歩66捕虜殺害事件 板倉説批判[04]「五」「六」と史実の矛盾

歩66捕虜殺害事件 板倉説批判_ic 第114師団
歩66捕虜殺害事件 板倉説批判_ic
歩66捕虜殺害事件 板倉説批判 総目次
1. はじめに
2.「聯隊命令の要旨」時系列の矛盾
3.「捕虜監視」命令の矛盾
4.「五」「六」と史実の矛盾
5. まとめ
6. 参考資料

「五」「六」と史実の矛盾 

板倉由明『本当はこうだった 南京事件』p128-129
(4)Ⅰ戦闘詳報の五、六(註15)は南京城壁攻防戦の記述だが、これがはなはだしく史実と異なっている。
「五、午前七時〇分予定ノ如ク行動ヲ起シ機関銃ヲ斉射シテ聯隊主力ノ城門進入ヲ掩護スルト共ニ同時ニ当面ノ掃蕩ヲ開始ス……掃蕩愈々進捗スルニ伴ヒ投降スルモノ続出シ午前九時頃迄ニ三百余名ヲ得友軍砲弾ハ盛ニ城内ニ命中スルヲ見ル
 六、午前十時遥ニ破壊遙ニ破壊サレタル南門城壁上ニ日ノ丸ノ揚ルヲ認メ聯隊主力ノ南京城入城セルヲ知リ全員ハ隊長ノ音頭ヲ以テ感激ノ万歳ヲ三唱シ皇居ヲ遙拝ス」
 実際には、第二章「新聞報道と中山門一番乗りの謎」のように南門城壁には第六師団の歩四七三中隊が十二日十二時二十分に登攀し、十六時四十分に確保した、と記録されている。また、歩一五〇Ⅱは雨花台を爆破し、午後四時七分に城壁城に日章旗を揚げている(註16)。これら各聯隊は、十二日夜の数回の中国軍の逆襲を撃退して城壁を確保し、十三日午前七時頃から城内中央部に向かって掃蕩を開始しており、歩一五〇は十三日朝の市街の状況と歩一一五について次のように記している。
「午前六時三十分頃ヨリ附近ハ全ク静穏トナリタリ……此頃歩兵第百十五聯隊ハ軍旗ヲ擁シテ城壁城ニ至リ万歳ヲ三唱セリ(午前八時三十分)」(註17)
 また歩十三の中華門占領は十三日午前一時、工兵隊による中華門の開門は午前三時三十分、午前八時過ぎには、城門前のクリークには仮橋が架かって各部隊が続々入城していたという。そうなると歩六十六が、早朝からの砲兵掩護射撃の下に城壁奪取に奮闘していたり、午前十時に城壁上の日章旗を望み見て万歳を三唱した話は何であろうか。Ⅰが戦闘詳報に、自分の聯隊の武勇伝を創作して書き込んだものとしか思えない。

 ここで板倉氏が言及しているのは、12月13日の南京城壁攻撃の状況だ。歩66第1大隊戦闘詳報では、その模様が12月13日のpar.「五」及び「六」で記述されている。その内容と、他の部隊の状況とが「はなはだしく史実と異なっている」と主張している。
 板倉氏の主張する異なる「史実」とは、次の3つの記録を指している。

  1. 歩兵第47連隊第3中隊の行動
  2. 歩兵第150連隊の行動
  3. 歩兵第13連隊の行動

 そこで、これら3つの部隊の行動と歩66第1大隊戦闘詳報「五」「六」の記述を比較し、実際に「史実」と異なるのかを検証する。

歩兵第47連隊第3中隊の行動

実際には、第二章「新聞報道と中山門一番乗りの謎」のように南門城壁には第六師団の歩四七三中隊が十二日十二時二十分に登攀し、十六時四十分に確保したとされている 。

『本当はこうだった南京事件』p128

 歩66第1大隊戦闘詳報には、南門城壁の攻撃について、12月13日7時00分に攻撃を開始し、9時00分に友軍の砲撃があり、10時00分に城壁に日章旗が揚がった、と記されている。しかし、南門城壁には、歩兵第47連隊第3中隊が前日の12日12時20分に登攀、同日16時40分に確保している、と板倉氏は主張する。

 ここで注意すべきなのは、「南門城壁」という言葉である。この「南門」とは中華門を指し、「南門城壁」とは、中華門を中心に東西に伸びる城壁を指す。歩47第3中隊が確保した城壁とは、中華門から西400mの地点である。一方、第66連隊が担当した城壁は、中華門から東の地点である。つまり、歩47第3中隊の確保した場所と、歩66第1大隊が攻撃した場所とでは、同じ「南門城壁」であっても場所が違うのである。南門城壁に対する各部隊の攻撃箇所は下図の様になる。

