歩66捕虜殺害事件 東中野説批判 総目次 |
1. はじめに 2. 殺害命令の存否 3. 捕虜捕獲状況・捕獲数 4. 戦闘詳報の捏造 5. 投降兵の処刑 6. まとめ 7. 参考資料 |
捕虜殺害命令は戦闘詳報執筆者によって捏造されたか?
ここまでに、歩66連隊第1大隊戦闘詳報に記述された捕虜殺害命令は、師団・旅団・連隊のいずれからも発令されていない「架空の処刑命令」であり、同じく戦闘詳報に記述されている最初に捕まえた捕虜を伝令として中国兵に投降を呼びかけたというエピソードも、小宅証言に基いてその様な事実は「なかった」と東中野氏は主張した。
次の論点として、「架空の処刑命令」や存在しない中国兵への投降呼びかけというエピソードが、なぜ戦闘詳報に書かれたのかを論じている。
まずは戦闘詳報の作成過程について第3中隊長だった西沢弁吉の回想記『われらの大陸戦記』を引用し、戦闘詳報が作成された時期を南京戦後の十二月三十日前後以降とする。次いで戦闘詳報の執筆者について次のように論じる。
では、実際に、第一大隊副官が第一大隊の戦闘詳報を作製したのであろうか。戦場のこと故、大隊副官の負傷による戦線離脱も考えられる。小宅小隊長は次のように述べるのである。
東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』p.108-109
《戦闘詳報について言えば、第四中隊の戦闘詳報は私が書いていました。もちろん捕虜処刑などありませんから、そんなことは書いていません。
大隊の戦闘詳報は、一刈さんがたおれ、まともなのは渋谷(大隊副官)さんだけです。渋谷さんは実際の指揮を取っており作戦の責任者ですが、戦闘詳報をどうするという時間はなく、また、大根田副官は実戦の経験から考えて戦闘詳報について詳しくありません。ですから素人ばかりの大隊ではまともな戦闘詳報はなかったと思います。》
たしかに、小宅小隊長代理の言うように、一刈第一大隊長は戦線から離脱していた。そのため第一大隊命令――たとえばすでに見た「第四中隊ハ全員ヲ以テ捕虜ノ監視ニ任ズベシ」という命令――などは、渋谷大尉(第一大隊長代理)の発令となっている。
つまり、渋谷副官が実際の戦闘を指揮していた。そのため渋谷副官は戦闘の一瞬一瞬に瞬間的な判断を迫られ、戦闘詳報をどうするという立場にはなかった。他方、もう一人の大根田副官は、実戦の経験不足からして、戦闘詳報については暗かった。
従って、戦闘詳報については素人ばかりの大隊であった。そのため、まともな戦闘詳報は書けなかったというのが、小宅小隊長代理の証言であった。つまり、第一大隊の戦闘詳報は素人の作文に近かったのである。
ともあれ、第一大隊は何らかの理由で投降兵を処刑した。しかし、戦闘終了後、戦闘詳報に処刑の理由を書く段になった時、実際にはありもしなかった「捕虜ハ全部殺スベシ」という架空の旅団命令に、その理由を求めた。
そのため、問題の処刑命令なるものは、師団命令の記録にもない。旅団命令の記録にもない。連隊命令の記録にもない。第二大隊の陣中日誌の中にもない。ただあるのは第一大隊戦闘詳報の中だけということになる。
つまり、処刑命令なるものは、阿羅氏も消去法で推定するように、第一大隊戦闘詳報執筆者の創作であった。これが唯一考えられる可能性のように思われる。
この考察で特徴的なのは、小宅曹長の証言を唯一の根拠として考察していることであろう。そこで本項では、ここで示された小宅曹長の証言を史料批判してみたい。
小宅「まともなのは渋谷(大隊副官)さんだけです」
