歩45 捕虜の行方③ 論点の検証 捕虜の数

歩45 捕虜の行方 第6師団
歩45 捕虜の行方
歩45 捕虜の行方 総目次
①はじめに
②戦闘の経過
③論点の検証 捕虜の数
④論点の検証 捕虜の解放
⑤論点の検証 捕虜の殺害
⑥まとめ
⑦参考資料

 第6師団および歩45の戦闘経過は概ね先述の通りとなるが、『南京戦史』における歩45の戦闘経過の叙述、そして捕虜に関する検証にはいくつか問題が含まれると思われる。以下、捕虜数、捕虜の解放、『南京戦史』で取り上げられていない捕虜殺害の3点の論点について検討したい。

戦闘記録による捕虜数について

 歩45が下関で捕獲した捕虜の数について、『南京戦史』では5500名としている(p.319)。その根拠は第6師団 戦時旬報の附表「追撃並ニ南京攻撃ニ於ケル彼我損傷一覧表」の記述に依拠している(p.342)。ここで注意すべきなのは、『南京戦史』が依拠した捕虜数は、第6師団全体の捕虜数であるということである。この一覧表で示す捕虜数のすべてが歩45の捕虜数だったことを示す記述はない。
 現在、確認できる第6師団関連の軍公式記録は、戦時旬報第13・14号、第15号、歩兵第13連隊第2大隊支那事変戦闘概要図、歩兵第47連隊第2中隊陣中日誌、歩兵第45連隊第2中隊陣中日誌である。戦時旬報附表「追撃並ニ南京攻撃ニ於ケル彼我損傷一覧表」に記載されている5500名の捕虜数の内訳(例えばどの連隊が何名捕虜とした等)は、公式記録で確認することは出来ない。したがって軍公式記録では、「一覧表」に記載されている捕虜数5500名のすべてが歩45が捕獲したものと確認することはできない。

私的資料による捕虜数

 歩45の捕虜数を考察する場合、日記や手記、証言など私的な資料に依拠しなくてはならない。以下、歩45の捕虜数を示す資料を提示する。

成友藤夫少佐 第2大隊長
(K-K註:手記『追憶』及び証言より、以下、成友手記とする)
途中、敵の抵抗をうけることなく下関に到着すると、中国兵が広場一杯に溢れている。(略)その数五千~六千名

「証言による「南京戦史」第6回 『偕行』昭和59年9月号 p.8

下薗 歩兵第45連隊第6中隊 上等兵
三千の捕虜を見て 良い指揮者でもあつたら相当なものだがと空恐しいやら 国体観念のなさに呆るやら

『第6師団転戦実話 南京編 3/4(1) 』資料内頁0506 60 PDF頁43

前田吉彦少尉 第7中隊 小隊長
(K-K註:日記12月14日の記述、中隊長 日高精蔵大尉の話として)
「今朝六中隊が先頭で愈々下関だとハリキッて行ったら敵の奴呆気なく白旗をかかげて降参さ。(略)。さァ、どしこ(どれだけ)居ったろかい、何千じゃろかい何万じゃろかい。」

『南京戦史資料集1』pp.357-358

牧野 歩兵第45連隊第7中隊 軍曹
下関に這入ると間もなく多数の兵器を鹵獲した上に 敵兵数百名を捕虜としました

『第6師団転戦実話 南京編 3/4(1)』資料内頁0508 62 PDF頁45)

劉四海二等兵 第87師
劉二等兵を含むたくさんの国民党軍将兵が、帽子を逆さにかぶって(ひさしを後ろにして)投降した。その数は一万人より少ないが、たぶん「数千人」の単位 であった。

『南京への道』pp.220-222

『歩兵第四十五聯隊史』pp.232-234
又下関に於て五~六千名に及ぶ敵の捕虜を得た。

『沖縄軍司令官牛島満伝』pp.236-238
十二月十四日の朝、下関に達した歩兵第四十五連隊は、二万人に近い多数の捕虜におどろかされた。

 成友少佐の手記・証言「五千~六千名」、下園上等兵「三千」、前田少尉「何千じゃろかい何万じゃろかい」、牧野軍曹「数百名」、捕獲された側の劉二等兵の証言「一万人より少ないが、たぶん「数千人」の単位」、『歩兵第四十五聯隊史』「五~六千名」、『沖縄軍司令官牛島満伝』「二万人に近い」となっている。

