山田支隊 栗原利一証言


毎日新聞 昭和59年8月7日

元陸軍伍長、スケッチで証言/南京捕虜1万余人虐殺
−「真実はきちんと後世に伝えたい」−

 南京大虐殺に加わった元陸軍伍長が、半世紀近い沈黙を破り、当時のスケッチ、メモ類をもとに中国兵捕虜1万余人の虐殺を詳細に証言した。
問題の捕虜大量射殺事件はこれまで上級将校の証言などから「釈放途中に起きた捕虜の暴動に対する自衛措置」とされてきた。
今回の証言は、これを覆すものだ。
 上海から南京攻略、さらに徐州占領まで従軍、軍曹になって漢口攻略の途中、負傷して日本国内に送還された栗原さんは、昭和十三年暮れから療養生活中、従軍した戦闘の記録をスケッチブックにまとめた。
 南京附近の戦闘に関するものは計六枚。
 昭和十二年十二月十三日紫金山東北の鳥龍山砲台を、翌十四日南京城北側の幕府山砲台を占領したところから始まっている。
「第一大隊百三十五名で一万三千余捕虜を降し、敵を武装解除」。そして「島流し」と書かれたスケッチには虐殺の模様が詳述されている。
「中央の島に一時、やる(送る)ためと言って船を川の中ほどにおいて、船は遠ざけて四方から一斉に攻撃して処理したのである。
 その夜は片はしから突き殺して夜明けまで、その処に石油をかけてもし、柳の枝をかぎにして一人一人ひきずって、川の流れに流したのである。
 わが部隊(が殺したたの)は13500であった。
 今、考えても想像できないことである」
 栗原さんによると、捕虜を殺したのは、十二月十七日から十八日の夜で、昼過ぎから、捕虜をジュズつなぎにし、収容所から約四キロ離れた揚子江岸に連行した。
 一万人を超える人数のため、全員がそろった時は、もう日が暮れかかっていた。沖合いに中洲があり「あの島に捕虜を収容する」と上官から聞いていたが、突然「撃て」の命令が下った。
 約一時間一斉射撃が続いた。見渡せる範囲の捕虜は必死に逃げ惑うだけで、水平撃ちの弾を避けようと、死体の上にはい上がり高さ三、四メートルの人柱ができた。
 会津若松出身の第六十五連隊、両角部隊の捕虜収用は、占領当時、新聞で「大戦果」と報道され、総数は一万四千七百七十七人とされていた。
 その後、捕虜がどうなったかは報道がない。

