歩66捕虜殺害事件 東中野説批判[03]捕虜捕獲状況・捕獲数

歩66捕虜殺害事件 東中野説批判 総目次
1. はじめに
2. 殺害命令の存否
3. 捕虜捕獲状況・捕獲数
4. 戦闘詳報の捏造
5. 投降兵の処刑
6. まとめ
7. 参考資料

捕虜捕獲状況・捕獲数

 歩66連隊第1大隊による捕虜の捕獲状況・捕獲数についての東中野氏の主張を検証する。東中野氏は、戦闘詳報に書かれている捕虜の捕獲状況・捕獲数が実態とは違うと主張することで、戦闘詳報の内容の信憑性を低減させ、引いては後に論述する、捕虜殺害命令は戦闘詳報執筆者の捏造だったことを裏付ける根拠とする意味を持たせている。

捕虜捕獲状況について

 捕虜の捕獲状況については次のように主張する。

 第四中隊が最初の投降兵を得たとき、「隊長」は抵抗する支那兵のもとに中隊から三名を伝令として派遣したと、戦闘詳報は述べている。その「隊長」とは、小宅第一小隊長代理の証言によれば、第四中隊長ではなかった。第四中隊長は手塚中尉であったが、手塚中尉は十二月七日南京の手前で負傷し、戦線を離脱していた。そこで、このとき手塚中尉に代って第四中隊を指揮していたのが、小宅第一小隊長代理であった。従って「隊長」とは、手塚中隊長代理(K-K註:ママ)の小宅曹長その人であったという。そのことが小宅伊三郎曹長の証言により判明する。ちなみに、一ヶ中隊は三ヶ小隊から編成されていた。
 ところが、小宅小隊長代理の証言によれば、たしかに小宅小隊長代理は第四中隊を指揮していたが、「三名ヲ伝令トシテ派遣」したことはなかったという。

『「南京虐殺」の徹底検証』p.105

 要約すると、捕虜捕獲当時に第4中隊長を臨時で指揮していた小宅曹長によると、戦闘詳報に書かれているような「隊長(=小宅曹長)」が捕虜3名を伝令として派遣し、中国兵の投降を促したという事実なかったという。
 なお、この時の戦闘詳報の記述と小宅曹長の証言は以下の通りである。

歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』
自昭和十二年十二月十日 至十二月十二日
十三、(略)
最初の捕虜を得たる際隊長は其の三名を伝令として抵抗断念して投降せは助命する旨を含めて派遣するに其の効果大にして其の結果我か軍の犧牲を尠なからしめたるものなり

『南京戦史資料集Ⅰ』p.561

 第一大隊戦闘詳報には「最初の捕虜を得たる際、隊長は三名を伝令として抵抗を断念して投降せば助命する旨を含んで派遣せるに」とあり、このときの隊長とは一刈大隊長ではなく小宅小隊長代理のことであることが分かったが、小宅小隊長代理は、捕虜を捕えたのは確かだが三名を伝令に出したりとかそういうことは一切なかったという。

阿羅健一「城壘 兵士たちの南京事件」第19回 『丸』1990年7月号 p.213

 この文中にある「このときの隊長とは一刈大隊長ではなく小宅小隊長代理のことであることが分かった」というのは、小宅曹長の次の証言に基いている。若干、冗長な引用となるがその後の検証に必要となるのでご容赦願いたい。