南門城壁-戦況図
南門城壁-戦況図

 歩47の城壁攻撃の状況を第2中隊陣中日誌から見てみよう。
 12月12日8時30分の第1大隊作命137号では、12日午前9時から2時間をかけ師団野砲が南門と西南角の中間地点の城壁に砲撃を実施し、突撃口を開設する予定としている。そこへ第3中隊によって城壁占領を指示している。
 12時30分に、第3中隊の斥候が城壁上に登ったことが確認される。その後、占領した城壁上の確保及び周辺の中国兵の排除を実施する。
 18時45分発令の第1大隊作命138号では、城壁上の警戒、第4中隊には城壁昇口より中華門方向(東方向)へ陣地の拡張、第2中隊には城壁西南角方向(西方向)へ陣地の拡張を命じている。
 12月13日12時30分発令の第1大隊作命139号では、第114師団と歩23が市街の掃蕩を開始したとし、歩47は12時から主力による城内掃討を開始を命じている。

Ⅰ作命一三七号第一大隊命令
十二月十二日〇八・三〇 於田上南方高地
「一、……師団野砲は連隊のため南門と西南角中間城壁に九時頃より概ね二時間の予定を以て突撃口を開設す(以下連隊突撃口と称す)……」
「三、3中(+1/4MG)は逐次前面の敵を駆逐し連隊突撃口の開設を待つて城壁に突進し大沙埠東南端に亘る間の城壁を占領すへし」

歩兵第四十七聯隊第二中隊陣中日誌

大隊命令138
十二月十ニ日 一八・四五 於南京城壁下
一、大隊(第一中退ヲ復帰セラル)ハ本夜南門以西ノ城壁上ヲ占領シ至厳ナル警戒ノモトニ夜ヲ徹セントス
二、4中(1/4MG属ス)ハ城壁昇口ヨリ右ヲ城内及南門方向ニ対シ陣地ヲ占領シ逐次南門方向ニ対シ陣地ヲ拡張スヘシ
2中(1/4MG属ス)ハ第三中隊ト交代昇口ヨリ左ヲ占領シ逐次陣地ヲ拡張第二十三聯隊ノ右部隊ニ連繋シ城内及城壁西南角方向ニ対シ陣地ヲ占領スヘシ

歩兵第四十七聯隊第二中隊陣中日誌

Ⅰ作命139第一大隊命令
十二月十三日一二・三〇 於南門西北城壁上
一、聯隊第一線北側市街ニハ大ナル敵ナキモノゝ如ク第百十四師団及第二十三聯隊ハ市街ノ掃蕩ヲ開始シツゝアリ
聯隊ハ主力ヲ以テ一二〇〇城壁ノ線出発城壁「シカンセン」高地ニ亘ル市街ノ掃蕩ヲ実施ス
第三大隊ハ一二〇〇城壁ノ線出発「シカンセン」東南側市街ノ掃蕩ニ任シ其一部ヲ以テ「シカンセン」高地ヲ占領ス
二、第一大隊ハ第三大隊ノ前進ヲ掩護シタル後別紙要図ノ区域内市街ノ掃蕩ヲ実施セントス
三、第一、第二、第四中隊ハ別紙要図ノ区域内市街ノ掃蕩ヲ実施スヘシ

歩兵第四十七聯隊第二中隊陣中日誌

 歩47は南門城壁の西方400mの地点を占拠し、城壁上を東西方に向かって拠点を広げたが、12月13日12時00分まではその城壁上の拠点を占拠するだけで終わっていた。
 板倉氏が指摘するように、歩47第3中隊による12月12日12時30分~16時45分の城壁占領と、歩66第1大隊が攻撃した南門城壁の東方部分の攻撃とは場所が大きく異なり、その進捗状況には直接的な関係がない。

歩兵第150連隊の記録

また、歩一五〇Ⅱは雨花門を爆破し、午後四時七分に城壁上に日章旗を掲げている(註16)。これら各聯隊は、十二日夜の数回の中国軍の逆襲を撃退して城壁を確保し、十三日午前七時頃から城内中央部に向かって掃蕩を開始しており、歩一五〇は十三日朝の市街の状況と歩一一五について次のように記している。
「午前六時三十分頃ヨリ附近ハ全ク静寂トナリタリ……此頃歩兵第百十五聯隊ハ軍旗ヲ擁しテ城壁上ニ至り万歳ヲ三唱セリ(午前八時三十分)」(註17)

