第6師団

■第6師団
第六師団『戦時旬報』第十三・十四号
・第六師団南京南部防御陣地攻撃経過要図
・第六師団直接防御陣地攻撃経過要図
・追撃並ニ南京攻撃ニ於ケル彼我損傷一覧表

・鵜飼敏定 第6師団通信小隊 小隊長

 


「証言による「南京戦史」」掲載資料 第6師団
・部隊記録
・谷壽夫 第6師団長 中将
・鵜飼敏貞 第6師団通信隊小隊長


▼▼歩兵第11旅団
▼歩兵第13連隊

・徳永曹長 歩兵第13連隊第3中隊 NEW
・児玉房弘 歩兵第13連隊第2機関銃中隊 上等兵
・起田清 歩兵第13連隊連隊砲中隊 曹長
・赤星義雄 歩兵第13連隊 二等兵 NEW
・坂本高(63歳) 歩兵第13連隊 一等兵 NEW
・真田一介(仮名)(63) 歩兵第13連隊 NEW
・米田長俊(仮名) 歩兵第13連隊 NEW
・宮原清人 歩兵第13連隊 軍曹

 

 
▼歩兵第47連隊
「証言による「南京戦史」」掲載資料 歩兵第47連隊
・安部康彦 歩兵第47連隊速射砲中隊 中隊長
・守田省吾 歩兵第47連隊通信班 班長


▼▼歩兵第36旅団
・『沖縄軍司令官牛島満伝』

▼歩兵第23連隊

・宇和田弥市 歩兵第23連隊第1中隊 上等兵
・山田 歩兵第23連隊第1中隊 軍曹
・飛松良平 歩兵第23連隊速射砲中隊 准尉
・折田護 歩兵第23連隊第2大隊 大隊砲小隊 少尉

「証言による「南京戦史」」掲載資料 歩兵第23連隊
・坂元眤 歩兵第23連隊第2大隊 大隊長

 

 

 




▼歩兵第45連隊
・竹下義晴 歩兵第45連隊 連隊長 大佐
・江東門付近略図(第六師団 転戦実話 南京編より)
・『歩兵第四十五聯隊史』
第1大隊
歩兵第45連隊第2中隊 陣中日誌(抄)
第2大隊
・成友藤夫 歩兵第45連隊第2大隊 大隊長 少佐
・下園 歩兵第45連隊第6中隊 上等兵 座談会記
・鞍掛 歩兵第45連隊第6中隊 軍曹 座談会記
・前田吉彦 歩兵第45連隊第7中隊 小隊長 少尉
・奥田 歩兵第4連隊第7中隊 軍曹 南京附近の戦闘 歩四五・U七中隊座談会 第六師団 転戦実話 南京編より
・笹原 歩兵第45連隊第7中隊 軍曹 苦力閣下 第六師団 転戦実話 南京編より
・牧野 歩兵第45連隊第7中隊 軍曹 敗残兵 第六師団 転戦実話 南京編より
第3大隊
・浜崎富蔵 歩兵第45連隊第11中隊第1小隊第1分隊 分隊長
・福元続 歩兵第45連隊第11中隊 上等兵 日記(抄)
・西盛義 歩兵第45連隊第3機関銃中隊 軍曹 上河鎮の激戦から 下関附近まで 第六師団 転戦実話 南京編より

「証言による「南京戦史」」掲載資料 歩兵第45連隊
・歩兵第四十五連隊史
・成友藤夫 歩兵第45連隊第2大隊 大隊長
・浜崎富蔵 歩兵第45連隊第11中隊 軍曹


■第6師団(歩兵部隊以外)
・村上正良 騎兵第6連隊 中尉

・中川誠一郎(仮名) 野砲兵第6連隊所属 分隊長 NEW

・林軍曹 工兵第6連隊第2中隊 NEW

・高城守一 輜重第6連隊 小隊長 NEW
・角井一雄(65歳) 輜重第6連隊 NEW

■その他
・高橋義彦 独立山砲兵第2連隊 中尉
・山本武 第9師団歩兵第36連隊第6中隊 分隊長

・中国兵・劉四海の証言

 

参考資料

【 関連資料 】
・第6師団 組織図
・第6師団転戦実話 南京篇 目次

・独立山砲兵第2連隊


■第6師団

第六師団南京南部防御陣地攻撃経過要図(第六師団 戦時旬報 第十三・十四号(S12.12.1〜12/20)所収 附図五)

第六師団南京南部防御陣地攻撃経過要図

「戦時旬報(第13、14号) 自昭和12年12月1日至昭和12年12月20日 第6師団司令部(2)」 アジア歴史資料センター Ref.C11111026100 26コマ



第六師団直接防御陣地攻撃経過要図(第六師団 戦時旬報 第十三・十四号 (S12.12.1〜12/20)所収 附図六)

第六師団直接防御陣地攻撃経過要図

「戦時旬報(第13、14号) 自昭和12年12月1日至昭和12年12月20日 第6師団司令部(2)」 アジア歴史資料センター Ref.C11111026100 27コマ



追撃並ニ南京攻撃ニ於ケル彼我損傷一覧表
(略)
備考
1 師団主力ハ当時配属ノ6LPW,14SA,2BAsノ戦死者ヲモ含ムモノトス〔LPWは軽装甲車、SAは野戦重砲兵、BAsは独立山砲兵〕
2 戦死傷者数ハ各隊提出ノ戦死傷者名簿ニヨル
3 本表中敵ノ死体ハ戦場ニ於テ目撃セシ概数ナリ
4 南京攻撃ニ於ケル捕虜及鹵獲兵器左ノ如シ
捕虜 五、五〇〇
小銃 一一、〇〇〇
機関銃 一、七〇〇
野砲 一二
迫撃砲 一八〇
小銃弾 九〇〇、〇〇〇
各種砲弾 一七、〇〇〇
軍旗 二

追撃並に南京攻撃に於ける彼我損傷一覧表

「追撃並に南京攻撃に於ける彼我損傷一覧表」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111026200



鵜飼敏定 第6師団通信小隊 小隊長
述懐(抄)
 捕虜は、きわめて、なごやかな状況で収容しているが、捕えた場所は、三叉河を北行して下関の中山北路と交叉する付近で、14日早朝である。第十六師団に引き渡した時期は、14日午後と推定される。
  その後、第二大隊は引き返して江東門に集結し、聯隊主力は城外、第二大隊は水西門内に駐留して城内の警備にあたった。
「証言による「南京戦史」第6回 『偕行』昭和59年9月号 p.8



「証言による「南京戦史」」掲載資料 第6師団
部隊記録
 概要:第6師団 南京城攻撃部処の要旨命令(第3回 p.11 3段)
谷壽夫 第6師団長 中将 概要:歩兵第47連隊第11中隊への賞詞(第3回 p.12 2段)
鵜飼敏貞 第6師団通信隊小隊長 概要:述懐 捕虜を第16師団へ引渡し、中華門付近の火災は少ない(第6回 p.8 4段)


▼▼歩兵第11旅団

▼歩兵第13連隊

徳永曹長 歩兵第13連隊第3中隊
南京城門爆破の一勇士
歩十三ノ三
徳永曹長

昭和十二年十二月十二日二三四〇工兵第六聯隊の平石少尉殿の小隊が 南京城南門の爆破に前進し 城壁に爆薬を仕掛けて 決死隊が導火線に点火して待期してゐました
  すると後二十米といふ所まで燃えて行った頃 これが援護射撃をやってゐた友軍の機関銃の為 導火線が切られてしまった
それで平石小隊は城壁下に詰めかけたが 突然一人の兵が壁に取つつき 切られた導火線に点火したのであります
決死です
導火線も後僅かである
轟然たる爆音と共に城壁は吹っ飛び 彼の兵の姿はどこにも見えませんでした
斯くてこの城門爆破に成功したのであります 続いて我々は破壊口目がけて突入しました
この時の一兵士の豪胆 そしてその責任観念 犠牲的精神こそ実に軍人の華といふべきでありませう
第6師団転戦実話 南京編 3/4(4)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111749700 27コマ



児玉房弘 歩兵第13連隊第2機関銃中隊 上等兵
(※1)
毎日新聞 1984年8月15日朝刊 第18面
[見出し]
「南京大虐殺、私も」
[リード]
神戸の元上等兵が証言
[本文]
  南京大虐殺に加わった東京小平市の元陸軍伍長が、中国兵捕虜一万三千五百人の射殺を告白して反響を呼んでいるが、新たに元陸軍上等兵の神戸市須磨区●●●●●●(※2)、無職、児玉房弘さん(七五)が十四日までに「私も機関銃隊の一員として虐殺に加わった」との証言を毎日新聞社に寄せた。上級将校が「暴動が起き、やむなく射殺した。不慮の事故」と弁明、これまで真相がナゾにつつまれていた。
  児玉さんは昭和十二年十二月の南京攻略に加わった。
  集団射殺は児玉さんらが南京郊外の駐屯地から南西約六〇キロの蕪湖へ向けて出発した同月十六日ごろ行われた。児玉さんらに、揚子江近くの小高い山に機関銃を据え付けるよう命令が下った。
  不審に思いながらも山上に重機関銃を据え付けると、ふもとのくぼ地に日本兵が連行してきた数え切れないほどの中国兵捕虜の姿。そこに、突然、「撃て」の命令。機関銃が一斉に乱射された。
  「まるで地獄を見ているようでした。血柱が上がるのもはっきりと分かりました」。機関銃は約五十メートルの間隔で「三十丁はあった」という。「なぜ捕虜を殺したのか。遺体をどう処理したのか。他のどの隊が虐殺に加わったのか。私たち兵隊は何も聞かされなかった」と、児玉さんはうめいた。
  殺された中国兵は、当時、新聞で「一万四千七百七十七人を捕らえる大戦果」と報道された人たち。この捕虜がどう扱われたか、その後の報道がなく「集団虐殺」がうわさされていた。
※1 児玉氏の所属部隊については秦郁彦『南京事件』に基づく。記事から所属部隊を読み取ることは出来ないが、秦氏は児玉氏を聞取り対象者としている為、その時の情報と思われる(同書主要参考文献)。
※2 ●は住所となる為、引用者により伏字とした



起田清 歩兵第13連隊連隊砲中隊 曹長
第六師団転戦実話 南京編「続々敗残兵が出て来ました」

歩一三RiA曹長起田清
昭和十二年十二月十六日〇八〇〇頃進路右方二百米の村落にとても長い竹竿に白布を着けた物を盛んに打振つてゐるのが目につきました
遠くてよく分りませんが随分人が居る模様です
それは南京を落して間も無く我が部隊が入入城(K-K註:「入城式」か)にも参加せず 撫湖に向ひ前進してゐる時であります
そしてその設営隊の最後尾を設営者として前進してゐたのであります
其の時は附近一帯の民衆からは無数の白旗を振り出してゐました
敗残兵だ撃て
と言ひ出した者もありましたが、撃たせませんでした
最初五十名の一団が恐る/\近寄つてきましたが 皆正規兵です 武器といつても帯剣も持つてゐません
設営隊長に遽伝を送りましたが仲々止らずもう千米も先を前進しております
仕方なく近寄つた者を取調べて見ましたが それといつても唯兵器の有無を調べるだけです 其の内に速射砲と野砲の設営者も加つて二十名余りになつたので力を得ました
最初近寄つた者は何も危害を加へぬ事を知つて部落の方に向つて何か大声で叫んでゐました
すると見る間に五・六十名の数団が続々近付て瞬く間に数百を数へる様になりました
敗残兵は
「二日も食ずに動けない」
と言つてゐました
それでも少くも五百名は下りません
烏合の衆でも相手が余りに多く況して 重火器部隊の者でゐるので小銃も全々持つておりません
その内設営隊長より
「自転車を持つてゐる者は本隊到着まで監視しておれ」
と言つて来ましたが 誰も残る者はありません
仕方なく集合せしめただけ連行しましたが設営隊に追及するまでに又百名位は加わりました
一一〇〇江寧鎮に到着しました
途中飛行場に二十名位渡しました
それに各隊の設営者が使役に使い未だ二百二名も残つてゐました
各隊共必要なだけ連行した上だけに後はお構いなしです
他部隊でも約百名位使つてゐたのでもう充分なのです
やむを得ず松井上等兵に監視を命じました
そして宿舎の設備の終る頃
「自分は何んでもするから使つてくれ」
と地面に頭をすりつけて哀願する者も居りましたが この二百二名を旅団に引渡しました

第6師団転戦実話 南京編 4/4(3) アジア歴史資料センター Ref.C11111750400 30コマ



赤星義雄 歩兵第13連隊 二等兵
手記「揚子江を埋めた屍」(『揚子江が哭いている』)

