歩45 捕虜の行方 総目次 |
①はじめに ②戦闘の経過 ③論点の検証 捕虜の数 ④論点の検証 捕虜の解放 ⑤論点の検証 捕虜の殺害 ⑥まとめ ⑦参考資料 |
まとめ
以上、歩兵第45連隊が下関および南京城外西部地域で捕虜した中国兵の行方について、『南京戦史』の考察と叙述を検討してみた。『南京戦史』の考察では、歩45が下関で捕獲した捕虜はその場で全て解放した、解放された捕虜は別の部隊にも捕獲されたが、その際に一部でトラブルとなり殺害されたケースがあった、と結論した。
しかし事実関係を検討してみると、下関で捕獲した捕虜を解放したケースがある一方、捕虜を収容しようとしたケース、他部隊へ引き渡したケースもあった。第7中隊長の認識(前田日記による)では「この厖大な捕虜をそっくりそのままあとから来た九師団(十六師団?)に渡し(た)」とのことだが、実際には劉証言に見られるように解放されたケースもあったことがわかる。
では、第16師団に引き渡された捕虜はどうなったのだろうか。『南京戦史』では、歩兵第33連隊所属の平井秋雄氏(連隊本部通信班)、堤千里氏(第三大隊副官)から聞き取りを行い「捕虜を引き継いだという話は聞いたことがない」と証言を得ている。
しかし、この歩33という部隊は戦闘詳報に戦果として捕虜殺害を明記する部隊である。また、同部隊に所属していた西田優上等兵は次のような日記を残している。
西田優 歩兵第33連隊
秦郁彦『南京事件』pp.120-121
陣中日記
(12月14日)十一時三十分入城、広場において我小隊は敗残兵三七〇名、兵器多数監視、敗残兵を身体検査して後手とし道路に坐らす。(略)敗残兵は皆手榴弾にて一室に入れ殺す
仮に平井氏や堤氏の証言が正しいものとしても、中隊以下の部隊で処分し、”敗残兵を撃滅”、”遺棄死体”と報告していたとしてもなんら不思議ではない状況だった。
下関で解放された捕虜は南京城外西部地域を南下したが、再度、日本軍に捕獲され殺害されるという事例があった。劉四海氏の証言はそのことを示している。
『南京戦史』の考察では、この劉四海氏のケースと前田日記にある第3大隊の捕虜殺害のケースを同一ケースと見なしている。しかし両ケースの内容を検討すると状況や場所が違うことが明白であり、別々のケースと見なすべきである。
劉証言に見られるような捕虜虐殺事例は、宇和田日記、野砲兵第6連隊軍曹の手記(中川手記)でも確認できる。下関以外で捕獲された捕虜たちも虐殺された者が多く存在することが推察される。
鞍掛軍曹(歩45第6中隊)手記にあるように、本来捕虜とすべき中国兵を「次々と引ぱり出して斬」るという行為もあった。
一方で揚子江を渡り中州である「江心洲」へ逃れた中国兵たちは、国崎支隊の掃蕩に遭い捕獲されたが武装解除された後に釈放されている。
以上のような事実関係を総合すれば、歩45の捕虜への対応は非常に多岐に渡るもので、そこに統一的な部隊方針があったわけではないことが分かる。ところが『南京戦史』で述べられた歩45の捕虜対応は、下関で捕獲された捕虜はすべて解放されたが、偶発的トラブルで一部が殺害された、と単純化することにより、歩45の部隊方針として捕虜を解放していたように受け取れる内容となっている。
特に問題なのは、下関での捕虜対応として、第16師団に引き渡したことを記した前田日記に関して何ら評価をせずに、捕虜をすべて解放したと結論付けている点である。戦闘詳報に捕虜殺害を明記する部隊に引き渡したとなれば、捕虜を全て解放したというストーリーは成立しなくなる。だからといって、比較的に史料価値が高いと思われる前田日記の存在を無視しては歴史考証として成立しない。残念ながら、『南京戦史』の本項における考察は歴史学の手法として成立しないものと言わざるを得ない。
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