資料
船やその準備に言及のある資料はそれ程多くない。すべての資料を紹介し、注目すべき点を指摘する。
山田栴二少将 歩兵第103旅団・長 山田支隊・長
[証言]
鈴木明『「南京虐殺」のまぼろし』p.194
僕は「その舟はどの位の大きさで、何隻あったんですか」ときくと、山田氏は「数隻だったろうなぁ。一隻は見たよ。数十人は乗れるからかなり大きい舟だったなぁ。揚子江には、小さな舟はないんだ」といったが、その言葉は弱々しかった。
船を集めたのは第1機関銃中隊で、12月17日の朝に命令を受けたという証言があるが(後掲、箭内証言)、一方で、12月16日の魚雷営での殺害現場に船があったとする証言もある(後掲、角田証言)。この山田の証言からは、何時、どの場所で船を見たのか判断できない。
最後の「揚子江には、小さな舟はないんだ」と述べているが、いくつも支流があり、小さい湖や池、砂州や湿原地帯の多い南京周辺で「小さな舟がない」という言葉は現実性が乏しい。
両角業作大佐 歩兵第65連隊・長
[手記]
『ふくしま 戦争と人間 1』(1982年)
p.124
私は第一大隊長田山芳雄少佐を呼び、次の命令を与えた。「十七日夜、逃げ残っている捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じ、船にて北岸に送り解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、中国人のこぎ手を準備せよ」――これが私の命令だった
p.126-127
捕虜が集結したあと、軽舟艇で第一陣が揚子江へ乗り出した。二百人か三百人は乗っていた。中流付近までくると、対岸から射撃を受け、軽舟艇は押し流され始めた。『南京の氷雨』(1989年)
p.94-95
よし、と考え、田山大隊長(第一大隊)を招き、ひそかに次の指示を与えた。
p.95
十二月十七日夜、逃ゲ残リノ俘虜ヲ幕府山北側ノ揚子江南岸ニ集合セシメ、夜陰ニ乗ジテ船ニテ北岸ニ送リ解放セヨ。コレガタメ付近ノ村落ニテ船ヲ集メ、マタ支那人ノ漕ギ手ヲ準備セヨ。モシ実砲事件ノ起コリタル際ヲ考エ、二個大隊分ノ機関銃ヲ配備スル。
p.100-101
集結を終え、軽舟数隻に二、三百人の俘虜を乗せて、中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟のカジを預かる支那の土民、肝を潰して江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。『南京戦史資料集2』
p.339-341
いろいろ考えたあげく「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」―田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。
「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」
(略)
軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。
ここに掲載したものはすべて同じ資料のはずだが、掲載媒体によって語句の異同がみられる。その理由は明らかになっていない。
語られている内容は概ね一致しているものの、船の数に関しては『南京の氷雨』のみ「軽舟数隻」とし、他は「軽舟艇」とだけ書かれている。ただし、搬送した捕虜数については「二百人か三百人」「二、三百人」と一致している。
すでに紹介した『郷土部隊戦記』の記述とほぼ同じ内容となっているが、同書記述では用意した船の隻数を「十数隻」としており、両角手記の内容と異なっている。
手記によれば、銃撃当時、両角大佐は宿営地に所在し、現場にはおらず、銃撃前後の状況は報告を受けて知ったという。また、18日朝に現場を視察したとも記されている。
田山芳雄少佐 歩兵第65連隊第1大隊・長
[証言]
『南京の氷雨』 p.103
舟は四隻—-いや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。
最初に「四隻」と述べ、後に「七隻か八隻」と言い直していることにどの様な意味があるかは判断できない。4隻と7~8隻では2倍近い開きがあるので、記憶が乏しいということだろうか。
細かい数字について記憶が薄くなるのは止む得ないことだが、一方、「とても足りる数ではないと、私は気分が重かった」という印象は、記憶に残りやすいのかも知れない。
船の数が「とても足りる数ではない」ことが分かっているのに、全ての捕虜を江岸へ連行したのは、仮にも多くの隊員の命を預かる大隊長という職務に就く者として適切な判断だったかは大きな疑問が残る。
