校舎のような建物に簡単な竹矢来をつくり収容したが、捕虜は無統制で服装もまちまち、指揮官もおらず、やはり疲れていた。山田旅団長命令で非戦員(※K-K註:ママ)と思われる者約半数をその場で釈放した。
B二日目の夕刻火事があり、混乱に乗じてさらに半数が逃亡し、内心ホッとした。その間逆襲の恐怖はつねに持っていた。
C彼等をしばったのは彼らのはいている黒い巻脚絆。殆んど縛ったが縛ったにならない。捕虜は約四千、監視兵は千人足らず、しかも私の部下は砲兵で、小銃がなくゴボー剣のみ。出発したのは正午すぎ、列の長さ約四キロ、私は最後尾にいた。
D騒動が起きたのは薄暮、左は揚子江支流、右は崖で、道は険岨となり、不吉な予感があった。突如中洲の方に銃声があり、その銃声を引金に、前方で叫喚とも喊声ともつかぬ異様な声が起きた。
E最後列まで一斉に狂乱となり、機銃は鳴り響き、捕虜は算を乱し、私は軍刀で、兵はゴボー剣を片手に振りまわし、逃げるのが精一ぱいであった。
F静寂にかえった五時半ころ、軽いスコールがあり、雲間から煌々たる月が顔を出し “鬼哭愁々”の形容詞のままの凄惨な光景はいまなお眼底に彷彿たるものがある。
G翌朝私は将校集会所で、先頭附近にいた一人の将校(特に名は秘す)が捕虜に帯刀を奪われ、刺殺され、兵六名が死亡、十数名が重軽傷を負った旨を知らされた。
Hその翌日全員また使役に駆り出され、死体の始末をさせられた。作業は半日で終ったと記憶する。中国側の死者一、〇〇〇〜三、〇〇〇人ぐらいといわれ、(注(1))葦の中に身を隠す者を多く見たが、だれ一人これをとがめたり射つ者はいなかった。
わが軍の被害が少なかったのは、彼らは逃亡が目的だったからと思う。
以上が平林氏の証言である。

『南京の氷雨』(1989年) [証言]

pp.108-109
 歩兵六十五連隊の連隊砲(山砲)中隊で小隊長をしていた平林貞治中尉は、このとき江岸に出かけた一人で、私に次のように語ったメモがある。
「十七日夜の事件はね、連行した捕虜を一万以上という人もいるが、実際にはそんなにいない。 四千か五千か、そのぐらいが実数ですよ。私たちは『対岸に逃がす』といわれていたので、そのつもりで揚子江岸へ、ざっと四キロほど連行したんです。途中、とてもこわかった。これだけの人数が暴れ出したら、抑え切れない。銃撃して鎮圧できるだろうという人もいるが、実際には心もとない。それは現場にいた人でないと、そのこわさはわかってもらえないと思う。第一、暴れ出して混乱したところで銃撃したら、仲間をも撃ってしまうことになるのだからね」
 実はその銃撃が集結地で現実に起こってしまったのだ。
「一部で捕虜が騒ぎ出し、威嚇射撃のため、空へ向けて発砲した。その一発が万波を呼び、さらに騒動を大きくしてしまう形になったのです。結局、仲間が六人も死んでしまっているんですよ。あれは偶発であり、最初から計画的に皆殺しにする気なら、銃座をつくっておき、兵も小銃をかまえて配置し、あのように仲間が死ぬヘマはしません」
 銃撃、叫び、血……。すさまじい形となった。平林中尉はその状況を「鬼哭啾々とはあんなことでしょうか」と表現する。
「乱射乱撃となって、その間に多数の捕虜が逃亡しています。結局はその場で死んだのは三千----いくら多くても四千人を超えることはない。これが実相です。油をつけて焼いたとされますが、そんなに大量の油を前もって準備するとなると、駄馬隊を大量動員して運んでおかなければならず、実際、そんなゆとりなんかありませんでしたよ。死体の処理は翌日に行いましたが、このとき焼いたように思います。死体が数千人----これがどれだけの量か、あなたは想像できますか、とにかくものすごい死体の散乱状況となるものなのです。それにしても恐ろしいことになってしまったと、思い出すたびに悲痛さで胸が締めつけられます」
 無残な結末を、苦汁に満ちた顔で話してくれた平林中尉である。