※この記事は核心さんに提供して戴きました。




本多勝一『南京への道』P307-318

 この報道については写真もあり、それは同紙一九日付朝刊の写真ページと、『アサヒグラフ』一九三八年一月五日号とに、同じ現場ながら別の瞬間にとられた写真が出ている。新聞の方は「南京避難民区内に隠れてゐた敗残兵〔十七日河村=福岡電送〕」 の説明だが、『アサヒグラフ』の方は「両角部隊によって南京城外部落に収容された捕虜の一部(十二月十六日上野特派員撮影)」とされている。記事との整合性からすれば後者が正しい。新聞の方は写真説明を日本で勝手に想像してつけた可能性がある。
 ところが、この「一万四千七百七十七名」の捕虜の大群がその後どうなったかについて、続報は全くなかった。かれらはどこに消えたのだろうか。
 実は、この捕虜群がすべて殺されたらしいことについては、これまでにすでに間接的伝聞ながら記録がある〔注〕。だが生存者が一人もいなかったためか、中国側には直接的被害者の証言ほまだない。ごく最近になって、このとき捕虜を実際に処理した両角部隊の一人・旧陸軍下士官が真相を詳細に語った。この人が真相を語るにいたった動機は以下に述べるが、真意を理解せぬまま卑劣な匿名のいやがらせ電話や投書が集中する前例があるため、当人の希望によりここでは仮名を使うことにした。すなわち「田中三郎さん」(七三)としておくが、福島県出身で警視庁に長くつとめて引退した。剣道八段をはじめ、柔道・居合道・杖道などでも高段者で、書道の達人でもあるいわば「文武両道」の日本男子である。むろん思想的に「左」でもなければ反体制でもなく、そうした意味であればむしろ「右」であり、体制側でもあろう。
 その「田中さん」は、まさに日本的武士道の見地からみて、南京陥落から四七年目の今日、ことの真相を遺しておく必要をさとり、当時描いておいたスケッチやメモの画帳を前にして語ったのであった。この画帳は南京陥落の翌年の漢口攻略戦で負傷して入院中に描いたもので、捕虜の数は約一万三五〇〇人となっている。田中さんが真相を明らかにする気になったのは、およそ次
のような心境によるものであった。
<南京陥落後、無抵抗の捕虜を大量処分したことは事実だ。この事実をいくら日本側が否定しても、中国に生き証人がいくらでもいる以上かくしきれるものではない。事実は事実としてはっきり認め、そのかわり中国側も根拠のない誇大な数字は出さないでほしいと思う。中国側では「四〇万人が虐殺された」といっているらしいが〔注〕、それは果たしてどこまで具体的な資料をもとにしたものなのか。あと二〇年もたてば、もう事実にかかわった直接当事者は両国ともほとんどいなくなってしまうだろう。今のうちに、本当に体験した者が、両国ともたがいに正確な事実として言い残しておこうではないか。真の日中友好のためにはそのような作業が重要だと思う。……>
 田中さんは第一三師団(仙台)に属する山田旅団第六五連隊(会津若松=両角部隊)の第一大隊第二中隊にいた。現役入隊のころ「満州事変」(中国でいう「九・一八事変」)に参戦しているので、南京攻略戦に際して召集されたときは二四歳の下士官だった。
 一九三七年(昭和12)一〇月三日、上海近郊の呉漱に上陸。六キロばかり歩いたところで一週間ほど野営し、中国兵の死体が浮くクリークの水で炊事しながら小隊訓練・分隊訓練。このとき伍長の田中さんは分隊長である。ここで大半の兵隊が下痢になった。部隊は一〇日の夜最前線へと移動し、一一日から攻撃にかかった。前面に老陸宅、左に孟家宅、右に三家村を見る位置で、三方から中国軍(国民党軍)精鋭部隊の猛射を受けながらの苦戦である。攻撃陣地としていた竹ヤプの竹が、敵弾のため一本のこらずなぎ倒されてしまうほどだった。この日から二週間のあいだに一個中隊一九八人のうち六五人もが戦死した。負傷して後方へ送られる兵はもっと多く、補充されては戦ったものの、最初からいた者で無事だったのは中隊のうちわずか二三人きりであった。中隊長も負傷して退き、将校の六人中三人が戦死している。「これほどひどくやられていました。すべて『お国のため』の戦死です。この激戦の延長としての南京進撃だったことを考えてほしい。描虜が降参してきたからって、オイソレと許して釈放するような空気じゃ全然ない。あれほどにもやられた戦友の仇ですよ。この気持ちほ、あのとき戦った中国側の兵隊にだって分かってもらえると思います。仮に一〇万殺そうと二〇万殺そうと、あくまで戦闘の継続としての処理だった。あのときの気持ちに、虐殺≠ニいうような考えはひとカケラもありません。みんな『国のため』と思ってのことです」
 第一〇軍の杭州湾上陸は戦局を一変させた。いわゆる「日軍百万上陸」の報に猛スピードで逃げる蒋介石軍と猛追する日本軍。田中さんの両角部隊の場合、鎮江でやや苦労したあとは大した会戦もなしに長江ぞいに南京へ接近した。途中に造りかけのトーチカがたくさんあり、これが完成していたら大変だったな、と田中さんは思った。南京の北で長江が二つに分流し、広い方が大きく湾曲してから十数キロ東でまた合流するあたりに烏龍山という砲台の陣地があるが、ここへ進撃したときはもう組織的抵抗はなかった。さらに分流ぞいに幕府山の手前まできたとき、一挙に膨大な中国兵が投降してきた。各中隊はこれを大わらわで武装解除すると、着のみ着のままのほかは毛布一枚だけ所持を許し、中国兵の「廠舎」だった土壁・草屋根の大型バラックのような建物の列に収容した。これが前記の新聞報道と写真の捕虜群である。その位置は幕府山の丘陵の南側、つまり丘陵をはさんで長江と反対側だったと田中さんは記憶し、当時のスケッチでもそのように描いている。
 収容されてからの捕虜たちの生活は悲惨だった。一日に、中華料理などで使われる小さな支那茶碗″に飯一杯だけ。水さえ支給されないので、廠舎のまわりの排水溝の小便に口をつけて飲む捕虜の姿も見た。
