歩66捕虜殺害事件 板倉説批判[03]「捕虜監視」命令の矛盾

歩66捕虜殺害事件 板倉説批判_ic 第114師団
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歩66捕虜殺害事件 板倉説批判 総目次
1. はじめに
2.「聯隊命令の要旨」時系列の矛盾
3.「捕虜監視」命令の矛盾
4.「五」「六」と史実の矛盾
5. まとめ
6. 参考資料

「捕虜監視」命令の矛盾

板倉由明『本当はこうだった 南京事件』
(3)これらの命令に続き、Ⅰは発令時刻及び命令番号不詳で、
「十一、大隊ハ聯隊命令ニ依リ大小行李及之レカ監視ノタメ一部ヲ残置シ雨花台露営地ヲ徹シ午後九時零分同地出発南京城内ニ入ル……」
と城内への出発を記している。この「大小行李之レカ」という文章は、大小行李の他に何か監視するモノがあったとも受け取れる書き方である。
 一方、依拠した聯隊命令と推定される歩六六作命甲第八六号
「ロ、聯隊ハ本十三日夜本部及ビ掃蕩隊ヲ次テ南京市内ニ其他ヲ南京市外ニ宿営セントス。
ハ、各隊ハ指示セシ区域ニ舎営スヘシ。
ニ、……市街宿営部隊ハ第一大隊長ニ於テ警戒ヲ担任スヘシ」
は、午後九時に城内の聯隊本部から出て、午後十時に雨花台のⅠに到着したことになっている(註14)。即ち、午後九時に聯隊がⅠに城外宿営を指示した丁度その時刻に、Ⅰは聯隊命令と称して南京城内に向かって出発したことになる。
 このような記録の不信な食い違いから推測すれば、聯隊としては、Ⅰに十三日夜は雨花台で大小行李と捕虜の警戒監視を命じたとも考えられる。そうなれば捕虜処分を命じる聯隊命令の存在は疑わしく(極端な場合、上級には殺害の意志は無く)、この場合、捕虜処分はⅠ長の独断となり、後日責任回避の意味で、戦闘詳報を「命令により」と改竄した可能性も出てくる。

板倉由明『本当はこうだった 南京事件』p127-128

 ここでの板倉氏が指摘する事実は、大きく分けると3つある。
 一つは、戦闘詳報 par.「十一」の「聯隊命令ニ依リ大小行李及之レカ監視ノタメ」の「之レ」とは捕虜を指しており、第1大隊が未だに捕虜を捕獲していると連隊は認識をしている。ところが第1大隊は、同日午後2時に受領した命令で捕虜を全て殺害している。捕虜に対する連隊の認識に矛盾がある。
 もう一つは、歩六六作命甲第八六号では第1大隊に対して城外宿営を指示しているが、第1大隊はこの命令に基いて南京城内に向かって出発したことになっている。
 しかも、午後10時に受領した命令を、午後9時に実行したという時系列にも矛盾があるという。
 この3つの矛盾から、既に第1大隊が殺害した捕虜について、連隊は監視するよう指示していることから、第1大隊戦闘詳報で書かれている捕虜殺害の「聯隊命令の存在は疑わしく(極端な場合、上級には殺害の意志は無く)、この場合、捕虜処分はⅠ長の独断となり、後日責任回避の意味で、戦闘詳報を「命令により」と改竄した」というのである。

「之レ」は捕虜を意味するか?

 板倉氏による一つ目の矛盾の指摘は次の通りである。

(3)これらの命令に続き、Ⅰは発令時刻及び命令番号不詳で、
「十一、大隊ハ聯隊命令ニ依リ大小行李及之レカ監視ノタメ一部ヲ残置シ雨花台露営地ヲ徹シ午後九時零分同地出発南京城内ニ入ル……」
と城内への出発を記している。この「大小行李之レカ」という文章は、大小行李の他に何か監視するモノがあったとも受け取れる書き方である。 

板倉由明『本当はこうだった 南京事件』p127-128

 板倉氏は、「大小行李の他に何か監視するモノがあった」というが、この何かというのは、後の記述から「捕虜」だと推測していることが分かる。
 「聯隊としては、Ⅰに十三日夜は雨花台で大小行李と捕虜の警戒監視を命じたとも考えられる。」(『本当はこうだった 南京事件』p.128)

