歩66捕虜殺害事件 東中野説批判[02]殺害命令の存否

歩66捕虜殺害事件 東中野説批判 第114師団
歩66捕虜殺害事件 東中野説批判
歩66捕虜殺害事件 東中野説批判 総目次
1. はじめに
2. 殺害命令の存否
3. 捕虜捕獲状況・捕獲数
4. 戦闘詳報の捏造
5. 投降兵の処刑
6. まとめ
7. 参考資料

殺害命令の存否

 東中野氏は、歩66第1大隊戦闘詳報に書かれている捕虜殺害命令が、実際に旅団や連隊から発令したものなのか検証し、その結果としてそれら上部組織からの命令の存在を否定する。この結論に至るために、命令が発令される3つ可能性を抽出し、その3つの可能性がいずれも成立し得ないことをもって、命令が存在しなかったというのである。
 3つの可能性とは、1つ目は旅団からの作戦命令だという可能性、2つ目は連隊長の独断による作戦命令だという可能性、3つ目は連隊長の独断による第1大隊のみに対する命令だという可能性だ。この3つの可能性を検証した結果、いずれの可能性も成立し得ないという。
 本項では、まずは東中野氏の提起した可能性の検証を確認し、その上でこの検証の問題点を指摘したい。

 なお、本項で用いる「独断命令」「作戦命令」「個別命令」という言葉について説明しておきたい。
 「独断命令」とは東中野氏が用る言葉であるが、その意味は、ある部隊が命令を発意し、その部隊が発起点となった命令となる。ここでは概ね連隊・大隊が発意・発起点となっている。連隊の独断命令というと、旅団から命令はないが、連隊の発意で、連隊が発起点となって命令を出したことになる。
 「作戦命令」とは一般的な軍事用語である。多くの作戦命令には、「一一四師命甲第六十二号」「歩一二八旅命第六十六号」のように、部隊番号・名称の略記と発令番号が付された形式を取り、指揮直下の部隊全てに伝達される。
 「個別命令」とは、筆者が便宜的に名づけた命令である。名が示す通り、この命令の場合は上部組織が下部の部隊(一つ又は複数)に発する命令であり、発令番号が付されることはない。

東中野検証1 旅団としての作戦命令か?

 東中野氏は検証の出発点として、歩66連隊が所属していた第114師団の構造を説明する。第114師団を頂点として、その下に2個歩兵旅団(127旅団・128旅団)、1個歩兵旅団の下に2個歩兵連隊(127旅団=66連隊・102連隊、128旅団=115連隊・150連隊)で編制されている。そして次のように述べる。

 さて、第百二十七旅団(左翼隊)命令も、第百二十八旅団(右翼隊)命令と同じく、正午頃に発令されたと推定される。
 それから二時間後、十三日午後二時に、歩兵第百二十七旅団(左翼隊)歩兵第六十六連隊長が、「旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ」という命令を、傘下の第一大隊ほかに下したというのである。
 しかし、その「全部殺スベシ」という連隊長命令が、先の第百二十八旅団(右翼隊)命令「歩一二八旅命第六十六号」のどこにも見当たらないのである。
 つまり、歩兵第六十六連隊長の下達した処刑命令は、旅団命令としては出ていなかったことになる。

東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』p103

 ここで東中野氏が言いたいことは次のようなことだ。
 先に示した第114師団の組織構造上、歩66連隊第1大隊に届いた捕虜殺害命令が組織的な作戦命令であった場合、それは第114師団から発令され、歩兵第127旅団、歩兵第66連隊と経由してきたものと推測できる。
 一方で組織的な作戦命令なのだから、歩66連隊のみならず第114師団指揮下の全ての部隊に同様の内容、つまり捕虜殺害の命令が発令されたと推定できる。同時期に発令された命令で現存する作戦命令は歩兵第128旅団「歩一二八旅命第六十六号」だけだが、この作戦命令には捕虜殺害が記載されていない。
 したがって、捕虜殺害命令は、第114師団(127旅団・128旅団)による組織的な作戦命令だった可能性は否定されるという。

命令系統-師団作戦命令
命令系統-師団作戦命令

東中野検証2 連隊による独断の作戦命令か?