 上からの「始末せよ」の命令のもと、この捕虜群を処理したのは入城式の一七日であった。捕虜たちにはその日の朝「長江の長洲(川中島)へ収容所を移す」と説明した。大群の移動を警備すべく、約一個大隊の日本軍が配置についた。なにぶん大勢の移動なので小まわりがきかず、全員をうしろ手にしばって出発したときは午後になっていた。廠舎を出た四列縦隊の長蛇の列は、丘陵を西から迂回して長江側にまわり、四キロか五キロ、長くても六キロ以下の道のりを歩いた。あるいは銃殺の気配を察してか、あるいは渇きに耐えきれずか、行列から突然とびだしてクリーク(水路か沼)にとびこんだ者が、田中さんの目にした範囲では二人いた。ただちに水面で射殺された。頭を割られて水面が血に染まるのを見て、以後は逃亡をこころみる者はいなかった。
 この護送中のこと、田中さんは丘陵の中腹に不審な人影を見た。丘の頂上には日本軍がいたが、中腹に平服らしい人間がちらと認められたという。あるいは国際諜報機関の何かではないかと、なんとなく不安を感じたままになっていた。少なくとも目撃者はいたに違いないと田中さんは思っている。
 捕虜の大群は、こうして長江の川岸に集められた。ヤナギの木が点々としている川原である。分流の彼方に川中島が見え、小型の船も二隻ほど見えた。
 捕虜の列の先頭が着いてから三時間か四時間たつころ、掃虜たちも矛盾に気付いていた。川中島へこの大群を移送するといっても、それらしい船など見えないし、川岸にそのための準備らしい気配もないまま日が暮れようとしている。それどころか、捕虜が集められた長円形状のかたまりのまわりは、川岸を除いて半円形状に日本軍にかこまれ、たくさんの機関銃も銃口を向けている。このとき田中さんがいた位置は、丘陵側の日本兵の列のうち最も東端に近いところだった。
 あたりが薄暗くなりかけたころ、田中さんのいた位置とは反対側で、捕虜に反抗されて少尉が一人殺されたらしい。「刀を奪われてやられた。気をつけよ」という警告が伝えられた。田中さんの推測では、うしろ手に縛られていたとはいえ、さらに数珠つなぎにされていたわけではないから、たとえば他の者が歯でほどくこともできる。危険を察知して破れかぶれになり、絶望的反抗をこころみた者がいたのであろうが、うしろ手にしばられた他の大群もそれに加われるというような状況ではなかった。
 一斉射撃の命令が出たのはそれからまもないときだった。
 半円形にかこんだ重機関銃・軽機関銃・小銃の列が、川岸の捕虜の大集団に対して一挙に集中銃火をあびせる。一斉射撃の轟音と、集団からわきおこる断末魔の叫びとで、長江の川岸は叫喚地獄・阿鼻地獄であった。田中さん自身は小銃を撃ちつづけたが、いまなお忘れえない光景は、逃げ場を失った大群衆が最後のあがきを天に求めたためにできた巨大な人柱≠ナある。なぜあんな人柱ができたのか正確な理由はわからないが、おそらく水平撃ちの銃弾が三方から乱射されるのを、地下にはむろんかくれることができず、次々と倒れる人体を足場に、うしろ手にしばられていながらも必死で駆け上り、少しでも弾のこない高い所へと避けようとしたのではないか、と田中さんは想像する。そんな人柱″が、ドドーツと立っては以朋れるのを三回くらいくりかえしたという。一斉射撃は一時間ほどつづいた。少なくとも立っている者は一人もいなくなった。
 ほとんど暗くなっていた。
 だが、このままではもちろんまだ生きている者がいるだろう。負傷しただけのもいれば、倒れて死んだふりの者もいるだろう。生きて逃亡する者があれば捕虜全員殺戮の事実が外部へもれて国際間題になるから、一人でも生かしてはならない。田中さんたちの大隊は、それから夜明けまでかかって徹夜で「完全処理」のための作業にとりかかった。死体は厚く層をなしているので、暗やみのなかで層をくずしながら万単位の人間の生死を確認するのは大変だ。そこで思いついた方法は火をつけることだった。綿入れの厚い冬服ばかりだから、燃えだすと容易に消えず、しかも明るくて作業しやすい。着物が燃えるといくら死んだふりをしていても動きだす。
 死体の山のあちこちに放火された。よく見ていると、死体と思っていたのが熱さに耐えきれずそっと手を動かして火をもみ消そうとする。動きがあればただちに銃剣で刺し殺した。折り重なる層をくずしながら、ちらちら燃えくすぶる火の中を、銃剣によるとどめの作業が延々とつづいた。靴もゲートル(脚秤)も人間の脂と血でべとべとになっていた。こんなひどい「作業」も、「敵を多く殺すほど勝つのだ」「上海いらいの戦友の仇だ」「遺族へのはなむけだ」という心境であれば疑問など起こる余地もなかった。動く者を刺すときの脳裏には、「これで戦友も浮かばれる」と「生き残りに逃げられて証拠を残したくない」の二つの感情だけしかなかった。これも作戦であり、何よりも南京城内の軍司令部からの命令「捕虜は全員すみやかに処置すべし」であった。
 徹夜の「作戦」で、疲れたというような次元とは違って、何ともいいようのない、身も心もへとへとになった無我夢中の感情のまま、死体の脂と燃えかすの墨との惨憶たる格好で朝帰りすると、その日(一八日)は死んだように眠りこんだ。
 死体の山のあとかたづけで、この日さらに別の隊が応援に動員された。この段階でドラムカンのガソリンが使われ、死体全体が焼かれた。銃殺・刺殺のまま川に流しては、何かとかたちが残る。可能なかぎり「かたち」をかえて流すためであった。しかしこの大量の死体を、火葬のように骨にまでするほどの燃料はないので、焼かれたあとは黒こげの死体の山が残った。これを長江に流すための作業がまた大変で、とても一八日のうちには終えることができない。ヤナギの枝などでカギ棒をつくり、重い死体をひっかけて川へ投げこむ作業が、あくる一九日の昼ごろまでつづいた。
 この「作戦」で、皆殺し現場を逃亡して生還できた捕虜は「一人もいないと断言できます」と田中さんは語る。前後の状況からしてとてもそれは無理なことだったと。
 摘虜の処理が終わったあと、両角部隊はあくる二〇日に長江を渡って浦口ヘ進み、さらに西方深く二週間ほどの追撃戦ののち、また浦口へもどってその警備についていた。
 このようにして南京で「始末」または「処理」された捕虜の数について、田中さんのメモは七万人くらいと推定する。両角部隊の場合のほかに、とくに大量処分された場所は紫金山の麓だったと田中さんはきいている。しかし少なくとも両角部隊に関するかぎり、捕虜以外の一般人の無差別虐殺は全くしなかったし、また市内にはいらなかったのだからそれは不可能な状況だったという。

