戦 数

信夫淳平『戦時国際法講義 第二巻』(丸善、1941年) pp.272-283

(八)戦時無法主義
二一二 最後に第九には----その軽重を以て論せば順位は或は第一とも言へるであろう----帝政時代の独逸の軍憲に依りて唱道せられ、独逸の一部の国際法学者に依りて賛和せられたる『戦時無法主義』を挙げざるを得ない。戦時無法主義の原語は Kriegsraison は、直訳すれば戦理で、我が立博士は之を戦数と訳される。仏語では多くは之を直訳的に Raison de guerre といひ、英語には Rationale of war, Argument of war, Necessity of war, Casnistry of war, Military necessity, Military expediency 等の訳語がある。戦理戦数孰れも原語に忠実なる訳語であらんが、若し原語に拘泥しないで直ちにその意味を命題の上に表はし得るやうな文字を求むるならば、戦時無法(法を無みする)主義とでもいふのが最も適切であるまいか。以前は講者は同じ趣意で戦時変法主義といふ命題を用ひたが、変法よりも無法の方が一層適切ならんと思ひ、今日では後者を用ゆる。

その要旨
二一三 戦時無法主義の要旨を一言にして言へば、戦時遵守すべき交戦法規として一般に認定せられてある所のものも軍の必要又は便宜の前には之を無視して可なりといふに帰着する。交戦法規は国際法に発せる les gcipta ではなくして、畢竟功利主義に出でたる申合に過ぎず、その遵守に何等制裁の存するものでなく、作戦上遵守するを不利と見ば遵守せざるも可なりで、ただ報復を受くる懸念から守る者は之を守るに過ぎずと説く。これが戦時無法主義の根本思想である。
  この思想は元と古諺の『乱生じ法黙す』に胚胎し、更に之を培養するにダルウィンの進化説を以てし、固むるにヘッケル(Ernst Haeckel 1834-1919)のそれを以てした。即ち普通動植物に於ける自然淘汰の原理をその儘冷かに国際競争の上に当嵌め、適者として生存せんとせば如何なる手段を執るも妨げずとの鉄則の下に国家存立の根本要義を立てたる一種の政治哲理と抱擁せしめ、更に換骨奪胎して之に刑法の緊急避難行為を説明する謂ゆる必要事態若くは必要法則(Notstand, Notrecht)の法理を加味し、移して之を国際法則に適用したものである。刑法では緊急行為を必要防衛(Notwehr)と必要事態(Notstand)の二つに類別する。即ち正当防衛と緊急避難である。独逸の国際法学者は緊急事態に由る行為とは正当防衛が違法の侵害を排斥する行為たるに相対し、無害の第三者を侵害するを得る所の権利なりと説く("Die Notstandshandlung die Rechte unschuldiger dritter Personen verletzt, wahrend die Notwehr einen unberechtliehen Angriff zuruekweist"----Encyclop. der Rechtswissenshaft, 1904, U, p.261)。そこで彼等はこの法理を国際法の上に移し、国家の自衛行為は侵略者ありて即ち之に対し権利を行使するものなるも、緊急事態行為は、苟も国家がその主観的判断にて緊急事態に面すと認むる場合には、他国の権利利益を侵害するも、条約上の義務を無視するも、更に妨げずと見る。必しも国家自衛のためではなく、消極的に侵略者に対抗するのではなく、単に緊急事態の名の下に積極的に国際法規を破壊するも可なりと見るのである。独逸が第一次大戦の発端に於て白耳義の中立を侵害したのも、この理由に於て弁解せられた。同じ理由は戦場に於ける交戦法規違反にも援用せられ、軍事上の必要----必要ならば未だしも便宜----の前には任意之を無視するを妨げずとの信念を生ぜしめた。これが戦時無法主義である。

