歩66捕虜殺害事件 板倉説批判[05]まとめ

歩66捕虜殺害事件 板倉説批判_ic 第114師団
歩66捕虜殺害事件 板倉説批判_ic
歩66捕虜殺害事件 板倉説批判 総目次
1. はじめに
2.「聯隊命令の要旨」時系列の矛盾
3.「捕虜監視」命令の矛盾
4.「五」「六」と史実の矛盾
5. まとめ
6. 参考資料

まとめ

 歩66第1大隊の捕虜殺害事件について、板倉由明氏の主張を検証してきた。板倉氏の主張は大きく分けて3つあった。一つは歩66第1大隊戦闘詳報に記載されている「聯隊命令の要旨」の時系列の矛盾、二つ目は、連隊作命甲86号による捕虜監視に関する矛盾、三つ目は戦闘詳報「五」「六」の記述が「史実と異なっている」という指摘である。

 一つ目の指摘である「聯隊命令の要旨」の矛盾は、第1大隊戦闘詳報では13日12時に受領した「聯隊命令の要旨」が時系列と一致しないと指摘し、この事実から「Ⅰ(註:第1大隊)が聯隊命令空白の時間帯を作り、旅団あるいは聯隊命令と称して捕虜殺害を行った」と板倉氏は推測した。
 これは指摘の通り時系列と矛盾するものであるが、一方で、この「聯隊命令の要旨」は13日23時に受領した作命甲第87号の事前かつ予備的に伝達された命令要旨であることが、内容の比較から判断できる。当時の第1大隊は幹部が後退が相次ぎ陣中日記の作成状況に混乱がでおり、単純に「聯隊命令の要旨」の受領時間を誤記したと考える方だが妥当である。わざわざ、予備的に伝達される要旨命令と本命令の受領時間に「空白の時間帯」を操作して作ったとしても、そのこと自体と捕虜殺害命令に存在に何等の繋がりはなく、板倉氏の妄想と言わざるを得ないだろう。

 二つ目の連隊作命甲86号による捕虜監視に関する矛盾は、第1大隊戦闘詳報 par.「十一」に記載されている「聯隊命令ニ依リ大小行李及之レカ監視ノタメ一部ヲ残置シ」という記述の「之レ」とは捕虜を意味し、連隊はこの命令が発令された時点まで、第1大隊が捕虜を収容していると認識していた。しかし、戦闘詳報では、すでにその7時間前の14時に連隊命令として捕虜を殺害したとしている。ここに連隊の捕虜に対する認識に矛盾が出ているといい、「捕虜処分を命じる聯隊命令の存在は疑わしく」「捕虜処分はⅠ長の独断となり、後日責任回避の意味で、戦闘詳報を「命令により」と改竄した」と板倉氏は推測する。
 しかし、「十一」に書かれている「大小行李及之レカ監視ノタメ一部ヲ残置シ」の「之レ」は、普通に読めば、大小行李と大小行李を監視する為に部隊の一部を残置するという意味であり、板倉氏が理解するような「捕虜」ではないことは明白だ。これは板倉氏の単なる誤読もしくは強弁でしかない。

 三つ目は、戦闘詳報「五」「六」の記述が「史実と異なっている」という指摘は、南京城の南門から東西に走る城壁(南門城壁)の攻撃・占領・掃討について記述されている戦闘詳報「五」「六」が、「はなはだしく史実と異なっている」とし、「Ⅰ(第1大隊)が戦闘詳報に、自分の聯隊の武勇伝を創作して書き込んだもの」と板倉氏は推測する。
 そこで、板倉氏が「史実と異なっている」と主張した「史実」にあたる歩47・歩150・歩13の城壁攻撃~掃討までの戦闘状況を検証した。歩47・歩150が攻撃を担当した城壁の位置は、歩66が担当したそれとおよそ500~900メートルも離れた位置であり、戦闘進捗が違っていても不思議ではない。一方、歩13は中華門を挟んだ隣接地域の城壁を攻撃していた。ところが、歩13の戦闘状況は、板倉氏が主張するような「午前八時過ぎには(略)各部隊が続々入城していた」という状況ではなかった。この板倉氏の主張は示されていないが、独立軽装甲車第二中隊の藤田清曹長の証言によれば、中華門は門内に大量の土嚢が充填されており、12月15日まで開通しなかったという。しかも、「各部隊が続々入城」したというが、実際には、それぞれの部隊は自ら占領した城壁部分を通って城内に侵入したので、中華門を通ったという記録はない。歩47Ⅰ作命139の戦況説明では、12月13日12時30分時点で城内掃討を行っていたは第114師団と歩23であり、歩13は城内掃討を未だ行ってなかったことが分かる。そもそも「続々入城」というが、歩13が行った城内掃討も第2大隊のみが行っただけで、板倉氏の言うような「続々入城」という表現は当らない。そもそも、戦闘地境で攻撃地域を限定している以上、同じ南門城壁とはいえそれぞれの部隊で攻撃進捗に差が出るのは当然のことだろう。

 そもそも、歩66の戦闘状況については、戦後、『サンケイ新聞栃木版』では「郷土部隊′戦記」として、『栃木新聞』では「鎮魂譜 野州兵団の軌跡」として部隊史が編纂されている。いずれも、問題となる歩66第1大隊戦闘詳報を参考資料の一つとしているが、戦闘詳報以外の史料・証言も参照している。これら部隊史における城壁攻撃と第1大隊戦闘詳報のそれとには大きな違いは見られない。間接的ながらも、第1大隊戦闘詳報がこの部分に関して正確だったという裏付けとなるだろう。

 既に見てきたように、板倉氏の3つの指摘のうち、1つ目は捕虜殺害命令と直接関係のない命令の発令時間に関するものであり、3つ目は「自分の聯隊の武勇伝を創作」したというものであり、いずれも捕虜殺害命令と関係性のない指摘である。
 そして唯一、捕虜殺害命令と関係のある2つ目の指摘は、「大小行李及之レカ監視ノタメ一部ヲ残置シ」という文章の「之レ」が捕虜を指していると誤読したものだった。
 つまり、板倉氏が捕虜殺害命令は捏造だと主張する根拠というのは、単なる誤読が根拠だと言わざるを得ない。それ以外の指摘は、その誤読である主張を補強する為に、戦闘詳報の記述の細部の「矛盾」を論い信憑性を貶めるためのものでしかない。
 歩66第1大隊戦闘詳報に関する板倉氏の主張には、ほぼ根拠がないということが明らかになったかと思う。 

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