 ここから、蘇洲を通り、南京目指して、昼夜の厳しい行軍の日々がつづいた。
 南京城総攻撃の三日前、十二月十日頃には、中国軍が中華門より二キロ手前の壕で守備している練兵場跡の雨花台入口の近くにたどりついた。入口から一キロ先の壕から、迫撃砲、機関銃の攻撃が激しくなり、必死の攻防戦が始まった。
 われわれには遮蔽物がなく、狙い撃ちにあって苦戦を強いられ、地に伏し、地に這っての攻撃であった。
 夕方近くになって、発煙筒を投げ、その煙りの中を壕から手前、約十メートルの所まで突撃した。私は、地に這って手榴弾を軍靴のかかとで叩き、三秒ほどして、敵の機関銃座のある壕へ向けて投げつけた。バーンという炸裂音とともに、「突撃」と小隊長が叫んだ。われわれは、「ワーッ」と叫びながら、いっせいに突撃していった。
 十一日の夕方、すでに、敵の兵隊は城内へ逃げ込んだらしく、一人としていなかった。夕方早く、雨花台を通過し、城外の破壊された街へ向け進撃していった。
 破壊された街には、誰もいないようであったが、民間人の服装をしたゲリラ隊や敗残兵には油断できず、常に気を配った。
 中華門の城壁の上に、約五十メートル間隔に敵の機関銃が据えられ、機関銃の間に迫撃砲三十門ほどが据えられていたようだ。
 その猛攻撃の中を、城壁から約二百メートルの所まで進み、破壊され、密集した民家へ突入して入った。ここも、もぬけのからであった。
 翌十二日、夜明け前、五時頃から、中華門城壁へ向けての一斉攻撃が始まった。爆撃機の波状攻撃に加え、野砲が城門へ向けて、いっせいにガンガンと火を吹いた。しかし、固く閉ざされた城門と、二十メートルほどの高さの城壁は、びくともせずそそり立ち、崩れたようすはなかった。さらに、七十五トン軽戦車で体当りし、城門突破を試みたが、びくともせず何の変化もなかった。また、城門から五十メートルの所まで進んでいた工兵部隊は、城門に爆薬を仕掛け、爆破させたが、失敗に終わった。
 頑強な城壁から大量の迫撃砲と機関銃の攻撃が容赦なくつづき、わが軍は、後方から野砲弾の雨を降らし、市民道路では軽戦車での応戦が激しく、一日中熾烈な戦いがなされた。
 前進できないまま、中華門を斜め右前方二百メートルに望む民家に待機し、夜が過ぎていった。
 翌十二月十三日は、早朝より、中華門の城壁へ向けて、総攻撃が開始された。難攻不落に思えた中華門に向かって、野砲が次々と城壁の下から上へ向け集中的に撃ち込み、やがて少しずつ垂直の城壁が、這い上がれるほどに崩れていった。
 爆撃機が中華門と城壁の上の、迫撃砲、機関銃に波状攻撃をした後、軽機関銃と小銃の決死隊三名が突進し、崩れた城壁に縄ばしごをかけ、われわれの援護射撃と敵の攻撃の下を、登っていった。その後を、激しい銃撃音の響くなか、約四十名ほどの歩兵がつづいていった。敵の反撃がつづいているようだった。
 しばらくたつと、日章旗が空高く中華門の上に翻った。十三日午前十時半の頃であった。
 その瞬間、全員が、「バンザイ、バンザイ」と手を揚げ、「ヤッタ、ヤッタ」と口々に叫んだ。私は感激と同時に、ここまで無事にこれてよかったなと思った。われわれは、「南京を陥せば」を合言葉にしていたのだ。
 決死隊が城壁にのぼって、実に二時間か三時間ほどすぎた頃、ついに中華門の城門が開かれた。「入城!」という小隊長の命令に、われわれは城門へ向かい、そして入城していった。城内には、幅十メートル、奥行四メートルほど、土嚢がびっしりと積まれてあった。民家は、無残にも破壊されたり、燃えていたりしていた。どこもかしこも爆撃と砲弾の跡が生々しく、硝煙の臭いがたち込めていた。
 また、あちらこちらには、血で真っ赤に染まり、頭がもぎとられたり、あるいは内臓がむきでている死体や、全身が微塵に砕かれた肉の塊りが散乱し、目を覆うばかりの光景であった。
 すでに城内は、赤十字難民区を除いて、ゲリラ隊や敵兵らしい姿は、誰一人として見なかった。
 今まさに、南京城は日本軍の手に陥ちたのであった。
 私たちは、市内の掃討を繰り返したが、その時は、抵抗などはほとんどなく、そして、その晩、すなわち十三日の晩は、城内の一角で警備についた。
 明けて十二月十四日、私たちは城内を通り、揚子江岸に向かって進んで行った。ちょうど、中華門の反対側になるが、重砲陣地のある獅子山へ行った。
 山の岩盤をくり抜き、車一台が通れるような道路をつくり、約五十メートルごとに巨大な砲が据えつけてあった。日本海軍を阻止するために作られたと聞いていた。もちろん、敵の姿はなかった。
 その砲台から眼下を流れる揚子江を見ると、おびただしい数の木の棒みたいなものが、流れているのが遠望された。
 私たちは獅子山から降りて、揚子江岸へと向かって行った。途中、中国軍兵士の死体が転がり、頭がないものや、上半身だけしかないものなど、攻撃のすさまじさを物語っていた。
 揚子江岸は普通の波止場同様、船の発着場であったが、そこに立って揚子江の流れを見た時、何と信じられないような光景が広がっていた。
 二千メートル、いやもっと広かったであろうか、その広い川幅いっぱいに、数えきれないほどの死体が浮游していたのだ。見渡す限り、死体しか目に入るものはなかった。川の岸にも、そして川の中にも。それは兵士ではなく、民間人の死体であった。大人も子供も、男も女も、まで川全体に浮かべた”イカダ”のように、ゆっくりと流れている。上流に目を移しても、死体の”山”はつづいていた。それは果てしなくつづいているように思えた。
 少なくみても五万人以上、そして、そのほとんどが民間人の死体であり、まさに、揚子江は”屍の河”と化していたのだ。
 このとについて私が聞いたのは、次のようなことであった。
 前日、南京城を撤退した何万人にのぼる中国軍と難民が、八キロほど先の揚子江流域の下関という港から、五十人乗りほどの渡し船にひしめきあい、向う岸へ逃げようとしていた。
 南京城攻略戦の真っ只中で、海軍は、大砲、機関銃を搭載して揚子江をさかのぼり、撤退する軍、難民の船を待ち伏せ、彼らの渡し船が、対岸に着く前に、砲門、銃口を全開し、いっせいに、射撃を開始した。轟音とともに、砲弾と銃弾を、雨あられと撃ちまくった。直撃弾をうけ、船もろともこっぱ微塵に破壊され、ことごとく撃沈された、と。
 私は、この話を聞いた時、心の中で、「なぜ関係のない人までも……」と思い、後でこれが、”南京大虐殺”といわれるものの実態ではなかろうかと思った。
 南京城で二日間の休養をとった後、五、六十台のトラックに分乗し出発、夕方には蕪湖に到着した。ここでは、約四カ月の警備の任務についたあと、三山鎮の敵陣へ討伐を開始した。
 攻撃の時、運悪く、中隊長の戦死の報が届いた。機関銃で頭を撃ち抜かれていた。中隊長が戦死したことによって、わが中隊は苦戦を強いられた。
 次々に戦友が敵弾に倒れていった。”明日はわが身か”と思うことによって、正規軍、民間人に関係なく、憎しみの感情が、いっそう高まっていった。
「中国軍兵士がいるからこそ、いつまでも戦争しなければならん。いつまでも日本へ帰れない」という、今から考えれば理不尽な思いが、一人ひとりにつのっていったようだ。
『揚子江が哭いている』pp.25-31



坂本高(63歳) 歩兵第13連隊 一等兵
手記「壮絶!死闘の”田家鎮”」(『揚子江が哭いている』)

  そのままさらに南京へと向かう。十二月七日に牛首山を、九日に将軍山を、十日に雨花台を奪取して、南京城へは中華門の正面攻撃にあたった。敵味方の大砲弾が頭上をヒュー、ヒューと不気味な音を立てて飛びかうなか、われわれは城壁へと迫った。
  高い城壁の手前にはクリークがあり、その手前にある民家を一軒一軒掃討しながら、民家に身を隠しつつ前進した。最初、敵は城外にも相当出ていたが、日本軍に追い詰められて城内へと逃げ込む。そのためにクリークの仮橋を渡る敵や、クリークを小舟で渡った中国兵が日本軍歩兵の銃弾につぎつぎと倒されていった。
  難攻不落に見えた城壁も、野砲等の集中攻撃で一角が崩れ、われわれがその崩れた所に突撃を敢行して城内に入ったのは十三日のことである。私が入った時にはもはや中国兵の姿はなく、城壁の上から、破壊された商店街やいくつかの敵兵の死体が見えた。住民も中国兵もどこかへ逃げ去っていた。
  われわれの中隊はそのまま城外へ出て一夜を明かし、翌日、ただちに城外を迂廻して蕪湖へと向かったので、城内のことはわからなかった。迂回中に農民たちがどこからともなく姿を現わす。戦闘中はまったく姿を見せないが、戦闘が終わると恐れ気もなく姿を現わす。大きな街での戦闘の時はいつもそうであり、また、われわれもそうした住民には、よほどのことがない限り攻撃を加えることはなかった。
  首都の攻略に沸いたのも束の間で、われわれはさらに蕪湖へ向かった。蕪湖で正月を送り、春先までここを中心に各地の警備についた。
『揚子江が哭いている』pp.48-49



真田一介(仮名)(63) 歩兵第13連隊
手記「池を埋め尽くした死体の山」(『揚子江が哭いている』)

  この後、われわれは重大な作戦に参加することになった。首都である南京攻略作戦である。
  南京城の裏手には揚子江が流れている。遠回りして揚子江を渡り、そちらから攻めようとする部隊と、山手を通って攻めようとする部隊があった。われわれはこれまでの山岳戦の経験から、ためらうことなく山岳戦を望んだ。
  南京の手前にいくつかの村落があり、ここにひそんでいた敵は必死でわれわれの進撃を阻んだ。
  また、われわれの布陣が敵の逃走方向だったのか、前方の山には時間を追うごとに敵が増え、しかも敵は山の上から、われわれは下からの攻撃であるため、状勢はわれわれにとって不利であった。遮蔽物の間を走り抜ける時には雨あられと銃弾を浴びせられ、危険きわまりない。しかし、私は軽機関銃射手として、先頭を進まねばならなかった。肝を決めて突入した。一人が走ると他の者たちも後につづく。無我夢中で対等な攻撃ができる所まで走った。ここで殺されなかったのは運が良かったというしかない。
  そこまでくると、われわれの方が優位になってきた。敵を次第に後退させ、われわれがついに南京城にたどり着いた時には、他方面からの攻撃によって、すでに南京城は陥落していた。われわれは城内に入ることなく、そのまま城外で一夜を明かすことになった。城の周辺には無数の民家があり、どの家も住民は逃げてしまっていて、もぬけのからである。われわれは空腹を満たすため、そうした家々から手当たり次第に略奪した。十二月十三日のことである。
  そこで一晩疲れを充分にいやしたわれわれは、そのまま城外を回って蕪湖へ向かった。四日がかりで蕪湖に着いたのが十二月十八日。ここで正月を挟み、四カ月間の警備に就いた。時折り、敗残兵との戦いがあったが、比較的落ち着いた日々であった。
『揚子江が哭いている』 pp.69-70


米田長俊(仮名) 歩兵第13連隊
手記「戦争なんか二度と起してはならない」(『揚子江が哭いている』)

 十二月の上旬、南京城の南部に到着し、南京城に至るまで、徹底した掃討を繰り返した。敵は壊滅、後退で、生きのびたものは、本陣である南京城へ逃げていった。死体があちこちに散らばっており、その中を、南京へ南京へと前進していった。
 十二月十日、南京城総攻撃が始まり、われわれは中華門に迫った。航空機の爆撃、さらに昼夜にわたる野砲等の攻撃により、城壁の一部が崩れたという観測隊の報告だった。さらに、五、六組の決死隊が出て、城壁が崩れていることが確認された。援護射撃と砲声が鳴り響く中を、他の連隊がつぎつぎと突撃していく。途中、バタバタと倒れて、城壁にたどり着くのは至難の様相だった。
 十二日に、城壁の一角に日章旗が立てられた。全員、日章旗をみると、勇んで城壁へ城壁へと突撃して行った。
 十三日には、完全に南京城を占領したのだった。城内にはいると、血の臭いと、硝煙の臭いが入り混って鼻をついた。城壁の上には、手足や首がふきとんだ死体、肉の塊らしきもの等、バラバラの死体が散らばっていた。城壁の中には、なんとか五体満足な死体が、血みどろになってころがっていた。
 街の中には、かなりの敵兵が隠れており、全員捕えて、「○○部隊使用」と銘記した腕章をつけて、人夫として使用することになった。腕章をつけて、部隊長の証明をもった捕虜は、命が保障されたことで、堂々としていた。そして、おとなしく日本軍に従えば、殺されることはないと悟ったのか、彼らは、笑顔をつくってわれわれについてきた。

 南京を出発し、次の目的地である徐州に向かう途中、金山栄を占領し、三、四日、軍備補給と体調を整えるために滞在した。私は分隊長として、四人の兵を連れて食糧を徴発に出かけた。民家の一軒に入ったとき、近くの家から、「キャーッ」という、女性の叫び声が聞こえてきた。家の中にはいってみると、徴発に連れてきた一人の兵が、逃げ遅れて隠れていた若い女性に、暴行しようとしているところだった。私が「やめろ」といってもいうことはきかない。私はそのまま残り三人の部下を連れて、隊へ帰った。
 しばらくして、その兵隊は「おい、豚がいたので、殺して肉を持ってきたぞ」といって、真新しい肉の塊を持ってきた。みんなは喜んで、その晩は豚汁、スキヤキと、ごちそうにありつくことができた。
 食事が終ったころ、肉を持ってきた兵が、急にゲラゲラと笑いだし、「どうだ、うまかっただろう。うまいはずだ。人間の肉だからな」と言った。食べた後だっただけに、みんな黙って目を丸くしていた。
 次の朝、私は昨夜の話を確認するため、その兵を連れて若い女性がいた家に行った。そこで私が見たのは、無残にも、両大腿部の肉を刃物でグサリとえぐられている、若い女性の死体だった。その兵隊は、「暴行したことがわかると、軍事刑務所に送られ、無期懲役か死刑になることを恐れて殺した」といった。
 私はそれを聞いても、怒ろうとは思わなかった。怒ったところでもはや取り返しはつかない。それに、「前からばかり弾はこない。後ろからも弾はくる」とよくいわれており、死と直面して、毎日生きているのだからと思うと、怒る気にもならなかった。怒ったり、打ったりすると、戦闘意識にも、差しつかえるのだった。「あいつの命令なんか聞くものか」と反発されてしまいかねない。そういう不満分子を作らないためにも、私はその事件について、黙認したのである。
『揚子江が哭いている』pp.128-130



