刊行資料の根拠について
歩65に関する刊行された資料として、『郷土部隊戦記 第1』、『若松聯隊回想録』、『第四中隊史』、木村守江『突進半生記』、『ふくしま戦争と人間』の兵数に関連する文章を引用してきた。これらの資料で問題となるのは、兵数について言及しているものの、その根拠がほとんどの場合で記述されていないことだ。
ここまでの説明では、根拠資料が判明している部分に関しては資料紹介の中でも言及してきた。木村守江『突進半生記』の兵数に関する記述は『郷土部隊戦記 第1』を根拠としていると思われる。『第四中隊史』の「兵員補充状況」表のうち、連隊の補充員数については『若松聯隊回想録』から抽出すれば分かるが、第4中隊の補充員数は何が根拠が分からない。福島民友新聞社が編纂した『郷土部隊戦記 第1』『ふくしま戦争と人間』の執筆に携わった阿部輝郎氏によれば、歩65の全期間の戦没者名簿を所持していたということなので、両書の戦死者数はこの戦没者名簿を根拠にしたであろう。
歩65の兵数に関する言及で、一部分については根拠資料の想定はつくものの、多くの部分では未だ根拠資料が分からない状況である。そこで、現存する資料の中で、これら刊行資料の根拠資料となりうるものを探ってみたい。
歩65の部隊記録
アジ歴に所収されている歩65の部隊記録で南京戦以前の資料は少ないが、以下の資料は兵数を推計するのに利用できるのではないかと思われる。
①簿冊:歩兵第65連隊死没者連名簿 昭和12年10月17日~昭和18年12月9日
②簿冊:歩兵第65連隊部隊略歴 軍旗処理報告 補充人員表 将校職員表 等
③簿冊:歩兵第65連隊連隊歴史及び編成表綴 昭和13年9月18日~18年7月23日
この①~③の資料をそれぞれ紹介しよう。
資料①「歩兵第65連隊死没者連名簿 昭和12年10月17日~昭和18年12月9日」
本資料の簿冊の標題には「昭和12年10月17日~昭和18年12月9日」と書かれているが、この簿冊の中には2つのファイルが存在し、一つは標題通り期間となっており、もう一つは「昭和18年9月21日~昭和20年10月1日」というファイル名となっている。この2つの戦没者名簿のファイルを合わせると日中戦争全期間の戦没者の名簿が揃うことになる。
福島民友新聞社の阿部氏が参照した戦没者名簿とは、この名簿だったのかも知れない。
ただし残念ながら、これらの戦没者名簿は「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」(情報公開法)第5条第1項(個人に関する情報)によって非公開となっている。
資料②「歩兵第65連隊部隊略歴 軍旗処理報告 補充人員表 将校職員表 等」
本資料は、資料①戦没者名簿と同様に閲覧できるのは表紙のみで、本文は非公開となっている。なお、先に示した戦没者名簿もそうだが、防衛研究所の簿冊の最初に位置する「表紙」は、ほとんどが防衛研究所(旧防衛研修所戦史部)が所蔵する際に付加したもので、これとは別に「表紙」とある場合が本来の資料の表紙のようだ。
内容はタイトルにある通り、部隊略歴、軍旗処理報告、補充人員表、将校職員表、その他が含まれていたと推測できる。この補充人員表こそが、『若松聯隊回想録』の「歩兵第六十五聯隊史(支那事変以降)」の根拠になったのではないだろうか。1999年の情報公開法制定の遥か以前に本書が刊行されたことを考えれば、本書を編纂する際に参考文献として閲覧した可能性は十分ある。いや、もしかすると本書を編纂する際に元隊員などから原本や写しの提供を受け、それを防衛研修所戦史室へ寄贈した可能性もある。
なお、本資料の内容はタイトルからしか判断できないものの、このうちの部隊略歴、軍旗処理報告、将校職員表に関しては、次に紹介する③「歩兵第65連隊連隊歴史及び編成表綴」の内容にも関係すると思われるので留意して欲しい。
資料③「歩兵第65連隊連隊歴史及び編成表綴 昭和13年9月18日~18年7月23日」
本資料は、表紙、「〔昭和13年度か〕」~「昭和18年度」の6ファイル、「将校准士官転出入一覧表」昭和12年度~昭和18年度(昭和17年度欠)の6ファイル、編成表綴、各部隊編成表の計15ファイルで構成されている。
「〔昭和13年度か〕」~「昭和18年度」の6つのファイルには歩65の行動概要が年度毎に書かれている。
「〔昭和13年度か〕」は、表紙も目次もなく、文章も途中から始まり4行で終った後、昭和13年9月18日という日付けから記述は開始する(右の画像参照)。その後は、若干の前後はあるもののおおよそ日付順に行動概要が書かれており、ファイルは年度毎に分けられている。
「昭和18年度」の最終の日付は7月23日で小見出しには「李家口附近ノ戦斗」と書かれており、内容は「七月二十七日二時三十分(阝+斗)湖提ニ帰還ス」で終っている(pp.11-12)。
見ようによっては昭和18年7月23日~27日が文章の最後であり、7月27日の戦闘が終った後にこの資料が作製されたもの様にも見えるが、しかしそう考えるのは早計だろう。