 この中で、牧野軍曹の「数百名」は他の資料と比較して異質である。連隊の捕虜数ではなく、牧野軍曹が所属している第7中隊の捕虜数を述べているのかもしれない。

 また、成友少佐の手記・証言の「五千~六千名」の信憑性には若干の疑問がある。記憶のみで40~50年前の捕虜数を「五千~六千名」と述べるのは難しいのではないだろうか。この手記・証言は、『偕行』編集担当理事 久保三好氏が取材したものであり(「証言による「南京戦史」第6回 『偕行』昭和59年9月号 p.8)、久保氏が取材の際に捕虜数を入知恵したり、もしくは『歩兵第四十五聯隊史』に依拠した可能性がある。

 いずれにせよこれらの数字を総合的に見ると、『南京戦史』が示した5500名という数字自体が特段に外れた数字ではないと思われる。ただし、それはあくまでも外形上の話である。

第6師団 その他部隊の捕虜

 以上は歩45が下関で捕獲した捕虜の数となるが、第6師団では他にも捕虜を捕獲していた可能性がある。

第六師団転戦実話 南京編「続々敗残兵が出て来ました/歩一三RiA曹長起田清」
※概略 昭和12年12月16日、設営隊として蕪湖へ向かう途中で捕虜を得る。当初の捕虜数は50名程度だったが、その者たちの呼び掛けにより、最終的に600名近くとなる。その後、各部隊で使役する為に捕虜の引き抜きがあり、最終的に残った捕虜202名は設営終了後に旅団へ引き渡した。

第6師団 転戦実話 南京編 4/4(3) 資料内頁0822 367 PDF頁31

第六師団転戦実話 南京編「牛島閣下のことども/歩二三 Ⅰノ1/座談会(抄)」
山田軍曹
南京城外に旅団本部があつた時竹の上に白旗を立てた降参兵が来ましたがあんな沢山の投降兵を見たのは始めてでありました

第6師団 転戦実話 南京編 3/4(3) 資料内頁0604 158 PDF頁29

第六師団転戦実話 南京編「閣下と十二名の捕虜/歩二三速射砲中隊/歩兵准尉 飛■良平」
※概略、昭和12年12月9日朝、牛島少将が用便をしに宿舎を出た際に中国兵12名を捕虜とし、その後、苦力として使用したという。同様の話が『牛島伝』にも記載されている。

第6師団 転戦実話 南京編 3/4(3) 資料内頁0605 159 PDF頁30

第六師団転戦実話 南京編「菜庄附近将校斥候の想出/騎六ノ一/騎兵中尉 村上正良」
※概略、昭和12年12月13日午後、「上河鎮―江東門―菜庄道」を前進し、菜庄附近の偵察を命じられた村上以下5名は、2名を伝令として連隊に戻した後、中国兵と遭遇戦となり200名を降伏させた。この200名をその後に捕虜としたか、解放したかの記述はない。

第6師団転戦実話 南京編 3/4(4) 資料内頁0631 185 PDF頁12

 起田曹長の手記にある”設営隊として蕪湖へ向かう”という行動は、野砲兵第6連隊 中川誠一郎分隊長の手記と内容が近く、同一事例である可能性がある。中川氏の記述では、捕獲した捕虜200名は歩兵部隊が殺害したとなっている。いずれにしても、12月16日時点で捕虜600名を得たという事実が確認できる。

 山田軍曹の座談会での発言では、「南京城外に旅団本部があつた時」としている。12月13日11時発令「六師作命第八十二号」で部隊集結地として「左翼隊主力」は「西門外部落附近」とされていることから、水西門での出来事と思われる。ここで重要なのは、歩45が捕虜を捕獲したのは下関だったことから、山田軍曹が述べている「あんな沢山の投降兵」とは、歩45の捕虜ではないということだ。この記述では具体的な数量は分からないが、「あんな沢山」と表現していることは着目される。

 飛松良平准尉の手記にある牛島少将が捕獲した捕虜は12名と数としては少ないが、捕虜として使役していたという事実は明白だろう。なお、この牛島少将の捕虜捕獲事例は、『沖縄軍司令官牛島満伝』pp.238-239にも「旅団長の捕り物」という小見出しで紹介されている。

 村上正良騎兵中尉の手記では、200名の捕虜をどのように処置したかは分からない。当然、これは本人や部下の功績になるわけだから報告を行ったと見るべきだ。

 これらの資料からすれば、第6師団には歩45が下関で捕獲した捕虜以外にも多数の捕虜があったと考えるべきである。

捕虜殺害のケース

 第6師団では、捕虜を捕獲しながら殺害したケースも資料として残されている。

折田護 歩兵第23連隊第2大隊砲小隊 少尉
日記(抄)
◇十二月十六日 晴
(略)
  聞くところによれば本日約一、〇〇〇名の俘虜を得、これをカンチュウ門外にて全部銃殺又は斬殺せる由にて之等は全部地下室にかくれ居たるものなりと、正に驚くほかなし。(折田注 小生本件知らざるも正式に俘虜として投降したものではない様であり多分隙を見て逃亡する企図をして居た一団と思われる)