力と必要が生める一驕児
二一四 戦時無法主義は力の礼賛と必要の絶対観との間に生れたる一驕児である。由来英語の法律(law)と権利(right)とはその観念を別にするが、欧大陸にありては多くはそれが同意義に用ひられる。Droit といひ Recht といひ、孰れも法律と権利を同時に言表はす語である。大陸派殊に仏学派の法律の基礎観念を作すものは自由及び平等で、英米派の信条を支配する歴史的伝統の観念は、自然法的抽象論を主とする仏学派には重きを成さない。平たく言へば、仏学派の法律思想の基礎たるものは一方には自然法、他方には自由平等の観念なるが、之に相対する英米派のそれは一方には歴史、他方には自国の利害で、そこに調和し難き二つの思潮が認められる。而してこの相容れざる両思潮は、国際法の基礎観念の上にも必然現はれる。国際法を以て文明国間の行為を律する法則と為す点に於ては両学派共に大体一致するが、しかも大陸派にありては先づ国際法上の権利なるものを考へ、次にそれを具体化する所の法則を案出せんとする。之に反し英米派にありては、先づ国際法上の法則たるべきものを考へ、然る後該法則に依りて認めらるべき権利のことに及ぶといふ風に、国際法上の両対象を取扱ふ先後の順序にも自然相違が認められる。
  然るに同じ大陸派にありても、独逸学派は抽象理論より極端なる現実主義に転化した。独逸学派も歴史を尚ぶことに於ては英学派に劣らないが、独逸学派の歴史の執着は、転じて既成事実を過度に重んぜしむるの風を致した。独逸は力に依りて国を建てた。この歴史は力を既成事実として、理論をそれから編み出さしめる。仏学派の法の基礎観念は自由平等の理論にあり、英米派のそれは歴史の伝統にありて、共に長所はあるが、同時に一条の欠陥もその中に存する。その欠陥を独逸は力の観念を以て補填した。而して之に謂ゆる必要の絶対観が抱擁した。戦時無法主義は即ちその間に生れ且成育したものである。

この主義の宣伝者
二一五 戦時無法主義を率先力説したる先覚者は、蓋し前章に披露したる普魯西の兵学家クラウゼウヰッツ将軍であらう。十九世紀の初葉、伯林の陸軍士官学校の歴史の教官にアンション(Jean Pierre Frederic Ancillon, 1767-1837)といへる仏人系の普魯西の歴史家があつた。彼は十九世紀の初めに『十五世紀末葉以降の欧州政体革命記事』(Toblean des Revolutions du Systeme Politque de Europe depuig la fin du XV Siecle.)と題する一書を著し、中に於て戦の礼賛論を提唱した。彼と時を同うして同校を主宰せるクラウゼウヰッツは、着想を彼の所説に獲、乃ち之を紹述して一種の戦争哲学に筆を執り、稿漸く了らんとするに及んで一八三一年に他界した。そこでその翌年、遺稿として世に出でたものがクラゼウヰッツの『戦論』(Vem Kriege)である。彼は同書に於て、世の博愛家や人道論者の唱ふる文明式交戦法を嘲罵し、

『交戦法規なるものは自ら課したる制限に過ぎず。之を法規と称するが如きは不可解であり、且無価値である。世の人道論者は動もすれば言ふ、大なる流血を見ずとも敵を挫くの妙法なきに非ざるべしと。この論一見聴くべきに似たるも、深く考ふれば謬論たることが判かる。戦といふが如き冒険の事柄にありては、仁慈主義より発する誤謬ほど禍の大なるものは無い。……戦の哲理そのものに抑制主義を加味せんとすること既に不合理である。戦は一の暴力行為で、その実行に方りて制限あるべき所以を知らず。』(Vom Kriege, 1, kap.1)

と論断した。
  クラウゼウヰッツのこの論旨を祖述したる者には、普仏の役に騎兵大将として勇名を馳せたるハルトマン将軍(General Julius von Hartmann)、及び伯林次ではミュンヘン大学の法律学校教授ホルツェンドルフ(Dr, Franz von Holtzendorlf, 1829-89)がある。ハルトマンは一八七七・八年の交、伯林の一雑誌に『軍事的必要と人道』と題する長論文を連載し、是より先きブルンチュリの『成典国際法』に於て説ける比較的に人道主義に立脚せる害敵論に痛撃を加へ、作戦上には何等人道的斟酌を加ふるの要なし、人道などいふものは、戦時単に交戦の目的の迅速なる達成を妨げざる範囲に於てのみ認むれば足る』といふ趣旨を縷述した("Militarische Notwendigkeit und Humanitat," Deutsche Rundschau, XIII-XIV)。ホルツェンドルフもその著『国際法提要』に於て『軍の指揮官が必要と認むる場合には蹂躙、焚殺、破壊等を全部落、全地域に行ふも妨げなく、特に敵の前進を不可能ならしめんがため、又は敵をして無謀の続戦の不利を悟らしめんがためには如何なる違法行為を為すも妨げず』と断じた(Holtzendorff, Handbuch des Volkerrecht IV, SS 65-6)。孰れもこれ該主義のために万丈の気焔を吐いたものである。