※K-K註:原文中にある仮名「田中三郎」「田中」の本名は栗原利一氏である。




『南京戦史資料集1』p.659-660より

一、栗原証言要約
  昭和十三年秋、武漢戦で負傷し南京で入院中に回想して描いたスケッチを基に、栗原氏は要約次のように証言した。
  昭和十二年十二月十二日、南京攻撃を命じられた山田栴二少将指揮の歩兵一聯隊、山砲一大隊は、鎮江を夕刻出発した。
  翌十三日、私達の属する歩兵第六十五聯隊(長・両角業作大佐)第一大隊(長・田山芳雄少佐)は烏龍山砲台を占領したが、既に敵兵の姿はなく無血占領であった。
  十四日朝、幕府山付近に至ると莫大な投降兵があり、ことごとく武装解除して連行した。私たちは、集積され山のようになった武器の焼却を命ぜられたが、その煙は数キロ離れてから振り返っても天に沖するほどであった。捕虜は四列縦隊で延々長蛇の列となった。(スケッチ1及び飯沼日記十四、十五日参照)
  十五日から十六日、第一大隊(一三五名)はこの一三、五〇〇人と公称された捕虜の大群を、幕府山南麓の学校か兵舎のような藁葺きの十数棟の建物に収容し三日間管理した(スケッチ2)。しかし自分達の食糧にもこと欠くありさまで、捕虜に与える食事がなく、ようやく烏龍山(注・幕府山の間違いか)砲台から馬で運んだ米で、粥を一日一回与えるだけが精一杯であった。水も不足し、自分の小便まで飲む捕虜がいたほどの悲惨な状態であった。
  多分十七日と思うが、捕虜を舟で揚子江対岸に渡すということで、午前中かかって形だけだが手を縛り、午後大隊全員で護送した。四列縦隊で出発したが、途中で列を外れて小川の水を飲もうとして射殺された者もいた。丘陵を揚子江側に回りこんでからは道も狭く、四列では歩けなかった。列の両側に五十メートルくらいの間隔で兵が付いた。左側は荒れ地で揚子江の向こうに島(注・草鞋洲、八卦洲ともいう)があり、右側は崖が続き、山頂には日本軍の姿もあったが、中腹に不審な人影を認めた。
  二時間くらいかかり、数キロ歩いた辺りで左手の川と道との間にやや低い平地があり、捕虜がすでに集められていた。周囲には警戒の機関銃が据えられてあり、川には舟も二、三隻見えた。(スケッチ3)
  うす暗くなったころ、突然集団の一角で「××少尉がやられた!」という声があり、すぐ機関銃の射撃が始まった。銃弾から逃れようとする捕虜たちは中央に人柱となっては崩れ、なっては崩れ落ちた。その後、火をつけて熱さで動き出す生存者を銃剣でとどめをさし、朝三時ころまでの作業にクタクタに疲れて隊に帰った。死体は翌日他の隊の兵も加わり、楊柳の枝で引きずって全部川に流した。
  その後二十日ころ、揚子江を渡り浦口に行った。
  これは「虐殺」ではなく「戦闘」として行なったもので、その時は「戦友の仇討ち」という気持ちであり、我が方も九名が戦死した。殺したなかに一般人は一人もいない。当時日本軍の戦果は私たちの一三五〇〇を含めて七万といわれていたが、現在中国で言うような三〇万、四〇万という「大虐殺」などとても考えられない。私たちも真実を言うから、真の日中友好のために、中国側も誇大な非難は止めてもらいたい。




「証言による「南京戦史」」掲載資料
栗原利一 第65連隊第1大隊 伍長

概要:証言 毎日新聞記事に関して「真意とは逆である」とする、捕虜が反抗し命令により殺害した(第11回 p.8 2段)




福永平和「記者の目」

※この記事は核心さんより提供して頂きました。
※以下は昭和59年9月27日の毎日新聞に掲載された福永平和氏による「記者の目」のコラム記事です。

歴史の発掘報道に思う/勇気ある当事者発言/匿名の中傷、卑劣だ/反論、堂々と姿現して

 記者にとって読者からの反響は大変に気になるものだ。新聞社内でも、あれはこうだ、いやちがう、などと言い合うことがあるが、読者からとなると思いもよらぬ視点を開かれることがあるからだ。時に痛いところを問答無用式にばっさりと切られ、歯がみすることもあるが、半面、一方的に中傷、誤解されることもある。そして困るのは、こういう人たちは多く匿名であることだ。しかも、いわれなく取材先の人たちまで巻き込まれるとなると、記者としていたたまれない。今回、この「記者の目」でとりあげたのは、そのケースで、取材した記者としては、見過ごすべきでないと思い、ペンをとった。読者のみなさんと共に考えてみたいと思う。
  発端は八月の末。社会部の電話が鳴った。電話の主は八月七日日付朝刊二社面(東京本社発行最終版、以下本紙掲載日は同)で掲載した「元陸軍伍長、スケッチで証言 南京捕虜一万余人虐殺」の記事で取材し、紙面にも名前の載った東京小平市の退職警察官(73)だった。
だが、電話の向こうの声は最初からひどく震えていた。
「まったくひどい。何とかしてもらえないだろうか。」
 記事に載った証言は、鈴木明氏の「南京大虐殺のまぼろし」や防衛庁防衛研修所戦史室の「支那事変陸軍作戦<1>」などの「釈放途中に起きた捕虜の暴動に対する自衛的集団射殺」という定説を覆すものだった。
電話の主は、この記事が出て以来、次々と「読者」からの封書、はがきが届いたが、これらの多くは中傷で、脅迫まがいのものもあるという。証言者の自宅へ出向いた。
「恥知らずめ、おぼえておけ。軍人恩給と警察官の恩給を返して死ね」「貴様は日本人のクズだ!!」「思慮の浅い目立ちたがり屋か老人ボケ」
 思いつく限りの悪罵(ば)を投げつけていた。
 もちろん、証言者を勇気づける手紙も何通かあった。
「事実を述べられたこと(教えて下さったこと)の勇気をすばらしいと思います」(三十六歳の主婦)。勇気ある証言は次の証言につながっていく。八月十五日付朝刊の「南京大虐殺、私も加わった」という神戸市の元上等兵(75)の証言である。そしてこの第二の証言者のところへも「お前はバカか、平和を乱すようなことはするな」という手紙や電話がきていた。
 こういった非難、中傷、脅迫の手紙は、新聞社にもよく来る。八月十五、十六日付朝刊の七三一部隊関連記事でも「資料はデッチ上げ」という投書があった。共通しているのは匿名ということ。