 次に東中野氏が検証するのは、連隊長による独断の作戦命令だったかということだ。

 この「旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ」という命令は、第一大隊の戦闘詳報が明記するように、連隊長が第一大隊に下達したものであった。では、第六十六連隊長が、独断で、命令したのであろうか。
 しかし、それならばその処刑命令を他の大隊の戦闘詳報が記録していたであろう。第六十六連隊は、第一大隊のほかに、第二大隊、第三大隊、その他で編成されていた。幸い、第二大隊の陣中日誌は現存する。
 そこで、その陣中日誌を点検してみると、処刑命令が出たとの記録がない。つまり、連隊長が傘下の大隊に命令した形跡がない。従って、連隊長独断説は考えられないのである。

『「南京虐殺」の徹底検証』p.102

 ここでいう「独断」とは、連隊長の発意に基き、連隊を起点として発令されたという意味である。つまり、上部組織から命令されたことを、下部組織に命令したというケースではなく、連隊が始点となった作戦命令ではないかということだ。
 東中野氏の検証によれば、歩66連隊本部の指揮下部隊として、第2大隊の陣中日誌が現存するという(筆者K-Kは未確認)。ところが、この第2大隊陣中日誌には、捕虜殺害命令が記載されていないという。
 したがって、捕虜殺害命令は歩66連隊内部で共有されておらず、歩66連隊長の独断の作戦命令だった可能性は否定されるという。

命令系統-連隊作戦命令
命令系統-連隊作戦命令

東中野検証3 連隊長による独断の個別命令か?

 最後の検証は次の通りである。

 しかしそれでも、第一大隊のみに、処刑命令が出たという可能性は残る。第一大隊の戦闘詳報には「連隊……主力ヲ以テ……掃蕩中」とあった。連隊主力は掃蕩中であったが、掃蕩の任務から外れていた第一大隊のみに、処刑命令が出たという可能性は残る。
 しかし、それは不可能なことであった。たとえば、師団は違うが、「多数ノ俘虜アリタルトキハ之ヲ射殺スルコトナク武装解除ノ上、一地ニ集結監視シ師団司令部ニ報告スルヲ要ス」とは、第十三師団司令部の「戦闘ニ関スル教示」(昭和十二年十月)の一節である。小宅伊三郎小隊長代理も証言するように、「問題は捕虜についてですから、連隊長以下でできることではありません」というのが、実情であった。
 連隊長にせよ、あるいは大隊長にせよ、独断で、処刑命令を発令したとは考えられないのである。

『「南京虐殺」の徹底検証』pp.102-103

 要するに、連隊長による独断での、第1大隊への個別命令であった可能性を検証している。検証するに当たり、第13師団司令「戦闘ニ関スル教示」の「多数ノ俘虜アリタルトキハ・・・師団司令部ニ報告スルヲ要ス」という一節と、小宅証言「捕虜についてですから、連隊長以下でできることではありません」という2つの根拠を挙げ、その可能性を否定している。

命令系統-連隊個別命令
命令系統-連隊個別命令

 以上の3つの検証をもって、次のように結論付けるのである。

 つまり、処刑命令は上の師団や旅団からも発令されていない。連隊長(ないしは大隊長)が独断で発令していない。ないないづくしの架空の処刑命令を、第一大隊戦闘詳報は記録していたことになる。

『「南京虐殺」の徹底検証』p.103

 以下、この結論に至るまでの東中野氏の論証の内容を検証する。

検証1・検証2は無意味

 歩66連隊第1大隊戦闘詳報に記載された捕虜殺害命令が、実際には上部組織から命令されたものではないという東中野氏の検証は以上の通りだが、この検証における最大の問題点は、元となった捕虜殺害の命令文を東中野氏がまともに読んでいないことだろう。以下、命令文を引用してみよう。

歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』
十二月十三日
(略)
八、午後二時零分聯隊長より左の命令を受く
 左記
イ、旅団命令により捕虜は全部殺すへし
  其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何
ロ、兵器は集積の上別に指示する迄監視を附し置くへし
ハ、連隊は旅団命令に依り主力を以て城内を掃蕩中なり
  貴大隊の任務は前の通り