 「十二月十二日、第四中隊の戦力は半減していたが、第一線で戦っていた第三中隊の右側に進むように命令を受けて、私は第一小隊、第三小隊、指揮班の計六、七十人を指揮して第三大隊の援護に向かった。ですから、当時の第四中隊は私が指揮していたことになります。もちろん第一線の戦場ですから、我々の中隊長がどこにいるのか、他の小隊がどこにいるのか分かりませんでした。
 兵士廠の建物の前にある陸橋で指揮を取っていたが、やがて中国軍が後退し、その中に白布を振っている兵も見えたので射撃を禁止し、彼らに対して手招きをした。すると、城壁上から私を狙って撃ってきて、五、六発が私の近くに当たった。
 それでも中国兵は三三五五降伏してきたので、私のところで検問して後に送った。検問している途中、中国軍の逆襲にそなえたり、井上戦車隊長との打ち合わせ等があり、どのくらい捕虜がいたのか正確には分からない。あとで千二百の捕虜がいて、他の隊が捕まえた捕虜ニ、三百も合わせると千五百人になると聞いた記憶がある。
 しかし、あのとき千二百人の捕虜を検問して武装解除するだけの時間があったのかと考えてみると、とても千二百人もいたとは言えない。

阿羅健一「城壘 兵士たちの南京事件」第19回 『丸』1990年7月号 p.213

 つまり、当時第4中隊の中隊長を臨時的に務めていた小宅曹長の証言により、第1大隊戦闘詳報に記述されている「隊長は其の三名を伝令として抵抗断念して投降せは助命する旨を含めて派遣する」ということはなかったというのである。

捕虜数について

 捕虜数について第1大隊戦闘詳報では「千五百余名」としているが、実際にはそれより少なかったと主張する。

 ともあれ第四中隊は、日本軍兵士も満足に食べていない中、十二日の夜十時、支那兵に食事を支給した。第一大隊戦闘詳報によれば、「其ノ食事ハ捕虜二〇名ヲ使役シ徴発米ヲ炊爨セシメテ……食事ヲ支給セルハ午後十時頃ニシテ、食ニ餓エタル彼等ハ争ツテ貪食セリ」、つまり空腹の支那兵は争って貪り食った、という。
 攻防戦の最中の粗食であった。それでも空腹を満たすには十分であったのであろう。それしても、千五百食分も用意できたであろうか。
 この間、三時間たらずであった。その間に、千五百名の武装解除と、千五百食分の食事の準備は不可能に近い。投降兵はもっと少なかったであろう。

『「南京虐殺」の徹底検証』p.107

 この文章を見て分かるように、この首長にはほぼ資料的根拠のない。小宅証言の「あのとき千二百人の捕虜を検問して武装解除するだけの時間があったのかと考えてみると、とても千二百人もいたとは言えない」という証言を頼りに推測しているに過ぎない。

小宅証言の信憑性

 捕虜の捕獲状況についても、捕虜数についても、東中野氏が根拠にするのは小宅曹長の証言のみである。しかし、この小宅証言の信憑性については疑問に思う点がある。

第4中隊の指揮者

 先に引用した小宅証言の中で、12月12日に第4中隊が第3中隊に援護に向かう時の状況を、小宅曹長は次のように述べている。

 「十二月十二日、第四中隊の戦力は半減していたが、第一線で戦っていた第三中隊の右側に進むように命令を受けて、私は第一小隊、第三小隊、指揮班の計六、七十人を指揮して第三中隊の援護に向かった。ですから、当時の第四中隊は私が指揮していたことになります。もちろん第一線の戦場ですから、我々の中隊長がどこにいるのか、他の小隊がどこにいるのか分かりませんでした。

阿羅健一「城壘 兵士たちの南京事件」第19回 『丸』1990年7月号 p.213

 その後、小宅曹長の指揮する第4中隊は、「中国軍が後退し」はじめて、「中国兵は三三五五降伏してきたので、私のところで検問して後に送った」。その時の捕虜の数は「千二百の捕虜がいて、他の隊が捕まえた捕虜二、三百も合わせると千五百になると聞いた」という。
 そして、小宅曹長は、12月13日夜と思われる状況を次のように証言する。

 城内の大隊本部に行ったとき、外国の新聞記者二人が城内と雨花台を見たいといっているので失礼のないようにと言われ、(平沢)中隊長代理にそのことを言ったことがあります。中隊長代理とはそのとき久し振りに会ったくらいです。中隊といっても第一線ですからそれほど命令系統は混乱していました。