「証言による「南京戦史」」掲載資料 歩兵第65連隊

平林貞治 第65連隊連隊砲中隊 小隊長
概要:証言 『世界日報』S59.7.17記事の引用、捕虜反抗の様子(第11回 p.8 3段)




菅野嘉雄 歩兵第65連隊連隊砲中隊 編成 一等兵

[陣中メモ]
〔十二、〕十四
午後五時出発夜頃より敵丘(兵)続々と捕虜トス、幕府山要塞を占領し午後二時戦斗を中止す、廠舎に捕虜を収容し其の前に宿営警戒す、捕虜数約一万五千。
〔十二、〕十五
今日も引続き捕虜あり、総計約弐万となる。
〔十二、〕十六
飛行便の書葉(葉書)到着す、谷地より正午頃兵舎に火災あり、約半数焼失す、夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す。
〔十二、〕十七
未曾有の盛儀南京入城式に参加、一時半式開始。
朝香宮殿下、松井軍司令官閣下の閲兵あり、捕虜残部一万数千を銃殺に附す。
〔十二、〕十八
朝より小雪が降った、銃殺敵兵の片付に行く、臭気甚し。
〔十二、〕十九
本日も敵兵の片付に行く、自分は行かなかった。

『南京大虐殺を記録した皇軍たち』p.309




丹治善一 第65連隊 第四次補充兵 上等兵

『ふくしま 戦争と人間』 p.128 [証言]

「あの記憶は鮮烈ですね。なにしろ初めて戦場を目撃したのですから。しかもあの無数の死者……。私たち新参の補充要員は十八日朝、いきなり江岸のその現場に連れ出され、戦争の残酷場面を見せつけられたのです。死者は河岸の一角に折り重なっていたり、散乱していたり……。千人以上は死んでいるな、そう感じたものでした。しかし実際に私たちが死者を片づけてみると、四百人前後だったように思う。とにかくこれだけの死者があると、ものすごく見えるものですね。死者の大半は揚子江に流したのです」

『南京の氷雨』p.115 [証言]

この十八日には、第四次補充の兵隊たちが南京に到清、上元門で部隊に配属された。この新参兵も、そのまま死体の後始末へと動員された。福島市の丹治善一上等兵もその一人だった。「すごい死体の散乱でしたね。油をかけて焼き、棒で押して揚子江へ流したが、ひどい悪臭でした。私は戦争とは、こんなにひどいものかと、いきなり恐怖の現実を見せられた思いでした」と、私に語っている。




佐藤一郎(仮名) 歩兵第65連隊所属 一等兵

[日記]
12月12日
朝五時、飯を食する。移動のため準備をして車に載せた。付近の支那人に引かせながら半里余前に運ぶ。天気も良く、引越にはもってこひといふ日であった。移動中止。休まれるかと思って居たら、俄かに命令が出た。南京攻略戦に参加すべき命令、直ぐ出発とは驚ひた。急ぎ飯を食し、準備を完了する。我が中隊が先兵とし、夜行軍である。今夜は月も出て居る。月夜の道を一路南京にと、一歩でも近くなれとばかりに進んで行く。寒夜の月は故郷を思はせられる。大分、行軍も骨が折れる。三里半、目的地に着いて横になる。(朝、鎮江を出発して)。

12月13日
昨夜十二時から一眠り、目をあければ朝だ。飯を食すると行軍かと思へば、兵隊なんていやだ。我が分隊も他の分隊も、落後している兵は少ない。朝から中隊を先頭に南京へ、揚子江に近い軍行路を進む。我が部隊は昼過ぎに「南京は落ちた」との報を受けて、残念に思ふ。が、全部占領したわけではないと進軍行----。そのうちに「我が部隊は残兵を捕虜にしてながら城外に集合すべし」の命。その時は南京の市外を、遠く見る様になった。城外五里。行軍また行軍した身体が疲れて居り、支那人宿舎に入って休む。寒い月が出て居る。(立哨一回)