「子孫にウソを伝えぬために」
  元警察官が証言を思い立ったきっかけは、七月二十二日付朝刊社会面の「南京大虐殺、中国側が”立証”犠牲者は三十余万人」の記事。
「殺したのは殺した。それは事実だけれど、三十万人、四十万人なんて数じゃない。どんなに多くても十万人以下だ。中国側の根拠や資料をうのみにするわけにはいかない。事実をはっきりさせるのは、日本の側も、やったことははっきり認めなきゃいけない。いつまでも”殺してない”とか”自衛のためだ”なんて言ってるのはおかしい。ウソを子孫に伝えるわけにはいかない。あれにかかわったものは、私も含め、もう年だ。今のうちに本当のことを言っておかねば」
 戦後三十九年。戦無世代はもうすぐ人口の60%になろうとしている。かくいう私も戦後生まれである。空襲も含め一切の戦争体験のない世代にとって、戦争とは活字や写真で見るしかないものである。その活字の輪郭がぼやけていたのでは、戦争そのものの実像がつかめなくなる。南京虐殺も、組織的な大量虐殺があったかどうか、論が分かれている。中国側の主張する三、四十万人という数字は、虐殺があったとする学者の中にも疑問視する人がいる。
 一昨年の教科書検定問題以後、中国では日中関係を考慮しながらも、日本軍の侵略の実像を再調査、生存者の聞き取り、資料の収集をして「まとめ」を進めている。七月二十二日付の記事で紹介した中国人民政治協商会議南京市委員会文資料研究会編の「資料選■(不明文字)」、侵華日軍南京大屠殺資料選■(不明文字)」もその一つだ。昨年八月の発行である。同年六月には南京大学歴史系日本小組編の「南京大屠殺」を収めた「江蘇文資料選■(不明文字)、第十二■(不明文字)」も出版されている。さらに昨年五月には、新華出版社の「日本侵華図片史料集」という写真集も発売された。
 日本軍による侵略の歴史のまとめ作業は中国だけではない。シンガポールの華字紙「■(不明文字)合早報」の七月九日付によると、日本研究者の蔡史君さんが編集した「新馬華人抗日史料」が十月に出版されるという。千百ページ、八百枚の写真を使った膨大な史料で、シンガポール占領直後の華人大虐殺も史料や生存者の証言で裏付けされている。
匿名の手紙の中には「日中友好の障害になる」という非難もあった。しかし、七月二十二日付の記事は数日して中国の中、下級幹部用内部新聞「参考消息」に載り、元警察官の証言はその日のうちに、新華社が詳しく伝えた。
 日中友好二十一世紀委員会の開催など、明日の日中友好に向けた動きが活発な中でも、中国は半世紀も前のことに強い関心を示している。
「日本侵華図片史料集」の編集後記は、その出版意図をこう書いている。

日中友好維持と”逆流”への警戒
 「我が国の戦後生まれの世代は、自ら日本帝国主義の侵略戦争の苦難を経験しておらず、日本帝国主義の罪行を目のあたりにしていない。彼らは日本経済が復興した戦後の情景を知っているだけである。日本帝国主義の中国侵略の歴史を学び、再度復習し、中日関係の新しい発展段階において、中日両国の友好協力関係の維持発展に力を尽くさねばならず、同時に日本軍国主義を復活させようとする逆流を警戒し、批判しなければならない」
 この中国側の意図をどう受け止めるかは、さまざまだろうが、当事者でもある日本側は少なくとも事実をはっきりさせる努力が必要である。
その意味で、歴史の底に埋もれてしまいかねない「証言」は貴重だ。証言しやすい環境を作る周りの努力こそ大切で、これを妨げたり、戦後四十年近く、やっと明らかになった証言や資料をつぶすようなことはすべきではない。反論があるなら、堂々と名乗って筋を立ててもらいたい。




『南京大虐殺研究札記』

編集発行 日本軍侵略中国調査訪中団
連絡先 川村一之
1986年12月発行

※核心さんのコメント
南京大虐殺研究札記(1986年12月13日発行)の16頁に掲載された「証言で綴る南京大虐殺<PARTI 従軍兵士に聞く>戦争というのは、殺すか殺されるか、なんです。一兵士」は父(栗原利一)の証言です。

(以下、本文掲載)

戦争を起さぬために
「自分の部隊がやった(殺した)のは一万三五○○人。私自身数えたわけではないが、そう言われたし、新聞にもそう報道された。しかし、暴行・強姦なんてなかった。第一、捕虜のなかには、女なんて一人もいなかったしね」
「戦争っていうのは、殺すか殺されるかなんです。私があなたたちに話すのも、戦争というものを知ってもらいたいからです。中国人を三○万、四○万殺した、といわれるけれど、こっちも殺されているのです。そのこともいっしょに見ないと戦争っていうのはわからない」
「戦争というのは二度とやるものではない。二度と起こさないために、みんなで工夫しないといけない。それが問題なんだ」

