歩45 捕虜の行方② 戦闘の経過

歩45 捕虜の行方 第6師団
歩45 捕虜の行方
歩45 捕虜の行方 総目次
①はじめに
②戦闘の経過
③論点の検証 捕虜の数
④論点の検証 捕虜の解放
⑤論点の検証 捕虜の殺害
⑥まとめ
⑦参考資料

第6師団 南京戦の戦闘経過

 本稿で取り上げる歩45は第6師団に所属している。第6師団の編成は、歩兵部隊は歩兵第11旅団(長 坂井徳太郎少将 所属連隊=歩兵第13連隊・歩兵第47連隊)及び歩兵第36旅団(長 牛島満少将 所属連隊=歩兵第23連隊・歩兵第45連隊)、それに加え騎兵第6連隊、野砲兵第6連隊、工兵第6連隊、輜重兵第6連隊などで構成されている。

第6師団 部隊編成
第六師団直接防御陣地攻撃経過要図

 南京城攻略戦における第6師団の全般的な戦闘経過は次のようになる。なお、本項は主に『南京戦史』、「第六師団 戦時旬報 第十三、十四号」に基いて記述する。

 第6師団は第114師団と共に南京城外南部地域を並走する形で北上していた。西側(左翼)を第6師団が、東側(右翼)を第114師団という配置となる。
 第6師団では、左翼隊を第36旅団(長 牛島満少将)、右翼隊を第11旅団(長 坂井徳太郎少将)と配置していた。歩兵第45連隊は、主力となる第2・第3大隊は左翼隊、第1大隊は師団予備隊として右翼隊に配置されていた(後に一部は連隊に復帰)。

第6師団 戦闘経過要図

 攻撃経過は次のようになる。第6師団は、12月12日払暁(夜明け)から南京城南城壁への攻撃を開始する。南城壁の攻撃は中央にある中華門を中心として、東側を第6師団、西側を第114師団が担当した。この時の第6師団所属の歩兵連隊の攻撃目標は、歩兵第13連隊は中華門、歩兵第47連隊は中華門から城壁西南角まで城壁、歩兵第23連隊は城壁西南角、歩兵第45連隊は南京城外西部地域(上河鎮・江東門方面)となっていた。

 城壁の戦闘は砲撃による城壁破壊口を突撃路として、12月12日14時40分に歩兵第23連隊第9中隊が城壁西南角の城壁上部を占領し、同夜1時00分(12月13日)に歩兵第13連隊第2中隊が中華門の上部を占領した。各部隊は12月13日朝より城内西部の掃討をしつつ北上し、五台山、清涼山に達した。また、歩兵第23連隊第3大隊は城壁西側外周を北進し、12月13日8時30分水西門を占領し、一部を城内に進め掃蕩を実施した。

歩兵第45連隊の戦闘経過

歩兵第45連隊 戦闘経過

 南京城外西部地域を北上していた歩兵第45連隊主力(第2・第3大隊)は、12月11日11時45分、棉花地(何庄)附近で布陣する中国軍(掩蔽機関銃6)と戦闘になり、19時に中国軍を退却させ、同地に露営する(独立山砲兵第2連隊戦闘詳報、以下「2BAS戦闘詳報」とする)。なお、『南京戦史』では12月11日夜明け前に棉花地に到着としている。
 12月12日時点における歩45主力の攻撃目標は水西門であり、第3大隊は上河鎮→江東門を経て水西門へ、第2大隊は所街→江東門を経て水西門へ、それぞれ進攻する予定となっていた。ところが、12日21時の命令で水西門攻撃は中止となり、第2・第3大隊は江東門を経て下関へ進攻することになった。水西門攻撃は先述の通り歩23第3大隊が担当することとなる。師団予備隊だった第1大隊は、13日夕方に連隊に復帰(第2・第3中隊)し、14日から戦闘に参加している(2BAS戦闘詳報、歩45第中隊陣中日誌)。

