歩66捕虜殺害事件 板倉説批判[02]「聯隊命令の要旨」時系列の矛盾

歩66捕虜殺害事件 板倉説批判_ic 第114師団
歩66捕虜殺害事件 板倉説批判_ic
歩66捕虜殺害事件 板倉説批判 総目次
1. はじめに
2.「聯隊命令の要旨」時系列の矛盾
3.「捕虜監視」命令の矛盾
4.「五」「六」と史実の矛盾
5. まとめ
6. 参考資料

「聯隊命令の要旨」時系列の矛盾 

 歩66第1大隊戦闘詳報に記載されている捕虜殺害命令は、旅団から指示された連隊が発令したものと書かれているが、実際にはその様な命令は存在せず、命令と称して第1大隊が独断で捕虜殺害を実施したと板倉氏は主張する。つまり、第1大隊が独断で行なった捕虜殺害を、戦闘詳報を書く段階になって旅団・連隊命令を捏造し、命令に従って捕虜を殺害したのであり、この様な工作の結果、戦闘詳報には時系列の矛盾が発生しているというのである。
 まずは、板倉氏の主張を確認したい。

(2) 第百十四師団は、「十二月十三日午後八時於回家営」として
「一、師団ハ南京城内ノ敵ヲ掃蕩シタル後、十四日城内東南部及ソノ附近に宿営セントス」に始まる作命(作戦命令の略、以下同)六三号を発令している。
a この作命を受けた歩六六-Ⅱでは、同十三日「午後九時三十分於回花営」(筆者註「回家営」の間違い?)とするⅡ作命五二号を発令している。
b 同じく師団作命六三を受けた歩六十六本部は、同十三日「午後十一時於南京南門北方千五百聯隊本部」とする歩六六作命第八七号(註11)を発令している。
c この聯隊作命を歩六六-Ⅰは戦闘詳報中の七(註12)として、作命番号を記さず、十三日午後零時受領の「聯隊命令の要旨」として記録している。文中の「午後零時」が夜半の零時ではなく正午であることは、その詳報の記述が午前七時、午前十時、本記録、午後二時の順に記されていることで明らかである。ここでbとcを総合すれば、Ⅰは聯隊作命を十一時間遡って受領したことになる。

板倉由明『本当はこうだった 南京事件』p126

 板倉氏の主張によれば、歩66第1大隊戦闘詳報 par.「七」に記載されている「聯隊命令の要旨」は、その内容は12月13日20時に第114師団から発令された「作命第六三号」と一致する。従って、この命令は、師団から旅団へ、旅団から連隊へ、連隊から大隊へと伝達され、その結果、「聯隊命令の要旨」として歩66第1大隊戦闘詳報に記されたはずである。ところが、戦闘詳報では「聯隊命令の要旨」は、師団命令の発令される11時間も前に発令されたと記されている。よって、時系列に矛盾が出ているという。

 この時間経過への疑問は、七の次の八がここで問題にする午後二時受領の「イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ」で始まる捕虜殺害の聯隊命令(この聯隊命令の原文はどこにも無い)である(註13)ことから、非常に重要な意味を持っている。
 またこの戦闘詳報では、十三日の聯隊作命は、午前三時十分の甲第八五号から午後九時の甲第八六号までおよそ十八時間も出ていないが、この間には問題の捕虜殺害命令や午前九時半発令の師団作命甲第六ニ号があり、この師団作命を承けた歩六六Ⅱは午前十一時、歩一五〇は正午に命令を出している。

板倉由明『本当はこうだった 南京事件』pp.126-127

 ここで板倉氏がいう「七の次の八」とは、第1大隊戦闘詳報12月13日の項のパラグラフ(段落)のことで、「七」には「聯隊命令の要旨」が、「八」には連隊からの捕虜殺害命令が記述されている。
 板倉氏は「非常に重要な意味を持っている」というが、どの様な意味を持っているのかここでは具体的に示されていないが、先の時系列の矛盾とパラグラフ「七」「八」との関係性が重要だと言いたいのだろう。
 そして、12月13日の連隊命令甲第八五号甲第八六号は、約18時間の間があいていることを指摘している。