阿羅健一「城壘 兵士たちの南京事件」第19回 『丸』1990年7月号 p.213

 小宅曹長は、12日12時過ぎに平沢中隊長代理とはぐれて以来、再会したのは「城内の大隊本部」だったというので13日夜ということになる※。その間に命令系統が回復していたのかは分からないが「命令系統は混乱していました」というぐらいだから、13日夜、大隊本部で中隊長代理と再開するまで「命令系統は混乱」していたという趣旨のかもしれない。

※歩兵第六十六連隊第一大隊戦闘詳報「(12月13日)十一、大隊ハ聯隊命令ニ依リ大小行李及之レカ監視ノタメ一部ヲ残置シ雨花台露営地ヲ徹シ午後九時零分同地出発南京城内ニ入ル…南門北方約四キロノ宿営地ニ到着聯隊ノ指揮下ニ入リ宿営ス」(『南京戦史資料集1』p.568)

 ここで重要なポイントは、小宅曹長は第4中隊を臨時で指揮していたからこそ、捕虜を捕獲する際に捕虜3名を伝令として中国兵の投降を促したとする戦闘詳報の内容を「捕虜を捕えたのは確かだが三名を伝令に出したりとかそういうことは一切なかった」と否定できるわけである。どの時期までに中隊を臨時で指揮していたか判断ができないが、最低でも捕虜の捕獲、検問、収容の時点までは、小宅曹長は中隊を指揮していたことになる。

 以上が、阿羅「城壘」における小宅曹長の証言の概要である。

12月12日~13日の第4中隊の状況

 12月12日~13日にかけて、つまり第1大隊が捕虜を捕獲し、収容し、殺害したときの第4中隊の状況を確認する。

 12月12日までの第4中隊の部隊内の状況は、中隊長の手塚中尉は12月7日秣稜関の戦闘で負傷後退し、第2小隊長をしていた平沢新次郎少尉が中隊長代理となっていた。指揮班長をしていた小宅曹長は、11月13日に小貫竜雄小隊長が戦死した為、第1小隊長代理となっていた。第3小隊は11月25日の湖州での戦闘で加藤箕三郎小隊長が戦死している。中隊長・小隊長すべてが交代している状況だった。

 12日の戦闘状況について、第1大隊戦闘詳報には次のように書かれている。

歩66第1大隊戦闘詳報附図10
12月12日 歩兵第66聯隊戦闘状況(歩66第1大隊戦闘詳報附図10)

十二月十二日
(略)
七、午前零時(※)聯隊本部推進シ来タリ密■■連絡成リ當面ノ情況ヲ報告ス同時ニ聯隊予備タリシ第四中隊ノ大隊長ノ指揮下ニ入ラシメラル
(略)
八、零時十分我カMG及ビAノ制圧射撃ニ敵線動揺ノ色アルヲ観破スルヤ大隊長ハ機ヲ失セス復帰セシ第四中隊ヲ右翼ニ増加シ損傷ヲ蒙リシ第三中隊ヲ中央後ノ予備トシ南京ニ通スル本道ヲ中心ニ南京東南側高地ニ向ヒ攻撃前進ヲ命ス(略)
※午後零時の間違い

昭和十二年 自十二月十日 至十二月十三日 南京附近ノ戦闘詳報 歩兵第六十六聯隊第一大隊

 この戦闘詳報の記述から、第4中隊はそれまで連隊予備隊だったが12月12日12時に第1大隊に復帰し、直後の12日12時10分には第3中隊の右翼へ前進していることが分かる。小宅曹長の証言では、この直後、乱戦に巻き込まれて平沢中隊長代理とはぐれ、第4中隊を臨時で指揮することになったという。
 その後の第1大隊の戦闘状況は次のように進捗した。