第3大隊の戦闘経過

 12月12日、第3大隊は前衛として上河鎮へ前進、午前に上河鎮南側で戦闘となり、その後、上河鎮北端に向かい前進する(2BAS戦闘詳報)。なお、前田吉彦日記(歩45 第7中隊所属)では上河鎮での戦闘開始は11日夜半としており、『沖縄軍司令官牛島満伝』(牛島満伝刊行委員会、春苑堂書店、1972年)では上河鎮の戦闘は11日から12日21時頃となっている。

 2BASが12日21時に受領した歩45の命令では、第3大隊は一部をもって北河口を経て揚子江沿いに北進し、主力をもって上河鎮を経て江東門に前進することを命じられる。北河口方面には第11中隊及び2BASの1個分隊(高橋中尉指揮、砲1門)が向かう(2BAS戦闘詳報、南京戦史)。北河口方面の戦闘経過は後述する。

南京攻撃 江東門附近戦闘経過要図
原田鶴吉『自昭和十二年十月 至昭和十五年九月 原田部隊 戦記』より

 13日午前6時、第3大隊主力に後続していた2BAS主力は江東門に到着する。2BAS連隊長は竹下支隊長(歩45 長・竹下義晴大佐)と会い、既に第2大隊が前衛として下関へ出発したことを知る。その後、第3大隊主力・2BAS主力は中央軍人監獄西端で中国軍約3000との遭遇戦となり、1000以上の損害を与え撃退する(2BAS戦闘詳報)。

 この遭遇戦の模様は『第六師団 転戦実話』掲載の久保園茂手記、西盛義手記(共に歩45第3機関銃中隊)が詳しい※。これらの手記によれば、12月13日未明、濃霧の中、江東門監獄付近で中国兵と遭遇戦となり、歩兵砲小隊長・岩間少尉戦死、第9中隊長・前川大尉重傷を含む大きな損害を受ける。戦闘は午後1時頃まで続いたが、中国軍を撃退した。
第6師団 転戦実話 南京編3/4(1)
久保園茂(歩45 第3機関銃中隊 軍曹)「退却の敵を撃つ」(資料内頁0495 49 PDF頁32~)
西盛義(歩45 第3機関銃中隊 軍曹)「上河鎮の激戦から下関附近まで」(資料内頁0499 53 PDF頁36~)

 その後の第3大隊の行動は西盛義手記に依る。江東門での遭遇戦の後、北進し三叉河・大同製粉廠で戦闘となる。2BASと共に戦闘を続行し揚子江へ出る。揚子江では舟や筏、戸板に載って逃げる中国兵を攻撃して損害を与えた。その後、クリークを渡り部落で宿営する。12月14日、早朝から中国兵の投降を受けつつ下関に前進し、11時に下関に到達する。
 成友藤夫手記『追憶』および証言(歩兵第45連隊第2大隊 大隊長、以下、成友手記とする)によると、この時、捕獲した捕虜は5000~6000名だったという。

第3大隊第11中隊 北河口方面の戦闘経過

 北河口方面へ向かった第11中隊の戦闘経過は以下の通りなる。
 12月12日夜、歩45が発令した命令で、第3大隊は一部をもって北河口を経て揚子江沿いに北進し下関へ向かうよう命じられる(2BASは12日21時受領、2BAS戦闘詳報)。
 第3大隊長 小原重孝少佐は13日午前0時、第11中隊は左追撃隊となり、工兵2個分隊、山砲1門と共に揚子江岸沿いを下関方向に前進するよう命令する(南京戦史)。
 13日6時30分、第11中隊は新河鎮を出発し、間もなく中国軍の大集団と遭遇戦となる。この戦闘で、中隊長戦死を含め大きな損害を出しつつ、中国軍を撃退する(撃退した時間について、南京戦史は10時30分、江口虎則手記(歩45第11中隊、前同転戦実話 資料内頁0490 44 PDF頁26~)は8時30分としている)。
 揚子江上へ逃げた中国兵に対しては機関銃で攻撃を加え、また、江岸沿い南下して逃れた中国兵は後続の騎兵第6連隊によって撃滅された。一部の中国兵は、揚子江中州の江心洲へ逃げた者もあったと見られている(浜崎富蔵日記(ゼンボウ 昭和60年5月 p.101)、戦時旬報第13・14号)。
 その後、第11中隊のうち、第2小隊は大隊主力を追及して下関へ向かい、第1・第3小隊は仮繃帯所を護衛するため宿営した。