宮原清人 歩兵第13連隊 軍曹
決死隊となりて
歩十三
歩兵軍曹 宮原清人

(略)
愈々最後の城壁攻撃に移りました 砲兵は盛んに内や城壁に砲弾を射ちかけてゐます
  私は再び決死隊員として城壁占領の任務を受け敵の猛火をかいくゝ゛って壁下に漸く辿り着きました
誰か、バラ/\ッと城壁の方に走ってきます 
工兵です
これを見た敵は物凄い射撃をしてきます
幾人か殪れました 尚も走りました 城壁に接近して行きます 今度は敵は壁上から手榴弾を雨と降らし始めました
工兵はそれにも屈せず城壁に取付くと直ちに爆薬の装置にかゝりまました(ママ) 五分 六分 我々のジリ/\する気持ちも長くはありませんでした 忘れもせぬ十三日午前一時三十分戦場の夜空に 天地も覆さんばかりの大音響が殷々として轟き渡りました
機を逸せず我々突撃部隊は群る敵中に突入之を撃退せしめ遂に一角を保持しました
思へば二度も決死隊に選ばれ幸運にも負傷もしなかったのでありますが それと共に南京の地下に眠る戦友に心から敬虔な感謝を捧げるものであります
第6師団転戦実話 南京編 3/4(4)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111749700 27-29コマ



▼歩兵第47連隊

「証言による「南京戦史」」掲載資料 歩兵第47連隊
・安部康彦 歩兵第47連隊速射砲中隊 中隊長 概要:証言 城内掃蕩、第9中隊陣中日誌?(第5回 p.11 1段)、述懐 虐殺の噂・話は聞かなかった(第6回 p.7 1段)
・守田省吾 歩兵第47連隊通信班 班長 概要:「「南京虐殺説」に想う」(寄稿か) 中華門付近の城内にはほとんど敵兵を見ず、一般住民も少ない(第6回 p.7 1段)




▼▼歩兵第36旅団

牛島満 歩兵第36旅団 旅団長 少将
『沖縄軍司令官牛島満伝』
pp.237-238
 西南角から城内に突入した歩兵第二十三連隊は、十三日も引き続き水西門に向って北進し、中山門から入った第十六師団、光華門からの第九師団と協力して市街戦を継続した。第四十五連隊の第三大隊が江東門附近で敵味方入り乱れての遭遇戦を演じているころ、その北方にあった第二大隊は城壁ぞいに北進し、下関南方の三叉河附近で中国軍の寝込みを襲い、多数の中国兵を倒した。中国軍は最後の土壇場まで抵抗した。
 さらに、十四日朝、第二大隊は下関に向って前進をおこしたが、中国兵は昨日までの激しい抵抗とは、うって変って、いち早く白旗をかかげ大隊長成友少佐が乗馬悠々としてくるのを見ると、道路の両側に整列して、一斉に拍手で迎えるという、想像もできない情況を呈した。
 連隊長竹下義晴大佐は、通訳を通して、この中国軍兵士たちに伝えさせた。
「いくさには、勝たなければならないが、貴軍の個々の将兵たちの罪はとがめない。よろしく郷里に帰り、新政権下和平中国の再建にとりかかってほしい。」
 そして、武装解除の上全員釈放したのである。その数は万を下らぬおびただしいものであった。
 十年の後になって、南京虐殺の罪を問われ、谷師団長は絞首刑を受けた。しかし、実情はこのように、捕虜の全員釈放といった放れ業もやってのけたのである。
 十二月十四日の朝、下関に達した歩兵第四十五連隊は、二万人に近い多数の捕虜におどろかされた。武装解除をしてみると、たちまちにして銃器の山がいくつもできた。小銃、速射砲、手榴弾、防毒面の山である。

p.239
  十二月十四日午後、上河鎮に下関から帰ってきた第七中隊日高大尉の話である。
  第三小隊(野元三郎少尉)の分隊長に、宝来万吉という出水出身の上等兵がいた。まことにめでたい名である。この宝来上等兵が、十四日午後居合せた住民(ニーヤ)に、水を汲ませようと思って、
「ニー※、来来(ニーライライ)」(K-K註:原文は漢字)
 と呼んだ。一人は屈強な男で”おう”と応答してくれたが、あとの一人は老人(ロートル)で、大人の風格をそなえていててんで返事をしない。宝来は腹を立て、手をふりあげようとすると、先の屈強な男が、
「こちらはいかん、いかん。この老人は大人(えらい人)だ。」
 と手真似でいう。そこで宝来上等兵は、この老人を中隊長のところへ連れて行った。
  よく聞いてみると、この二人は上河鎮を守っていた中国軍の旅団長とその副官のコンビであり、便服に着がえていたのである。結局、宝来上等兵は知らずして、敵将を捕えるという大手柄をたてたわけである。
  牛島旅団長は、この敵将を丁重にとりあつかった。あたかも西郷さんが仙台の伊達の殿様を上座において、ていねいにとりあつかったのと同様であった。
  翌日の水西門入城の時には、副官の乗馬にのせて、師団長に引見させた。
  宝来上等兵は、其の後も武勲をたてて、昭和十五年の第一次行賞で、金鵄勲章を授けられた。



▼歩兵第23連隊

宇和田弥市 歩兵第23連隊第1中隊 上等兵
朝日新聞 1984年(昭和59年)8月5日 日曜日 14版 社会面 p.22
[見出し]
南京虐殺、現場の心情
宮崎で発見 元従軍兵士の日記
[リード]
  日中戦争中の昭和十二年暮れ、南京を占領した日本軍が、多数の中国人を殺害した「南京大虐殺」に関連して四日、宮崎県東臼杵郡北郷村の農家から、南京に入城した都城二十三連隊の元上等兵(当時二三)の、虐殺に直接携わり、苦しむ心情をつづった日記と惨殺された中国人とみられる男性や女性の生首が転がっているシーンなどの写真三枚が見つかった。日本側からの証言、証拠が極端に少ない事件だけに、事実を物語る歴史的資料となるとみられる。
[本文]
  この日記は、縦十九センチ、横十三センチで約四百ページ。昭和十二年の博文館発行の当用日記が使われ、元日から大みそかまで毎日、詳細に記録されている。南京城門にたどりついた十二月十二日には「いよいよ南京城陥落の日!!(略)日章旗は晩秋の空高く掲げられたのである。(略)一番乗りをなし得たことを我らは生涯の誇りとして男児の本懐を語ることが出来るだろう」と感激ぶりをしたためている。
  だが、十五日には「今日、逃げ場を失ったチャンコロ(中国人の蔑称=べっしょう)約二千名ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に会ふ。老若取り混ぜ、服装万別、武器も何も捨ててしまって大道に蜿々ヒザマヅイた有様はまさに天下の奇観とも云へ様。処置なきままに、それぞれ色々の方法で殺して仕舞ったらしい。近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり、全く支那兵も顔負けするような惨殺を敢へて喜んでいるのが流行しだした様子」。惨劇が始まったことを記録している。
  二十一日。「今日もまた罪もないニーヤ(中国人のことか)を突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆おもしろがってやるのであるが、それが内地だったらたいした事件を引き起こすことだろう。まるで犬や猫を殺すくらいのものだ。これでたたらなかったら因果関係とかなんとかいうものは(意味不明)ということになる」。自ら手を下したことを認めるとともに後悔の念をみせている。さらに虐殺が日常化していることもわかる。
  こうした日々が一週間も続き精神的にもまいった二十八日はこう書いている。「人格の陶冶とか何とか戦場こそこれがこの良き舞台だと喜んだ我だったが、いまの状況では全く何事かと思われる。只徒ずらに安逸をのみ追ふ昨今の生活を清算することこそとりもなおさず理性の培養になるのだが……」。(いずれも明らかな誤字以外は原文のまま)
  写真はアルバムに三枚残っていた。名刺判白黒で、一枚は人家と思われる建物の前で、十二人の生首が転がっており、その中央には女性らしき顔も見られる。また、残り二枚は衣服を着たままの女性と老人の死体。撮影場所は南京城内かどうか記されていないが、生前家族に「南京虐殺の際の写真」とひそかに語っていたという。
  この兵士は帰国後、農林業を営み、四十九年に腎臓(じんぞう)病で死去した。家族の話では、生前写真を見ては思い悩んでいる時もあったという。死ぬ前には当時の戦友や家族に「罪のない人間を殺したためたたりだ」ともらしていた。
(註:太字はK-Kによる)



山田 歩兵第23連隊第1中隊 軍曹
第六師団転戦実話 南京編「牛島閣下のことども/
歩二三 Tノ1/座談会(抄)」
山田軍曹
南京城外に旅団本部があつた時竹の上に白旗を立てた降参兵が来ましたがあんな沢山の投降兵を見たのは始めてでありました
「第6師団転戦実話 南京編 3/4(4)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111749700 29コマ



飛松良平 歩兵第23連隊速射砲中隊 准尉
第六師団転戦実話 南京編「閣下と十二名の捕虜/歩二三速射砲中隊/歩兵准尉 飛松良平」
十二月九日の朝は未だ明けやらず朝霧が立ち込めて敵味方の判別さへつき難い頃でありました
牛島部隊長閣下は出征以来 朝用便を済まされる習慣でありまして 而も小高い丘とか広々とした見晴しの良い地をお選びになるくせがありました
其の朝も例によつて只一人宿舎を出て格好の地点をお選びになつたことでしやう
丁度その最中 軍曹を分隊長とするチエツク一小銃拳銃を有する十二名の敵軍がのこ/\と出て来たのであります 全く危険此の上もない事でありますが 閣下との間に何んな紳士協定が成立いたしましたものか やがて宿舎に帰られる閣下の後には新らしい部下十二名が いとも温順に 安堵しきつた喜びの色さへ浮べ乍らぞろ/\と従ふのでありました
喜色満面の閣下は 江口副官殿に声をかけられ
「江口君 今朝俺どんは兵隊さんば拾つて来たよ」
と申されます
「えっ 閣下何処でですか」
外には武装りりしき 支那の兵隊 先頭に悠然たる閣下お一人
副官殿始め一同はたゝ゛唖然としてしまいました
豪快な閣下の爆笑は
「南京城早吾が手中にあり」の力強い感銘を将兵一同に与へました
閣下自ら捕虜にされた この十二名は苦力として部隊で使用することになり
南京 太平府 寧国蕪湖 安慶 漢口攻略戦と従ひ 大治の警備の時 昭和十二年十二月十二日 温情限りなき吾等の部隊長御栄転御出発の日 小雨降る中に苦力全部も御見送りいたしました 閣下は
「お前達にも御世話になつたね 元気で働いてくれよ」
と わざ/\丁寧な御挨拶をなさいました
言葉は通ぜずともこの御温情に苦力の類にも心なしか愛別離愁の色が見えました
偉大なる感化は苦力の一人にまでも及ぶものと今尚当時のことが想出されます
「第6師団転戦実話 南京編 3/4(4)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111749700 30コマ



折田護 歩兵第23連隊第2大隊 大隊砲小隊 少尉
日記(抄)
◇十二月十六日 晴
(略)
  聞くところによれば本日約一、〇〇〇名の俘虜を得、これをカンチュウ門外にて全部銃殺又は斬殺せる由にて之等は全部地下室にかくれ居たるものなりと、正に驚くほかなし。(折田注 小生本件知らざるも正式に俘虜として投降したものではない様であり多分隙を見て逃亡する企図をして居た一団と思われる)
『南京戦史資料集1』p.342



「証言による「南京戦史」」掲載資料 歩兵第23連隊
・坂元眤 歩兵第23連隊第2大隊 大隊長 
概要:体験記 12/12城壁占領、12/13城壁西南角を起点に北方へ掃討、12/14水西門東側市内に1/3まで宿営、12/15獅子山砲台を見学、12/16紫金山、中山陵・明孝陵を見学、12/18-19安徳門南側高地で占領記念標柱を設置、12/9-12連隊の戦果は遺棄死体2000体、捕虜24、捕虜は収容所へ送る(第6回 p.4 3段)



▼歩兵第45連隊

竹下義晴 歩兵第45連隊 連隊長 大佐
※K-K註:秦郁彦によるヒアリング(「昭和二十八年(1953年)十一月(二回)」)(抄)
南京事件
◇軍紀がたるみ、南京占領後に牛島満旅団長は「火の仕末をしっかりやれ」と連隊長の私へ繰り返したが、私が大隊長に伝えても、さっぱり効き目がない。当時の風評では「中支を全部焼き払えと軍司令官が言っているのに、連隊長は知らないのか」という反応で、不軍紀には困りはてた。
秦郁彦『実証史学への道』p.215



江東門付近略図
第六師団転戦実話 南京編より

第六師団 転戦実話 南京編 歩兵第45連隊

「第6師団転戦実話 南京編 3/4(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C11111749400 39コマ



歩兵第45連隊第2中隊 陣中日誌(抄)
十二月十日 天候 晴

一、午前五時牛首山陣地ヲ徹し水口附近に於て大隊主力に合す。
一、鉄心橋南方に於て師団直轄となり、鉄心橋―西善橋道を小米行に向ひ前進、小米行南方に停止す。敵砲弾は約千米前方に盛に落下す。
一、車両部隊掩護たる上村小隊午後五時復帰せり。
一、本夜小米行南方高地に於て警戒待期せり。

