第114師団

第114師団 第114師団

師団長は末松茂治中将。師団は1937年10月12日の動員令を受け、同月21日に動員を完了する。編成地である栃木県宇都宮市を出発、10月30日頃に大阪で乗船し、五島列島を経て11月5日に杭州湾に到着した。海上で約5日間待機し、11月10日に金山衞城付近に上陸する。その後、新倉鎮、楓溪鎮、嘉興、平望鎮を経て湖州城を攻略する。窑水橋、長興、夾浦鎮、宜興、漂陽、漂水、秣稜関、将軍山での戦闘を経て南京城に迫り、12月12日午後1時頃雨花門を占領した。(「11 第114師団状況報告」アジア歴史資料センター Ref.C11110933200(簿冊「北支那方面軍状況報告綴 昭和12年10月25日~昭和14年6月25日」より)
師団所属の歩兵第66連隊第1大隊が作製した「南京附近戦闘詳報」には、連隊命令により捕虜1657名を処断したと記されている。当時の公文書である戦闘詳報に上級組織からの捕虜殺害命令(国際法違反にあたる)が出ていたこと、その命令を実行したことが明記されている点で議論となる。

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歩66捕虜殺害事件 東中野説批判[06]まとめ

歩兵第66連隊第1大隊による捕虜殺害事件に関する東中野修道氏の否定論を検証する。まとめ。
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歩66捕虜殺害事件 東中野説批判[05]投降兵の処刑

歩兵第66連隊第1大隊による捕虜殺害事件に関する東中野修道氏の否定論を検証する。東中野氏は、戦闘詳報に記載された捕虜殺害命令、捕虜捕獲状況も捏造だとし、捕虜数も記述より少なかったと主張した上で、捕虜殺害自体も反乱による処断だと主張する。
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歩66捕虜殺害事件 東中野説批判[04]戦闘詳報の執筆経緯

歩兵第66連隊第1大隊による捕虜殺害事件に関する東中野修道氏の否定論を検証する。戦闘詳報に記載された命令や情報に捏造があると主張する東中野氏。その原因として、当時の大隊本部は人材不足だったとし、その内容は「素人の作文に近かった」と主張する。
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歩66捕虜殺害事件 東中野説批判[03]捕虜捕獲状況・捕獲数

歩兵第66連隊第1大隊による捕虜殺害事件に関する東中野修道氏の否定論を検証する。歩66第1大隊戦闘詳報に記載されている捕虜の捕獲状況(捕えた捕虜を伝令に中国兵の投降を促す)は存在せず、捕虜数も戦闘詳報に記載された数より少なかったと主張する
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歩66捕虜殺害事件 東中野説批判[02]殺害命令の存否

歩兵第66連隊第1大隊による捕虜殺害事件に関する東中野修道氏の否定論を検証する。東中野氏は戦闘詳報に記載されている連隊命令は実際には存在せず、戦闘詳報を執筆した者が捏造した主張する。
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歩66捕虜殺害事件 東中野説批判[01]はじめに

歩兵第66連隊第1大隊による捕虜殺害事件に関する東中野修道氏の否定論を検証する。東中野氏は1998年に『「南京虐殺」の徹底検証』を刊行して以降、南京事件否定論の中心人物となったが、名誉毀損訴訟に敗訴してから論壇への影響力を失った。
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歩66捕虜殺害事件 東中野説批判[07]参考資料

歩兵第66連隊第1大隊による捕虜殺害事件に関する東中野修道氏の否定論を検証する。参考資料。
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歩66捕虜殺害事件 板倉説批判[06]参考資料

歩兵第66連隊第1大隊による捕虜殺害事件に対する板倉由明氏の否定論・否認論を検証する。参考資料。
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歩66捕虜殺害事件 板倉説批判[02]「聯隊命令の要旨」時系列の矛盾

歩兵第66連隊第1大隊による捕虜殺害事件に対する板倉由明氏の否定論・否認論を検証する。第1大隊詳報12月13日の「七」に掲載されている「聯隊命令の要旨」の時系列に関する板倉氏の見解を検証する。
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歩66捕虜殺害事件 板倉説批判[01]はじめに

歩兵第66連隊第1大隊による捕虜殺害事件に対する板倉由明氏の否定論・否認論を検証する。