小宅曹長の証言に「まともなのは渋谷(大隊副官)さんだけです」とある。この文章は、阿羅健一「城壘」からの引用であり、括弧の「大隊副官」というのも「城壘」の原文通りに引用している。ただし、この括弧の「大隊副官」は小宅曹長が実際に話した内容なのか、インタビュアーの阿羅氏が補足した言葉なのか判断しずらい。
いずれにしても、渋谷仁太大尉の役職が大隊副官であったというのは誤りである。事実、『歩66第1大隊第1号 新倉鎮附近の戦闘詳報』の戦闘参加将校同相当官職員表には、渋谷仁太大尉は大隊付将校、大根田陵少尉は大隊副官と明記されている。
一般的に、歩兵大隊の副官は少尉を1人当てることとなっており、大尉であった渋谷を副官とすることや、大隊副官を2人当てることなどは当時の慣例にそぐわず、この点からみても渋谷大尉が副官であったとは考えられない。
小宅「大根田副官は…戦闘詳報について詳しくありません」
小宅曹長は「大根田副官は実戦の経験から考えて戦闘詳報について詳しくありません」と証言する。この点に関しては、裏付ける資料を得ることが出来なかった。よって、当時の日本軍の組織上の一般論を基に検討したい。
すでに述べたように、大隊の副官には少尉を当てることが通例であり、戦闘詳報の作成はその副官が中心となって行っていた。少尉という階級は将校の一番下の階級であり、一般的にいうならば実戦を含め全ての軍務に関して経験が少ないものと言える。
この当時の歩66連隊の各大隊の副官は、第2大隊は青柳忠夫少尉、第3大隊は高森大四郎少尉(もしくは丈四郎か?)となっており同じく少尉の階級だが、彼等もまた戦闘詳報について詳しくなかったと言えるのだろうか。
このように外形的な状況から観察すると、大根田少尉が戦闘詳報作成に関して際立って「暗かった」と言えるのか疑問が残るところである。
小宅「素人ばかりの大隊ではまともな戦闘詳報はなかった」
小宅曹長は「素人ばかりの大隊ではまともな戦闘詳報はなかった」と証言してるが、この見解は、
①大隊で戦闘詳報を「まとも」に取扱えるのは一刈大隊長(負傷後退)と渋谷大尉(隊付)だけだったが、渋谷大尉は大隊長代理となり戦闘詳報に関わる余裕はなかった
②副官の大根田少尉は戦闘詳報について詳しくなかった
という二つの認識に基くものだ。また、小宅曹長は次のような証言もしている。
戦闘詳報は文字どおりこの戦闘に関するすべての事実を詳報するもので、副官または書記が作製し、大隊長の決済を経て連隊に報告するもので、責任者は大隊長ということになります。
阿羅健一「城壘 兵士たちの南京事件」第19回 『丸』1990年7月号 p.213
小宅曹長は戦闘詳報の作製は「副官または書記」が担当していたと証言する。とすると、隊付将校だった渋谷大尉はそもそも戦闘詳報作製に関わっておらず、戦闘詳報の質と渋谷大尉の大隊長代理就任との間に関係性がなかったことになる。
逆に言うならば、戦闘詳報の質に関係があったというのは、渋谷大尉が副官だったと誤解していたからこそ成立する見解である。つまり、「素人ばかりの大隊ではまともな戦闘詳報はなかった」という評価は、渋谷大尉を副官と誤認した上での評価ということになり、その評価の正当性は否定されることになる。
また先に述べた通り、副官であった大根田少尉が戦闘詳報作製に「暗かった」というが、当時の日本軍の慣例からすると、戦闘詳報作製に関して大根田少尉が特段に暗かったとは考えずらい。
小宅曹長が「素人ばかりの大隊ではまともな戦闘詳報はなかった」と考えるに至った事実は、1つは事実誤認であり、1つは妥当性に疑問が残るものであった。もちろん、小宅曹長がこれ以外にも何か具体的な根拠を心中にもっており、この様な評価を下したのかもしれない(例えば、実際に大根田少尉と接して受けた人物像など)。しかし、渋谷大尉を大隊副官だったと誤認していることから考えても、実際に大根田少尉の戦闘詳報作製能力に関して、証言した当時に正確な記憶があったのかは疑問が残るところである。