『南京戦史資料集1』p.567

 この連隊長から命令文には、「旅団命令により」と明記されている。つまり、この文章を読む限り、命令の発起点は旅団であり、旅団から連隊へ、連隊から第1大隊へと伝達された命令経路が分かる。
 次に命令文に「貴大隊の任務は」と書いてある。複数の部隊に宛てて出された命令であれば、「第一大隊は○○すべし、第二大隊は△△すべし」というように固有の部隊名を挙げて書かれが、部隊名を固有名で呼ばず「貴大隊」と呼んでいる以上、この命令文が第1大隊だけに当てられた命令だということが分かる。以上の二点からこの命令は、歩兵第127旅団→歩兵第66連隊→第1大隊という伝達経路をたどった個別命令であることが、命令の文面を読むだけで分かる。

命令系統-旅団個別命令
命令系統-旅団個別命令

 このように命令の文面だけからも、東中野氏の3つの検証のうち1番と2番が意味をないことが分かる。なぜならば、東中野氏の両検証とも捕虜殺害命令が指揮下の全部隊に命令が発せられる作戦命令である可能性を検証しているからだ。つまり、命令文から歩127旅団→歩66連隊→第1大隊という命令系統だけに殺害命令が流れたことが読み取れるのだから、他の系統に殺害命令が流れていないことを証明して見せても、殺害命令がなかった証明にはならないのである。
 命令の文面だけからでも個別命令であることが判明するのに、わざわざ作戦命令だった可能性を検証するというのは、まったくの無駄な作業と言わざるを得ない。

検証3について

 検証の3番目を見てみよう。東中野氏は「第一大隊のみに、処刑命令が出たという可能性は残る」として、第13師団「戦闘ニ関スル教示」と小宅曹長証言を取り上げる。

 「戦闘ニ関スル教示」には「多数ノ捕虜アリタルトキハ之ヲ射殺スルコトナク武装解除ノ上、一地ニ集結監視シ師団司令部ニ報告スルヲ要ス」と書かれているから、捕虜の処置について連隊や大隊で独断で判断できないという。
 しかし、この文章には次のような記述があることも忘れてはならない。
「但シ少数人員ノ捕虜ハ所要ノ尋問ヲ為シタル上適宣処置スルモノトス」
 捕虜の数が少数であれば師団に報告せずとも「適宣処置」してもよいというのである。しかし、戦時国際法では、その多寡に関わらず捕虜を殺害することは認められない。この教示は戦時国際法を遵守するのではなく、独自の判断基準に基づいて捕虜殺害を組織的に行っていた実例と言えるだろう。
 また、第13師団の戦闘教示は、第13師団司令部が「歴戦部隊より知得したる事項」や「爾来の結果より見て矯正し或は注意を倍徙すへしと認めたる事項」を摘録して、隷下部隊に教示したものであって(「第13師団上海附近の会戦 戦闘詳報 昭和12年10月7日~12年11月1日」)、所属する軍が違う第114師団が共有できるはずもない。
 その上、その教示を受けたはずの第13師団歩116連隊でさえ、同教示が出た2~3週間後に劉家行西方地区で捕虜29名を殺害している(歩兵第百十六連隊 劉家行西方地区ニ於ケル戦闘詳報)。この教示に実効性も拘束性もない証である。

 一方、小宅曹長の「問題は捕虜についてですから、連隊長以下でできることではありません」という証言だが、小宅曹長が実際に下士官教育の中でその様に習ったのか、または、その様な考え方は士官の中で共有されていたのかは疑問が残る。下士官である曹長が、歩兵大隊長(概ね少佐)や歩兵連隊長(大佐)との考えを共有しているとは考えづらいところでもある。もちろん、実際に戦場で経験した事として語っているのかもしれない。
 ただし、先に示した第13師団「戦闘に関する教示」でも少数の捕虜の殺害(適宜処置)は認められており、また、実際に戦闘詳報にでさえ捕虜殺害が明記されるような状況(例えば歩33戦闘詳報第3号付表)から考えて、小宅証言を論証の基礎とすることには違和感を覚える。
 また、小宅曹長の証言では、捕虜の殺害命令は連隊長以下で出来ないというものであるが、上述の通りその実態が連隊の上部組織である旅団から発令されたものである以上、この根拠では何の証明にもならない。

 そもそも、第13師団戦闘教示や小宅曹長の証言の様な漠然とした傍証で、戦闘詳報に明記された命令の存在を否定するというのは無理な話である。ここまでの論証では、仮にも他部隊の命令と比較するというある程度の具体的根拠で証明する手法を取ってきたにも関わらず、ここでの論証では根拠薄弱な傍証でお茶を濁すような証明方法となったのはなぜか。要するに、根拠はないけど否定したいという願望の現われなのだろう。