山部作命第一〇四号 山本部隊命令の要旨

一、当面の敵は南京城南地区を占領しあり。師団は一挙南京城を攻略す。
二、両翼隊は朱家営南門を連ぬる線以西の地区より南京城西南側及西側に向ひ攻撃す。
三、大隊は師団予備隊となり鉄心橋―西善橋―小米行道を先つ小米行に向ひ前進せんとす。
  諸隊は午後〇時五十五分迄汪家街北端を先頭とし左記行軍序列を以て途上従隊に集合すへし。
2(1/3欠)1/4MG…尖兵中隊―200m―4…
以下略す

一、師団長注意

1、重要点を占領せは国旗を掲くると共に小部隊を残置すること。
2、採暖及戦闘上必要の外放火を厳禁す。
3、外国の旗を立てある場所に立入らさること。
4、化学実験隊、野戦防疫隊、掃蕩隊と共に城内に入るを以て、其指示に依り水・飲食物を使用すること。
5、日本大使館に至りし者は之を安全に保護すること。
  城内の西北側は外国の大公使館多きを以て注意すること。

中隊人員 一、中隊長以下一九三名

十二月十一日 天候 晴 於小米行南方高地
一、依然師団予備隊として小米行南方高地に待機す。
一、午前中兵器の手入をなす。
  早朝より第一線には銃砲声絶間なし。
一、午前八時上村小隊をして師団戦闘司令所設置作業に従事せしめ午前十時三十分終了帰隊せり。
一、師団給水班援助として派遣中の池田上等兵以下八名中隊に復帰せり。
一、現役歩兵一等兵 鎌田季典
  右は盲腸炎にて小米行第六師団野戦病院へ入院せしむ。
一、午前九時山下伍長以下二〇名を西善橋師団糧秣集積所警戒の為同地に派遣、赤星主計少尉の指示を受けしむ。
中隊人員 一、中隊長以下一九二名。

十二月十二日 天候 晴
一、小米行南方高地に待機す。
一、木場小隊は第六師団徴発隊掩護として午前十時現在地出発、午後六時西営村附近に於て中隊主力に合す。
一、中隊主力は午後二時三十分現在地出発、安徳門に向ひ前進し、同地附近に待機、夜を徹す。
 大隊は同地に於て歩兵第三十六旅団長の指揮下に入る。
一、西営村西南附近に於て左のもの負傷せり。

時刻 負傷の状況   階級 指名
午後六時 右大腿軟部盲管銃創 予・一 中園藤蔵
午後一〇時 左前?擦過傷 予・一 玉利種光

中隊人員 一、中隊長以下一九〇名。

十二月十三日 天候 晴
一、大隊は聯隊主力に復帰すへく正午西営村出発、水西門を経て下関に向ひ前進す。
  水西門北側地区には未た敗残兵ありて我に向ひ手榴弾を投擲す。捕獲射殺せり。
  午後七時炎帝巷着、聯隊長の指揮下に入り同地に露営、主として露営地南方及東方の警戒を担当せり。
一、露営地に於ける勤務員左の如し。
 部隊日直将校 上村少尉
 部隊衛兵 野島伍長 以下九名。
中隊人員 一、中隊長以下一九〇名。

十二月十四日
一、下関及獅子山砲台附近の敵を攻撃すへく午前八時炎帝巷出発北進す。大隊は聯隊の右第一線となり先つ炎帝巷東西の線に攻撃を準備せり。中隊は上村小隊を大隊の右第一線に、中隊主力は大隊予備隊となり第三中隊の後方を前進す。
  午前十時三十分頃下関南側附近に到着せは敵は既に敗退せり。
  敵の軍馬十数頭を捕獲せり。
  午後一時下関出発。上河鎮に向ひ前進、同地に露営、附近の警戒に任セリ。
一、宿営地には二、三〇〇の避難民ありて、之か取締を厳にし、特に軍紀風紀の維持に勉む。
(K-K註:以下略、中隊復帰者氏名、警戒について、宿営日課時限ほか)

十二月十五日 天候 晴 於上河鎮
(略)
一、斎藤少尉は二ヶ分隊を以て中隊警戒区域内部落の掃蕩を実施せしむ。若干の弾薬類を発見せるの外他に異常なし。
(略)

山部作命第一一二号 上河鎮露営司令官命令要旨

一、南京城内の掃蕩は其大部を終れる如くなるも南京城内外には尚相当多数の敗残兵散在しあり。
二、竹下部隊本部、山本部隊(1欠)、RiA、TiA、補充要員部隊は本十五日以後上河鎮に露営し附近の掃蕩を行はんとす。
三、各隊は別に指示する所に従ひ各々担任区域の警戒に任すへし。
(略)

十二月十六日 天候 晴 於上河鎮
一、上村少尉は各小隊より二ヶ分隊を以て一小隊を編成指揮し正午出発、宿営地南方部落の掃蕩を実施せしむ。
  若干の小銃弾等発見せるも別に異状を認めす、午後四時二十分帰隊せり。
(略)

十二月十七日 天候 晴 於上河鎮
一、南京城内中山路に於て入城式挙行され、中隊より上村少尉以下四〇名参列せり。
(略)

一二月一八日 天候 晴 寒気強し 於上河鎮
一、午後二時より南京明故宮南側飛行場に於て慰霊祭を実施せらる。
  中隊は之か参列のため中隊長以下八十名午前九時宿営地出発、宿営地東端附近に於て聯隊行軍序列に入り式に参列、冷寒厳しき飛行場中央に於て、陸海軍隊整列、極めて荘厳裡に施行せられたり。
(略)

『南京戦史資料集2』p.388-394

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『歩兵第四十五聯隊史』
鵜飼敏定(編集主幹)、歩兵第四十五聯隊史編纂委員会、昭和56年
pp.232-234
  一方、三叉河南東に進出した第二大隊は、部落に拠り頑強に抵抗する敵を攻撃、敵は既に城外にあり、背後は揚子江にはばまれ、正に背水の陣である。敵の抵抗が最も手剛く執拗であった。この頃上海に回送されて大隊に追及した機関銃中隊と大隊砲小隊が駆け付けて攻撃に参加、配属の速射砲小隊と第一線中隊の攻撃を支援するや、遂に敵は再び下関方向に退却す。一時クリークを挟んで敵の最後の抵抗があり、我は二十米のクリークの南北に於て撃戦、敵は迫撃砲の支援を受けたが多くの戦死者を残して退却した。幅二十米のクリークは長さ四・五十米に亘り、敵の屍体を以て填まる。
  第七中隊の前田吉彦少尉の指揮する小隊は、江東門西北、揚子江岸にある無線台を占領した。
  十四日、早朝下関に向った第二大隊は、敵の抵抗を受けることなく下関に至る。三十数門に及ぶ砲車及大量の小銃及機関銃並数百頭の軍馬を鹵獲した。又下関に於て五〜六千名に及ぶ敵の捕虜を得た。この頃城門から第十六師団が進出し、又揚子江には数隻の我駆逐艦が遡行して来た。大隊は江東門に下って宿営すべき聯隊命令に接し、戦場を第十六師団に申し送り江東門に下る。
pp.237-238
(注)南京攻略戦は完全なる包囲殲滅戦であり、戦闘行動による中国軍の損害は極めて多かった。占領直後の敗戦兵掃蕩戦に於て、当時城内に残った難民は二十万に及び、城の陥落により、完全な無政府状態となり混乱し、占領直後の敗戦兵掃蕩戦に於いて非戦闘員が巻添えをくい、住民の一部に損害が発生したと思われるが、武器を捨てて難民の中に混れ込んだ敗残兵を難民の中から区別する事は困難であった。聯隊も亦多くの捕虜を得たが、その収容施設もなく、余りに多かったので殆ど解き放った。南京攻撃は昼夜をおかぬ猛烈なる追撃戦に次ぐ激烈な堅陣地攻撃があり、特に下関に於いて敗走して来るてきの大部隊と遭遇して死闘を繰り返した我部隊は損害も多く、戦闘の特性上、激戦直後の将兵の敵愾心は強かった。殺すか殺されるかの切迫した状況下にあっては瞬間の油断が自分の死に連がるものである。


成友藤夫 歩兵第45連隊第2大隊 大隊長 少佐
手記『追憶』および証言(抄)
(K-K註:脚注として「『偕行』編集担当理事 久保三好氏(少24期)の尽力により取材した手記『追憶』、および証言をまとめて掲載する」と書かれている。)
  13日払暁、折からの濃霧を衝いて前進し、敵の抵抗を撃破して三叉河(下関南方約一キロ半)南方に進出した。三叉河は当面の敵が最後に抵抗したところである。揚子江以外に逃げ場のない、まったくの背水の陣である。敵は部落に依り頑強に抵抗する。とくに江岸に近い三階建ての大工場に立て籠った敵が最も手剛く、窓という窓の銃眼から、撃ちまくるので始末におえない。
  ちょうど折よく駆けつけてきた機関銃中隊、大隊砲小隊と配属の速射砲小隊に掩護射撃をさせ、放火したので、さすがの頑敵も抵抗を断念して、クリークの北岸に潰走したが、その大部分は、わが銃弾にたおれた。わが第一線は早速、部落を占領してクリークの南岸に進出したが、約二十メートルを距てた北岸から猛射をうけ、さらに迫撃砲弾が飛んでくる。二十メートルの近距離で互いに射ち合ったのは、初めての経験であった。二十分ばかり撃ち合い、敵は多数の死体を遺棄して下関方向に退却した。
  クリークは長さ四十〜五十メートルにわたり、全く敵の屍体をもって埋められ、これを踏んで渡るという景況を呈した。
  ……時既に薄暮、聯隊命令により、現在地で態勢を整え、明14日、下関に向かう前進を準備した。この日は、朝からの混戦であったので、敵に与えた損害は勿論わからぬが、死者数百に及んだであろう。大隊も戦死十数名を出した……
  14日、南京攻略最後の日である。早朝から前進を始めたが、昨夜迫撃砲を射撃していた敵は、ひっそりとして銃声一発もない。往く往く、砲車三十数門、自動車十数輌、小銃、機関銃など、数えるに遑ないほど鹵獲した。
  英国旗や米国旗を掲げた家屋には、多数の中国兵が隠れていたが、第三国の国旗の下ではどうすることもできない。途中、敵の抵抗をうけることなく下関に到着すると、中国兵が広場一杯に溢れている。悉く丸腰である。幹部らしいものを探しだして集合を命ずると、おとなしく整列した。その数五千〜六千名、腰をおろさせて周囲を警戒すると、これからどんなことをされるかと思ったのであろう。おどおどした表情の者が多かった。
  そこで、「当方面の戦闘はこれで終わった。日本軍は捕虜に対しては、乱暴は加えぬ。生命は助けてやるから、揚子江を渡って郷里に帰れ」と言った。
  ところが、「大人は揚子江を渡って帰れと言われるが、船がないではないか。船はどうしてくれるか」と申し出たので大笑いとなった。かれこれしているうちに、城内から第十六師団が進出してきた。また、江上には数隻の駆逐艦が遡航してきて、威風堂々と碇泊し、その乗組員の一部が上陸してきた。折りから、「江東門に下がって宿営すべき」聯隊命令に接したので、第十六師団に申し継いで後退した。このとき、第八中隊は、中隊長以下全員、鹵獲馬に乗り意気揚々としていたのであるが、秣がないので放棄してしまった。
「証言による「南京戦史」第6回 『偕行』昭和59年9月号 p.8



下園 歩兵第45連隊第6中隊 上等兵
第六師団転戦実話 南京編「座談会記/歩四五 U・六」(抄)
〇下薗上等兵
  三千の捕虜を見て 良い指揮者でもあつたら相当なものだがと空恐しいやら 国体観念のなさに呆るやら

「第6師団転戦実話 南京編 3/4(1)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111749400 43コマ



鞍掛 歩兵第45連隊第6中隊 軍曹
第六師団転戦実話 南京編「座談会記/歩四五 U・六」(抄)
○鞍掛軍曹
掩蔽壕の中の敵を次々と引ぱり出して斬つてゐるうち 突然轟然と音がしました
敵兵が自ら手榴弾を以て爆死したのでした

「第6師団転戦実話 南京編 3/4(1)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111749400 43コマ