やられたらやりかえす
「上海から南京へ、戦闘はつづくんですけど、まず上海での戦闘がすごかった。58人の1個小隊で、突撃につぐ突撃で残ったのは、たったの13人です。連隊長は殺される。連隊副長官も殺される。大隊長も、中隊長も殺されました。そういう激戦でした」
「私は分隊長(注)だったが、分隊11人の内、2人しか残らなかったこともある。じっとしていてもやられる。むこうは迫撃砲でねらってきますからね。2メートル移動して、2分もたたずに元いたところにタマが落ちる、ということもたびたびあった。もちろん、立っては歩けません。鉛筆1本かざしても、パッ、パッ、パッ、パーンと機関銃で撃ってきますからね」(注=6分隊で1小隊、3小隊で1中隊、4中隊で1大隊)
「やられたらやりかえす、というのはだれしもが持つ気持じゃないですか。中国人に対して、憎しみがわいてくるのも当然じゃないですか。それに、中国軍っていうのは汚いんですよ。見つかるとすぐ殺しにかかった。捕虜になってもこっちはすぐ殺されるわけです。従って、1人の兵隊も残さずに殺してしまおう、兵力をなくしてしまおうというのが、日本の兵隊の忠実な行動でした。今だからこそ、殺したというのは犯罪扱いめいていますが、当時は戦果、大手柄でした。日本の国のためにやっていたわけですからね」

殺すつもりはなかった
「私たちが幕府山で捕えた1万何千人という捕虜を、初めから、”殺してしまえ”ということではなかったんです。彼らを連行し、揚子江の中央の島に送るため、1ヶ所に集めた。船も用意されていたんです。もうすぐ日が暮れるという頃になって”何々少尉やられる”という声が聞こえたんです。その後”撃て”という命令がくだった」
「細かい点はわかりませんよ。そこに策略があったかどうかわかりませんが、トラブルが起れば”殺すしかない”という用意はあった。こっちは百何十人、あっちは1万数千人ですからね。彼らをとり囲んで、機関銃が構えていました。将校以下、7名が殺されたわけですから”やっちまえ”ということになった」
「私たちは、それまでに痛い経験を何度もしているんです。ちょっと気をぬいたばかりに手痛い被害を何度も受けてきた。あの時の同じように、捕虜を集めて、反乱された時もある。捕虜は逃げ、こっちは殺されることもあった。したがって”反乱したらやるしかない”という用意があったのも当然だったわけです」
「しかし、”捕虜取扱法”という赤十字条約があって、捕虜は殺しちゃいけないということは決まっていたけど、私たちは兵隊でしたから、そんなことは知らなかった。将校は知っていたかも知れませんが、私たちは”反乱したらやる”ということだった。それに、上官の”命令”は、そむくことのできぬ、天皇の命令でもあったわけですからね」

約1時間、一斉射撃
「約1時間、一斉射撃がつづきました。見渡せる範囲の捕虜は必死に逃げまどう。水平撃ちの弾を避けようと、死体の上にはい上がり、高さ3〜4メートルの人柱ができた」
「その夜(12月17日から18日にかけて)は、片端から突き殺して夜明けまで、それに石油をかけて燃し、柳の枝をかぎにして一人ひとりひきずって、川に流した。今、考えたら想像もつかないことです」
「彼らが後ろ手にしばられていたのは事実です。こっちは百何人ですから、後ろ手にしばらないとやられてしまいますよ。連れてくるまでは、彼らとしても納得していたわけですよ。だけど、そこでトラブルが起きた。起こしたのか、起こさせたのか知りませんが、捕虜の中から”あの岸に行かせるなら早く行かせろ”ということで、将校の刀をとって、将校をやってしまった。それで”撃て”となって...。私は機関銃で撃たれるのを監視していました」
「機関銃で撃った人は、あっちこっちの部隊から選ばれていたわけですが、いくら探してもでてこない。かん口令がしかれたんですね」

内地の人を安堵させるため
「当時、1万3500人と聞いていたし、内地の新聞でもそのように書いたのだけど、ほんとうにそれほどいたのかどうか...。それは誇張で、連れてきたのは、せいぜい4、5千人から6千人ぐらいの間じゃなかったのかなあ。人間1万人というのを坐らせたら容易じゃないですよ。言われて聞いて、1万数千人ということであって、実際は...」
「他の部隊でも捕虜にし、殺した例もあります。紫金山のほうでは、4万5千人やったという話を聞いたりしています。全部で7万ぐらいを捕虜にしたのかなあ。内地でどういう報告をし、陸軍でどういう報道をしたのか知りませんが、やっぱり誇張もあったのではないですか。内地の人を安堵させるために、”これこれの戦果をおさめた”という書き方をしたのでしょう。どちらにしろ、30万とか40万とかいうのは誇張なんです。捕虜として、そんな数はいなかったわけですから」

消耗品だった
「私たちは上海上陸からたいへん苦戦しながら兵をすすめるんですが、戦争は後方がやられれば、ほんとうは終りなんです。昭和12年9月10日の大動員で刈りだされた者というのは、軍隊教練も何も知らない者が多かった。それで、上陸して最初の1週間はまず、演習をやったわけです。その連中が次から次と殺されていった」
「兵器も乙装備で、古いものでした。甲装備というのが、本来、現役兵用の新しい装備だったんですけどね。南京を陥落して、向うの武器を間近に見るのですが、大砲一つとってもまったく違っていた。自動的に弾が込められる。こっちは、声を掛け合って...ですからね。苦戦するのは当然といえば当然でした」
「内地に戻って、兵器廠に行ったことがあるんです。兵器がないんです。それでいて、太平洋戦争に突入するわけですから、結果は明らかですね。戦場に行く時、38式銃をもっていくわけですが、戦死すると、その銃はその時にぶんなげてくるんです。内地じゃ天皇陛下のように扱って、手入れしてもってきた銃を、どろんこにして、兵隊とともにぶんなげてくるんです。上海はそういう状態で、5千人死んだら5千丁の鉄砲はそこでなくなってしまった」
「師団長なり、上の者というのは、よほどの爆撃がないかぎり死ぬことはない。前線から遠く離れていますから。しかし、われわれのような”一線の兵士”というのは、消耗品でした。戦争というのはそういうものなのです」