なぜならば、簿冊中の最後のファイル「各部隊編成表」の作成日は、昭和21年4月後半となっているからだ。この時期は、昭和20年8月15日で敗戦となり、歩65は昭和20年10月3日に武装解除し、江西省九江市附近で抑留されていた時期である(『若松聯隊回想録』p.491)。そう考えると、この資料は中国政府もしくは連合国軍から命じられて作製したことになる。これらの事情を鑑みると、この行動概要の作製時期は終戦・抑留だったと推測できる。
また、行動概要の始まりが欠落しているが、同じ簿冊に所収されている「将校准士官転出入一覧表」に昭和12年度分があるので、行動概要の始まりも昭和12年度10月の上海戦から書かれていたと考えるべきだ。
つまり、この資料は本来、昭和12年10月の上海戦から昭和20年の終戦までの行動概要、将校准士官転出入一覧表、最終の編成表等がまとめられた一連の文書だったといえよう。そして、防衛研修所戦史室に所収されたのは、そのうちの一部が欠落したものだったわけだ。
仮に、この行動概要が昭和12年~昭和20年まで書かれていたという推測が正しく、欠落の無いものを閲覧できたならば『若松聯隊回想録』の「歩兵第六十五聯隊史(支那事変以降)」を記述することは十分に可能だったことになる。
しかしここで問題となるのは、先に示した通りこの資料にある行動概要には欠落部分があることだ。仮にこの資料を閲覧できたとしても、それに基いて書かれた『若松聯隊回想録』の「歩兵第六十五聯隊史」は一部が欠落したものとなってしまう。
資料②と資料③の類似性
さて、ここで資料②のタイトルを振り返ってもらいたい。資料②のタイトルには「部隊略歴 軍旗処理報告 補充人員表 将校職員表 等」と書かれており、タイトルから資料に所収されている文書の内容を窺い知ることが出来る。
この資料②の文書の内容と、資料③「歩兵第65連隊連隊歴史及び編成表綴」の内容は、「部隊略歴」「将校職員表」という点で一致している。また、資料②のタイトルに「軍旗処理報告」とあることから、資料②は終戦後に作製された文書であることが分かる。
『若松聯隊回想録』pp.201-202には「軍旗奉焼」という小文が掲載されているが、資料②の「軍旗処理報告」を参考にした文章かもしれない。
以上のように資料②と資料③の内容には類似すると見られる部分が多くあり、両資料とも戦後にまとめられたものという類似性もある。若干、大胆な推測となるが、資料②と資料③は、違うタイトルの簿冊としてアジ歴に所収されているもの、もとは同じ資料だったと推測できる。それが別々の所有者から防衛研修所戦史室へ持ち込まれ、内容も資料③に欠落が多いことから、別資料として所収されたのではないだろうか。そして、欠落のない資料②の参照して『若松聯隊回想録』の歩65関連の記事は書かれたのではないか。
小括
歩65の兵数に言及した刊行資料が、何を根拠としているのか探ってみた。アジ歴に所収されている資料の中で、上掲の3つの資料が歩65の兵数に関連する内容と思われる。
資料①は歩65の全期間の戦没者名簿であり、福島民友新聞社の阿部氏が所持しているものと同一のものかもしれない。
資料②はタイトルに「歩兵第65連隊部隊略歴 軍旗処理報告 補充人員表 将校職員表 等」と書かれており、補充人員表が含まれていることが推測できる。内容は情報公開法により非公開となっているので確認できないものの、『若松聯隊回想録』や『第四中隊史』に書かれている補充員数の根拠資料となり得るものである。
資料③の内容を精査すると、資料②の内容(タイトルより推測)と一致する部分が多く、作製されたのも戦後ということから考えて同一資料だったと推測できる。
資料①、資料②はいずれも情報公開法により非公開となっているが、紹介した刊行資料はいずれも情報公開法施行以前に刊行されたものであり、刊行資料の執筆者は資料①②も閲覧することが出来たと思われる。
非公開の資料が多く推測で留まる部分が多くなってしまうが、これらの推測が正しいならば、上掲の資料を閲覧することで、刊行資料における詳細な兵数の数値の記述が可能だったと考えられる。
敗戦後、歩65は江西省九江市で抑留された。上述の推測の通り、そこで資料②・資料③を作製したとすると、資料③に所収されているような部隊史を書けるだけ戦闘記録等(昭和12年~昭和20年)を、抑留当時も連隊本部などで保管していたことになる。決して少なくない量の資料を保管しながら、中国各地(主に中支・南支)を転戦していたことに驚くとともに、その資料の行方は気になるところだ。内地帰還の際に持って帰ったのだろうか、それとも現地に置いてきたのだろうか。資料②・資料③のように抑留中に作製した資料が日本で現存しているということは、その基となった戦闘記録も内地帰還の際に日本に持ってきたのではないだろうか。歩65に関する現存の資料は少ないが、未だどこかに埋もれている可能性が十分にあり得ると思う。
03 資料[前ページ] | 04 刊行資料の根拠にちて | [次ページ]05 兵力推計 |
コメント