『本当はこうだった南京事件』p128

 ここでは歩兵第150連隊(歩150)の雨花台攻撃の模様と、歩兵第115連隊(歩115)が城壁に軍旗を揚げて万歳三唱をした点について言及し、歩66第1大隊戦闘詳報の記述と一致しないと主張する。しかし、雨花門は中華門から東に約1km離れた場所にある鉄道用の城門であることに留意すべきだ。先の歩47のケースと同様に、同じ南門城壁であったとしても、歩66とは攻撃していた場所とは大きく違う。

 歩150の行動は、歩115と共に雨花門を攻撃し、12日16時07分に雨花門で日章旗を掲げ、夕方には一部を城内に侵入させ掃蕩を行っていたが、夜は城壁附近に陣地を構えて逆襲に備えていた。13日7時10分、雨花門南東の方向にある武定門方向に掃蕩を開始し、8時30分に武定門に到着している(以上、歩兵第百五十聯隊『戦闘詳報』第六号より)。

歩兵第150連隊南京攻略戦闘詳報図5
歩兵第150連隊 南京攻略戦闘詳報
図5 雨花門付近戦闘経過要図
歩兵第150連隊南京攻略戦闘詳報図6
歩兵第150連隊 南京攻略戦闘詳報
図6 掃蕩経過要図

 板倉氏は歩150戦闘詳報の「午前六時三十分ヨリ附近ハ全ク静穏トナリタリ」という記述の取り上げている。何を意図してこの記述を取り上げたのかの明記していないが、おそらく歩66第1大隊戦闘詳報では同じ13日午前9時頃の状況として「友軍砲弾ハ盛ニ城内ニ命中スルヲ見ル」という記述をしており、歩150が「静穏トナリタリ」と書いている時間に、歩66では砲撃が行なわれているのは矛盾すると言いたいのだろう。

 しかし、この時期の南京城内や近辺では、重砲による攻撃が実施されていたことが確認できる。
 野戦重砲兵第12連隊第4中隊に所属していた原田賢一の陣中日記には次のように書かれている。

 昭和12年12月13日(月)晴
 五時、中隊の陣地に集結して陣地を孝陵衛北方高地中央運動場に、観測所を駐山陵記念会館(ママ)に定め正面中山門の攻撃す。実施午前八時、南京城占領、中隊は射撃を中止す。

原田賢一 陣中日誌 1986年9月10日 p.26 ※偕行文庫所蔵

 12月13日午前5時~8時に掛けて、中山門(南京城東部にある城門)に対して重砲で砲撃を実施したという。
 また、野戦重砲兵第14連隊第1大隊の戦闘詳報では、次のように書かれている。

(12月13日の項)
 水西門に前進せる第三大隊よりの通報によれば水西門に通ずる道路上(水西門より東方約三百米の地点)に残敵密集部隊ありと直ちに第一中隊に射撃を命ず時に午前十時四十三分

野戦重砲兵第14連隊第1大隊 南京追撃戦に於ける戦闘詳報 昭和12年
野戦重砲兵第14連隊第1大隊-附図8
野戦重砲兵第14連隊第1大隊-附図8

 野重砲第14連隊第1大隊は、水西門(南京城西部にある城門)から東方300メートルの城内に位置する中国兵に向けて重砲による砲撃を実施したという。

 これら重砲部隊による砲撃の他、例えば13日午前には、歩45が南京城外西部の江東門や新河で、中国兵の大部隊との遭遇戦で山砲の支援を受けて激しい戦いとなっていた。

 この様に、歩150が「静穏」とした時間前後では未だ戦闘は続行されており、重砲部隊の砲撃が行なわれていたことが確認できる。
 歩150が記した「静穏」とは、その前に中国軍の逆襲があり、その逆襲を撃退したことにより一時的に静穏となったことを意味するのだろう。そのことをもって、歩66第1大隊戦闘詳報が示す13日9時00分からの城壁攻撃が存在しなかったことを意味するのではない。

 歩150戦闘詳報の記述からでは、歩115が万歳三唱を行った地点が、雨花門なのか武定門なのかの判断がつかないが、雨花門には12日16時07分に日章旗を揚げていることを考えると、翌日に同じ場所で万歳三唱を行っていると考え難い。おそらく武定門での出来事考えられる。いずれにせよ、歩66が攻撃した中華門附近城壁とは場所が違う。これもまた、歩66第1大隊戦闘詳報が記す城壁攻撃が存在しなかった根拠にはなるまい。

歩兵第13連隊の記録

また歩十三の中華門占領は十三日午前一時、工兵隊による中華門の開門は午前三時三十分、午前八時過ぎには城門前のクリークには仮橋が架かって各部隊が続々入城していたという。