『南京戦史資料集1』p.342

 折田氏の脚注は苦しい記述だろう。日記の文中に「聞くところによれば」とあるようにこの事例は折田氏自身にとっても伝聞情報である。であれば折田氏が言う「隙を見て逃亡する企図をして居た一団と思われる」というのは根拠のない推測にすぎない。戦闘とせず「銃殺又は斬殺」したというのだから、普通に考えれば無抵抗な中国兵を殺害したということだろう。

 捕虜殺害の事例として、鞍掛軍曹(歩45第6中隊)は「掩蔽壕の中の敵を次々と引ぱり出して斬つてゐるうち」と述べ、中川誠一郎(仮名、野砲兵第6連隊)は敗残兵200名殺害と敗残兵や住民300名の殺害を手記として残している(捕虜殺害については後述する)。
 これらのケースは、いずれも下関で捕獲された捕虜数にはカウントされていないと見るべきだろう。

上河鎮、下関付近の戦闘/地名素図(『歩兵第四十五聯隊史』p.233)

【K-K註】
 上掲の折田日記にある「カンチュウ門外」という場所は地図上で確認することは出来ない。ただし、『歩兵第四十五聯隊史』p.233に掲載されている「上河鎮、下関付近の戦闘/地名素図」には、漢西門と水西門の間に「漢中門」という記載されている。この略図と実際の地図の門の位置を比較すると、「漢西門」としている場所は「清涼門」、「漢中門」としている場所は「漢西門」とすべきである。
 聯隊史の略図における「漢中門」が「漢西門」の誤記だったとしても、折田日記にある「カンチュウ門外」が「漢西門」と考えられる可能性がある。というのも、漢西門には漢中路が接続していることから、「漢西」と「漢中」を取り違えたのではないか。折田氏の所属する歩23の宿営地・警備担当地域とも一致するので、あながち無理のない考え方ではないだろうか。

小括

 『南京戦史』では、歩45が捕獲した捕虜数を5500名としている。その根拠は第6師団戦時旬報に記載されている「追撃並ニ南京攻撃ニ於ケル彼我損傷一覧表」とするが、この一覧表が示している捕虜数は第6師団全体の捕虜数であり、歩45の捕虜数を示すとは根拠とはならない。
 では、なぜ『南京戦史』はこの一覧表を根拠に歩45の捕虜数と判断したか?
 『南京戦史』には明確な記述はないが、おそらく、第6師団の他の部隊で捕虜を捕獲したという資料が見つからなかったこと、成友手記や畝本証言(歩兵第四十五聯隊史)、前田日記、劉四海証言が示している下関で捕獲した捕虜数が一覧表の捕虜数5500名に近かった、というのがその根拠なのだろう。
 ところが、資料を広く精査してみると、歩45以外の第6師団所属部隊でも捕虜を捕獲していることが判明する。それは、12/16 歩13連隊砲中隊 約600名(起田手記)、南京陥落後 旅団本部 「あんな沢山の投降兵」(山田軍曹手記)、12/9 牛島少将捕獲 12名(飛松手記)、12/13 騎兵第6連隊 采庄附近にて200名(村上手記)という事例である。また、これとは別に、歩23は「カンチュウ門外」で捕虜を「約1000名」捕獲した上で殺害したという事例が確認できる。
 以上のことを踏まえると、第6師団の捕虜数は、仮に歩45の捕虜数を「五~六千」(成友手記、畝本証言)とするならば、その数に2000以上はゆうに超える数値(7~8000以上)だったと見なさねばならず、戦時旬報「一覧表」に記載されている第6師団の捕虜数5500名よりはるかに大きな捕虜が存在したことになる。

 「第六師団戦時旬報」の捕虜数の内訳がまったく不明であるにも関わらず、それをほぼ無根拠に歩45の捕虜数とした『南京戦史』の考察の不備は明らになったと思われる。そして、軍公式記録(ここで取り上げた戦時旬報をはじめ、戦闘詳報や陣中日記等)の示す捕虜数というのも、投降兵を殺害するケースの存在を考慮するならば、必ずしも実態を正確に表したものではないことも明らかだろう。

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