12月14日
朝四時出発。晴れの道だが、どこを、どう歩いたか、二時間行軍して夜が明ける。朝十時、残兵五百余と交戦し、二百余を武装解除。警戒しながら戦闘をし、二百余を連れて行軍。途中で揚子江岸を一里余、軍艦が江を上流へ進んで居る。海軍旗がひらひらして、実際に気分良かった。盛んに揚子江岸の残兵に射撃して居り、大砲も射つ。軍艦は四艦だ。夕方、南京城外の支那軍宿舎にて、連隊本部に解除した残兵を引渡す。両角部隊にて約二万五千余名の敗残兵。これをどうするのやら、自分たちの食糧もないのに、と思った。我が中隊には一名の戦死傷もなく、夕食を食しながら、ヤレヤレと安心したものか、急に体が変になった。城外の宿舎に寝床を造る。四人用の箱外方床----ざこ寝床である。横の加藤上等兵が故郷の希世子さんの話をし、沈んだ表情だった。今野上等兵も新婚の奥さんを想ひ出して居るうち、口が重くなっていくようだ。(南京城外一里半)

12月15日
(欠、記述なし)

12月16日
朝七時半、宿舎前整列。中隊全員にて昨日同様に残兵を捕へるため行く事二里半、残兵なく帰る。昼飯を食し、戦友四人と仲よく故郷を語って想ひにふけって居ると、残兵が入って居る兵舎が火事。直ちに残兵に備えて監視。あとで第一大隊に警備を渡して宿舎に帰る。それから「カメ」にて風呂を造って入浴する。あんなに二万名も居るので、警備も骨が折れる。警備の番が来るかと心配する。夕食を食してから、寝やうとして居ると、急に整列と言ふので、また行軍かと思って居ると、残兵の居る兵舎まで行く。残兵を警戒しつつ揚子江岸、幕府山下にある海軍省前まで行くと、重軽機の乱射となる。考へて見れば、妻子もあり可哀想でもあるが、苦しめられた敵と思へば、にくくもある。銃撃してより一人一人を揚子江の中に入れる。あの美しい大江も、真っ赤な血になって、ものすごい。これも戦争か。午後十一時半、月夜の道を宿舎に帰り、故郷の家族を思ひながら、近頃は手紙も出せずにと思ひつつ、四人と夢路に入る。(南京城外北部上元門にて、故郷を思ひつつ書く)

12月17日
朝飯を食して七時半に整列、中隊は一ヶ小隊に編成して出発する。朝風寒い。異国戦地の土をふみながら行軍行程一里半余、今日は南京入城の日だ。空には友軍の飛行機が盛んにとぶ。地上部隊は続々と城内に入る。我が部隊は中山門からの入城。町も大分広い、首都南京だ。道路も幅五間余もある「アスファルト」造りで、建物も「コンクリート」の立派な造りだ。町を行軍半里、我が中隊は南京陸軍軍官学校前整列、上海軍司令官松江大将の巡視あり。終へて昼飯を食し、一寸休んでから宿舎へ向かって行軍する。途中にて野戦局があったので、周家宅以後二ヶ月振りにて、実家に無事入城を知らせる。後、国民政府の下で国旗に敬礼、午後四時に中山門を通って、無事宿舎に整列し、散解する。夕食の準備をして居ると、また残兵の連行だと言ふ。入城式で疲れた足を引きずりながら行く。幕府山下まで行き、昨夜同様の事が起こってしまふ。午後十二時に宿舎へ帰る。四人で入城式の事を語り、戦争が無事終わった事を喜ぶ。故郷の人達も「ラヂオ」でこの事を聞き、無事で居るかと心配して居る事を思ふ。朝二時に寝る。(入城式を終へ、北部上元門の宿舎にて記す)

12月18日
入城式も終はって、今度は一時にひまとなった。朝飯を食してより南京見物に行く。午前十時勤務交代上番する。久しぶりにて本部の風呂に行って三十分ばかり入浴、命令もないままに送り、十二時半下番する。中隊では死体片づけに全員行っている。夕方になる。夕飯の準備をしているうちに戦友が真っ黒な顔をして帰ってくる。聞いてみれば、煙にて染まったとか。分隊長以下にて夕食を食しながら、いろいろと話を出しても、みなもの思ひに沈んでいる。月はよく出ている。一層に故郷を思はせられる。(立哨一回、戦友と語りながら夢路に入る)