『本当はこうだった南京事件』p128

 歩兵第13連隊(歩13)の戦闘記録は少なく、戦闘詳報、陣中日誌等の公式記録は見つかっていない。この板倉氏の記述がどの資料を根拠としているか分からないが、『南京戦史』に似たような記述がある。

 歩兵第十三聯隊は、中華門に至る橋梁が破壊されていて午後に至っても外濠を渡ることができない。第一大隊(大隊長・十時和彦中佐)配属の工兵第二中隊の軽渡橋架設特別班が、外濠に仮橋を架設したのは十二日十四時三十分である。ようやく攻撃路が出来て、まず城門爆破の工兵特別班が橋を渡り、続いて第二中隊がこれを渡って城壁にたどりつき、工兵の爆破作業によって城門左側城壁の突撃路を補足して城壁を登ったのは十三日一時である。工兵隊が土嚢を除去して城門を開放したのは三時三十分であった。

『南京戦史』p.219

 ただし、この『南京戦史』の記述も何を根拠にしているか書かれていない。
 板倉氏の記述には「午前八時過ぎには城門前のクリークには仮橋が架かって」と書いているが、『南京戦史』では「城門前のクリーク」に仮橋が架かったのは12日14時30分となっている点で相違がある。

 以下、中華門攻撃に関係する資料を見てみたい。
 まずは、創価学会青年部反戦出版委員会『揚子江が哭いている 熊本第六師団大陸出兵の記録』を紹介する。本資料は1979年に出版されたもので、南京戦より40年以上もの時間が経過した時点での手記であるため、内容の正確性には高くないと思われる。

揚子江を埋めた屍 赤星義雄(第6師団歩兵第13連隊所属、二等兵)
 翌十二月十三日は、早朝より、中華門の城壁へ向け総攻撃が開始された。難攻不落に思えた中華門に向かって、野砲が次々と城壁の下から上へ向け集中的に撃ち込み、やがて少しずつ垂直の城壁が、這い上がれるほどに崩れていった。
 爆撃機が中華門と城壁の上の、迫撃砲、機関銃に波状攻撃をした後、軽機関銃と小銃の決死隊三名が突進し、崩れた城壁に縄ばしごをかけ、われわれの掩護射撃と敵の攻撃の下を、登っていった。その後を、激しい銃撃音の響くなか、約四十名ほどの歩兵がつづいていった。敵の反撃がつづいているようだった。
 しばらくたつと、日章旗が空高く中華門の上に翻った。十三日午前十時半の頃であった。
 その瞬間、全員が、「バンザイ、バンザイ」と手を揚げ、「ヤッタ、ヤッタ」と口々に叫んだ。私は感激と同時に、ここまで無事にこれてよかったなと思った。われわれは、「南京を陥せば」を合言葉にしていたのだ。
 決死隊が城壁にのぼって、実に二時間か三時間ほどすぎた頃、ついに中華門の城門が開かれた。

創価学会青年部反戦出版委員会『揚子江が哭いている 熊本第六師団大陸出兵の記録』pp.27-28

 赤星手記によれば、中華門が陥落したのは12月13日10時、城門が開かれたのは12時~13時だったという。

銃剣は相手を選ばず 高城守一(第6師団輜重第6連隊所属 小隊長)
 こうして、われわれの不眠不休の厳しい追従行軍は、約二週間つづき、昭和十二年十二月十三日に、南京の郊外に到着した。途中、市街戦の跡が生々しく、完全な家々は一軒もなく、破壊されつくし、中国兵の死体が各所に散乱していた。
 われわれは、南京陥落の直後、南京中華門に到着した。壊れ果てた家々のガレキがたちはだかる市街を通過するので、輸送はなかなか困難であった。
 南京中華門を目前にした時、約十五メートルほどの堅塁である城門を、よくもやったなと、誰もがいっていた。いったん中華門より入城したが、再び城外に出て露営した。

創価学会青年部反戦出版委員会『揚子江が哭いている 熊本第六師団大陸出兵の記録』p.94

 高城は輜重兵であり中華門の戦闘には参加していないが、12月13日の南京陥落直後に中華門に到着し、門から城内に入ったと述べている。

「戦争なんか二度と起してはならない」 米田長俊(仮名、第6師団歩兵第13連隊所属)
pp.128-129
 十二日に、城壁の一角に日章旗が立てられた。全員、日章旗をみると、勇んで城壁へ城壁へと突撃して行った。
 十三日には、完全に南京城を占領したのだった。城内にはいると、血の臭いと、硝煙の臭いが入り混じって鼻をついた。城壁の上には、手足や首がふきとんだ死体、肉の塊らしきもの等、バラバラの死体が散らばっていた。城壁の中には、なんとか五体満足な死体が、血みどろになってころがっていた。