第2大隊の戦闘経過

 上河鎮で戦闘中だった第3大隊の後方に位置していた第2大隊は、12日12時50分、所街に向け出発する。所街を通過した時間は不明だが、12月13日午前5時頃江東門に到着する(2BAS戦闘詳報)。なお『牛島満伝』によると江東門占領は12日21時頃という。第7中隊 前田吉彦少尉の日記によれば、12日23時に江東門から発令された中隊長命令を受けていることから、この時点で第7中隊が江東門を占領していたことが分かる。
 第2大隊に続行していた2BAS片山中隊は、13日午前5時、江東門を通過し北進する。なお先述の通り、この時、第2大隊に後続していた第3大隊は中国軍の大部隊と遭遇戦となっている。
 午前9時、三岔河(三叉河)附近で中国軍約1000と遭遇し戦闘となる。同時に揚子江を渡河中の中国兵を確認する。機関銃中隊、大隊砲、速射砲の支援のもと中国軍を攻撃し、渡河中の中国兵に対しても攻撃を行い大きな損害を与える。
 16時30分及び23時20分に2BASへ届いた歩45の命令要旨によれば、14日午前8時までに、第1大隊を右第一線、第2大隊を左第一線とし下関方向の敵に対し攻撃準備をするという。三叉河南側を流れるクリークを渡り部落で宿営する(2BAS戦闘詳報、成友手記)。
 14日午前8時10分、2BASは所定の陣地を占領し、歩兵の前進に直協する(2BAS戦闘詳報)。第2大隊は早朝、下関へ向かい前進し、敵の抵抗を受けることなく下関に到着。下関で中国兵5000~6000名を捕虜をとする(成友手記)。

第1大隊の戦闘経過

 第一大隊は、12月8日22時発令「六師作命甲第七十九号」(第6師団戦時旬報第13・14号)で銀左山高地の攻撃、同地北側へ進出が命じられている。
 10日午前11時30分発令「六師作命甲第八十一号」(前同)の軍隊区分では第1大隊を師団予備隊としており、予備隊は谷師団長と小米行に到着している。歩兵第45連隊第2中隊陣中日誌(『南京戦史資料集2』掲載)にも、同日、第1大隊が師団予備隊となった旨の記載がある。
 第2中隊陣中日誌によると、11日は師団予備隊として待機、12日は安徳門(もしくは西営村)に前進し、歩兵第36旅団長(牛島満中将)の指揮下に入った。
 13日正午、連隊に復帰する為、水西門を経て下関へ向けて前進する。途中、水西門北側地域で敗残兵との小規模な戦闘を経て、19時、炎帝巷に到着、歩45連隊長の指揮下に入り、同地にて露営する。炎帝巷の場所は地図で確認できなかったものの、おそらく、三叉河からクリークを挟んだ東側の地域と思われる。
 なお、13日午前11時発令「六師作命甲第八十一号」(前同)では、歩45第1中隊・第4中隊は師団司令部と共に南門(中華門)外を集結地として指示されている。このことから連隊に復帰したのは大隊司令部・第2・第3中隊であり、第1・第4中隊は師団予備隊として残されたことが分かる。
 2BASが12月13日16時30分に受領した要旨命令によると、翌日の部隊配置として第1大隊は右第一線としてクリーク右岸に、第2大隊は左第一線としてクリーク左岸に配置されている。同日23時20分に受領した命令では、右第一線(第1大隊)の攻撃目標を獅子山としている(2BAS戦闘詳報)。
 14日午前8時、下関および獅子山砲台攻撃の為、炎帝巷から北進する。午前10時30分、下関に到着。途中、大きな戦闘は無かったようだ。なお、命令にあった獅子山の攻撃は記録がない。午後1時、下関を出発し、指定された宿営地である上河鎮へ向かう(歩45第2中隊陣中日誌)。

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