歩45 捕虜の行方⑤ 論点の検証 捕虜の殺害

歩45 捕虜の行方 第6師団
歩45 捕虜の行方
歩45 捕虜の行方 総目次
①はじめに
②戦闘の経過
③論点の検証 捕虜の数
④論点の検証 捕虜の解放
⑤論点の検証 捕虜の殺害
⑥まとめ
⑦参考資料

捕虜殺害の事例

 『南京戦史』は下関で解放された捕虜が、その後、再度捕獲され殺害されたケースがあったことを認めている。その根拠として「捕虜護送をした歩四五・富永熊雄上等兵(後第十一中隊)の証言」と前田日記をあげ、さらに劉四海証言を裏付けとしている。この中で、富永熊雄上等兵の証言に関しては史料の確認がとれなかったが、前田日記と劉四海証言は下記の通りとなる。

前田吉彦日記
十二月十五日(抄)
 江東門から水西門(城門)に向い約二粁石畳の上を踏んで行く途中この舗石の各所に凄惨な碧血の溜りが散見された。
 不思議に思いつつ歩いたのだが後日聞いたところによると十四日午後第三大隊の捕虜一〇〇名を護送して水西門に辿りついた折内地から到着した第二回補充兵(副島准尉溜准尉等が引率し、大体大正十一年から昭和四年前佐道の後備兵即ち三十七八歳から二十八九歳の兵)が偶々居合せ好都合と許り護送の任を彼等に委ねたのだと云う。やっぱりこの辺がまづかったのだね、何しろ内地から来たばかりでいきなりこの様な戦場の苛烈にさらされたため些ならず逆上気味の補充兵にこの様な任務をあてがった訳だ。
 原因はほんの僅かなことだったに違いない、道が狭いので両側を剣付銃砲で同行していた日本兵が押されて水溜りに落ちるか滑るかしたらしい。腹立ちまぎれに怒鳴るか叩くかした事に決まっている、恐れた捕虜がドッと片っ方に寄る。またもやそこに居た警戒兵を跳ねとばす。兵は凶器なりと云う訳だ、ビクビクしている上に何しろ剣付銃砲持っているんで「こん畜生ッ」と叩くかこれ又突くかしたのだね。パニック(恐慌)が起って捕虜は逃げ出す。「こりゃいかん」発砲する「捕虜は逃すな」「逃ぐるのは殺せ」と云う事になったに違いない。僅かの誤解で大惨事を惹起したのだと云う。

『南京戦史資料集1』pp.357-358

劉四海証言
 江東門(江東郷)まで来たとき、模範囚監獄の前で日本兵たちとあった。下関の日本軍に言われたとおり、劉さんら四、五十人の釈放組は白旗を見せて「投降して釈放された兵隊です」といった。
 だが、この日本兵たちは、有無をいわせず全員逮捕した。そのまま監獄のすぐ東側の野菜畑に連行された。一列に並ばされる。周りを五、六十人の日本兵がかこむ。そのうち十数人が軍刀、あとは銃剣だった。号令のようなものは覚えていない。いきなり、まわりから一斉に、捕虜の列へ銃剣と軍刀が殺到してきた。劉さんらは立ったままの姿勢で、ひざまずいたりしてる者はなかった。劉さんは、自分に向かって軍刀を両手で斬りおろす日本兵の恐ろしい形相を見たのが記憶の最後だった。

『南京への道』pp.220-222

 『南京戦史』ではこの二つの事例を同一の事件と認識している。しかし詳細に検討してみると、捕虜を殺害しているという点では一致するが、前田日記の記述と劉氏の証言では事件の状況や場所が異なる。

 事件の状況は、前田日記では第3大隊が捕虜を護送していた際のトラブルが発端で捕虜が反抗し殺害したというが、劉証言では護送されていたわけでもなく捕獲された後にすぐ殺害行為に及んでいる。

 また、事件が発生した場所は、前田日記では「江東門から水西門(城門)に向い約二粁石畳の上を踏んで行く途中」としている。
 江東門から水西門までは約3kmの直線道路が走っている。捕虜殺害現場が江東門から水西門に向かって約2kmというと、水西門から西方へ1km程度の地点となる。護送の方向としては、水西門まで捕虜を護送し、江東門から水西門に向かって約2kmの現場で殺害が行われたわけなので、水西門から江東門へ、つまり西を目指して護送されていたことになる。
 一方、劉証言では、捕獲されたのは江東門の監獄前という。西側に江東門の街がありクリークを挟んで東側に監獄が隣接するという位置関係にある。捕えられた捕虜は「監獄のすぐ東側の野菜畑に連行」というから、監獄の西側から東側へ連行されて殺害されたことになる。
 前田日記と劉証言の捕虜殺害位置を比較すると約2km離れた場所であり、連行された方角も前田日記のケースは東、劉証言は西であることが分かる。

