歩66捕虜殺害事件 東中野説批判[06]まとめ

歩66捕虜殺害事件 東中野説批判 第114師団
歩66捕虜殺害事件 東中野説批判
歩66捕虜殺害事件 東中野説批判 総目次
1. はじめに
2. 殺害命令の存否
3. 捕虜捕獲状況・捕獲数
4. 戦闘詳報の捏造
5. 投降兵の処刑
6. まとめ
7. 参考資料

まとめ

 以上、歩66連隊第1大隊戦闘詳報に記述されている捕虜殺害命令に関する東中野氏の主張を検証してきた。
 東中野氏によれば、捕虜殺害は第1大隊による独断行為であり、独断行為であること隠蔽する為に、戦闘詳報執筆者が捕虜殺害命令を捏造したというのである。しかも、捕虜を捕獲した状況も捏造だといい、捕虜の捕獲数も記載された「一五〇〇余」より実際は少なかったという。さらには、この捕虜殺害自体、捕虜の反乱に起因したもので已む得ず行ったものだと主張するのである。まさしく、日本軍の行為に一点の曇りもないと言わんばかりの主張と言えるだろう。

 捕虜殺害命令は実際には存在しなかったとする論証では、上部組織や周辺部隊の戦闘記録と照らし合わせ、命令が出る可能性を抽出し、その上でその可能性を全て否定していくという消去法で論証するものだった。しかし、戦闘詳報に書かれている命令機序である、旅団→連隊→大隊という個別命令だった可能性を考慮しないという致命的なミスを犯しており、ここでの論証の意味を消失させてしまっている。

 また、阿羅健一「城壘」における小宅曹長の証言を史料批判せずに過度に依存することで、捕虜の捕獲状況や捕虜数、第1大隊における戦闘詳報の作製能力について誤った結論を導き出してしまった。
 捕虜の捕獲状況や捕虜数について、小宅証言に基づき戦闘詳報の記述は実態と違うと主張した。ここで小宅曹長の証言が重要なのは、捕虜を捕獲した当時、小宅曹長が第4中隊を指揮していたと証言しており、そのことにより中隊の行動を掌握していたと見ることが出来るからだ。しかし、『栃木新聞』の連載「鎮魂譜 野州兵団の軌跡」(『野州兵団奮戦記』)での小宅証言では、その当時、小宅曹長が指揮していたのは第1小隊であり、同小隊は乱戦に巻き込まれ第4中隊の主力とはぐれたと述べている。小宅証言の肝となる部分、つまり、中隊を掌握していたという証言内容が疑われるのである。そもそも、小宅曹長が乱戦に巻き込まれのは、12月12日12時過ぎであり、捕虜の捕獲があったのはそれから3~4時間程度が過ぎた時点だった。それほど広くもない作戦地域で、戦闘が下火になった掃蕩戦の状態にも関わらず、中隊長との命令系統が復旧できなかったというのは非現実的だろう。この様に、小宅証言は時期によって証言内容が異なり、その証言内容も現実性を疑うものである。その様な戦後の証言と一次史料である戦闘詳報を比較して、証言の方を真実性をあるというのは公正性に欠ける見かたであろう。

 第1大隊戦闘詳報の信憑性が低いことを前提として、第1大隊の戦闘詳報作製能力を論じる部分もまた、小宅曹長の証言のみに依拠した立論だった。確かに小宅曹長は「素人ばかりの大隊ではまともな戦闘詳報はなかった」と証言しているが、その証言を検証してみると、渋谷大尉を副官だったと誤認したり、軍務経験が豊富と考えられる下士官で構成された大隊書記陣を考慮しないものでもあり、証言の信憑性に疑問がある。自身の主張に合致する史料のみを取り上げる東中野氏の主張は、実証性が乏しいと言わざるを得ない。

 最後に捕虜殺害の正当性を主張する部分には度肝を抜かれる。そもそも、捕虜殺害が正当な行為でないからこそ、戦闘詳報を作製する段階で捕虜殺害命令を捏造したという論証を行ったはずなのが、その前提を無視する主張をしているのである。しかも、その根拠たるや、小宅曹長が捕虜収容所が「騒然」としていたと証言したことだけを頼りに、捕虜を釈放する予定だったという無根拠の想像を加味し、捕虜の反抗があった為に釈放することが出来ず、やむなく処刑したという主張するのである。これまで、仮にも何らかの根拠を示して論述してきた態度が台無しではないだろうか。

 以上、見てきた様に歩66連隊捕虜殺害事件に関する東中野氏の主張には、ほぼ正当性のない主張ばかりだった。

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