歩45 捕虜の行方④ 論点の検証 捕虜の解放

歩45 捕虜の行方 第6師団
歩45 捕虜の行方
歩45 捕虜の行方 総目次
①はじめに
②戦闘の経過
③論点の検証 捕虜の数
④論点の検証 捕虜の解放
⑤論点の検証 捕虜の殺害
⑥まとめ
⑦参考資料

捕虜の解放について

 『南京戦史』は、歩45が下関で捕虜を捕獲した後、その捕虜を「全員を釈放した」とする。その考察では、捕虜を解放せずに第16師団に引き渡したという資料(成友手記)を紹介した上でこの記述を否定する。その根拠として、鵜飼敏定氏(第6師団通信隊小隊長、歩兵第四十五聯隊史編纂委員長)の証言、『沖縄軍司令官牛島満伝』の記述、劉四海二等兵の証言に依拠するという。さらに、申し継いだ先の第16師団歩兵第33連隊所属の平井秋雄氏(連隊本部通信班)、堤千里氏(第三大隊副官)の聞き取りから「捕虜を引き継いだという話は聞いたことがない」という証言を裏付けとして提示している。ここで取り上げられている根拠資料は下記の通りとなる。

成友藤夫 第2大隊長 少佐
(K-K註:手記『追憶』及び証言、12月14日の出来事として)かれこれしているうちに、城内から第十六師団が進出してきた。(略)折りから、「江東門に下がって宿営すべき」聯隊命令に接したので、第十六師団に申し継いで後退した。

「証言による「南京戦史」第6回 『偕行』昭和59年9月号 p.8

鵜飼貞敏氏証言 第6師団通信隊小隊長・歩兵第四十五聯隊史編纂委員長
※K-K註:『南京戦史』でいう同氏証言の存在は確認できない。おそらくは、同氏が編纂主幹となった『歩兵第四十五聯隊史』の記述と思われる。
聯隊も亦多くの捕虜を得たが、その収容施設もなく、余りに多かったので殆ど解き放った。

『歩兵第四十五聯隊史』pp.237-238

『沖縄軍司令官牛島満伝』pp.236-238
 連隊長竹下義晴大佐は、通訳を通して、この中国軍兵士たちに伝えさせた。
「いくさには、勝たなければならないが、貴軍の個々の将兵たちの罪はとがめない。よろしく郷里に帰り、新政権下和平中国の再建にとりかかってほしい。」
 そして、武装解除の上全員釈放したのである。その数は万を下らぬおびただしいものであった。
 十年の後になって、南京虐殺の罪を問われ、谷師団長は絞首刑を受けた。しかし、実情はこのように、捕虜の全員釈放といった放れ業もやってのけたのである。

劉四海二等兵 第87師
「 一か所に集められたところへ、日本軍のリーダー格らしい人物が馬に乗って現れた。ヒゲが両耳からあごの下三、四センチまで下がっていた。日本語で何か訓話したが、こまかなことはわからず、通訳によれば要点は「お前らは百姓だ。釈放する。まっすぐ家に帰れ」と言っているらしかった。
 一同は白旗を作らされた。それぞれありあわせの白布を使った。劉二等兵は自分のハンカチを使い、三〇センチほどの木の枝にそれを結びつけた。川岸には住民の荷や衣類がたくさん散乱していたので、軍服をぬぎすててそれを着た。
 数千の捕虜たちは、釈放されると白旗をかかげてそれぞれの故郷へバラバラに出発した。」