独逸『陸戦慣例』の指導原理
二一六 斯の如くにして戦時無法主義は、帝政時代の独逸軍憲の頭脳を深く支配するに至つた。一八八〇年オックスフォードにて開会の万国国際法学会に於て議定したる陸戦法規案の写を当時ブルンチュリが独逸参謀総長モルトケ将軍に送致するや、将軍はその好意を謝せる挨拶の書簡に於て之に対する所感を開陳したるが、中に曰ふ。『戦の最大の恩恵は能ふ限り迅速に之を終局せしむるにある。この目的のためには、明確に排斥すべきもの以外の凡ゆる手段は之を用ゆるを得るものと言はざるを得ない。予は敵の兵力を弱むることが交戦の唯一の適法手段なりと言へる聖彼得堡宣言に毫も同意を表すべき所以を知らず。いや、戦時とならば敵国政府の総ての資源に向つて攻撃を加へざる可らず。敵国の財産、鉄道、凡ゆる軍需品は勿論、敵国の威信そのものも亦攻撃の目標とせざる可らず』と(Holland, Letters, p.26)。これ実に旧独逸軍部の戦の観念を代表したる鉄言である。乃ち旧独逸参謀本部が右の主義を基礎として編纂し、一九〇二年に刊行したる『陸戦慣例』("Kriegsbrauch im Landkriege")----交戦行動は国際法や条約の如何に頓着なく専ら本令に準拠すべしと部内に令達したるもの----の開巻第一にある長文の総則は、能くその右の観念を敷衍し、戦時無法主義の意義を解説したる重要の文書で、要旨は左の如くである。