処置に困った捕虜
「戦争継続するには兵隊は健康でなければならない。しかし、上海から南京にかけて、食べ物には困りました。今日食べたけれど、明日の食事がない、といった状態でした。毎日、部落を占領すると、食料を探しに徴発にでた。時には、生米、生麦をかじることもあるわけで、私なんか農業をやってましたから大丈夫でしたけれど、弱い人はそれでまいっちゃうわけです」
「兵隊が充分食っていなかったほどですから、1万5千人の捕虜の処置に、第一、食わせることに上官も困っていた。捕虜にしたその晩は結局食わせられず、鳥竜山に米があると聞いて、馬でとばし、翌日になってやっと食事を与えることができた。食事といっても、シナ茶碗、ちょうどラーメン茶碗の半分ぐらいのものに、おかゆをついでまわりました。しかし、腹が減っていたのでしょう。手まねでメシをもっとくれといってました」

戦争というのは侵略
「去年、中国に行きました。かって歩いた道をたどってみました。花輪がなかったものですから、線香を焚くだけにさせてもらいました」
「一緒に行った人が、南京駅で迷ってしまいましてね、逆の電車に乗ってしまった。中国語もわからず、右も左もわからない人でしたが、無事、その次の日におちあうことができたんです。本人、どれほど心細かったであろうと心配したのですが、意外と本人は平然としていました。まわりの中国人が心配してくれて、手厚くもてなしてくれたのでした。今の中国人は、ほんとうに日本人に対して親切です。われわれ日本人はこのことを忘れてはならないと思います」
「かっての戦争が侵攻だったとか侵略だったとかの議論があるようですが、はっきりいって、全部、侵略でした。戦争というのは侵略なんです。当時の人間だったら、侵略であることは否定できないと思います。それなのに日本人は忘れっぽいかどうか知りませんが...。人殺しというのが、戦争なんです」

(本文終り)

 




付記:上記証言に対しての諸事情(改訂)
---- 栗原氏のご子息である「核心」さんからの証言 ----

1.証言が得られたいきさつ

 私は子供のころ、父の自慢話として、中国での戦いの様子をいくつか聞かされていました。
 南京での捕虜虐殺についての話を聞かされたのは10歳(昭和30年)の時です。
 揚子江河畔で捕虜の首をつぎからつぎへと切り、さすがの揚子江も真っ赤になったというような話でした。
 私は、最近までこの話を幕府山の捕虜虐殺と考えていたのですが、父に確認したところ別の話だということでした。

 私は、後ほど述べる個人的な理由から、南京での虐殺が「まぼろし化」されることを危惧していました。
 度重なる家永裁判を通じて、南京での虐殺を教科書から除去することが、文部省の明らかな方針であるように思えたからです。
 そのような中で、昭和48年には鈴木明氏の「南京大虐殺のまぼろし」も刊行されたわけです。

 昭和59年に至り、毎日新聞の記者の方から父にインタビューの申し込みがありました。
 父の話では、父がもっともよく知っているだろうとのことでインタビューを受けたとのことでした。
 私は、父の証言に関しては一貫して話すことを支持していて、そのことを父にも伝えてあります。
 私は永年、両親と同居し、いろいろな事情から頼りにされるところがあったものですから、インタビューの話を聞かされたときも「話した方がよい」と話すことを薦めました。
 上記のスケッチは、父が毎日新聞の記者の方と話すためにそのころ描いたものです。
(このことからも、父が積極的に自らの意志で取材に応じていたことがご理解いただけると思います。)

 毎日新聞に記事が載ったあと、すぐに本多勝一氏から父に取材の申込みがありました。
 父から、本多氏のインタビューを受けるべきかどうか事前に相談を受けたのですが、「歴史的なことなので正確に話ししておいた方がいい」と積極的に証言をすすめました。
 また、本多勝一氏の経歴等に関して私は熟知していたのですが、父には告げないでおいた方がより正確な証言が得られると考え、敢えて父には告げないでおきました。
 そして上記証言が得られたわけです。

 結論から言うと、父の証言に関しては、毎日新聞の記者の方へのインタビューと本多勝一氏へのインタビューだけが任意でなされたものです。
 両記事のあとは脅迫手紙や脅迫電話が相次ぎ、また戦友や上官の方からも証言を取り消すようにとか、矮小化するようにとかの干渉が長い間なされています。
 ですから、それ以降の父の証言と称する内容に関しては、全く任意性はなく、信憑性に欠けるものです。
 

2.中国兵が投降した理由

 銃弾の補充がきかず、銃弾がなくなったことが投降の理由だそうです。
 

3.虐殺現場等

 以下は、私が幕府山の捕虜虐殺について他の掲示板で質問を受けた際に、父に確認して回答した内容です。

  1. 幕府山の現場は、幕府山のふもとの川沿いの100m四方の凹地です。
     まわりに鉄条網はありません(父によると、そんなことしてあったら捕虜に感づかれてしまうとのことでした)。
     昼ころ、事前に探しておいた場所だそうです。

  2. 加害意思ですが、「何かあったら一斉に射撃しろ」との命令は事前に出ていたそうです。

  3. 「柳では弱くて死体など引きずれないだろう」との質問がありましたが、父に確認したところ「柳をかぎにして」の意味は、柳の枝の元の方の太い枝を1本残し、卜の字の下をのばしたような形状にして死体を引っ掛けて引きずったそうです。
     父によると、木の枝をこのようにして作業することは、農家で馬小屋のわらをかい出したりするのによく行われていたそうです。
     