歩66第1大隊戦闘詳報附図10再現
歩66第1大隊戦闘詳報附図10再現

「午後二時三十分南京城南側地区掃蕩ノ聯隊命令ヲ受ク」
「午後三時頃ヨリ漸次F(K-K註:敵)ハ抵抗ヲ断念シ白旗ヲ上ゲテ降スルモノ続出シ」
「概ネ午後四時三十分掃蕩ヲ終リ敵ヲ殲滅シ敵ノ策□全ク絶チ聯隊主力ノ行動ヲ容易ナラシメタリ」

歩兵第66聯隊第1大隊 昭和十二年 自十二月十日 至十二月十三日 南京附近ノ戦闘詳報 附図10

 この記述によると、第1大隊の作戦地域では12日14時30分から掃蕩戦が始まり、15時から中国兵の投降が始まり、16時30分には付近の掃蕩が終わっていたという。これらの状況は、14時30分には第1大隊の作戦地域では戦闘が下火となり始めたことを示している。

 中国兵が「抵抗ヲ断念シ白旗ヲ上ゲテ降スルモノ続出シ」という状況について、戦闘詳報では次のように書かれている。

歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』
十三、第四中隊は邁進し来たれる115i配属の軽装甲車中隊(小倉第五大隊)と協力し擲弾筒手榴弾を以て頑強に家屋に拠り抵抗する敵を制圧しつゝ進入す敵は最初歩兵砲を撃ち手榴弾を屋上より投擲して抵抗せるも装甲車の威力と歩兵の勇敢なる突進に惧れをなし逐次白旗を掲けて投降するもの続出せり此の間各将兵は手榴弾の下を潜りて屋内に侵入し或は階上に駆け登りて随所に白兵戦を演す

『南京戦史資料集1』p.561

 この記述からも、第4中隊が捕虜捕獲の中心部隊だったことが窺える。

『野州兵団奮戦記』の小宅証言

 先に見てきたように、小宅曹長は阿羅「城壘」(1990年)で証言を行っているが、それより以前、『栃木新聞』で1980年に連載された「鎮魂譜 野州兵団の軌跡」でも証言を残している。ここでは同連載をまとめた『野州兵団奮戦記』から小宅曹長の証言を引用してみよう。

そのとき、第四中隊は第三中隊の右翼に進出せよとの大隊命令を受けた。攻撃前進を始めたとたん、中隊は乱戦にまき込まれ、うちの小隊は中隊主力から孤立した。

高橋文雄『野州兵団奮戦記』p.268

 阿羅「城壘」の小宅証言と比較すると、「城壘」の証言では「第一小隊、第三小隊、指揮班の計六、七十人を指揮して」おり、実質的に「当時の第四中隊は私(小宅曹長)が指揮していた」と述べているが、『栃木新聞』の証言では、自身の小隊は中隊主力からはぐれてしまったと述べている。つまり、三つあった小隊の一つの小隊を指揮していただけで、しかも中隊主力(第2、第3小隊、指揮班)から離れていたというのである。
 中隊主力からはぐれてしまったのであれば、「城壘」で証言したように小宅曹長が中隊を指揮していなかったことになる。中隊を指揮していなければ、中隊で行ったという1200人近い捕虜の捕獲・検問・収容をしたのも小宅曹長が主導したものとは言えない。第一大隊戦闘詳報「最初の捕虜を得たる際、隊長は三名を伝令として抵抗を断念して投降せば助命する旨を含んで派遣せるに」の「隊長」は小宅曹長ではなく、「捕虜を捕えたのは確かだが三名を伝令に出したりとかそういうことは一切なかった」とする小宅曹長の証言の否定されることになるのである。