創価学会青年部反戦出版委員会『揚子江が哭いている 熊本第六師団大陸出兵の記録』pp.128-129

 米田によると、城壁の一角を占領したのは12月12日で、13日に完全に占領したという。

 次に、第6師団で皇紀2600年(1940年)を記念して作製された『転戦実話』から資料を紹介する。全文を引用するのは冗長となるため、部隊の行動に絞って要約する。

工兵第6連隊第2中隊平石小隊 林軍曹(座談会における証言)
 歩13第1大隊に配属された平石小隊は、12月12日14時頃に中華門外に肉迫したが、城門に通じる橋が落とされていた為、城門に取り付くことが出来ずにいた時に歩13第1大隊長より命令を受ける。
「一、大隊ハ今夜二四〇〇ヲ期シテ南京城南門城門ヲ突破 城内ニ突入セントス
配属小隊タル平石工兵小隊ハ 大隊攻撃時ニ基キ ソレ以前ニ軽渡橋並ニ城門爆破ヲ完成スベシ」
 その後、砲兵による砲撃により城壁の「八合目位」が破壊された。
 12日23時より平石小隊長による作戦が開始され、煙幕、クリークへの軽渡橋架設、城壁へ梯子を掛け、23時30分に爆薬により城壁爆破を実施した。
「第6師団転戦実話 南京編 3/4(3)」アジア歴史資料センター Ref.C11111749600 0612 166 PDF37コマ

歩兵第13連隊第3中隊 徳永曹長(手記「南京城門爆破の一勇士」)
 工兵の仕掛けた爆薬が、味方の機関銃掃射によって導火線が途中で途切れてしまった為、工兵の一人が身を挺して導火線に際着火をするという話が描かれている。先の林軍曹の話にはないエピソードであり信憑性が低いように思われる。この手記では平石小隊が作戦を開始した時刻が12日23時40分としている。
「第6師団転戦実話 南京編 3/4(4)」アジア歴史資料センター Ref.C11111749700 0646 200 PDF27コマ

歩兵第13連隊 宮原清人軍曹(手記「決死隊となりて」)
 宮原手記によれば、工兵による城門爆破は「十三日午前一時三十分」としている。爆破の後、歩13の突撃部隊が突入し、城壁・城壁の一角を保持したという。
「第6師団転戦実話 南京編 3/4(4)」アジア歴史資料センター Ref.C11111749700 0646 200 PDF27コマ

 『偕行』1984年9月号に連載された「証言による『南京戦史』 第6回」に掲載された藤田清氏の証言には、中華門の様子が述べられている。

▼藤田清氏の証言(独立軽装甲車第二中隊本部曹長、後中尉。(略))
「12日夕刻、わが中隊は約五百メートル後退して、厳しい警戒のもとに夜を徹し、13日は同地で炊飯・車輌の整備をして、入城の日を待っていた。当時、中華門内には数千の土嚢が積みあげて門扉が閉じられ、この土嚢を取り除き、クリークに重車輌が通過できる橋を架けるには数日を要する状態であった。」
15日

証言による「南京戦史」 偕行1984年9月号 p.5-6

 以上の手記や証言を総合すると、歩13が中華門を占領したのは12月12日23時~13日1時30分ぐらいだったと考えるのが妥当だろう。板倉氏「中華門占領は十三日午前一時」、『南京戦史』「城壁を登ったのは十三日一時」と概ね一致する。
 一方、中華門が開通された時間に関してはさまざまである。赤星義雄は中華門占領を「十三日午前十時半」とし、開通時間を「決死隊が城壁にのぼって、実に二時間か三時間ほどすぎた頃」としているが、占領時間がずれていることを考えると信憑性は低いと思われる。高城守一は「南京陥落の直後、南京中華門に到着した。」「いったん中華門より入城したが、再び城外に出て露営した。」と述べているが、具体的な日時が記載されていない。藤田清は、中華門の閉塞状況を「数千の土嚢が積みあげて門扉が閉じられ」と述べ、開通時期を15日としている。もし、藤田証言にあるように、中華門の閉塞状況が「数千の土嚢が積みあげて門扉が閉じられ」る状況であれば、板倉氏が主張するように城門占領の2~3時間後に開通させるのは難しいのではないかと思われる。