 そこで、問題となる歩66戦闘詳報12月13日 par.「十」~「十一」を引用してみよう。

歩兵第六十六連隊戦闘詳報
(12月13日)
十、午後十時〇分左記聯隊命令を愛く
歩六六作命甲第八六号
歩兵第六十六聯隊命令 十二月十三日午後九時零分/於 南京南門北方千五百聯隊本部
(略)
ロ、聯隊ハ本十三日夜本部及ビ掃蕩隊ヲ次テ南京市内ニ其他ヲ南京市外ニ宿営セントス。
ハ、各隊ハ指示セシ区域ニ舎営スヘシ。
ニ、……市街宿営部隊ハ第一大隊長ニ於テ警戒ヲ担任スヘシ
(略)

十一、大隊ハ聯隊命令ニ依リ大小行李及之レカ監視ノタメ一部ヲ残置シ雨花台露営地ヲ徹シ午後九時零分同地出発南京城内ニ入ル途上激戦ノ跡ヲ偲ヒ雄大ナル城壁ヲ仰キ見ツゝ南方北方約四キロノ宿営地ニ到着聯隊ノ指揮下ニ入リ宿営ス

『南京戦史資料集Ⅰ』p.568

 板倉氏は、「十一」の「大小行李及之レカ監視ノタメ」の「之レ」は捕虜を意味すると主張する。
 しかし、この文章の読み方はおかしい。普通に読むならば次のように読むべきだ。「大小行李及之レカ監視ノタメ一部ヲ残置シ」とは、「大小行李・・・ヲ残置シ」と「之レカ監視ノタメ一部ヲ残置シ」というように、「大小行李」と「之レカ監視ノタメ一部」がそれぞれ「残置シ」に掛かっている。そうすると、「之レ」とは「大小行李」を意味することになる。つまり、大小行李と大小行李を監視する為に部隊の一部を残置するという意味である。
 そもそも、「之レ」という指示語を使っているにも関わらず、同じパラグラフにも、直前のパラグラフにも存在しない「捕虜」を意味すると読むのは無理があるだろう。板倉氏自身も「受け取れる」や「考えられる」という曖昧な論じ方しか出来ておらず、この読み方がコジ付けであることに自覚があるのだと思われる。
 いずれにせよ「十一」の聯隊命令とは、大小行李と大小行李の監視のために一部の部隊を雨花台に残すということであり、板倉氏は明らかに読み間違い、もしくはこじ付けをしている。

「城外宿営を指示した」か?

 次に板倉氏が指摘する「即ち、午後九時に聯隊がⅠ(K-K註:第1大隊)に城外宿営を指示した丁度その時刻に、Ⅰは聯隊命令と称して南京城内に向かって出発したことになる」という部分について見当しよう。板倉氏は次のように述べている。

 一方、依拠した聯隊命令と推定される歩六六作命甲第八六号
「ロ、聯隊ハ本十三日夜本部及ビ掃蕩隊ヲ次テ南京市内ニ其他ヲ南京市外ニ宿営セントス。
ハ、各隊ハ指示セシ区域ニ舎営スヘシ。
ニ、……市街宿営部隊ハ第一大隊長ニ於テ警戒ヲ担任スヘシ」
は、午後九時に城内の聯隊本部から出て、午後十時に雨花台のⅠに到着したことになっている(註14)。即ち、午後九時に聯隊がⅠに城外宿営を指示した丁度その時刻に、Ⅰは聯隊命令と称して南京城内に向かって出発したことになる。

板倉由明『本当はこうだった 南京事件』p127-128

 板倉氏が「聯隊がⅠに城外宿営を指示した」というのは次の命令である。

歩六六作命甲第八六号
ニ、……市街宿営部隊ハ第一大隊長ニ於テ警戒ヲ担任スヘシ

『南京戦史資料集Ⅰ』p.568

 板倉氏はこの命令を「午後九時に聯隊がⅠに城外宿営を指示した」と解釈している。
 しかし、命令では 「第一大隊ニ於テ警戒ヲ担任スヘシ」と書いているのであり、命令の対象者は第1大隊ではなく、第1大隊長である渋谷大尉ということになる。つまり、この命令は第1大隊の全力をもって警戒に当たれと命じているのではなく、第1大隊長の責任において警戒に当たれ命じている。この命令で、渋谷大隊長が部隊の全力で警戒にあたることも、部隊の一部をもって警戒にあてることも共に命令の範囲内となる。