『南京への道』pp.220-222

第16師団歩兵第33連隊 平井秋雄氏(連隊本部通信班)・堤千里氏(第三大隊副官)の証言
(K-K註:「歩兵第三十三聯隊戦闘詳報」に記載されている捕虜3096名の殺害についての論述より)
(2) 「俘虜ハ処断ス」といえば、捕虜として収容後、殺したことを意味する。しかも、この捕虜は将校一四と下士官兵三、〇八二と細かく区分しているのである。
 もし、この捕虜が十四日に生じたとすれば、後に述べる歩四五の第二大隊が下関で捕え第十六師団に引き渡したという四千~五千の捕虜との関係などについて、平井氏と堤千里氏(第三大隊副官)に再度確認を求めた。
 両氏は歩三三の現存者に問い合わせたが、「捕虜は獅子山砲台で捕えた約二百だけと聞いている。各隊ごとに捕えた捕虜があったとしても、数百であろう。三千という捕虜を捕えて処分したなどという話はきいていない。また、歩四五から大量の捕虜を受け取った事実はない」と強く否定された。(歩四五の捕虜は釈放された公算が大きい)

『南京戦史』p.158

 以上の資料のうち、鵜飼氏の証言(『歩兵第四五聯隊史』の記述)だが、鵜飼氏自身は、第6師団通信隊の所属であり、当時、直接に歩45の行動を知る立場になかったと思われる。『聯隊史』を編纂した際に、1981年当時に歩45の将兵へ聞き取りを行ったという立場、つまり二次的な記録と言えるだろう。
 『沖縄軍司令官牛島満伝』の記述は、残念ながらどの様な資料を根拠としているか分からない。
 劉四海氏の証言内容は、投降時や解放時の状況は前田吉彦日記(次に示す)の記述と類似しており、信憑性が高い資料と言えるだろう。ただし、それは劉氏の目撃・体験した限りのことであり、その範囲以外のことを示すものではない。

前田吉彦日記の存在

 以上、『南京戦史』における歩45の捕虜釈放に関する資料を提示したが、実は『南京戦史』の考察から「省かれた」資料が存在する。それは 前田吉彦氏(第7中隊小隊長 少尉)の日記である。
 なぜここで「省かれた」と表現するかというと、前田日記は『南京戦史』では「捕虜護送中のトラブル」を考察する中で引用されており、かつ、『南京戦史』と同時に刊行された『南京戦史資料集』にも掲載されている。『南京戦史』の執筆者はこの資料を認識し確認できる立場でありながら、その考察でなんら言及しなかった為、「省かれた」と評する。

 『南京戦史』が考察の根拠とした資料は、既に示した通りいずれも40~50年前の事柄に関する証言や根拠不明瞭な二次的記述であり、信憑性が十分にある根拠資料とは言えない。しかし、ここで取り上げる前田日記は(その史料価値については後述するが)日記という一次史料であることから、『南京戦史』が考察の根拠とした資料と比較するならば信憑性が高いものと言えるだろう。以下、捕虜の行方に関する部分を提示する。

前田吉彦少尉 第7中隊 小隊長
(K-K註:日記12月14日の記述、中隊長 日高精蔵大尉の話として)
「城内の片付け使役位にはもって来いだろうが保安隊に改編させても良いだろうがこいは何時の事じゃろかい。実際のところ食わす丈で大変なこつじゃね。まそんあことでこの厖大な捕虜をそっくりそのままあとから来た九師団(十六師団?)に渡してさっさと帰って来た。とこうさ」。

『南京戦史資料集1』pp.357-358

 成友手記、前田日記を考慮すれば、捕虜を第16師団へ引き渡したということは事実だったと考えるべきだ。一方で、劉四海証言にあるように下関で捕獲されたが解放されたという捕虜もあった。現時点では理由は判明しないが、下関で捕獲された歩45の捕虜は、解放されたケースと第16師団へ引き渡されたケースがあったことになる。

 なお、この前田日記は『南京戦史資料集1』で「日記」として掲載されているものの、その文体をみる限りそのままの日記文章とは思えない。他の日記などの文体と比較すると冗長な表現が多く、小説の様な文体となっている。おそらくは、日記を読物調に書き直したものではないだろうか。『南京戦史資料集1』は掲載資料に関する来歴や史料の態様に関する説明が少なく歴史資料集としては不十分な部分が多いが、この資料に関してもまったく情報がない。その為、現時点で判断すべき根拠に乏しいと言わざるを得ない。リライトされた可能性があるため本来の日記としての史料価値から劣るとは言えども、日記を基礎としているならばそれに近い史料価値があると見なすのが妥当と思われる。