こうなるとⅠ(註:第1大隊)が聯隊命令空白の時間帯を作り、旅団あるいは聯隊命令と称して捕虜殺害を行った可能性が必ずしも否定できなくなる

板倉由明『本当はこうだった 南京事件』p127

 第1大隊戦闘詳報12月13日の項の中で、甲第八五号甲第八六号の発令時間を書き換え、その間に旅団・連隊から捕虜殺害が発令されたと捏造し挿入した、その結果、「聯隊命令の要旨」の時系列に矛盾が出たというのである。

「歩六六作命第八七号」と「聯隊命令の要旨」の同一性

 では、まず板倉氏が主張する「聯隊命令の要旨」の時系列の矛盾から検討したよう。

 板倉氏が取り上げている命令を時系列に並べると以下のようになる。

 予め説明しておくが、歩66第2大隊は当時、歩66連隊本部の指揮から外れ、予備隊として第114師団の直接指揮下にあった為、第114師団司令部より直接命令を受ける立場にあった。歩66連隊本部より先に、歩66第2大隊の作戦命令が発令されているがこの点には矛盾はない。

 上記4つの命令の中で、第114師団が最も上部組織であるので、13日20時に発令された 一一四師作命第六三号が基点となる命令となる。先に説明した通り、この命令を歩66第2大隊は直接師団から受け  Ⅱ作命五二号を発令した。歩66連隊本部は歩兵第127旅団を経由して命令を受け 歩六六作命甲第八七号を発令したと考えられる。
 ところが、第1大隊戦闘詳報に書かれている聯隊命令の要旨もまた、師団命令一一四師作命第六三号に基いて発令された内容となっている。つまり、時系列にならべて見ると、基点となる師団命令より8時間も前に聯隊命令の要旨を受領しており、板倉氏が主張するように発令時間と順序が矛盾していることは明白だ。

 ところで、問題となる聯隊命令の要旨(13日12時受領)と歩六六作命甲第八七号(13日23時発令)の内容を比較すると、若干の字句の差はあるものの内容としてはほぼ同じものであることが分かる。2つの命令の内容を比較してみよう。

聯隊命令の要旨歩六六作命甲第八七号
師団は南京城内の敵を掃蕩したる後明十四日城内東南部及其附近に宿営すイ、師団は南京城内の敵を掃蕩したる後明十四日城内東南部及其附近に宿営す
旅団は明十四日本日掃蕩せる区域内に於ての方法院南側を東西に通する頼楼以北の地区に宿営す旅団は明十四日本日掃蕩せる区域内に於て方法院南側を東西に通する道路(頼楼以北の地区に宿営す
聯隊は希望街(二万五千分の一市政府北側を東西に通する道路以北の地に宿営せんとすロ、聯隊は希望街(二万五千分の一地形図市政府北側を東西に通する道路以北の地に宿営せんとす
歩兵第百弐聯隊は該市街以南地区に宿営す(旅司、旅団予備隊は同地に宿営す)歩兵第百弐聯隊は該市街以南地区に宿営す(旅団司令部及旅団予備隊も同地に宿営す)
聯隊砲及歩兵砲中隊は明十四日午前現宿営地を発城内に至り別に宿営する地域に移宿すハ、聯隊砲中隊及歩兵砲中隊は明十四日午前現宿営地を発城内に至り別に指示する区域に移宿すへし
※聯隊長注意事項、参謀注意事項、経理部注意事項、兵器部注意事項、副官部注意事項が続く※注意事項の記載なし
は比較対象に存在しない文字、は比較対象と異なる文字
※防衛研究所資料閲覧室に保管されている原本のコピーを基としているので、『南京戦史資料集1』p566-568の記述と一部異なる部分がある

 両命令の主な違い次の通りとなる。

  1. 聯隊命令の要旨では「イ……、ロ……、ハ……」という段落分けがなされていない。命令形式としては、段落分けされている歩六六作命甲第八七号の方が、一般的な命令形式といえる。
  2. 聯隊命令の要旨の記述には省略が多い。「旅団司令部及旅団予備隊」を「旅司、旅団予備隊」としている点などは顕著な事例といえるだろう。
  3. 聯隊命令の要旨には命令本文の後に、各部より注意事項が記載されているが、歩六六作命甲第八七号には注意事項の記載がない。
  4. 時刻の記述だが、聯隊命令の要旨は戦闘詳報の文で「七、午後零時左記聯隊命令ヲ受領ス」と記述されているのに対し、歩六六作命甲第八七号では命令文中に「十二月十三日午後十一時〇分」と記述されている。命令形式としては歩六六作命甲第八七号の方が一般的である。また、聯隊命令の要旨が受領時間に対し、歩六六作命甲第八七号は発令時間である。