『交戦国軍隊は開戦と同時に「交戦状態」と称する特定の相互関係をその間に生ず。この関係は当初は両交戦国軍隊の各員のみに属するも、一たび国境を踰ゆると共に敵国内の占領地住民の総てに亘り、終には敵国及びその市民の動産不動産にも及ぶものとす。
『交戦状態には能働的と受働的との区別あり。能働的とは両交戦国の現実の戦闘機関即ち軍隊を構成する人々、並に交戦国を代表する首脳及び指揮者の間の相互関係にして、受働的とは敵国軍隊とその住民即ち軍隊との自然的結合の結果として現実の交戦に予り、随つて受働的意義に於てのみ敵人と認めらるべき者との関係なりとす。更にこの中間に立ち、軍隊には属するも現実の交戦に予らず、単に戦場に於て或程度の平和的任務に従軍する者あり。軍隊付の牧師、医官、看護卒、篤志看護婦、酒保人、新聞通信員等之に属す。
『近代の戦の観念に依れば、戦は専ら両交戦国所属員の間に係るものとしてあるも、軍の占領地に在住の敵国人は、交戦状態の自然的結果として蒙るべき負担、制限、犧牲、及び不便を免かるる能はざるものとす。渾身の努力を以て従事する戦は、独り敵国の戦闘員及びその占むる位置に対して行ふのみにては足らず、併せて敵国の精神的及び物質的の全資源の破壊に向つて均しく力を注がざる可らず。生命財産の保護といふが如き人道的要求は、戦の性質及び目的の許容する範囲に限り之を商量に加ふべし。
『故に交戦国は戦時には法を無みし、苟も交戦の目的を達するに必要なる一切の手段は之を行ふに妨げなきものとす。然れども之を実際に照し、交戦の或方法に制限を加へ、或方法を全く放棄して用ひざることを自国の利益に顧みて寧ろ得策とすることあり。仁侠的精神、宗教的思想、高尚の文明、殊に己れ自身の利益の考慮等は、各国をして任意且自発的の制限を加へしむるに至り、各国及びその軍隊は今日その必要を黙認し、伝統的に神聖視せられ来りたる侠勇的習俗は化して今日幾多の協約となれり。交戦慣例(Kriegsbrauch, Kriegssitte, 若くは Kriegsmanier)と概括的に称するもの是れなり。この類の慣例は古来各国の文明程度に依り必しもその揆を一にせず、且時代と共に種々変化を受けしも、往古既に存せしを認むべく、不文の儘今日に伝はりて依然遵守の力を有するものあり。
『交戦上に一切の手段を使用することに対しこれ等の制限を加へ、依つて以て交戦方法を人道化することの現に今日文明各国に依りて洽く承認せらるるの事実は、十九世紀以降各国をして、更に歩を進めて之を一般に拘束力ある交戦法規と為さしめんと企図せしむることあるに至れり。然れどもこの企図は、既往若干の例外ありし外概ね失敗せり。故に以下本篇に於て交戦法規と称する所のものは、国際協約に依り定まれる何等成文の法規を意味するに非ずして、単に任意の便宜的制限たるに止まるものと知るべく、その遵奉は何等公認の制裁あるが故に非ずして、ただ報復の恐怖が之を決するものたるに過ぎず。……
『将校は時代の産物にして、随つて自国人を左右する所の精神的傾向に従はざるを得ず。戦の真個の性質に関し誤解を有するよりして招くが如き危険は、慎慮して之を避けざる可らず。之を避くるの道は、戦そのものを充分に理解するにあり。将校たる者深く戦史を攻究すれば、過度の人道主義の却つて危険なること、或程度の峻厳は戦に避け難きものなること、いや真個の人道なるものは却つて無斟酌に峻厳を加ふるに在ることを覚知するを得べし。交戦の方法は如何にして起り、如何にして慣例として発達したるかの歴史、並に現下行はるる慣例の得失、当否、及びその取捨如何を識別するには、予め戦史を究め且近代の国際的及び軍事的推移を知ること固より必要なりとす。本篇は即ちこの目的に資せんがため編述せられたるものなり。』(Morgan's Eng. trans., pp.51-55)

即ち要は、凡そ戦時には戦に勝つを唯一の目的とすべく、この目的を達成せんがためには、平時に恕すべからず手段も当然正当視せられる、平時の規約取極等は宣戦と同時に一切消滅する、といふのである。戦は敵国の精神的資源の破壊に向つても均しく力を注がざる可らずといふは、敵国の非戦闘者の頭上にも砲弾爆弾を浴びせ、婦女老弱をも震駭恐怖せしめ、抵抗継続の危機極りなきを覚らしめて彼等を講和の哀求に促がさしむるが如き一切の手段をも意味するものである。尤も蹂躙、焚殺、破壊の如き、如何なる場合に於ても差支なしといふのではなく、或場合には之を違法とする。その場合とは敢て之を行ふの必要なき場合である。故に反対に、如何なる暴挙兇行でも、苟くもその必要あらば、即ち軍隊の指揮官に於て之を行ふことが作戦上必要----実際的には便宜----なりと視る以上は、之を行ふに毫も妨げなしといふのである。交戦方法の適法なると違法なるとを決するの標準は、全然人道観に存せずして一に必要又は便宜如何にある。苟も敵に勝つに必要と視ば、如何なる手段方法にても恕せられる。而して之に依りて能く敵に勝ち、早く戦局を収拾し得るならば、それだけ則ち人道主義に副ふ所以なりと説く。戦時無法主義の概念は大体叙上の如きものである。
交戦の諸法則の遵守性も、戦時無法主義の下にありては、謂ゆる『軍事的必要』の濫用に依り殆ど若くは全然期待するを得ない。他なし、交戦法則に遵由すれば作戦の成功を妨ぐと指揮官に於て認めたるときは随意之に遵由せざるも可なりと為すからである、斯くては一切の交戦法則は全然存在するの余地なきことになる。作戦の成功を妨ぐるを気遣ふのと軍の安全を害するを慮るのとでは、その間の霄壤の差がある。軍の安全は絶対必要で、これは交戦法則の総ての要求に超絶する。故に両者相抵触すれば、前者は後者に当然優先すべく、随つて軍事的必要の名に於て交戦法則の要求を凌駕することは必然肯認せられる。然しながら軍の成功を妨ぐるといふにありては、これも程度に依ることではあるが、単に成功を期する上に於て不便であるからといふ位では、以て交戦法則の無視を正当化せしむる理由にはならぬのである。けれども戦時無法主義は両者の間に区別を立てず、総て交戦法則を無視するを得るの理由と為さるるのである。ウェストレークは戦時無法主義の基礎観念とする必要なるものをば『作戦の必要に非ずして成功の必要のみ。』(Westlake, H, p.128)と評せるが、まさにその感なきを得ない。