第6師団戦時旬報第13・14号附図6
第6師団戦時旬報第13・14号附図6

 板倉氏は13日8時から中華門を経由して「各部隊が続々入城していた」と書いているが、その「各部隊」とはどの部隊なのか記していない。
 歩47は、「聯隊ハ主力ヲ以テ一二〇〇城壁ノ線出発城壁「シカンセン」高地ニ亘ル市街ノ掃蕩ヲ実施ス」(Ⅰ作命139第一大隊命令)とあるように、13日12時に同連隊で占領した中華門西400メートルの地点から城内へ進入し掃討を行なっている。
 歩23は、同連隊で占領した南門城壁西南角から13日8時30分、一部は水西門の占領に向かい、一部は城内掃討を行なっている(第6師団戦時旬報第13・14号)。
 歩13は、中華門占領後、13日は第2大隊のみ城内掃討に向かわしている(第6師団戦時旬報第13・14号 附図6「第六師団直接防禦陣地攻撃経過要図」)。なお、この附図の歩13第2大隊の掃討経路を見ると、中華門を通る位置には書かれていない。ただし、これが中華門を通ってないことを意図しているのか否かは判断材料がない。
 また、先に挙げた歩47第2中隊陣中日誌に記されているⅠ作命139第一大隊命令の戦況説明も興味深い。

Ⅰ作命139第一大隊命令
十二月十三日一二・三〇 於南門西北城壁上
一、聯隊第一線北側市街ニハ大ナル敵ナキモノゝ如ク第百十四師団及第二十三聯隊ハ市街ノ掃蕩ヲ開始シツゝアリ
聯隊ハ主力ヲ以テ一二〇〇城壁ノ線出発城壁「シカンセン」高地ニ亘ル市街ノ掃蕩ヲ実施ス
第三大隊ハ一二〇〇城壁ノ線出発「シカンセン」東南側市街ノ掃蕩ニ任シ其一部ヲ以テ「シカンセン」高地ヲ占領ス

歩兵第四十七聯隊第二中隊陣中日誌

 この記述からは、13日12時30分の時点で、中華門より東側城壁の攻撃を担当した第114師団と城壁西南角を占領した歩23がそれぞれ城内(北側市街)の掃討を開始していると書いている。しかし、歩13が掃討を実施したとは書いていない。この作戦命令における戦況説明で全ての部隊の戦闘状況を書くというルールがあるわけではなく、当然、省略する部分も多くあるだろうが、同じ師団の隣接する部隊の行動を省略したと考えるの不自然であろう。そう考えると、この作戦命令が発令された12時30分までには、歩13は城内掃討を実施していなかったと考えるべきだ。
 第6師団の南門城壁攻撃部隊による12月13日の城内進入の状況を確認したが、板倉氏がいうような中華門から「午前八時過ぎには…各部隊が続々入城していた」という状況にないことは明白だと思われる。

 歩66は歩13と隣接した地域を攻撃していたのは間違いなく、歩13が13日1時に中華門を占領したことと比較すると、歩66は13日7時より城壁攻撃を開始しており、攻撃進捗が遅れていたということも事実である。しかし、だからと言って歩66の城壁攻撃の状況が「史実と異なっている」という程度のものではない。板倉氏がそう主張する根拠である中華門の開通状況「(12月13日8時30分より中華門から)各部隊が続々入城していた」は、史料から判断して誤った事実認識に基いた主張だと言える。

その他

 ここまで板倉氏が指摘した南門城壁を攻撃した部隊の攻撃状況を検証してきた。板倉氏は、これらの攻撃状況と歩66の攻撃状況を比較し、歩66の攻撃状況は「史実と異なっている」と主張したわけだが、いずれもいずれのケースも「史実と異なっている」と主張する根拠となり得ないことは明らかだと思われる。しかし、それ以外にも板倉氏の主張には不信な点がある。

 まず、歩66第1大隊戦闘詳報 par.「五」「六」の戦闘の進捗状況がおかしいというが、par.「一」にある歩六六作命甲第八十四号(13日午前0時20分)、歩六六作命甲第八十五号(13日午前3時10分)、で示された戦闘状況や部署は、par.「五」「六」の戦闘状況と一致している。
 歩66第1大隊戦闘詳報 par.「五」「六」の戦闘の進捗状況は、歩66第1大隊の戦闘詳報を書いた担当者の文章なのだから、確かに戦闘の状況を創作することも可能だろう。しかし、連隊から届く作戦命令は歩66第1大隊が作り変えるわけにもいかない。
 具体的に連隊命令の内容を確認しよう。

歩六六作命甲第八十四号
歩兵第六十六連隊命令
十二月十三日午前零時ニ十分 於南京南門東南高地
1、師団は南京入城を企図せしも城門破壊するに至らす止むなく侵入するを得す
2、連隊(第二大隊第九中隊欠独立機関銃二小隊工兵小隊を属せらる)は南門東南方高地線を占領し夜を徹せんとす