この小宅曹長が述べる戦闘詳報への評価については、次の点からも疑義がある。
先の証言にあった通り、戦闘詳報の作製は副官だけで行うのではなく、副官と書記によって作製されるという。仮に小宅曹長が証言する通り戦闘詳報作製に関して大隊には「素人ばかり」だったとすると、副官・大根田少尉が「素人」であると同時に、大隊本部の書記も「素人」でなければならない。
しかし、当時の大隊本部には、小野文助、木村徳延軍曹、稲沢伍長、菅沼伍長という下士官の書記が確認できる(『野州兵団奮戦記』より)。下士官であるということは、一定以上の軍務経験者を意味する。もちろん、たとえ軍務経験が長いといっても、戦闘詳報作製の経験があったのかどうかは判断できない。一方で、大隊本部書記メンバーの能力を小宅曹長が一々記憶しているというのも現実性がないだろう。
仮に大根田少尉は「実戦の経験不足からして、戦闘詳報については暗かった」としても、軍務経験が豊富だった下士官の書記陣が存在した事実から考えて、「第一大隊の戦闘詳報は素人の作文に近かった」という見解に妥当性が低いと考えるべきである。
なお余談だが、アジア歴史資料センターの収録資料には、歩66連隊第1大隊戦闘詳報のうち、「新倉鎮附近の戦闘詳報第1号」(11月12日~15日)~「秣陵関附近の戦闘詳報第7号」(12月7日)が収録されている。この戦闘詳報の筆跡を見る限り、執筆者は3人は存在するように見える。もちろん、どの筆跡が大根田副官のものかは分からないし、もしかすると全て書記の筆跡であり、大根田副官の筆跡はない可能性もある。
小括
東中野氏は、小宅曹長の証言に基づき歩66連隊第1大隊戦闘詳報は、「素人ばかりの大隊」で作製されたものであり「まともな戦闘詳報」ではない、「第一大隊の戦闘詳報は素人の作文に近かった」と主張した。だから「架空の捕虜処刑」命令が創作されたという。
しかし、その小宅証言を史料検証をした結果、第1大隊戦闘詳報の評価に関する小宅証言には大きな問題が孕んでいることが分かった。
一つ目は、一刈大隊長が負傷し、渋谷副官が大隊長代理となったことで、大隊の戦闘詳報作製能力が低下したという証言だったが、当時の渋谷大尉の役職は副官ではなく大隊付将校であり、渋谷大尉の大隊長就任と大隊における戦闘詳報作製能力とに直接的な関係性がなかった。
二つ目は、大根田副官が「戦闘詳報について詳しくありません」というが、通例では副官人事は少尉を当てており、外形的には大根田副官のみが他と比較して戦闘詳報作製能力が低いと見なすとには疑問が残る。
さらに、当時の大隊本部が「素人ばかり」だと評するが、仮に大根田副官が「素人」だとしても、下士官の書記で構成されていた大隊本部をこの様に評価することも、また妥当性が低いと考えられる。
以上のように、小宅曹長の証言は妥当性が低いと考えられるわけだが、東中野氏はこの証言だけに基づいて、「第一大隊の戦闘詳報は素人の作文に近かった」と主張するのだから、この主張もまた妥当性が低いと言わざるを得ないだろう。
さらに、この妥当性の低い主張と合せて、戦闘詳報に書かれた捕虜殺害命令は架空だという誤った事実認識に基づいて「処刑命令なるものは…第一大隊戦闘詳報執筆者の創作であった」と主張するのである。この様な主張が誤りであることは明白であろう。
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