 そもそも、「城壘」の小宅曹長の中隊指揮に関する証言は、当時の戦況から見ても不自然だ。「城壘」での証言では12日12時以降、平沢中隊長代理とはぐれて臨時に中隊の指揮を執り、捕虜を収容したという。しかし、当時の第1大隊の作戦地域では、12日14時30分から掃蕩戦が始まり、15時30分から中国兵の投降が始まり、16時30分には付近の掃蕩が終わっていた。これらの状況は、14時30分には第1大隊の作戦地域では戦闘が下火となっていたことを示している。仮に小宅曹長が中隊長代理とはぐれた時期を12時30分とすると、2時間後に戦闘が下火となり、4時間後には掃蕩戦さえも終了しているにも関わらず、その間、命令系統が回復できなかったという不自然だろう。

 それどころか次のよう証言のように、翌13日夜になるまで命令系統が回復できなかったとも受け取れる証言をしている。

 城内の大隊本部に行ったとき、外国の新聞記者二人が城内と雨花台を見たいといっているので失礼のないようにと言われ、(平沢)中隊長代理にそのことを言ったことがあります。中隊長代理とはそのとき久し振りに会ったくらいです。中隊といっても第一線ですからそれほど命令系統は混乱していました。

阿羅健一「城壘 兵士たちの南京事件」第19回 『丸』1990年7月号 p.213

 第1大隊本部は、13日21時に雨花台露営地を出発し城内宿営地に向かっているのだから、城内で平沢中隊長代理にあったというならば、13日21時以降ということになる。仮にこの時点まで中隊の命令系統が回復せずに小宅曹長が第4中隊を指揮していたのであれば、33時間も命令系統が回復できなかったことになる。
 もちろん、中隊長代理と「久し振りに会」う前に命令系統が回復していた可能性もある。しかし、この中隊長代理との再会を「命令系統は混乱」の象徴として語っていることを考えると、小宅曹長が中隊長代理との再会まで命令系統が混乱していたという意味で語っていると考える方が自然だろう。
 次の証言も目を引く。

「あの前後(K-K註:捕虜殺害命令前後=12月13日14時)、渋谷さんや平沢さんがどうしていたかはっきりしませんが、ともに第一大隊本部にいたのではないかと思います。(略)
 しかし、実際どうだったのか、捕虜を捕らえて第四中隊を指揮していた私すら知らないので、相当混乱していたと思います。(略)」

阿羅健一「城壘 兵士たちの南京事件」第19回 『丸』1990年7月号 p.213

 この証言からすれば、13日14時前後、平沢中隊長代理は第4中隊の指揮をせずに、小宅曹長に指揮を委ね、第1大隊本部にいたとも読める。この証言が真実だとすると、平沢中隊長代理は中隊長という職務を放棄していたことになる。これも相当に現実性の乏しい証言だろう。

 ここまで小宅伊三郎曹長の証言を検証した。阿羅「城壘」と『野州兵団奮戦記』の証言内容を比較すると証言内容に食い違いがる上、阿羅「城壘」での12月12日・13日の戦闘状況・捕虜捕獲状況に関する証言には、現実性が乏しいと考えられる。相対的に『野州兵団奮戦記』の方が信憑性が高いと評価できる。

小括

 既に見てきた様に、東中野氏が第1大隊戦闘詳報の記述の信憑性が疑う根拠は小宅曹長の証言のみに依拠していた。しかし、その根拠とした小宅曹長の証言を史料批判してみると、その信憑性が低いことが分かる。
 東中野氏は捕虜捕獲状況に関する第1大隊戦闘詳報の記述が創作だったとすることで、同戦闘詳報の信憑性を下げる効果を狙ったと思われる。歩兵第66連隊捕虜殺害に関する同氏の主張は戦闘詳報の記述が不正確であることが基礎となっているので、その主張を裏付ける意味があるわけだ。
 しかし、その論証として用いた根拠である小宅証言を検証すると、決して史料価値が高いものと言えないことが分かる。小宅証言のみをもって一次史料である戦闘詳報の記述を否定することには大きな無理があると言えるだろう。

2. 殺害命令の存否 [前ページ]3. 捕虜捕獲状況・捕獲数[次ページ] 4. 戦闘詳報の捏造

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