 この様にいくつかの違いがあるものの、命令本文の内容は一致しているといえるだろう。
 歩六六作命甲第八七号に記されている「下達法」には「先つ要旨を各別に下達し次て命令受領者を集め口達筆記せしむ」と書かれている。
 これらの事実から考慮すると、聯隊命令の要旨歩六六作命甲第八七号の事前・予備的に伝達された要旨だったということになる。

「聯隊命令の要旨」の受領時期

 聯隊命令の要旨が、歩六六作命甲第八七号の事前に伝達された要旨命令であるという考え方の最も大きな問題点は時系列の矛盾にある。戦闘詳報の記述では、聯隊命令の要旨は、歩六六作命甲第八七号の11時間以上も前に発令していることになっているからだ。 そこで、第1大隊戦闘詳報に書かれている聯隊命令の要旨の受領時間「(13日)午後零時」が、本当に正しいものなのか命令文の記述から検討したい。
 まずは、聯隊命令の要旨に記されている日付に関する記述を抜き出してみた。

命令本文
明十四日城内東南部及其附近に宿営す
旅団は明十四日本日掃蕩せる…

聯隊長注意事項
砲及歩兵砲中隊は明十四日午前現宿営地を進発…
昨十三日午前十一時三十五分南門楼上に於て…

参謀注意事項
十五日頃入城式十六日頃慰霊祭を実施せらるゝ予定…
…大隊長代理の引率を以て十四日午後徒歩を以て…
大行李案内の為十四日午前九時迄に案内者を…
又十四日午后五時迄に宿営地に…

兵器部注意事項
十四日の弾薬補給時間は…

副官部注意事項
大行李は明十四日諸隊の位置に…
各隊は弾薬を明十五日夕迄に南門外広場に…

 抜き出した記述には、12月13日を「昨十三日」、12月14日を「明十四日」、12月15日を「明十五日」と表現している。この表現に基くならば、聯隊命令の要旨が12月13日の夜更け、日付が変わる直前に発令されたと推測できる。
 なぜならば、13日の出来事については夜が更けたことで当日でありながら「昨日(昨十三日)」という表現になり、14日については現時点を13日とする認識に基き「明日(明十四日)」という表現になる。15日については現時点を13日から日付が変わって14日と認識として「明日(明十五日)」と表現したと考えることが出来るからだ。いずれの表現も、13日の夜更け、日付変更の直前という時点であれば、現実的に許容できる間違い(勘違い)の範囲だといえるだろう。したがって、この聯隊命令の要旨が13日の夜更け、おそらくは日付の変わる時間に近い時点に発令されたのだと推測できるのである。

 そうなると、第1大隊戦闘詳報に書かれた命令受領時間「(13日)午後零時」は不正確なものと言えるだろう。上述の聯隊命令の要旨歩六六作命甲第八七号の関係性や、歩六六作命甲第八七号が13日23時という日付の変わる時間に近くに発令されたものであることを考慮するならば、聯隊命令の要旨が発令されたのは、戦闘詳報に記された「(13日)午後零時」ではなく、一一四師作命第六三号が発令された20:00から、歩六六作命甲第八七号の発令された23:00の間と推測することが出来る。

時系列矛盾の原因

 では、なぜこのような誤った記述がなされたのだろうか?板倉氏は、この「誤った記述」という事実をもって、戦闘詳報は作為的な操作がなされた可能性があると主張するのだから、この点の説明も重要なポイントといえるだろう。そこで、この第1大隊戦闘詳報が作成された状況を確認したいと思う。

 南京後略戦における戦闘詳報の作成に関して、次のような資料が残されている。

西沢弁吉著『われらの大陸戦記』(歩66第3中隊長)
(12月)三十一日晴れ、今日は年取大晦日。郷里なれば年越し金の心配は家長の任務、戦地は金はいらない、官給品で衣食、住は民家を勝手に使う、衣食住の心配がない代り命がけだ。
軍は戦斗詳報作成の為め昨日より暮れも正月も返上して戦いの結果を総まとめにかかる。通達次々と発せられる。