 この作戦命令から、第114師団は12月12日の攻撃で城門・城壁の破壊・占領が出来ずに、「南京南門東南高地」で野営することになっている。

歩六六作命甲第八十五号
歩兵第六十六連隊命令
十二月十三日午前三時十分 於南京南門東南方高地連隊本部
1、敵は城壁に於て頑強なる最後の抵抗を試みつつあり
旅団は本十三日更に中華門突撃を復行す野砲一大隊重砲一中隊を以て直接協力せしめらる
突撃実施要領左の如し
イ、銃砲兵第一中隊中華門附近城壁の破壊次て野砲隊の支援射撃の下に突入す
ロ、突撃に当りては各種重火器等を屋上及雨花台等に配置し徹底せる支援射撃を実施
ハ、連隊(編祖旧の如し)は成る可く多くの重火器を以て歩兵第百弐連隊の突撃を支援し歩兵第百弐連隊突撃後突入し左の地区を掃蕩せんとす
(略)
3、歩砲協定の要領左の如し
イ、中華門附近城壁に突撃路開設は重砲隊担任し天明より開始す
ロ、突撃路開設後時間を協定し砲兵の支援射撃を実施す
ハ、突撃路開設の為め射撃開始及其終期並に突撃支援射撃の実施時刻並回数等は本日之を示す
4、第一大隊の重火器及配属重火器及連隊砲中隊及歩兵砲中隊は本道上雨花台附近に午前七時陣地を占領歩兵第百弐連隊の突撃及連隊の突撃を援助すへし
(略)

 先ほどの作命甲第84号の2時間半に出された85号では、13日夜明けから野重砲の城壁攻撃を行い、その後、歩兵の城壁突撃を実施すると命令している。
 これらの命令に記載されている戦闘状況や行動予定は歩66第1大隊戦闘詳報のpar.「五」「六」と一致したものであり、par.「五」「六」の記述が創作だというのであれば、この2つの命令もまた創作した、もしくは改変したということになる。しかし普通に考えて、上部組織が発令した命令内容を創作するなどあり得ないだろう。
 なお、私は歩66第2大隊の陣中日記は未だ閲覧することが出来ていないが(板倉氏、東中野修道ともに防衛研究所図書室にあるするが、同室目録に記載がない)、この第2大隊陣中日誌を閲覧したという板倉氏は、歩66作命甲84・85の内容を照合できているのではないだろうか?なぜ、その結果に言及しないのか不思議である。

 また、戦後にまとめられた部隊史として『サンケイ新聞栃木版』で1963年に連載された「郷土部隊奮戦記」および『栃木新聞』で1980年に連載された「野州兵団の軌跡」でも、戦闘詳報と同様の戦闘状況が描かれている。

郷土部隊奮戦記 207/日華事変/ 南京総攻撃 19
歩兵は城外で待機 中華門の砲撃はじまる

「 十三日の午前七時を期して野砲、野戦重砲の砲撃が開始される予定だ。歩兵部隊は城外の部落や土手に身をかくし砲撃開始を待った。まず野砲から砲撃開始だ。南京城のトーチカをみおろせる雨花台の野戦重砲隊は城壁上の敵陣を粉砕しはじめた。」

郷土部隊奮戦記 208/日華事変/ 南京総攻撃 20
中華門楼上に連隊旗 戦友踏み台に城壁占拠

「 中華門の右翼を攻撃する任務を与えられた山田部隊は、十三日午前十一時三十五分、連隊旗を中華門の楼上にかかげ、兵隊は戦じんにまみれた顔を涙でぬらしながら高らかに万歳を三唱、南京占領の感激にひたった。」

郷土部隊奮戦記」『サンケイ新聞栃木版』1963年

鎮魂譜 野州兵団の軌跡 214
「十三日午前七時、予定通りに七・五センチの改造式三八野砲と十五センチの四年式榴(りゅう)弾砲と、宇都宮、水戸、高崎、松本各歩兵連隊の重火器中隊が保有する四一式山砲、九二式歩兵砲、三年式重機関銃等の重火器中隊も砲兵に呼応して一斉射撃を開始した。」

鎮魂譜 野州兵団の軌跡 215
「決死隊の報告を受けた山田連隊長は井出野戦重砲兵第十四連隊長と大塚野砲兵第百二十連隊長と協議し、中華門のすぐ右側の城壁上部の一角に砲撃目標を絞って、全火力を集中するように依頼した。」