12月19日
朝、起床すると同時に戦友と野菜とりに行く。兵隊が近くに大分いるのでなかなかない。一里半ばかり行って大分徴発して来る。朝飯を食してより戦友四人と眠る。目をあけると昼であったが、飯を炊いて食べる気にもなれず、また眠る。三時半、徒歩で師団衛生隊に行き、同郷の二人と会ひ、支那酒一杯飲んで良い気分になって宿舎に帰ってきた。暗くなっていたので戦友が一町ばかり迎へにきてくれていた。実際、親しい戦友に心配をかけたと思ったときは、済まない、遊んでばかりいて----と考へた。その夜、四人の戦友と共に夢路に入る。

『南京の氷雨』pp.22-26,p.114




鈴木氏

[証言]
  いまは郊外で農業を営んでいる鈴木氏も現場にいたというので訪ねてみた。
 鈴木氏は、「自衛であった」ことを、強調して、話に入った。「兵隊は、本当に一生懸命メシを作ったんですよ。本当に殺るつもりなら、何であんなに、こっちが犠牲になってやるもんですか。それに、本当に殺るつもりなら、こちらが殺られるはずがない。月日は入城式の夜です。私が入城式から帰ると、ちょうどいいところに帰ってきた。今から護送しろといわれたので憶えているんです。捕虜は対岸に逃がすといっていました。しかし、舟が来ないんです。捕虜は、だまされたといって、騒ぎはじめたんじゃないでしょうか」 捕虜を捕らえた方も初めてなら、捕えられ方も初めてだった。捕虜を捕えることによって、どんな事態が発生するかは、捕えた瞬間は想像もできなかったわけである。
「あの時撃たなければ、われわれは全滅になった。だから、自衛といえるんじゃないでしょうか」
 鈴木氏は、この件を語ったのははじめてだし、もう再びしゃべりたくはない、とつけ加えた。

『「南京大虐殺」のまぼろし』 pp199-200




関係者

[証言]
  歩兵六十五連隊全戦死者名簿を私は持っているが、南京作戦の戦死者六人の名がある。南京では戦死者が出る状況の戦闘はなかったのだが、ともかく六人の名がある。但し戦死した日は十四日として処理されている。本当に十四日なのか――。関係者は首を振って説明する。
「十六日の海軍倉庫と、十七日の江岸での捕虜との戦闘で死んだのです。しかし、逃げ出した捕虜を追跡するうち見方の銃弾で死んだとか、江岸の騒動で捕虜に殴り殺されたとか、とても記録には残せないし、遺族にも伝えられない。あれこれ知恵をしぼり、両角連隊長とも相談し、十四日の幕府山の戦闘で華々しく戦死したと、そういうことで戦死処理をしたのです。当然ながら遺族にも、十四日戦死の公報が出ています」
 連隊の行動を記録した『連隊歴史』には七人がこのとき戦死したとある。
 別の証言によると、ここで将校一人が死んでいる。少尉である。銃撃が終わった為と、少尉は 「人を切ったことがないから、もしかしたら死体なら切れるかもしれない」と、腰につけていた 軍刀を抜いて、死体に向かって切り降ろした。
 ところが、近くに横たわって死んだふりをしていた者がいて、いきなり立ち上がると、少尉か ら軍刀をもぎ取り、逆に刺されてしまった。思いがけない不運な死だった。 少尉については、さらに後日談がある。
 十四日戦死ということでで戦死公報を出したあと、少尉の遺品まとめて家へ送り届けた。
 ところが、遺品の中に少尉の日記がで日記が入っており、十六日まで記入がある。「十六日まで日記をつけていた人がなぜ十四日に死ぬことができたのか」と厳重な抗議が持ち込まれたのだ。結局は遺族に真実を話し、了承してもらったという。

『南京の氷雨』 pp.102-103




氏名・所属・階級不明

  画面中央に老人の姿が座るビデオテープ。
「建物は3階建てぐらいの海軍兵学校か何か。川沿いにあったんだけどコンクリートでできていて非常に頑丈だった。基礎工事がしっかりしてあった。その壁の厚いコンクリートにツルハシを使って穴を開けるんだけど、なかなか開かなくて大変だった……」