西沢弁吉『われらの大陸戦記』(1972年)p.92

 西沢の記述によれば、この戦闘詳報が作成されたのは戦闘が終わってから二週間以上も経過した時期だった。第114師団は、南京が陥落して2~3日後には杭州方面に転進する命令を受け、その隷下の部隊は順次南京を発っていたという事情があって、戦闘詳報の作成が遅れたものと考えられる。

 また、第1大隊戦闘詳報の作成に関しては、次のような証言も存在している。

小宅伊三郎曹長(第4中隊第1小隊長代理)の証言
大隊の戦闘詳報は、一刈さんがたおれ、まともなのは渋谷(大隊副官)さんだけです。渋谷さんは実際の指揮を取っており作戦の責任者ですが、戦闘詳報をどうするという時間はなく、また、大根田副官は実戦の経験から考えて戦闘詳報について詳しくありません。ですから素人ばかりの大隊ではまともな戦闘詳報はなかったと思います。

阿羅健一「城塁・兵士たちの南京事件」第19回(『丸』1980年7月号、P213)

 小宅曹長は当時、歩66第4中隊第1小隊の小隊長代理を務め、手塚清第4中隊長が負傷した後、替わって第4中隊を指揮したという。「城塁・兵士たちの南京事件」では、当時の第1大隊の様子を非常に詳しく証言している。
 小宅曹長が証言しているように大根田陵少尉の戦闘詳報に対する知識が少なかったかどうかは即断できないが、一方、第1大隊の戦闘詳報を書くにあたって、担当将校の不在により混乱があったことは十分に考えられる。

 これらの資料からすれば、戦闘詳報を作成したのは戦闘が終了した2週間以上も後のことであり、かつ、大隊の幹部の多くが存在せず、戦闘詳報を作成する担当者も居らず、戦闘詳報の作成に混乱があったといえるだろう。

結論

 板倉氏は、命令の時系列の矛盾を主要な根拠として、戦闘詳報の改竄の可能性を強調した。しかも、その理由として、捕虜殺害という戦争法規違反行為を隠蔽するためだと推測するのである。

 しかし、捕虜殺害という行為が問題視されるのであれば、それが第1大隊が勝手に行ったものであろうと、歩66本部からの命令であろうと(もしくは旅団命令であろうと)問題性に差はない。捕虜殺害が問題視されるならば、当然、命令系統を調べることになるだろう。そうなれば、もし戦闘詳報の記述を改竄していたするならばすぐに露見してしまうだろう。捕虜殺害という行為が問題であるならば、命令を捏造するなどという無意味で遠回りな方法をとらず、その行為自体が存在しないことにすれば良いのである。

 板倉氏が時系列の矛盾を指摘した聯隊命令の要旨は指摘の通り矛盾したものであるが、一方で、12月13日23時に発令された 歩六六作命甲第八七号の事前に伝達された要旨命令であることが、その内容の照合から確認できた。また、当時の戦闘詳報作成の状況は、戦闘が終了してからだいぶ経った時期に作成されており、本来の戦闘詳報担当者の不在などから作成に混乱が生じていたと推測できる。
 以上のことを考慮するならば、聯隊命令の要旨を受領したのは、戦闘詳報に記述されている「午後零時」ではなく、一一四師作命第六三号が発令された13日20時から、歩六六作命甲第八七号が発令された23時の間だったと考えるべきである。しかし、第1大隊本部は大隊長をはじめとする負傷後退により戦闘詳報の作製に混乱が生じ、その為に単純な記述ミスが起きたと考えられる。捕虜殺害命令を捏造したり、命令発令時期を操作するという違法行為を行なったとする板倉氏推測よりも、現実的な考え方だろう。

 命令の時系列の矛盾は気付いたにもかかわらず、聯隊命令の要旨が甲八七号と同一内容であることに気付かなかったというのも不思議である。捕虜殺害命令を捏造されたものとする「結論ありき」の研究だった”可能性も否定できない”のだろうか。

1.はじめに [前ページ]2.「聯隊命令の要旨」時系列の矛盾[次ページ] 3.「捕虜監視」命令の矛盾

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