『歩兵第四十五聯隊史』の記述と「証言による「南京戦史」」の証言

 余談となるが以下の2点を指摘しておこう。

 『歩兵第四十五聯隊史』は鵜飼氏が編纂主幹を務めているが、編集委員には前田吉彦氏も名を連ねている。当然、同聯隊史を編纂する際に吉田氏自身の陣中日記も参考にしたであろう。
 ところが、同聯隊史の「注」の文章では、捕虜が「余りに多かったので殆ど解き放った」としている。
 この「注」の文章は、概ね南京で起きた一部の虐殺行為はやむ得なかったという主旨のものだが、この主旨にすり合わせる為に前田日記の内容を考慮しなかったというのだろうか。

 また、『南京戦史』では捕虜を「全員を釈放した」ことの根拠として鵜飼氏の証言をあげている。先に書いた通りここでいう証言とは『歩兵第四十五聯隊史』の記述と思われるが、一方で鵜飼氏は「証言による「南京戦史」」で次のような証言を残している。

鵜飼敏定氏 述懐(抄)
 捕虜は、きわめて、なごやかな状況で収容しているが、捕えた場所は、三叉河を北行して下関の中山北路と交叉する付近で、14日早朝である。第十六師団に引き渡した時期は、14日午後と推定される。
  その後、第二大隊は引き返して江東門に集結し、聯隊主力は城外、第二大隊は水西門内に駐留して城内の警備にあたった。

「証言による「南京戦史」第6回 『偕行』昭和59年9月号 p.8

 この「述懐」は前後文章の構成から成友手記に対するコメントと思われるが、これを読むならば成友手記における第16師団への捕虜引渡しを肯定的に評価していることになる。
 ところが、『南京戦史』での考察では、鵜飼氏の『歩兵第四十五聯隊史』で述べられた見解を採用する一方で、「証言による「南京戦史」」における「証言」は考察の対象としていない。これもまた、結論へのすり合わせの事例と言えるのではないだろうか。

『第六師団 転戦実話』

 これまで紹介してきた資料以外で歩45の下関における捕虜に関する資料を紹介したい。それは、『第六師団転戦実話 南京編』に掲載されているものである。この『転戦実話』は1940年に刊行されたもので、皇紀2600年を記念して第6師団で作成された文集である。

笹原 歩兵第45連隊第7中隊 軍曹
「苦力閣下」
 敵の牙城南京陥落の日の事でありました
下関の掃蕩戦に敗走する敵兵は 我が迅速なる急追撃に殆んど為すところを知らず 遂に支離滅裂となり 大部分の敵は捕虜として捕虜収容所に収容しました

第六師団転戦実話 南京編3/4(1)資料内頁0507 61 PDF頁44

西盛義 歩兵第45連隊第3機関銃中隊 軍曹
「上河鎮の激戦から下関附近まで」
私が四度目に立哨する頃夜か明け初めましたが その頃から白旗を先頭に三々五々列をなして降参して参りました
此等の武装解除をして 本隊に申送るのも却て忙しい仕事でした
下関に行つて驚いた事には 敵の戦車野砲自動車 小銃重機弾薬 其の他の物資がそれこそ山の様に散乱して居る事でした
捕虜は四列に列ばせて申送り 完全に下関を掃蕩し 海軍陸戦隊の万歳の声を後にして 輝かしい太陽を仰ぎつゝ主力部隊の集結地である中央軍人監獄の広場に帰りました