 通常、第一大隊の全力に対する命令だった場合は、「第一大隊は…すべし」と書く。例えば、「歩六六作命甲第八十四号」では以下のように書かれている。

歩六六作命甲第八十四号
4 第一大隊(聯隊機関銃小隊 独立機関銃二小隊工兵小隊を属せらる)は左第一線となり本道東側約二百米の線より鉄道線路に沿ひ集団家屋に亘る間を占領し夜を徹すへし

『南京戦史資料集Ⅰ』p.568

 板倉氏は、「歩六六作命甲第八六号」の「市街宿営部隊ハ第一大隊長ニ於テ警戒ヲ担任スヘシ」という命令が、第1大隊全力で「警戒ヲ担任」することと解釈したがこれは誤りで、実際には「第一大隊長」に命じられたものであり、警戒任務に大隊の全力を使うかその一部を使うは第1大隊長である渋谷大尉に任されたものだった。

時系列の矛盾

 板倉氏による時系列の矛盾の指摘をみてみよう。

一方、依拠した聯隊命令と推定される歩六六作命甲第八六号の(略)は、午後九時に城内の聯隊本部から出て、午後十時に雨花台のⅠに到着したことになっている(註14)。即ち、午後九時に聯隊がⅠに城外宿営を指示した丁度その時刻に、Ⅰは聯隊命令と称して南京城内に向かって出発したことになる。

板倉由明『本当はこうだった 南京事件』p127-128

 若干分かりずらいが、歩六六作命甲第八六号は午後9時に連隊本部から発令され、午後10時に第1大隊は受領している。その内容は、先に論じた第1大隊に城外宿営を命じたものだった(先に指摘したように板倉氏の読み間違え)。ところが次に書かれている「十一」では、この命令に基く行動として、午後9時に南京城内に出発している。つまり、命令が到着する一時間前に、その命令を実行するとして行動を起しているという時系列の矛盾がある。

 この点に関しては、板倉氏の主張する通り、午後10時に受領した命令を、午後9時に実行したことになっており時系列として矛盾している。しかし、この時系列の矛盾は、捕虜殺害命令を捏造するという目的には何等作用するものではない。とすればこれは単純な誤記と考えるべきだろう。

 このとき連隊本部は「南京南門北方千五百」に位置し、第1大隊は雨花台で露営していた。連隊本部は中華門から北へ1.5kmの城内におり、第1大隊は同じく中華門からは南南東1km強で露営しており、その総距離はおよそ2.5km強となる。甲第八六号の発令時間が午後9時であり、そこから約2.5km離れている第1大隊まで命令を運ぶとすると、通常の歩行速度としては30分程度だろうが、夜の戦場ということを加味するならば1時間ほど掛かったとしてもおかしくはないだろう。そういう意味では、戦闘詳報12月13日par.「十」で命令発令午後9時、受領午後10時には矛盾が見られない。そうすると消去法として、par.「十一」での「午後九時零分同地出発」という時間の記載が間違っていたと考えるが妥当である。

板倉推論の検証

 本項最後に、3つの矛盾に基いた板倉氏の推論を検証する。

 このような記録の不信な食い違いから推測すれば、聯隊としては、Ⅰに十三日夜は雨花台で大小行李と捕虜の警戒監視を命じたとも考えられる。そうなれば捕虜処分を命じる聯隊命令の存在は疑わしく(極端な場合、上級には殺害の意志は無く)、この場合、捕虜処分はⅠ長の独断となり、後日責任回避の意味で、戦闘詳報を「命令により」と改竄した可能性も出てくる。

板倉由明『本当はこうだった 南京事件』p127-128

 この記述では、「聯隊としては、Ⅰに十三日夜は雨花台で大小行李と捕虜の警戒監視を命じた」という推測に基いて「捕虜処分を命じる聯隊命令の存在は疑わし(い)」と推測し、さらにこの推測に基き「戦闘詳報を「命令により」と改竄した」という可能性を導き出している。いわば推測に推測を重ねている論理展開である。

 ところが、その最も基礎となる「捕虜の警戒監視を命じた」という部分は、最初に検証したようにその様な事実はない。「大小行李及之レカ監視ノタメ一部ヲ残置シ」とは、大小行李と大小行李を監視するため一部の部隊を残置したという意味であり、板倉氏が主張するような「大小行李」と「之レ(=捕虜)」を残置するという意味ではない。したがって、板倉氏の見解は、最初の基礎的事実認識から崩壊しており、見解が誤りであることは明白と言えるだろう。

2.「聯隊命令の要旨」時系列の矛盾 [前ページ]3.「捕虜監視」命令の矛盾[次ページ] 4.「五」「六」と史実の矛盾

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