国際法そのものを否認するに同じ
二一七 独逸の帝政時代の軍憲の間に専ら唱へられたる『戦時無法は戦時法則に前行す』(Kriegsraison geht vor Kriegsmanier)の格言は、つまりは戦時無法主義の雰囲気中に発育したる一信条に外ならない。帝政時代の独逸の交戦観念の下にありては、交戦法規即ち Kriegsrecht は二つの部門より成立する。一は Kriegsmanier で、即ち交戦行動の上に特定制限を認むる所の法則である。他の一は Kriegsraison で、即ち交戦の法則に依る制限に遵由することが作戦上不利であり、交戦の目的を達する上に於て面倒なりと視ば、作戦上の必要といふ見地よりして之を無視するも可なりと為す所の信条である。是に於てか Kriegsraison は Kriegsmanier に前行すと為して両者の間に軽重の差を立てた。これが右の格言の意味である。平たく言へば、作戦上の要求の前には如何なることを為すも可なりと視るのである。追て説く如く陸戦法規慣例規則第二十二条には『交戦者ハ害敵手段ノ選択ニ付無制限ヲ有スルモノニ非ズ』と明規してある。戦時無法主義は明かにこの規定を否認するものである。勿論国家自衛のため絶対必要なる行為は不法のものと雖も寛恕せらるること国際法の一般的原則の承認する所である。けれども、そは真個絶対の必要の場合に就て言ふべきで、名を必要に藉りて如何なる不法行為も之を演ずるに妨げずと言ふべきでない。法律は畢竟斯かる必要の濫用を牽制せんがために存するのである。然るに戦時無法主義は自衛と単なる作戦上の利益若くは便宜とを混同し、苟も軍隊指揮官の判断にて普通の交戦法則を遵守することが作戦上不利なりと見ば、之を必要に藉りて全然之を無視するも可なり、といふ広汎且不当の原則を設定したのである。随つてこの主義の論理的結論は、作戦上の利益の至上主義となり、国際法そのものを非認するに至らずんば已まない。戦時無法主義の無制限的適用は、海牙平和会議を促したる一般的精神に正反対なるのみならず、前掲の陸戦法規慣例規則第二十二条を根本的に覆へすものである。一方に於ては国際法の存在を承認し、交戦法則の戦時各国を律すべき規矩準縄たることを承認しながら、他方に於て戦時無法主義といふ交戦法則の拘束力を根抵より破壊するが如き主義を認むるのは大なる矛盾で、この矛盾はまさしく戦時国際法そのものを非認すると同じである。戦時国際法の尊重を期するには、先づ戦時無法主義を根蔕から芟除するを要すべく、さもなくば百の交戦法則を立つるも無益の業であらう。

独逸には別に適法の交戦操典もあり
二一八 独逸の『陸戦慣例』の指導原理たりし戦時無法主義は概略上叙の如きものであるが、しかも独逸の軍隊は旧帝政時代にありても、逐一この主義の下に交戦の法規慣例を無視して可なりと教へられて居つたのではないやうである。『陸戦慣例』は一九〇二年の制定であるが、それより五年後の一九〇七年の海牙平和会議に於ては、独逸代表は大に交戦法則の尊重を高調した。別に説く所の同会議議定の陸戦法規慣例条約に第三条として『前記規則ノ条項ニ違反シタル交戦当事者ハ損害アルトキハ之ガ賠償ノ責ヲ負フベキモノトス。交戦当事者ハ其ノ軍隊を組成スル人員ノ一切ノ行為ニ付責任ヲ負フ』の規定を見るに至つたのは、実に独逸代表の主張に因つたものである。のみならず独逸軍隊の操典(Kriegsartikel)には、左の嘉みすべき規定もあるといふ(J. M. de Dampierre, German Imp. & Int. Law, p.151 に依る)。