前田吉彦 歩兵第45連隊第7中隊 小隊長 少尉
日記(抄)
十二月十四日

(略)
  午後第三大隊が下関から帰って来て江東門一帯に宿営することとなり無電台もその大隊本部に明け渡すこととなった。
  第二大隊は上河鎮だそうだ。十一日来十二日にかけて第三大隊が血をもって占った上河鎮はクリーク沿いの田舎町だった(江東門は之に比べると立派な街だ)。
  間もなく中隊が帰って来た。早速中隊長に申告し昨日の状況を伺う。
「十三日の朝まだ闇かった中に出発、ところが後の方でドンドンパチパチ始まったね。前川大尉負傷岩間少尉戦死。ホラ陸海空軍監獄ちゅうことがあったろうが、あん辺で水西門の方から横腹を突かれっせ(突かれて)肉弾戦じゃったらしい。おいどんないけんもなかったよ(俺は何ともなかったよ)。午後は下関の手前のクリークで撃ち合いじゃった。ウーンずんばいやったよ(とても多かったよ)。クリークが敵の屍体で一杯になった位よ、さあ何百人じゃろかい数へがないもんかい(数えることが出来るもんか)。今朝六中隊が先頭で愈々下関だとハリキッて行ったら敵の奴呆気なく白旗をかかげて降参さ。何しろ此方は三日も四日も顔を洗らっちゃ居らんし鬚ボーボー汚れて見いがなるもんや(見られたもんじゃないよ)。大隊長を先頭で山男の行列が行ったところが道の両側は中国兵がいや居るの何のってまるで黒山のように集まってるもんで、通訳に山本大尉が『銃を捨てろ』と云わせると忽ち銃や剣の山が出来る有様さ、馬に乗っているうちの大隊長が余程偉くみえたんだろうね中国兵が一斉に拍手したよ。あの心理はどう云うだろうね、どうやら戦いが済んだ、これで殺される心配はないと云うところじゃろかい。パチパチと拍手するんでまるで狐に化かされたみたいさ。あれにやひったまがつた(吃驚した)。さァ、どしこ(どれだけ)居ったろかい、何千じゃろかい何万じゃろかい。
  山本大尉が演説したとよ(したんだって)。
  『君達は良く戦った然しもう戦は終ったんだ御互い仲良くせないかん。蒋介石総統は膺懲せにゃいかんが君達忠勇な将兵には怨念はないのだ。宜敷く武器を捨て鋤をとり新中国新平和の建設に働き給え。懐しい肉親や同胞郷里の人達の待つ故郷に帰り平和をとりもどすようにしたまえ。 サラバ』。と云う訳さ。
  誠に寛大極りない温情だろな、ソーヨ揚子江を渡って帰れち云うたとよ(帰れと云ったそうだ)。そーしたら隊長がね、わたる舟をいけんしてくるっとかち(どうしてくれるのかと)云うからよ、これには困ったね、大笑いさ。さああんな大変な捕虜を一体どうする心算りじゃろかい。彼等にしてみれば捕虜になった方が一番よ。生命は保証されるし飯は食わせつくるつし(食わせてもらえるし)こげな良か話があるもんか。
  城内の片付け使役位にはもって来いだろうが保安隊に改編させても良いだろうがこいは何時の事じゃろかい。実際のところ食わす丈で大変なこつじゃね。まそんあことでこの厖大な捕虜をそっくりそのままあとから来た九師団(十六師団?)に渡してさっさと帰って来た。とこうさ」。
  その夜は久し振り中隊長を囲んで松本、野元少尉へ屋准尉と焼酎の盃をあげて南京陥落の祝盃をあげた。

十二月十五日
(略)
 江東門の中央に「南京陸海空軍監獄」という厳しい建物がある。十三日の朝濃霧の中で突如混戦乱闘を惹起した処である。殊に第三歩兵砲小隊の岩間少尉はこの渦中に突入し壮烈な戦死を遂げたと聞いた。同氏は少候十五期前田少尉より一年ばかり前の温厚沈着な人だった、追慕せざるを得ない。
 江東門から水西門(城門)に向い約二粁石畳の上を踏んで行く途中この舗石の各所に凄惨な碧血の溜りが散見された。
 不思議に思いつつ歩いたのだが後日聞いたところによると十四日午後第三大隊の捕虜一〇〇名を護送して水西門に辿りついた折内地から到着した第二回補充兵(副島准尉溜准尉等が引率し、大体大正十一年から昭和四年前佐道の後備兵即ち三十七八歳から二十八九歳の兵)が偶々居合せ好都合と許り護送の任を彼等に委ねたのだと云う。やっぱりこの辺がまづかったのだね、何しろ内地から来たばかりでいきなりこの様な戦場の苛烈にさらされたため些ならず逆上気味の補充兵にこの様な任務をあてがった訳だ。
 原因はほんの僅かなことだったに違いない、道が狭いので両側を剣付銃砲で同行していた日本兵が押されて水溜りに落ちるか滑るかしたらしい。腹立ちまぎれに怒鳴るか叩くかした事に決まっている、恐れた捕虜がドッと片っ方に寄る。またもやそこに居た警戒兵を跳ねとばす。兵は凶器なりと云う訳だ、ビクビクしている上に何しろ剣付銃砲持っているんで「こん畜生ッ」と叩くかこれ又突くかしたのだね。パニック(恐慌)が起って捕虜は逃げ出す。「こりゃいかん」発砲する「捕虜は逃すな」「逃ぐるのは殺せ」と云う事になったに違いない。僅かの誤解で大惨事を惹起したのだと云う。
 第三大隊長小原少佐は激怒したがもはや後のまつり、折角投降した丸腰の捕虜の頭上に加えた暴行は何とも弁解出来ない、ことだった。
かかること即ち皇軍の面目を失墜する失態と云わざるを得ない。
 この惨状を隠蔽する為彼等補充兵は終夜使役されて今朝になって漸く埋葬を終ったる由。非常と云うか、かかる極限的状態においてともすれば人間の常識では考えられない様な非道が行われると云う実例である。
(略)
『南京戦史資料集1』P357-358



奥田 歩兵第45連隊第7中隊 軍曹
第六師団転戦実話 南京編「南京附近の戦闘/歩四五・U/七中隊座談会より」(抄)

奥田軍曹
下関の戦斗後 引きかへして上河鎮でのことであります
多分十二時頃だつたてせう 漸く宿営することになりましたが 水を汲むのがとても一苦労です
そこで宝来伍長が 難民中に一番役にたちさうな若い奴をつれて来ました 「水を汲め」と命ずれば「いや」と首を横にふります
「こ奴けしからぬやつ」とうんとおどしつけておいて
「水を汲め 今度は野菜を取つて来い 次何だ 彼だ」と追ひ廻してこき使つてゐるうち  とう/\へたばつてしまひました
そしてしばらくして
「紙と書くものを貸してほしい」と言ひます 書かせてみると
「自分は旅長である 降伏の意志をもつてこゝに留つてゐた 部下は四散してしまひ 何処へ逃亡したわからぬ 然し副官は尚、難民の中にゐる筈だ」
といふ意味のことを述べてゐます
それではと言ふわけで早速難民の中をそれらしのを探してみましたがだめでとう/\判りませんでした
屋田准尉殿が その夜は得意の支那語で色々と訊かれました
旅長と言へば大したもの 苦力の仕事を拒んだのも無理からぬ話でした

「第6師団転戦実話 南京編 3/4(1)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111749400 22コマ



笹原 歩兵第45連隊第7中隊 軍曹
第六師団転戦実話 南京編「苦力閣下/歩四五・七 笹原軍曹」

  敵の牙城南京陥落の日の事でありました
下関の掃蕩戦に敗走する敵兵は 我が迅速なる急追撃に殆んど為すところを知らず 遂に支離滅裂となり 大部分の敵は捕虜として捕虜収容所に収容しました
世界戦史にかつてない無類の敵首都南京入城の金文字塔を企■した大隊は南京の西北方約四粁にある 上河鎮に一泊して此処で戦塵を払つて英気を養ふ事になりました
紫■色の夕靄が家屋の軒並に漂ふ頃 自分の戦友宝来君が 附近の難民区から一見四十才前後の男を
「そら 苦力代用だぞ」と云つて連れて来ました
六尺豊の大男で 偉丈夫と云つた形容詞の方がピツタリと当てはまる位 何処となく人品の具つた男でありました
余り乗気でないらしい奴をせきたてゝ 室内外の清掃は勿論 便所まで隅なくやらして 水汲までやつてもらふ
二回三回までは水運びもどうにかやり通したが 四回目頃になると額に皺を寄せて 肩が痛むと云ひ出しました
宝来君は馴れたもので 拳固一つコツンと進上に及んだ
すると苦力は筆紙の拝借を所望します
借してやると
「私は日本軍に告白の意志あり」と達筆ですら/\と書きました
「奇妙な奴だナー」と覗くと
「私は今迄南京に居て 支那軍の陸軍少将で 直轄領袖麾下の親衛軍旅団長として戦線に参加して来ました 然し最早蒋政権崩壊の情勢を目の辺り見ては 潔く兜を脱ぎます」と
書き足した
宝来君と私は何時の間にか顔を見合わせゐました 早速中隊本部に連行すると支那語に通じた屋田准尉殿の訊問が始められました 支那軍の情勢を聴取した後 将校待遇の食事を与へたら 余程空腹だつたと見えて一物も残さす食ひました
この苦力閣下は大隊本部を経て聯隊本部に上送となつた模様で 其の後の彼に就いては皆目知りません
当時の事をそゝ゛ろ思ひ出しては敗戦の将の生きんが為に 苦力まで凋落した惨さに憐憫の情を禁じ得ませんでした
顧みて皇軍を惟ふとき 一心同体大君の御楯となり 命令一下莞爾として九段の華と散る身に生れた幸を感謝してゐます

「第6師団転戦実話 南京編 3/4(1)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111749400 44コマ



牧野 歩兵第45連隊第7中隊 軍曹
第六師団転戦実話 南京編「敗残兵/歩四五・七 牧野軍曹」(抄)

  下関掃蕩の時でした
我部隊の退路遮断に敵は逃場を失つて袋の鼠同然となりました
下関に這入ると間もなく多数の兵器を鹵獲した上に 敵兵数百名を捕虜としました
それより中隊は 部落内に敗残兵が居るとのことで掃討に移りました すると家の中に六名の敗残兵が盛んに食事をしてゐます 不意でしたのでむかふ事も出来ず呆然としてゐます 此の生死の境に すまして食事をしてゐるチヤンコロを前にして 此の呑気なのに 私達の今迄張つてゐた体中の神経が弛んで思はず苦笑しました

「第6師団転戦実話 南京編 3/4(1)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111749400 45コマ



浜崎富蔵 歩兵第45連隊第11中隊第1小隊第1分隊 分隊長
日記
※K-K註:本資料は『ゼンボウ』昭和60年5月号に掲載された「参戦者の日記を発掘!私は南京戦に参加した『南京戦』歴史への証言」から引用している。防衛研究所の目録に「支那-支那事変上海・南京-416/浜崎富蔵日誌 昭和12年11月1日〜12月21日」が掲載されているが、アジ歴には掲載されていない。個人資料の為、閲覧できない可能性はある。
十二月十三日
少しまどろむ暇があったのだろうか、六時三十分と歩哨の呼び声に目を覚まし皆を起こし、現地徴発米の凍結したばらばら飯を、おかずなしに、食べるというよりもかじっての朝食をとる。あたりはまだ暗い。「整列」「前進」そのとたん、ばんばんばんと銃声と共に一斉射撃を受く。敵襲!皆がばっと地に伏す。すると喇叭の音も高く、鳥のような異様な声の喊声をあげて敵が迫る。
軽機前へっ!と叫びながら河岸の低地から堤防上に飛び出し、敵に向かって右側に松元射手と二人で伏す。ここは分隊長と射手だけでよし、外の者は顔を出すな、と命じ敵をにらむ。第二分隊(分隊長・宮園伍長)は左側に配陣した。
(略 K-K註:戦闘状況の描写)
どこからともなく、中隊長戦死の声が耳に入る。急いで小隊長の許に駆け着けると、中隊長は戦死して横たわっていた。そこは夜明け前まで、私と宮園が陣地に着いていた堤防の下であった。
(略 K-K註:中隊長との最後の会話)
午前十時頃、援軍が駆け着けた時は既に敵を撃退した後であった。
(略 K-K註:中隊長の戦死直前の状況)
押し寄せた敵は幾千の屍体を遺棄して、あるいは河中に飛び込み、または筏から舟から敗走し、かろうじて我らの左側を河畔伝いに脱出した敵も、後方にいた師団騎兵連隊によって全滅されたという。
戦いが終わり、中隊は戦死者・負傷者を収容した。負傷者の痛々しさ、戦友の亡がらに無念の思いをよせ、午後は火葬の準備にかかる。負傷者を運び移した仮繃帯所は寺院であった。第一・第三小隊は負傷者警護のために付近に泊まり、第二小隊は大隊主力のもとへ出発する。
(略 K-K註:哨戒勤務、戦死者の火葬、中隊の損害状況)

十二月十四日
  警戒の一夜は明けた。午前八時出発して大隊本部のいる江東門に向かう。通過する各部落など屋根型鉄条網を張りめぐらし、想像以上に防禦設備は完備しその堅固さに改めて驚いた。
  途中の支那兵営などを見つつ中央陸軍監獄所に着し、ここが宿泊所となる。負傷者もここに移られるらしいが、刑務所というには明るい建物だ。
  中隊正面に来襲した敵軍は約二万とか称せられ、将官や参謀長を倒し、軍旗数流を奪って、後日師団長命で調査確認した敵の屍体数は二千有余と伝え聞いた。

十二月十五日
(略 K-K註:隊業務)
  浜田小隊長が、牛島旅団長を案内して新河鎮の現場視察に行った留守中には、連隊長をはじめ各大隊長や各中隊長が次々と、戦死した大薗中隊長以下の遺骨の礼拝にみえる。内地からの補充要員も多数到着する。

十二月十六日
  午前十時から兵器検査。
  補充要員四十名が新しくわが中隊員に加わった。
(略 K-K註:戦死した中隊長の遺骨について)

十二月十七日
  入城式には、今日まで全く無傷の第二分隊九名が第一小隊を代表した参加するため出発する。

十二月十八日
  軍の慰霊祭参加のため、午前九時三十分ごろ宿営地を出発して城内の飛行場へ向かう。かなり歩くと古風な頑丈な城壁門に着く。水西門らしい。外側手前には河が流れ橋は破壊されて惨たんたる情景で、四重の城門は土のうをもって埋め確く閉ざしてある。
  城壁上の望楼も焼け落ちているので、城内の惨状を想像しつつ城門をくぐると、豈はからんや、建物はさほど破壊されてはいない。建物等は特に珍しい物もないが、さすが一国の首都らしく、古風の城壁に似ず道路は広く明るく、アスファルトで舗装され立派なのに驚く。
  途中星条旗を掲げている建物などが珍しくかつ腹も立つ。

十二月十九日
(略 K-K註:隊業務)