 捕虜殺害の状況、位置関係から考えて別事件と判断すべきだろう。

秦郁彦の紹介する資料

 歩45の捕虜殺害に関しては、秦郁彦『南京事件』で「下関の釈放捕虜の運命に関わる見聞だった可能性が高い」として次の資料を紹介している。

宇和田弥市 歩兵第23連隊第1中隊 上等兵
(12月15日)今日、逃げ場を失ったチャンコロ(中国人の蔑称=べっしょう)約二千名ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に会ふ。老若取り混ぜ、服装万別、武器も何も捨ててしまって大道に蜿々ヒザマヅイた有様はまさに天下の奇観とも云へ様。処置なきままに、それぞれ色々の方法で殺して仕舞ったらしい。

朝日新聞 1984年(昭和59年)8月5日 日曜日 14版 社会面 p.22

分隊長の回想 野砲兵6連隊
「二百近い敗残兵が投降してきたのを、二十五人で引き連れて歩兵に渡すと”捕虜を連れて戦が出来るか”と一括され、数日後に皆殺しにしたと聞かされた。その前日にも三百人近い敗残兵や住民を機銃で射殺したという。老農夫をなぐり殺したシーンも見た」(『揚子江が哭いている』)

『南京事件』秦郁彦 p.155

 宇和田氏が所属していた歩兵第23連隊は当時、水西門付近に宿営していた。先に論じた前田日記に記述されている第3大隊のケースと場所が近いが、宇和田日記のケースは12月15日に発生したものに対し、第3大隊のケースは12月14日に起きたことなので別の事例と思われる。

 次に秦氏が野砲兵第6連隊の「分隊長の回想」として紹介している事例は、正確には『揚子江が哭いている』(pp.60-61)に掲載されている中川誠一郎氏(仮名)の手記「今日死ぬか、明日死ぬか」である(※1)。この手記によると時期の明記はないものの、陥落後すぐに部隊が蕪湖へ向かっている途中のことであり、部隊から設営隊を出したときの話になる。捕えた1人の敗残兵の呼び掛けで、200名近くの投降兵を得たという事情のようだ。この200名と前日に捕らえたという300名が殺害された述べられている。

 既に「③論点の検証:捕虜の数」で簡単に触れたが、この蕪湖へ向かう途中の設営隊による投降兵の捕獲というのは、歩兵第13連隊連隊中隊所属の起田清曹長手記「続々敗残兵が出て来ました」(※2)と近い内容と言える。起田手記によれば12月16日に設営隊として蕪湖へ向かう途中、敗残兵が白旗をあげて投降し、その総数は最終的に約600名となった。この捕虜は他部隊の使役として引き抜かれ、最終的に残った202名を旅団に引き渡したという。中川手記と総合すれば、これらの捕虜の多くが殺害されたことになる。

※1 『戦争を知らない世代へ53 揚子江が哭いている―熊本第六師団大陸出兵の記録』 創価学会青年部反戦出版委員会編 第三文明社 昭和54年9月5日 pp.60-61
※2 第6師団転戦実話 南京編 4/4(3) 資料内頁0822 367 PDF頁30

転戦実話に出てくる捕虜殺害事例

 歩45における捕虜殺害事例に関しては『転戦実話』にも表れている。

座談会記
(歩四五 Ⅱ・六)(抄)
鞍掛軍曹
掩蔽壕の中の敵を次々と引ぱり出して斬つてゐるうち 突然轟然と音がしました
敵兵が自ら手榴弾を以て爆死したのでした

『第6師団転戦実話 南京編 3/4(1)』資料内頁0506 60 PDF頁43

 短い記述ではあるが、実体験を記述したものであり史料価値は高いと思われる。この記述からは時期・場所・規模は不明だが、前田日記に記されたようなトラブルで殺害された事例だけではなく、戦場で捕虜殺害が行われていたことが窺える。また、このような国際法に反する捕虜殺害の記述が、師団レベルで作製された文集にでさえ掲載されるという、当時の日本軍における国際法規範意識の低さを如実に表す事例と言える。

歩45連隊長の証言

 日本軍の国際法規範意識の低さに関しては、当時、歩45連隊長だった竹下義晴氏が戦後に残した証言も参考にできる。

竹下義晴(たけした・よしはる)元陸軍中将(K-K註:南京戦当時は大佐)
◇軍紀がたるみ、南京占領後に牛島満旅団長は「火の仕末をしっかりやれ」と連隊長の私へ繰り返したが、私が大隊長に伝えても、さっぱり効き目がない。当時の風評では「中支を全部焼き払えと軍司令官が言っているのに、連隊長は知らないのか」という反応で、不軍紀には困りはてた。

秦郁彦『実証史学への道』p.215

 当時の部隊内における「風評」もさることながら、この様な風評に対して指揮下将兵の行動を統制できていなかったという実態と、部隊幹部に部隊の風紀を厳正に取り締まるという意識が欠如していた状況が窺える証言である。


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