4.婦女子の殺害

 これは最近聞いてわかったことですが、本多氏に対する証言では女性や子供は殺害していないようなことでしたが、実際には捕虜の中には家族持ちの捕虜が200人くらいて、その人達の奥さんや子供なども捕虜には含まれていたそうです。そのようなことから、虐殺後の死体の中にも女性や子供の死体があったそうです。
(父親が捕虜になれば、それを心配して母親も捕虜になっただろうし、子供も捕虜として一緒についてきたのだろうということです)
 

5.父の戦歴

 父は徴兵時に満州事変に派兵され、しばらく戦闘を経験しています。
(そのころすでに、捕虜の斬首は相当行っていたとのことです)
 それから警視庁に採用され、支那事変に召集されました。
 南京での戦闘の後の功績で金鵄勲章を授与されています。  
 その時の戦闘で銃弾を浴び、大腿部の盲管銃創で(他にも頭と大腿部付け根に弾傷があります)傷病兵として帰還しています。
 大腿部の銃弾は血管に近すぎて、戦後、相当のあいだ手術をして摘出することができませんでした。
 父が太平洋戦争で前線に配属されなかったのは、この戦傷のためだそうです。
 

6.将校等による事件の矮小化

 上記の毎日新聞の父の証言の後の記事は、以下のような内容です。

 昭和40年発行の「郷土部隊戦記」(福島県郷友会など共同出版)では、捕虜を殺せという軍命令はあったが、山田栴二旅団長が、捕虜を対岸に釈放することを決め、十数隻の船でこぎ出したところ、対岸から発砲され、岸に残っていた捕虜が騒ぎを起こし、警戒中の日本兵を襲ったため、発砲したとされ死者は千人となっている。
 鈴木明氏の「南京大虐殺のまぼろし」では、山田旅団長ら上級将校の証言をもとに同様の「自衛発砲」説を取り、防衛庁防衛研修所戦史室の「支那事変陸軍作戦<1>」や、今年7月発行の児島襄氏の「日中戦争3」も同内容。
「自衛発砲説」について栗原さんは「後ろ手に縛られ、身動きもままならなかった捕虜が集団で暴動を起こすわけない。
 虐殺は事実。はっきりさせた方がいい」という。

 また、田中正明氏の「南京事件の総括虐殺否定15の論拠」にも平林元少尉の証言が記載してありますが、詳細は鈴木氏の「南京大虐殺のまぼろし」と同じ内容の記述があるので父の証言と比較すると全く別物であり、虚偽の証言であることがわかります。
 従って、将校の間ではなんらかの計画的矮小化が話し合われたものと考えるのが自然かと思います。
 私の父は長年、小平市の関東管区警察学校や警視庁に勤め、証言当時、郷里の軍隊仲間とは密には連絡はとれておりませんでした。
 従って、上記将校の矮小化等を知らずにいたため、冒頭の証言を行うことが出来たのだと思います。
 

7.田中正明氏の「南京事件の総括虐殺否定15の論拠」と「ゼンボー」の畠中氏の記事の捏造

 両著作とも父の証言として「毎日新聞の記事を見てびっくりした。言ってないことが記事に出ており、30万人虐殺説に抗議して喋ったのが、一転して私自身が大虐殺の証人に仕立て上げられてしまった」とか「私が虐殺の張本人になっている」などと書いてあります。
 これらはすべて捏造記事です。
 なぜなら、父は現在でも(以前からは勿論)冒頭の記事と同様に、「回りからの機銃掃射により人が何度も塔のようになりまた何度の崩れた」と言ったような話をしていますし、虐殺を行ったことも何度も聞いています。
 

8.前述の個人的な事情

 私が父に積極的に証言を薦めた理由は、長兄(利弘)の悲惨な人生を風化させたくなかったからです。
 父のこれらの軍隊経験と、長兄(利弘)が父から受けた虐待との関連を、将来的に明らかに出来るかもしれないと考えたからです。
 長兄は、桐朋高校を卒業して中央大学法学部に在学中に、高校時代から交際していた恋人との交際が発覚し、父に反対され精神病院に強制入院させられるなどして、最終的に強度の精神分裂病を患うにいたってます。
 発病後は、入退院を繰り返し、約18年間にわたり父の虐待を受けつづけ、昭和51年に精神病院で縊死しています。
 私が父に証言を薦めたのは、長兄の受けつづけた虐待と、父の戦場での行為が父の精神面に与えた影響との関係が将来的に明かにできるかもしれない考え、父の戦場での行為を歴史的な事実としておきたかったからです。
(父の戦場での行為は、上記のような形で私が考えてた以上のものとして記録として残すことができている次第です)
 

9.このHPへの掲載の経緯

 昨年(平成14年)他の掲示板で南京大虐殺が否定的に話されていることを知り、父の証言を調べたところ重要な証言であることがわかり、このHPに掲載させていただいた次第です。

以上

作成年月 平成15年〈2003年〉12月

 

参考資料

  • 『毎日新聞』毎日新聞社
  • 『南京への道』本多勝一著、朝日新聞社
    (1989年)
  • 『南京戦史資料集1』南京戦史編集委員会
    (初版平成元年11月3日、増補改訂版平成5年12月8日)
  • 「証言による「南京戦史」(第1回〜第11回、最終回、番外)畝本正巳他
    (『偕行』1984年4月〜1985年3月、同5月、偕行社)
  • 『南京大虐殺研究札記 惨劇より50年』日本軍侵略中国調査訪中団編、日本軍侵略中国調査訪中団
    (1986年12月)