十二月二十日
  連隊は南京の南、太平府に移動することになり、設営のため中隊より兵十名を連れて、午前七時大隊本部で各中隊員と合流し同道城内に入り、第二大隊や師団司令部前を通り南門に向かう。師団が激戦をした中華門を通って太平府―蕪湖に通ずる幹線道路に出る。
「参戦者の日記を発掘!私は南京戦に参加した『南京戦』歴史への証言」『ゼンボウ』昭和60年5月 全貌社



福元続 歩兵第45連隊第11中隊 上等兵
日記(抄)

※K-K註:本資料は南京戦史編集委員会編、偕行社刊『南京戦史資料集2』に掲載されている福元続日記から抄出したものとなる。『南京戦史資料集2』に掲載されている日記では、昭和12年12月10日から12月23日まで毎日記述されている。

十二月十三日 晴天 上河鎮
 予定が変り中隊と工兵一コ分隊、山砲一門、現地より河にそって追撃戦の別命を受ける。それで午前六時三十分出発すると敵の斥候が来て、とうとう四万程の敵に包囲された。残念ながら弾は無く、友軍との連絡は取れず、どうも困った。でも天のたすけと言ふか敵の戦死者の弾を取り、又射撃す。自分は擲弾筒にて射撃。四五百人は殺した事であろう。とにかく小銃にても射った。その一発で四人も殺した。こんな楽しいことは初めてで有った。敵の死者は六千人余は有りとの事だったから、足のふみ場は無かった。中隊も戦死は中隊(長)以下十四名、負傷者が三十五名程で有った。自分達は泣くに泣かれない有様。
  今度こそ敵を良く射す。しかし又、戦友のかたきを打たなければならない。今度(又)の戦闘にしよう。戦闘は十一時頃にて終った。
(略)

十二月十四日 晴天 上河鎮出発
 午前八時出発して大隊復帰す。
  南京城外陸海軍刑務所に宿営、大隊全部現在地にて午後は徴発に行く。まことによかウンが多く、美味かった。

十二月十七日 晴天
 午前十時より道路掃除し支那兵の死者等をかたづける。
◎又、入城式に参加、其から帰りて洗濯等致す。
  今日は負傷した岩崎君がとうとう死す。残念な事であった。

十二月二十日 曇天
 午前中は休養す。午後より上河鎮に行き敵の死者を数へて見る。一コ小隊行って二千三百七十七人で有る。河に流れて死んだ者が多かったとの事でした。
『南京戦史資料集2』pp.385-386



西盛義 歩兵第45連隊第3機関銃中隊 軍曹
第六師団転戦実話 南京編「上河鎮の激戦から下関附近まで/歩四五 V・MG/歩兵軍曹 西盛義」
  十二月十三日払暁 部隊は上河鎮から江東門に向ふ時でした 突然正面より例のテラ/\喇叭をふいて敵大軍が突撃して参りました
道路上に待期してゐた先兵の前川隊と小川小隊は 日頃の手練銃を据へるが早いかこの敵に猛射を集中しました 前川隊長は先頭に立つて突入されます 我遅れじと将兵一団となつて突入一大修羅場が展開しました
其処にも彼処にも 遠くにも近くにも
ハーツ/\と云ふ喊声 剣戟の響き 火花を散す様な壮烈な白兵戦が間断なく続けられます
息詰る様な争斗です
土煙砂煙 血しぶき もう一人として血達磨ならざる者はありません
敵は又々新手を加へて押し寄せて来ました
我々の愛銃は猛然と之に応じます 敵ひるむと見るや友軍再び銃剣を振つての肉弾戦です
文字通りの乱戦混戦です 死斗又死斗
悪鬼の如くなつて荒廻る戦友達の銃剣のもとに 敵の屍は山と折り重り 血は流れて木も草も田も道も赤く染めて行きます
然し我に数倍する敵は 三度四度猛烈な勢で逆襲して来ました 死物狂いです 奇声を張り上げつゝ入り変り立ち変り 実に良く手榴弾を投げました
無念にも友軍の死傷者も刻々数を増し 悲痛な万歳の叫びが銃声をぬうて聞えます
もうその頃は無我夢中でした
先頭にあつて指揮して居られた前川隊長殿も斃れられたと聞きました これに憤激した将兵は火の玉となつて阿修羅の如く荒れ狂いました
戦場が少し整理された時 部隊本部は敵の右側より猛烈な斜射を浴せて居ました
三輪小隊は小川小隊の左側前方一軒家附近に進出して応戦しました その時谷口分隊は勇敢にも道路上に飛び出し猛烈に射ち捲つて居りましたが 敵は早くも之を発見して 火器を揃へて集中します
危い と云ふ間もありません
廣脇 大城 宿口 福久と谷上等兵が次ぎ/\に傷つき斃れて行きます
応援に行き度いが夕立の様な敵弾下です
如何ともする事が出来ませんでした
この有様を見た宮崎分隊は意を決して 各個躍進で前進し始めました 銃手であつた久保園上等兵が先ず辿り着きましたが後が続きません 銃架は未だ到着しません
咄嗟の機転 銃身を堤防に据へて射撃をして居ます 前方三十米電柱を陰に墓地を利用した敵重火機は 久保園上等兵の不意の射撃で沈黙しました
谷口分隊の徳重伍長も遂に腹部に一弾を受け 傷つき乍ら射撃を止めませんでした
この間歩兵砲隊長 岩間少尉殿も戦死されましたので 中村隊長は三部隊を指揮して居られました
田畑小隊は弾雨を冒して弾薬を補充し 我々の活動を有利に導きました
斯くて頑強に抵抗した敵の陣地も 我々の猛射に次ぐ  小銃部隊の突撃で一つ一つと我が手に占られ 敵最後の死物狂の戦意も漸次 泡の如く消え去るかの様に見えました 右往左往逃げまどふ敵に我が銃火は追いすがる様に之を殲滅しました
数千の死屍は一面を黒一色に塗りつぶし その壮観言語に絶するものがります
折しも南京城頭には数十旗の日章旗がはた/\と翻つてゐる
「吾 勝てり」と云ふ感激に胸も張り裂くばかりでした
任務を完了した喜悦の涙でしようか それ共多くの戦友を失つた悲憤の涙でしようか
訳の判らぬ涙がこみ上げて来て仕方がありませんでした
戦友達のよごれた頬にも 皆涙が光つて見えました

■て私の御話は余りに情景を美化してしまひました
実際はお話になら程きたならしいものでした どの戦友も皆悉く臭気ぷん/\鼻をつくといつた有様です 汗やよごれ計りではありません
皆一様に糞まみれです
何しろ数万の敵軍が頑張つた陣地です そこを低い所/\と選んでは伏せ 匍匐しては進みます 無我夢中です
ピタリと附けた鉄兜にはもうベツトリと附いて居ます
胸と言はず 腕と言はず 体一面泥団子の様に附いてゐる 後にも先にも此んな抗日侮日の糞攻めに会つた事はありません
戦いすんでホツト一息 生きて居たぞと自分に返つた時 臭い事/\支那兵のだと思いますと 一層臭く癪に障つて仕方がありませんでした
部隊は息つく間もなく北河鎮に向つて急追の手を緩めません 鰻小隊は先兵中隊配属となり己に畠地に陣地進入して居ります
有村小隊は五中隊の掩護で猛射を続けて居ります 三叉河附近の大同麺紛公司の倉庫からは無数の銃眼が我々に最後の火蓋を切つて居ます
敗敵乍ら敵の陣地は堅固です 私共は遮蔽し乍ら早速陣地を構築し初めました
丁度其の時後方から山砲隊が附近に進出して掩護を初めました
我々も此れに勢を得て遮蔽する丈けの陣地が出来ると 即座に猛射を浴せました
然し敵もさる者 迫撃砲 チエツコで一斉に応戦 特に山砲陣地に火力を集中します 我山砲は入神の早術で矢継早に巨弾をたゝき込んで居りました
敵迫撃砲弾が砲列間近に炸裂したと思つた瞬間 砲員全部アツト云ふ間に打ち倒されました
砲煙消えやらぬ中から分隊長らしい人がふら/\と立ち上りました 全身血達磨です 左手で顔面の血しぶきをサツト拭きました
一人で弾を装填してゐる様です 大きな号令が聞えました 耳をつんざく発射音 憤怒に燃える形相物凄く 一人で悲憤の砲撃を続くる此の山砲兵の鬼神の如き働きに 私達は自分の任務も忘れて 暫くみいられた様にその一挙一動を見守りました
初めて見る他兵科の斯の如き悲愴壮絶 鬼神をも泣かしむる勇敢な働きに 只々頭の下る思ひが致しました
かゝる勇猛な攻撃に敵しかねた倉庫附近の敵は算を乱して退却し始めました 黒瀬分隊は一気に飛び出し之の敗敵に猛火を浴せる
私共も何処をどう走つたか判らない 兎に角逃げまどふ敵を追つて 射つて/\射ち捲りました
数百の敵死体を踏み越え乗り越え何時の間にか揚子江岸に出ました 江上を見れば筏に戸板に 小舟に蟻の様にたかつた敵兵が逃走をくわだてゝ居る
愛機は快調の火を吐く 敵の集団は次ぎ/\にその影を水底に没して行きます
揚子江上には早我海軍の   来る様子
これとも手旗信号により連絡もとれました
敵は完全に退路を断たれたのです
前進命令に依り焼け落ちる製麺公司を後方に見乍ら 気力なき敵の逆襲を排撃しつゝ工兵の手に依つて急造された 敵死体の橋とも云ふ可き気味悪い橋を渡つて無名部落に入りました
此処で大休止 夕食を炊いて連日連夜の疲を休めました
南京城内は未だ赤々と燃えて居ります
思ひ出した様に流弾が飛んで来ます 気の抜けた様な逆襲もあります
我相手にせずと云つた形で皆グウ/\寝て居ました
私が四度目に立哨する頃夜か明け初めましたが その頃から白旗を先頭に三々五々列をなして降参して参りました
此等の武装解除をして 本隊に申送るのも却て忙しい仕事でした
下関に行つて驚いた事には 敵の戦車野砲自動車 小銃重機弾薬 其の他の物資がそれこそ山の様に散乱して居る事でした
捕虜は四列に列ばせて申送り 完全に下関を掃蕩し 海軍陸戦隊の万歳の声を後にして 輝かしい太陽を仰ぎつゝ主力部隊の集結地である中央軍人監獄の広場に帰りました
抗日蒋政権潰滅の日です 私共は戦友と初めて今は亡き多くの戦友の奮戦最後の様を語り合ふ心の余裕を見出しました
そして心から此等尊き犠牲者の冥福を祈りました

「第6師団転戦実話 南京編 3/4(1)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111749400 36コマ



「証言による「南京戦史」」掲載資料 歩兵第45連隊
・歩兵第四十五連隊史(第6回 p.7 3段)
成友藤夫 歩兵第45連隊第2大隊 大隊長 概要:手記『追憶』・証言 12/13三叉河南方での戦闘、クリークに敵の死体、12/14下関到着、中国兵5000-6000名を捕虜とするが後に解放、12/15-12/21城内警備(第6回 p.8 2段)
・浜崎富蔵 歩兵第45連隊第11中隊 軍曹 概要:所見 同連隊が下関で捕獲した捕虜について、関係したのは第9中隊・第10中隊の可能性、白旗を掲げる中国兵約1コ小隊を殺害したと証言する者がいる、大虐殺ではない(第11回 p.9 1段)




■第6師団(歩兵部隊以外)

村上正良 騎兵第6連隊 中尉
第六師団転戦実話 南京編「菜庄附近将校斥候の想出/騎六ノ一/騎兵中尉 村上正良」
 昭和十二年十二月十三日 我が軍の猛攻により南京城も完全に我軍の手に帰しました
其の日退路を失つて数千の大軍が正に蟻路黒影と云ひませうか 揚子江の右岸に沿って 雲霞の様に雪崩をうつて敗走して来ました 聯隊はこれを巧妙なる作戦により 殲滅を期して交戦 其の意気軒高 其の勢は決河の如く 遂に此を再び立つ能はざらしめました
自分以下三十名 上河鎮の一土民家屋で中食をとつてゐますと 聯隊令(K-K註:「命」の誤字か)令が達せられました
時恰も一二〇〇
「村上少尉ハ兵五騎ヲ卒ヒ 上河鎮―江東門―菜庄道ヲ前進シ 該地附近ノ敵情 地形特ニ橋梁ノ有無ヲ偵察スベシ」
自分は牧野信人 石走善吉 加藤丈夫 工藤映雄 井上義春の五名を選抜し任務を示し 完全な準備を整へさして目的地に向ひ馬を進めました
破壊された敵の各種掩体 石畳の上に滴つてゐる鮮血 累積してゐる敵の遺棄死体 切断された鉄条網 放棄せられた多数の兵器被服 其の様は昨日迄の戦斗が如何に激しかつたかを 如実に物語つてゐます
江東附近で敵兵数名敗走するのを認めました 又出発地から北進すること四粁附近に於て 敵が二十名余り集結してゐるのを 加藤一等兵が視察して報告して参りましたので 直に徒歩戦を決行しました
自分達は敵の猛射を浴び乍ら速に之に接近し 一斉に射撃を開始しました 射弾は面白い様に命中 敵がクリークの中に顛落する様は実に痛快です 寸時にして之を撃滅する事が出来ました
勇気は益々ふるひ立ち 再び馬上に寒風を切つて前進すること数百米 又々四五十名の敵に遭遇 再び徒歩戦を決行し数分にして之を西方に潰走せしめ 横はる敵屍の間を縫ふて急進目的地に到着 直に附近を偵察して伝令二騎を以て聯隊長に報告しました
自分は残余を以て附近を偵察し乍ら帰路につかうとした時 菜庄東方部落に三十名余の敵兵が居るのを発見しました
小銃弾はしきりに何処からか飛来し 迫撃砲弾は附近に炸裂します
自分達は機先を制して該敵に向つて猛烈果敢なる乗馬襲撃を敢行しました 敵は周章狼狽施す術を知らず 全く大混乱を呈しました
倒れて悲鳴をあげる者 鮮血に塗れて右往左往する者 自分達は思ふ存分馬上に軍刀振ひました
此の時勇敢な石走一等兵は平素より心得ある支那語で 私の意志を訳し 先ず
「闘志の有無」を問へば
彼等曰く
「全く無し」と
附近の敵兵を誘致すれば 其の一兵は
「中国兵 多々有」と云ふ
石走一等兵は巧に支那語を操り 敵兵に全く戦意を失はしめ 降伏させ 集合する様に命じますと
部落から続々と出て約二百名集りました
其の武器はチエツコ機銃三 小銃一三〇 拳銃六 弾薬手榴弾等多数
彼等は頻に助命の講願します 其の有様は実に憐で敗戦の悲惨さを痛感しました
斯く無事に任務を遂行し 多大なる成果を挙げ得た事は御稜威の然らしむる事は勿論ですが 一つは斥候員の勇猛且適切なる行動に依るものと信じます
任務を果たし 聯隊長殿の下に斥候員一同意気揚々と引上げた時は 既に暗く 北斗七星は淋しくかゝ゛やいてゐました