第六師団転戦実話 南京編3/4(1)資料内頁0504 58 PDF頁41
歩兵第45連隊 戦闘経過

 笹原軍曹によると、「大部分の敵は捕虜として捕虜収容所に収容しました」という。
 この見解を裏付ける資料がある。それは先に紹介した前田吉彦氏の日記である。前田日記には、第3大隊の一部が捕虜を護送中にその捕虜とトラブルとなり、全て殺害したというエピソードが紹介されている。この事例は後に検討するが、捕虜を解放せずに護送していること、そして、その護送先がおそらくは中央軍人監獄であることから考えると、捕虜を収容する目的で護送していたと推測される。つまり、笠原軍曹手記・前田日記では、捕虜を収容しようとしていた動きが実際にあったことになる。
 ただし、一方で笹原軍曹が所属していた第7中隊の中隊長 日高精蔵大尉は「そのままあとから来た九師団(十六師団?)に渡して」(前田日記)と述べている。この点は明らかに矛盾するが、笹原軍曹のいう「捕虜収容所に収容」というのは、16師団へ引き渡しそこで捕虜収容所に収容されたと推測した、ということだろうか。
 笠原手記を字義通りに解釈するならば、下関で歩45が捕獲した捕虜は、解放、16Dへ引き渡し、収容所へ収容という3つのケースがあったことになる。

 西軍曹によると、第3機関銃中隊は三叉河入口の南岸にある「製麺公司」(大同麺粉廠)から三叉河を渡り、同河北岸の部落(おそらく三叉河)で大休止に入っている。その大休止での4回目の立哨で捕虜を得て「本隊に申送るのも…」「捕虜は四列に列ばせて申送り」としている。ここでいう本隊とは連隊本部か第3大隊本部と思われるが、いずれも下関へ向かっていたことから、申送り先は下関ということになりそうだ。

 この転戦実話の資料に関しては、それ単体で捕虜全体の行方を証明するものではない。
 南京戦から2年も経たないうちに記述されたものであるという意味で、「史料の鮮度」としては日記に近い価値があり、捕虜の行方を考察する上で貴重な資料と言えるだろう。

小括

 以上、歩45の捕虜の行方を検討してみると、捕虜を解放したとするもの、捕虜を第16師団へ引き渡しとするもの、捕虜を収容したとするものと、それぞれのケースを示唆する資料が存在することが分かる。
 これらの中で、劉四海証言は自身の体験を語ったもので信憑性が高いと言えるが、あくまでも劉氏自身の体験以上を示すものとは言えず、歩45の捕虜の全体像を語ったものとすることは出来ない。
 前田日記は日記に近い史料価値があると思われ、その内容は第7中隊長が前田氏に語った内容であることから、部隊行動や認識を示す資料として重要なものと言える。
 日本軍の行動を示す資料としては成友手記もそれに該当する。成友氏は、第2大隊長として実際に下関の現場におり、捕虜を処理を決定する責任者の一人だった。成友手記が書かれた時期を示す資料がないが、おそらく「証言による「南京戦史」」が書かれた近くなのだろう。それ以前に刊行された部隊史は、『牛島満伝』と『歩兵第四十五聯隊史』だが、両書とも捕虜はすべて解放したという立場をとっている。もし、成友氏が当時の記録(日記など)を持っていないとすると、手記で述べた捕虜を第16師団へ引き渡したという見解は、後付けの情報による影響がない生の記憶を語ったことになる。前田日記と併せて、軍の行動を示す重要な資料と言えるだろう。
 笠原軍曹の手記は、南京戦から2年程度の時間が経過した時点のもので史料価値が高いもの思われる。ただし、軍曹という階級である以上、大隊や連隊の方針を知り得た立場にあったかというと若干の疑問は残る。
 『南京戦史』の考察で捕虜を解放したとする主要な根拠資料は『牛島満伝』と『歩兵第四十五聯隊史』だったが、これらは根拠が不明確な二次的資料でしかない。裏付け資料とした劉四海証言は実体験に基づく証言として信憑性は高いが、歩45が下関で捕獲した捕虜の全ての行方を語るものとすることは無理がある。
 現地責任者であった成友氏の証言や信憑性が高い前田日記に依拠せず、根拠不確かな二次的資料に依拠した『南京戦史』の考察の偏りは明らかだと思われる。


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