 歩127旅団→歩66連隊→第1大隊という経路の個別命令を検証するには、歩127旅団や歩66連隊の陣中日誌・戦闘詳報等が必要となる。しかし、残念ながらこれらの資料は発見されていない。そうである以上、歩66連隊第1大隊戦闘詳報の捕虜殺害命令を疑う根拠は今のところ存在しないのである。

小括

 東中野氏は、歩66第1大隊戦闘詳報に記載された捕虜殺害命令が上部組織から発令された3つの「可能性」を提示し、その可能性を検証した結果、全ての可能性を否定する結論に至り、この捕虜殺害命令は上部組織から発令されたものではない主張した。しかし、提示した3つの可能性のうち、2つは「可能性」とは言えないもので、残り1つの可能性に関してはその検証内容に問題があり、根拠が薄弱な傍証をもって一次史料を否定するという強弁でしかなかった。
 もっとも重要な問題点は、東中野氏が検証した3つの可能性以外にも、上部組織から発令された可能性があったことだ。そして、その可能性こそが命令文の文面に明記された命令経路であり、本来ならば最初に検証すべき可能性だったのである。ところが、東中野氏はこの可能性を検証しなかった。
 筆者からすると、これは検証を回避しているとしか思えない。結局は「処刑命令は上の師団や旅団からも発令されていない。連隊長(ないしは大隊長)が独断で発令していない」という結論を導き出したいが為の「検証」の操作ではないだろうか。

余談、検証2

 すでに述べたように、検証2は、作戦命令を前提としたもので検証の意味がないことが明らかである。その上で、検証2の中で問題を感じる部分があるので指摘しておきたい。

 東中野氏は検証1で「旅団命令としては出ていなかったことになる」と結論づけた上で、検証2では「第六十六連隊長が、独断で、命令したものであろうか」と論点を提示する。つまり、師団や旅団から発令された作戦命令ではなく、歩66連隊本部から始まった作戦命令ではないかというのである。これが「独断命令」という意味だ。
 この論点を検証するための史料として、歩66連隊第2大隊陣中日誌を引き合いに出している。そして、東中野氏は次のように論証する。

 そこで、その陣中日誌を点検してみると、処刑命令が出たとの記録がない。つまり、連隊長が傘下の大隊に命令した形跡がない。従って、連隊長独断説は考えられないのである。

『「南京虐殺」の徹底検証』p.102

 筆者は未だ第2大隊陣中日誌を確認できていないが、東中野氏の言うには「処刑命令が出たとの記録がない」とのことであり、そのことをもって「連隊長独断説は考えられない」という。
 ところが、この論証には欠陥がある。どの様な欠陥かというと、この第2大隊は12月10日から師団予備隊となっており、歩66連隊の指揮下にいなかったのである。したがって、この時期に第2大隊には歩66連隊からの命令は届いてなかったと思われる。
 実際に、12月13日0時30分発令の歩66連隊の作戦命令「歩六六作命甲第八十四号」の命令文を見てみよう。

歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』
歩六六作命甲第八十四号 十二月十三日午前零時ニ十分 於南京南門東南高地
3、第一大隊(連隊機関銃隊一小隊 独立機関銃2小隊属す第二中隊欠)は左第一線となり…
4、第三大隊(第九中隊欠連隊機関銃(1小隊欠)歩兵砲中隊を属す)は右第一線となり…
5、連隊砲中隊通信班は別に指示する位置に在りて…
6、第二中隊は連隊本部前に単哨を配置し…
7、第四中隊は捕虜の警戒に任せしむへし

『南京戦史資料集1』p.564

 この様に指揮下部隊にそれぞれ命令を出しているが第2大隊への命令はない。当然、歩66連隊の指揮下にない第2大隊に命令を出す必要もなく、おそらくはこの命令は第2大隊に届いてもなかったと考えられる。つまり、東中野氏が主張していることは、もともと届くはずもない連隊命令が届いていないという、当然のこと証明しているすぎない。
 このように第2大隊に連隊から捕虜殺害命令が届いてないことをもってしても、捕虜殺害命令が連隊の独断命令の可能性を否定することにならないのである。

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