「第6師団転戦実話 南京編 3/4(4)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111749700 12コマ



中川誠一郎(仮名)(69歳) 野砲兵第6連隊所属 分隊長
手記「今日死ぬか、明日死ぬか」(抄)(『揚子江が哭いている』pp.58-61)

 上陸後、太湖の南を回って南京へ向かい、十二月上旬、南京攻略作戦に参加することになった。われわれは中華門側からの攻撃である。はるか前方に南京城の高い壁が遠望できる小高い丘へと砲を進めた。”講和条約の締結が進展中で戦闘はないかも知れない”といったことをわれわれは聞いていた。
 そんなことを話しながら第一分隊を先頭に砲列を敷こうとしていたとき、南京城内の砲台から一発の砲声が轟き、第一分隊を直撃、野砲兵の何人かが砲もろとも吹き飛ばされて二人が即死した。「これが、敵の回答だ!」ということで、そこから一斉攻撃が始まり、南京城攻撃の火蓋が切られたのである。
 とにかく撃ちに撃った。猛攻を浴びせて、「撃ち方やめ!」の合図とともに、最前線の歩兵が突っ込んでいく。城外の敵を追い散らしながら城壁に向かって壕から壕へと進む。次の壕に入ると、そこで日の丸の旗を振り、砲兵が敵、見方を間違えないよう合図された。また砲撃が始まる。
 その何度目かの繰り返しのあとだった。再び、「撃ち方やめ!」の号令が発せられ、私が砲手に反復したのと砲手が砲を発射したのと、ほとんど同時だった。”しまった”と思って双眼鏡を目にあてた。その視野のなかに、砲撃の間、身をひそめていた歩兵が身を起こし、いっせいに城壁へ向かう姿が映った。わが砲から発射された最後の一弾は、その真っ只中に炸裂、何人かの味方の兵が吹き飛んだのである。激戦の最中であれば誰も咎められることはない。味方の砲撃を浴びて死んだ兵も、”名誉の戦死”となる。われわれはその兵の家族の悲しみなど考えるゆとりもなく、次の砲撃へと移っていった。
 さしもの南京城もついに陥落した。われわれ野砲兵は正規の入城はなかったが、私は冒険心で城内に入った。城壁の上から自分たちが戦った地点を双眼鏡で見ると、大きな石で十文字が描かれており、その交差点で第一分隊がやられたことがわかった。現場では一つの大きな石の横を通過したつもりが、それは敵が何度も試射を試みたであろうところの照準点だったのである。私の分隊が先頭だったら私たちが死んでいただろうと身震いした。
 われわれは南京城を素通りして、ただちに蕪湖へと向かった。南京市内の揚子江の港である下関を通ったとき、延々と約八キロメートルにわたって何百台という自動車が破壊され、黒焦げになっており、その左右に、これまた何百人にのぼるであろう住民の死体が老若男女を問わず、転がっているのを見た。南京城が陥落する前に、港へ逃げた住民たちが揚子江上の日本陸軍戦隊から機銃の一斉掃射を浴びて大量に殺されたことを聞いていたので、その住民たちだと思った。
 蕪湖に向かう途中、兵の宿舎や馬屋を作らせるために野砲兵から設営隊を出したことがある。そのときは二十五人の設営隊が、労役をさせるための地元住民を連れに近くの村へ出ていった。途中で一人の敗残兵を捕え、「もっといるはずだ」と追及したところ、その捕虜の呼び掛けで、白旗を掲げた敗残兵が二百人近く出てきた。
 二十五人でその捕虜群を率いて、歩兵の駐屯地へ行ったところ、歩兵の上官から、「お前たちが捕虜を連れ回って戦さができるか!」と一喝され、捕虜を歩兵に引き渡すことになった。その場で二十歳ぐらいの若い中国兵が逃げ出した。歩兵の何人かが拳銃を抜き狙い撃ち、なかなか当たらなかったが、そのうち一発が命中した。若い中国兵は声もたてずにバタッと倒れ、そのまま動かなくなった。
 そこで残りの捕虜を歩兵に引き渡したわれわれ野砲兵は、そのまま目的地に向かったのだが、数日後、あのときの捕虜はみんな殺されたと聞かされた。その前日にも、三百人近い敗残兵や住民が捕虜となり、鉄道線路に添って並ばせられ、歩兵による機銃掃射で皆殺しになったと聞いたばかりだった。
 第一線を行く歩兵は、われわれ野砲兵のように後方から、また敵の敗残兵とではなく、強力な敵の正規軍と銃火を交えることが多い。文字通りの白兵戦で、”今日死ぬか、明日死ぬか”という危険に直面している。それだけに気が立っており、やることも残酷なことが多かった。
『揚子江が哭いている』 pp.58-61



林軍曹 工兵第6連隊第2中隊
「◇燦たり工兵魂!! 南京城南門爆破の平石小隊」

林軍曹(二中隊)
 斃れて尚止ます 百キロ爆薬を装填 見事南京城南門を爆破した 平石小隊の御話を申上げます
小隊は十三聯隊の一大隊に配属され 小隊長以下六十名の四ケ分隊の特別班でした
服装は雑嚢に飯盒を入れたゝ゛け 他は器材爆薬を持てるだけ持って十二月十一日以来牛首山 雨花台の堅陣を突破し 南京城南門外に肉迫しました
二師団の軽戦車が行く 後方からは野山砲が援護の下に一団となって壕のところまでなだれ込みました それが午後の二時頃
 見ると敵は退却に際して橋といふ橋は全部壊してゐる 軽渡橋をしようとすれば行く戦友殆んど敵弾の餌食になる仕末 小隊長殿以下切歯扼腕です
そういふ悲惨な状況を見て小隊長殿の臍もきまったのでせう ”之は正面突破は不可能だ 右に迂廻して行かう”と言はれ迂廻して見ましたが渡るへき舟がありません それにこんなのが雑誌に書いてある雨あられと言ふのだろうと思ふ程弾丸が来ます
二百米ばかり下方に対岸から二十米位のところが折られて居る橋があるにはあるのですが昼間だし それに今は一人でも惜しい兵隊 強行突破も却々考へものです そう言つて小隊長以下分隊長が集つて思案してゐる時に 伝令が時の大隊長十時中佐殿の命令をもたらしました
其の要旨は
一、大隊ハ今夜二四〇〇ヲ期シテ南京城南門城門ヲ突破 城内ニ突入セントス
配属小隊タル平石工兵小隊ハ 大隊攻撃時ニ基キ ソレ以前ニ軽渡橋並ニ城門爆破ヲ完成スベシ
とありました
準備は既に整ってゐますし 更に小隊長殿が左の如く区署されました
城門爆破班 寺師軍曹の指揮する第一分隊
軽渡橋架設班 林の指揮する第二分隊
材料運搬班 田畑軍曹の指揮する第三分隊
連絡並に架橋材料運搬班 恒松軍曹の指揮する第四分隊
器材運搬並梯子架設班 桧垣上等兵の指揮する特別分隊
各々今一度の点検や準備を致しました
夕闇が中山陵の頂から南京最後の夜を包み始めた頃 友軍野・重砲の雨花台からするところの一斉射撃が私達の目標たる南門に当るのですが 伝統の上に抗日蒋が心血をそゝいで首都防衛の設備を施してか 頑として破れません 漸く八号目位のところに穴をあけた位のものでした
時は刻一刻とすぎて行きます 彼我の銃砲声をよそに 蕭々たる風さへ出て 敵がつけたのでせう 南京の空が関東大震災の映画を思ひださせる様に燃えてゐます 愈々最後の飯かと 一口一口飯盒の冷飯を味ひました
二三〇〇何時にない荘重な然も自信ある声で小隊長殿が
「やらう」
と立ち上られました
先づ仲間上等兵(第四分隊)を長とする三名が裸体となって発煙班 発煙筒を頭に乗せ襟布であごに結びつけ 背もとゝ゛かぬ壕の中に
「行って来ます」
と短い一言を残してすべりこみました
五分か十分暫くすると微かにシュッ/\と煙の出る音と共に 蛍火の様なのが右へ左へ移動するのが見えます
幸先よし 正に成功です
「次」と小隊長殿が言はれます 愈々自分の二分隊の番です かねて手筈をきめた通り 総員裸体になり 今日の御用にと丹青をこめた筏の橋を持ち出し壕に入りました 冷い 思はずビリッと痺る冷たさです
全員十二名二米おきに橋を肩に人柱なんです
敵は友軍の企図を察知したものか 俄然城壁の上から射ち出します その中を爆薬運搬班と援護歩兵が渡ります こちらの岸からは友軍の重軽機が援護する 上を通る兵隊が
「すまん/\」
と繰返しつゝ馳せ渡ります 今はもう一つの目的の前に一丸となって 死生の観念を超越して居るのでした
寺師軍曹の指揮する爆破班が城門のそばにたどりつき、夕方砲弾であけた穴へ梯子を立て様とするのですが、城壁の上から手榴弾を投げる 小銃を乱射するので処置なしです
今は是迄、一人が斃れゝば一人だと秋月上等兵が立てましたが、梯子が左右に揺れます それをつかまへてゐた秋月は頭から大石や手榴弾をかぶって 壮烈な戦死を遂げました
次は玉城上等兵が交代してつかまへました
平石小隊長は先頭に上られ 手渡しに持上げる百キロの爆薬を弾痕にほふり込み 将に点火されんとするのですが、上から石やら瓦やらを投げるので そばへ寄ることが出来ません
「此奴邪魔するか」
と軍刀を振りあげて呼ばれるのが 水の中で成功を祈ってゐる私達の耳に悲壮に聞えて参ります
「よしつけた 降りるぞ」
と呼ばれた一言を聞いた時は 涙がどっとこみ上げ 祖国へとゝ゛けとばかり萬才を叫んだものです
正に二三三〇 梯子を下り急で退こうとすると 梯子を握ってゐた玉城上等兵が動きません
小隊長が
「オイ玉城帰へるぞ」
と声をかけると
「もう皆降りましたか」
と蚊の鳴く様な声で言ひます 見ると左大腿部と尻に大きな手榴弾破片創を負ふて居るのです それでも猶支えてゐたのです 寄神も泣くとはこの事でせう 死を賭してやり遂げたのです
それを全員でかゝへて橋の中腰まで来た時 戦友の血を以て購はれた南門は 地軸も裂ける様な音響と共に爆破しました
思はず起った萬才の歓声と共に怒涛の様になって殺到する友軍の重さを肩にこらへて 私は唯
「よかった/\」
と繰り返しつゝ泣いて居ました
玉城上等兵は生れは沖縄縣で 平素純情質朴 無口な男でした 見事なものだと思ひます 戦友の手厚い看護を受け野戦病院迄送りましたが 出血多量で施す■なく 息を引取る最後迄
「俺もよかった 父も喜ぶ」
と繰返してゐたさうです
秋月も玉城も死んだ丈ではありません
死ぬ迄しっかり梯子を握ってゐたのです
その精神に於て学ぶべきものが多々あります
第6師団転戦実話 南京編 3/4(3) アジア歴史資料センター Ref.C11111749600 37-42コマ



高城守一 輜重第6連隊 小隊長
手記「銃剣は相手を選ばず」 (『揚子江が哭いている』pp.93-96)

 南京までの途中、通過する部落は、そのほとんどの家々が破壊され、焼き払われ、道路には敵兵の死体だけでなく、民間人の死体も数えきれないほどころがっていた。
 おそらく華中地方の風習であろう、道路には病気、老衰等で死んだ人も、木箱に入れて並べてあった。
 第一線部隊は、それら木箱の死体に対して、ひっくり返したり、焼いたり、死体を坐らせて日の丸の旗を持たせたり、タバコを口にくわえさせたりしていた。
 途中にころがる無数の死体の中でも、とくに婦女子の死体には、下腹部に丸太棒をつき刺してあり、目をそむけたくなるような光景であった。
 日本軍の急進撃のため、路傍に取り残されて泣いている赤ん坊がいた。母親が殺されたのか置いて逃げたのかわからないが、一人ぽつんと残されていた。その子を歩兵の一人が、いきなり銃剣でブスリと、串刺しにしたのである。
 赤子は、声を出す間もなく、即死した。
 突き刺した兵は、さらに、刺したまま頭上に掲げた。それも誇らしげに……。「やめろ」という間もない、アッという間の出来事であった。
 つねに、最前線をゆく兵士としてみれば、戦友の戦死等により、毎日が、生と死の間に身を置く状態である。自然と気も荒くなり、また、敵愾心も増すのであろう、死骸に対して、あるいは無抵抗の民間人に対して、さらには赤ん坊にまで目をそむけたくなるような仕打ちをしていく。
 だが、注意しても聞くような兵たちではなかったし、そのような状況ではなかったのだと思う。このように、行軍中あらゆる場所で、悲惨な状況が繰り広げられていた。