第十七条 兵は戦場に於ては交戦は敵の武双軍隊に対してのみ行ふものなることを忘るべからず。敵国の住民並に傷病者及び俘虜の財産は法規の特別の保護の下に立つべく、独逸軍隊又は同盟国軍隊所属の死者の財産に就ても亦同じ。交戦中外国領土に於ける掠奪の擅行、悪意又は無思慮の損害、又は財産の破壊を為す者は厳罰に処すべし。収容物件が生活必需品、衛生材料、衣服、燃料、糧秣、及び運搬具に限られ、且現に目前の必要ある場合には、之を掠奪に問ふことなし。
第十八条 兵は自己の職責を果すため、又は適法の自衛のためにする場合に限り、その武器を使用するを得るものとす。武器の濫用は之を厳罰に処すべし。武器及び弾薬を不注意に取扱ひ、之がため何人たるを問はず之を死傷せしめたる場合に於ても亦同じ。

又ニコライ大佐及びハイン少佐共編の『野戦歩兵将校必携』(Nicolai-Hein, Der Infanterie-Leutnant im Feld, 1912)にも、同様の注意を敷衍して左の如く記せりとある(Dampierre, Ibid., pp. 153-4)

『占領地の住民は、戦敗の結果として特定の制限、誅求、及び強制手段の下に置かれ且一時その上に立つ権力に服従すべき意義あるも、之を敵として取扱ふことなきを要す。全然平和的の動作より離れ、又敵軍の命令に違反することあらば、交戦の法則に照し之を処断すべきこと勿論なるも、さもなき限り彼等の身体、名誉、又は自由に対しては危害を加ふるべからず。たとひ作戦上の必要に基き住民に課役を行ふに方りても、以上の法則には遵由するを要す。……
『私有財産は戦時に於て之を侵すなきを要す。無思慮の破壊はその種類の如何を問はず厳禁たるべし。この禁令に背いて行動する兵は犯罪人として処罰せらるべし。之に反し作戦上の必要に基き又は作戦の必然的結果として伴へる破壊は容認せらるべきものとす。私有財産とても武器、車輛、地図、殊に生活必需品等の項目に属する物は、之を徴発するに妨げなきものとす。且軍の一時的必要を充すべきもの例へば要塞、橋梁、鉄道等の建造に必要なる材料及び物件は、これ亦徴用するを得るものとす。徴発物件の所有者をして後日彼等の政府より賠償を得さしむるため、徴発を証明する領収書を之に交付すべし。如何なる場合に於ても掠奪は之を厳禁す。但し生活必需品、衛生材料、衣服、燃料、糧秣、及び運搬具の徴用は、その徴用の数量が実際の必要程度を超えざる限り掠奪を以て論することなし。敵国の国有不動産は適法に之を使用するに妨げなく、その国有動産は戦利品と為すことを得べし。但し宗教、教育、学術、技芸、博愛、及び看護用の物件はこの限に在らず。
『作戦方法の観念は既往幾たびか変遷し、今尚ほ変遷しつつあり(日露戦役に看よ)。さりながら真個の人道的行為は一見最惨酷のものたること戦史の屡々吾等の教ゆる所なるも、仁侠及び基督教の精神は如何な場合にありても以て履むべき正しき道なることを深く銘記するを要す。』

寔に以て間然する所なき一大好箴規である。帝政時代の独逸軍隊は実戦に臨んでこの好箴規を恪守すべかりしか、将た戦時無法主義の信徒として行動するに妨げなかりしか。当年の第一次大戦は、まさしくその試金石であつた。而してそれが如何にその上に証示せられたかは追々叙する如くである。