『「南京事件」を調査せよ』pp.148-149




歩兵第65連隊 機関銃隊員 (A)

  別の機関銃隊員もVTRの中でこう証言していた。
  両手の指先を近づけて、山の形を作ったその老人は言った。
「機関銃を撃ったら捕虜たちは大きな山になった。ひとつところに死体が山になったんだ。山の中に潜りこんだのは死なない。頭をぴくぴく動かしているので将校の軍刀でやる。2、3回やったら小隊長の軍刀が真ん中からひん曲がってしまった……」
  老人は、帰国後に金鵄勲章を受章していた。
(略)
  機関銃隊員の証言。
「最初は軍刀でやっていたが、人数が多すぎて斬り切れなくなって銃剣で刺した。最後は石油ぶっかけて燃やしたんです」
  死体の中で息を殺して隠れている生存者を見つけるために石油をかけて火を放ったという。熱さに耐え切れなくなって動けば銃剣で刺した。
「死体を運ぼうとしたが、着ている綿入れに石油が染みこんでいて滑って掴むところがない。そこで柳の枝を鉤にして引っ掛けて引きずったり、板で押したり」
  リアルな証言だった。重い人体は水でも滑る。石油なら尚更だろう。
  そこで柳の枝を切り、枝別れする部分を逆さにし、遺体の脇にひっかけて引っ張ったのだという。

『「南京事件」を調査せよ』pp.167-168




歩兵第65連隊 機関銃隊員 (B)

  機関銃隊員は、同士撃ちに関して、インタビューの中でこう説明していた。
「機関銃を撃った後、突撃させたのが11時ころかな……、突撃というのは、生き残りは刺せという命令。大げさな命令ではないんだが刺してしまえと。しかし相手は必死で、死に物狂いに抵抗したわけだ。兵隊とごっちゃになったら危ないから撃たないという話だったが、機関銃としては見かねて撃ってしまった。何秒だけどバババとやった」
  事故は銃剣でも起きたという。
「暗がりの中だったから間違って自分の戦友を刺しちまったやつもいた。18日の1時頃になって引き上げる時に、その戦友を背負って謝って『お前が死んだら、俺も死ぬ』と言ってたな」
  軍刀で捕虜を切ろうとした少尉が、逆に刀を奪われて切られ、死亡したという話もあった。六十五聯隊の戦後資料には7名が戦死者として記録されている。

『「南京事件」を調査せよ』pp.177-178




歩兵第65連隊 機関銃隊員 (C)

  ある機関銃隊隊員は録音されたインタビューの中でこうも話していた。
「戦争中は英雄だったのに、終戦になって捕虜を殺したことが問題になってきて、困ったですなあ、今までの展開と違ってきたというわけですよ……」

『「南京事件」を調査せよ』 p.180


参考資料

  • 『「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明、文藝春秋 1973年3月
  • 『ふくしま 戦争と人間』福島民友新聞社編 福島民友新聞社 1982年10月
  • 「証言による「南京戦史」」(第1回〜第11回、最終回、番外)畝本正巳他 『偕行』1984年4月〜1985年3月 同5月 偕行社
  • 「「南京大虐殺」はなかった」第3回 『世界日報』昭和59年7月17日 1984年
  • 田中正明「南京事件 虐殺否定の13の論拠」 『じゅん刊世界と日本』第449・450合併号 内外ニュース 1985年4月5日/15日発行
  • 『南京事件の総括』田中正明、謙光社 初版昭和62年3月7日 1987年
  • 『南京戦史資料集2』南京戦史編集委員会 初版平成元年11月3日 増補改訂版平成5年12月8日
  • 『南京の氷雨 虐殺の構造を追って』阿倍輝郎、教育書籍 1989年12月20日初版第1刷発行
  • 『南京大虐殺の研究』編者洞富雄・藤原彰・本多勝一、 晩聲社 1992年5月1日初版第1刷発行
  • 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』小野賢二・藤原彰・本多勝一編 大月書店 1996年3月発行
  • 『「南京事件」を調査せよ』清水潔 文藝春秋 2016年8月25日