 こうして、われわれの不眠不休の厳しい追従行軍は、約二週間つづき、昭和十二年十二月十三日に、南京の郊外に到着した。途中、市街戦の跡が生々しく、完全な家々は一軒もなく、破壊されつくし、中国兵の死体が各所に散乱していた。
 われわれは、南京城陥落の直後、南京中華門に到着した。壊れ果てた家々のガレキがたちはだかる市街を通過するので、輸送はなかなか困難であった。
 南京中華門を目前にした時、約十五メートルほどの堅塁である城門を、よくもやったなと、誰もがいっていた。いったん中華門より入城したが、再び城外に出て露営した。
 翌十四日昼前頃、武器、糧秣補給の命が下り、糧秣補給のため、揚子江を登ってきた輸送船が着く下関の兵站まで、物資を取りに出発した。
 昨日までの砲声は絶え、揚子江には、数隻の輸送船が停泊し、護衛艦がゆるやかに、上下に航行していたが、この時、下関で目撃した惨状は、筆舌につくし難い。それは私の理解をはるかに越えたものであった。
 揚子江の流れの中に、川面に、民間人と思われる累々たる死体が浮かび、川の流れとともにゆっくりと流れていたのだ。
 そればかりか、波打ち際には、打ち寄せる波に、まるで流木のように死体がゆらぎ、河岸には折り重なった死体が見わたす限り、累積していた。それらのほとんどが、南京からの難民のようであり、その数は、何千、何万というおびただしい数に思えた。
 南京から逃げ出した民間人、男、女、子供に対し、機関銃、小銃によって無差別な掃射、銃撃がなされ、大殺戮がくり拡げられたことを、死骸の状況が生々しく物語っていた。道筋に延々と連なる死体は、銃撃の後、折り重なるようにして倒れている死骸に対して、重油をまき散らし、火をつけたのであろうか、焼死体となって、民間人か中国軍兵士か、男性か女性かの区別さえもつかないような状態であった。焼死体の中には、子供に間違いないと思われる死体も、おびただしくあり、ほとんどが民間人に間違いないと思われた。私は、これほど悲惨な状況を見たことがない。大量に殺された跡をまのあたりにして、日本軍は大変なことをしたなと思った。
 われわれが下関の兵站倉庫に行った時、そこではおびただしい糧秣が揚陸されていたが、南京城攻略戦の時捕虜にした敵兵を、苦力(クーリー)として使っていた。私が見ただけでも、二、三百人はいたと思う。
 彼らは極度に疲労しているようすであり、重い荷物を持つと、足元がふらついていた。そして極限に達し、倒れる者が続出した。倒れたまま起き上がれない者は、容赦なくその場で射殺され、揚子江に投げ込まれるのだった。そうした死体はやがて濁流に呑まれて、見えなくなった。他のクーリーも、やがて同じ運命をたどるものと自覚していたのだろう、黙々として運んでいた。
 私が下関にいたのは短時間であったが、その間に十名前後のクーリーが射殺されるのを目撃した。
 南京には約二日間駐留したが、その間は、装蹄、軍需物資の準備を整えるのに費やした。師団に出発命令が下り、われわれも歩兵部隊に追従して、蕪湖に向かって行軍を開始した。
 約二日後、蕪湖に到着した。ここで三、四カ月の警備の任務につき、昭和十三年の正月を迎えた。
『揚子江が哭いている』pp.93-96



角井一雄(65歳) 輜重第6連隊
手記「無抵抗の老婦人までも」(『揚子江が哭いている』pp.153-155)

 無錫から南京へ、長い行程の行軍が始まった直後、小高い丘陵地帯が延々とつづくその道筋に、一人の中国人兵士を鋭い二本の竹槍で十文字に串刺しにして立ててある光景にぶつかった。その少し先には中国人の生首が転がっており、その頭には牛糞が乗せてあった。さらに、一般農民と思われる中年の女性が死んでおり、その腹部に短剣が深々と突き刺さったままになっていた。
 私は思わず目をそむけ、全身が鳥膚立つのを覚えた。”自分はまさしく戦場にいるのだ”との実感が、このとき初めて、恐怖とともに全身を包んだのである。そこから南京までは随所に、十人、二十人と、戦闘の跡も生まなましい、中国人の死体が転がっていた。
 南京城を目前にした雨花台が、私にとって初めての戦闘場面となった。日本軍歩兵の総攻撃に対し、なだらかな傾斜面に作られた敵の陣地から、迫撃砲と銃器がいっせいに火を吹いた。後続のわれわれ輜重隊のそばにも、砲弾がヒュル、ヒュルと不気味な音を立てて飛来し、炸裂する。私も無我夢中で小銃の引き金を引いた、ただ恐怖を払い退けるように、ところ構わず、射程距離の計算も何もなしに撃ちまくった。
 そんな私に、最前線の歩兵に弾薬を届ける命令が下された。三十キロほどの弾薬を胸と背に振り分けての前進である。身を低くして走ったり、匍匐前進したりして進んだ。敵の弾がヒュンヒュンと耳をかすめるときはまだ安心で、足元にブスッ、ブスッと突き刺さってくるときが、狙い撃ちにあっている最も危険な時であることを、膚で体得するまでにそう時間はかからなかった。
 敵も味方も、互いに相当の犠牲者を出し、やっとの思いで雨花台を突破したその日、私は生きていた自分を不思議に思い、”明日はきっと死ぬだろう”と、自分の死を眼前に覚悟せざるを得ない”戦争”の現実を実感したのである。
 つづく南京城への総攻撃も、連日の激しい戦闘のすえ、ついに中華門を突破。「やった!」と口々にいい合う勝利の喜びのなかで、そこらのクリークというクリークや地に転がっている中国人兵士の死体を”こ奴らが!”という憎しみの思いで足蹴にすることを、何とも思わない自分になっていた。
 首都の南京城への入城は十二月十七日。われわれ輜重兵は、尖兵の歩兵が入城した後だった。城内は整理が進められていたが、まだまだ、いたる所に死体が転がっており、死体にはハエやウジが群がっていて、むっとするような死臭とともに、目を覆うような惨状を呈していた。
 日本軍による治安の回復が進められるなか、われわれは三ヶ月間の南京城在留となった。その間に私はガス兵要員として編成され、特別訓練を受けることになった。専門的な知識がないため、専門家によって教育され、ガス探知器で分別できるガスの種類やその威力、ガス銃の使い方、距離などを教えられた。クシャミ性のガスが主で、ガス兵は歩兵より先行し、馬に乗って敵状を調べながら、ひそんでいる敵をガスで追い出すことが主目的であった。
 ガス兵としての実戦はずっと後になってからで、南京城在留を終えたわれわれは、再び輜重兵となって、武昌、漢口へと揚子江を遡行した。その途中で、ある村に入ると、一軒の家に十数人の中国人が潜んでいるのが発見された。上官とともに家に入ると、怯えた表情で手を合わせワラの山を背にして坐り込んでいた。何か怪しい気配に、「どけっ!」と叫んで何人かを押しのけてワラをどけると、案の定、日本兵の死体が隠されていたのである。逆上した上官が、「殺せ!お前、突け!」と命を下した。
 銃剣を構えて前に立ちはだかったものの、一人は故郷の母と同じ年齢ぐらいの初老の婦人であり、私は突くことができずに戸惑った。上官は腹立たしそうに、「こうして突くんだ」と私にとって代り、銃剣を構えたかと思うと、「エイッ」とその初老の婦人の胸を一突きした。その瞬間、その婦人はカッと目を大きく見開き、身をのけぞらしながら両手で銃剣をガキッと握り、「ウーン」と呻いたきり、ワラの中にドーッと倒れ込んだ。
 鮮血がドッと飛び出し、ほとんど即死の状態であった。銃剣を引き抜いて、他の中国人たちに”見せしめだ”といわんばかりの顔をして見せた上官は、私に、「お前、それで戦争ができるか。この次は俺たちがこうなるかも知れんのだぞ。お前も自分の部下を守っていかねばならなくなる。その時、そんな弱腰で務まるか!」と一喝した。しかし、私には”戦闘場面での兵士相手ならともかくも、無抵抗の老婦人まで殺す必要があるものか”という反発心があった。
『揚子江が哭いている』pp.153-155

■その他

高橋義彦 独立山砲兵第2連隊 中尉
証言(「証言による「南京戦史」」第6回)
(12月13日午前6時半〜13時頃までの間のこと)
砲兵は全部零距離射撃の連続で……遂に白兵乱闘の状況となった。当初は軍官学校生徒が第1波で、さすがに勇敢で我々を手こずらせたが、第5波、6波ごろからはやや弱くなった。9時頃からの突撃部隊はヘッピリ腰の民兵で、その半数は督戦隊である彼等の味方から殺されていた。江岸の膝を没する泥濘地帯も、死体が枕木を敷き詰めたように埋められ、その上を跳び或いは這いずり回って白兵戦が続いた。
『南京事件』秦郁彦p.153



山本武 第9師団歩兵第36連隊第6中隊 分隊長
『一兵士の従軍記録』p.103(1985年、安田書店)
  この朝(十二月十九日----洞富雄氏注記)風聞するところによると、こんどの南京攻略戦で、抗州湾に上陸した第六師団(熊本)が、南京の下関に於いて、敵軍が対岸の浦口や蕪湖方面に退却せんと揚子江岸部に集まった数万の兵達を、機関銃掃射、砲撃、あるいは戦車、装甲車などによって大虐殺を行い、白旗を掲げ降伏した者を皆殺しにしたというので、軍司令官松井大将が「行軍にあるまじき行為」と叱り、ただちに死体を処理せよとの厳命を下し、毎日六師団が死体を焼却するやら、舟で揚子江上に運び捨てているなど、現場は実に惨憺たる状況である、と言う。物好きにも、わざわざ遠く下関まで見物に出かけた馬鹿者がいるらしい。
『南京大虐殺の証明』p.140

 



劉四海 第84師 二等兵
証言(抄)
 日本軍が南京に迫ったとき、第八七師は南京城の南端に接する高地・雨花台に駐屯していた。劉二等兵は小銃一丁を武器として二,三日間戦闘したが、上官が戦死したり逃亡したりで部隊は統制力を失い、ついにばらばらになって退却をはじめた。
 敗走する劉二等兵らは、南京城内を南北に縦断して一斉に長江(揚子江)に向かい、川岸の下関まで来た。対岸に渡ろうとしたが、船の類は全くない。太陽は中天より少し前、正午近い時刻だった。あわてふためく敗残兵らは、板きれにつかまったりドラムカンにつかまったりして長江に泳ぎだす者も多かった。
 日本軍はまず戦車が二、三台やってきて、川岸近くを一巡して去った。さらに一時間ほどしたとき、何十台もの戦車がやってきて、あたりを機関銃掃射した。つづいて中国人らしい通訳が大声で叫んだ。――「降伏せよ。降伏すれば殺さない」
 劉二等兵を含むたくさんの国民党軍将兵が、帽子を逆さにかぶって(ひさしを後ろにして)投降した。その数は一万人より少ないが、たぶん「数千人」の単位 であった。
 一か所に集められたところへ、日本軍のリーダー格らしい人物が馬に乗って現れた。ヒゲが両耳からあごの下三、四センチまで下がっていた。日本語で何か訓話したが、こまかなことはわからず、通訳によれば要点は「お前らは百姓だ。釈放する。まっすぐ家に帰れ」と言っているらしかった。
 一同は白旗を作らされた。それぞれありあわせの白布を使った。劉二等兵は自分のハンカチを使い、三〇センチほどの木の枝にそれを結びつけた。川岸には住民の荷や衣類がたくさん散乱していたので、軍服をぬぎすててそれを着た。
 数千の捕虜たちは、釈放されると白旗をかかげてそれぞれの故郷へバラバラに出発した。劉二等兵も安徽省へ行くグループの一つとして四、五十人一緒に出発し、三サ〔サンズイ+叉〕河をへて江東門まで来た。蕪湖の方へ行くつもりであった。途中はおびただしい死体が散乱し、それらは兵隊の他老人・子供のものも多かった。あるところには針金で鎖骨を貫いてつないだ七人の死体があった。そのうち二人は女性で、一人の鼻の穴には未使用の弾丸が二つ押しこまれていた。七人はいずれも銃剣による刺殺らしかった。
 江東門(江東郷)まで来たとき、模範囚監獄の前で日本兵たちとあった。下関の日本軍に言われたとおり、劉さんら四、五十人の釈放組は白旗を見せて「投降して釈放された兵隊です」といった。
 だが、この日本兵たちは、有無をいわせず全員逮捕した。そのまま監獄のすぐ東側の野菜畑に連行された。一列に並ばされる。周りを五、六十人の日本兵がかこむ。そのうち十数人が軍刀、あとは銃剣だった。号令のようなものは覚えていない。いきなり、まわりから一斉に、捕虜の列へ銃剣と軍刀が殺到してきた。劉さんらは立ったままの姿勢で、ひざまずいたりしてる者はなかった。劉さんは、自分に向かって軍刀を両手で斬りおろす日本兵の恐ろしい形相を見たのが記憶の最後だった。
『南京への道』pp.220-222




参考資料