鎮魂譜 野州兵団の軌跡 216
「このため、やっと射撃効果があらわれ、城壁が崩れはじめた。城壁の外側に崩れ落ちたレンガが積み重なって、歩兵がよじ登る格好な足場ができた。」
「 第十一、第十二両中隊は崩れ落ちたレンガの上をかけ登ろうとしたが、気のあせりとレンガがずり落ちて思うように登れたない。(略)両中隊は次から次へと同じ動作を繰り返し、全員が城壁の一部を占領、日章旗を振って万歳を叫んだ。時まさに十二月十三日午後十時ジャストであった。」
「当時の様子を第三中隊の水沼兼吉さん(宇都宮市曲師町・会社長)は「私ら第一大隊は南京一番乗りと張り切っていたが、突入寸前の城外の掃討戦を命ぜられた。城壁外のクリークには、自軍の兵隊に中華門を締め出され、日本軍に降伏しようと白旗を立てたのに、城壁上から友軍に射殺されたオビタダしい遺体が浮かんでいた。たしか午前十時ごろ、野砲の破壊射撃で崩れ落ちた城壁を第三大隊の将兵が助け合いながらよじ登って行き、城壁の上で打ち振る日章旗がハッキリと見えた。連隊主力の南京突入を知り、渋谷大隊長代理の音頭で感激の万歳を三唱した」と回想している。」

『栃木新聞』1980年6月7日~10日

 ここで引用した文章は、いずれも板倉氏が「史実と異なっている」と主張する歩66第1大隊戦闘詳報 par.「五」「六」と同じ12月13日午前の戦闘状況である。この連載の内容と戦闘詳報の文章を比較すると、ほぼ一致するといえるだろう。
 なお、この二つの連載では共に歩66第一大隊戦闘詳報も参考資料としている(阿羅健一「城壘・兵士たちの南京事件 第20回」南千里・高橋文雄インタビュー)。その為、同戦闘詳報の内容と一致していたとしても不思議ではないとは言えるが、一方で連載文中には戦闘詳報に書かれていない情報も多く含まれていることから、両連載ともに戦闘詳報以外にも史料的裏づけをもって記述されたものと言えるだろう。

まとめ

 板倉氏は歩66第1大隊戦闘詳報「五」「六」の記述は「はなはだしく史実と異なっている」とし、「自分の聯隊の武勇伝を創作して書き込んだ」と推測する。そこで、本項では板倉氏が「史実」としている歩47、歩13、歩150の城壁・城門に対する攻撃状況を明らかにし、戦闘詳報「五」「六」の記述と比較検討してきた。
 検討の結果を総じて言うならば、一つには板倉氏が「史実」として挙げている各部隊の戦闘状況は、歩66が担当した攻撃箇所とは別の部分であり、戦闘進捗が同一である必然性がない。これは部隊同士が混交することを避けるために戦闘地境が定められており、その範囲内で作戦を進めていたことにも起因する。お互いの部隊の戦闘地境を侵犯しないように戦闘しており、一部の部隊の作戦進捗が遅れたり、戦線が均一化しないということは十分にあり得たのである。その実態は、本項で検証でも明らかだと思う。
 その中で、歩13の城壁攻撃場所は歩66のそれと隣接する場所であるため注目するに値する。しかし、そこで板倉氏が述べている「史実」こそ根拠を示さずに書かれた「史実」であり、いくつかの史料を検討したが、板倉氏が主張する12月13日8時から中華門より「各部隊が続々入城していた」ような状況ではなかった。板倉氏の主張こそが「史実と異なっている」と言わざるを得ない。
 そもそも隣接部隊の戦闘状況を確認するまでもなく、戦闘詳報に虚偽の記述があるという想定自体が非常識だと言えるだろう。実際に、板倉氏が「史実と異なる」と指摘する「五」「六」の記述は、連隊命令が示す戦闘状況と一致する。これでは第1大隊は、部隊の戦闘状況のみならず、連隊命令までも捏造・変造したことになる。単に「自分の聯隊の武勇伝を創作して書き込」む為に、その様な大それたことを行なうなど理解しがたい主張であろう。
 また、戦後に新聞で連載された部隊史でも、「五」「六」と同様の戦闘状況が描かれている。この部隊史も第1大隊戦闘詳報を参考資料としているため、描かれた状況が類似するのは当然だが、一方で戦闘詳報の記述にない事実も示されており、戦闘詳報以外の史料も参考にしていることが分かる。このことから間接的に裏付けられるといえるだろう。

3.「捕虜監視」命令の矛盾 [前ページ]4.「五」「六」と史実の矛盾[次ページ] 5.まとめ

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