平林貞治少尉 歩兵第65連隊連隊砲中隊小隊長
[証言]
鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)p.198-199
とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。突然、どこからか、ワッとトキの声が上った。日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。「「南京大虐殺」はなかった 第3回」 『世界日報』昭和59年7月17日 第1面(1984年)
この時はまだ薄明かりがあり、船がきていないことがわかりました。あれ、おかしいなと思っていた矢先に「ワァ-」という声が上がり、それに続いて「パンパン」という音がしました。田中正明「南京事件 虐殺否定の13の論拠」『じゅん刊世界と日本』第449・450合併号 内外ニュース 1985年4月5日/15日発行 pp.94-99
そのとき、私は何か不吉な予感を覚えた。来るべき船が来ていない。捕虜の方でも、不安な気持ちが昂じたに違いない。そのとき、突然、中洲の方から銃声が聞こえた。
『世界日報』に掲載された証言では「船がきていない」と述べ、田中正明氏の取材でも「来るべき船が来ていない」と述べているが、一方で、鈴木明氏の取材では「とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。」と述べており、証言間にニュアンスの違いが見られる。
この「わずかな舟」という発言は、次の三通りの意味が考えられる。
- 「舟がなかなか来な」かったが、その後、江岸に来た船の数量・大きさが「わずか」だった。
- 江岸に船は来てなかったが、しかし、事前に用意されていた船の数量・大きさを知っていたため「わずかな舟」と述べた。
- 江岸に船が来ておらず、事前に用意されていた船の数量・大きさも知らなかったが、幕府山近辺で用意できる船の数量・大きさを推測して「わずかな舟」と述べた。
通常の文章理解からすれば①と解するのが妥当と思われるが、他の二つの証言(『世界日報』と鈴木明氏の取材)との整合性を考えると②③と解すべきだろう。他の資料と比較するならば、船が来ていたとする資料、船が来ていなかったとする資料の両方とも資料が存在する。平林の証言の意図を判断することは難しい。
船が来ていない(少ない)ことが契機となり、捕虜の暴動が始まったと平林は推測している点では、証言にゆらぎはない。ただし、この船の有無が暴動の契機となったというのは、あくまでも現場で受けた印象であり、具体的な根拠は示されていない。
なお蛇足となるが、ここで引用した平林の証言で興味深い点を指摘したい。それは銃声に関する部分で、「日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる」→「それに続いて「パンパン」という音がしました」→「中洲の方から銃声が聞こえた」と証言が変化していることだ。つまり、発砲したのが日本軍から中州の敗残兵へ証言を変化させている。これは両角手記へ証言をすり合わせたと考えられる。
鈴木氏 所属不明
[証言]
『「南京大虐殺」のまぼろし』 p199-200
捕虜は対岸に逃がすといっていました。しかし、舟が来ないんです。捕虜は、だまされたといって、騒ぎはじめたんじゃないでしょうか
インタビュアーの鈴木明氏によると証言者の鈴木氏は当時「現場にいた」とし、証言では「兵隊は、本当に一生懸命メシを作ったんですよ」と述べており捕虜の管理に携わっていたことが窺える。これらのことを考え合わせるならば、鈴木氏は歩兵第65連隊の所属と推測できる。
鈴木氏も平林少尉と同様に船が来ないことを契機として捕虜の暴動が発生したと推測している。
箭内享三郎准尉 第65連隊第1機関銃中隊
[証言]
『ふくしま 戦争と人間』 p.125
船を集めるため江岸を歩き回って探し歩き、十隻前後は集めてきたことを記憶しています『南京の氷雨』 p.98-100
「実は捕虜を今夜解放するから、河川敷を整備しておくように。それに舟も捜しておくように……と、そんな命令を受けていたんですよ。…」
(略)
明るいうちに場所の設定を終えた。上流や下流を捜し歩いて六隻か七隻の舟を集めたものの、 ほかには見当たらず、舟はこれだけだったという。
箭内の証言によれば、田山少佐(第1大隊長)から宝田長十郎中尉(第1機関銃中隊長)へ下された命令に基き、船着場の設置、連行場所の設定、船の捜索を行なったという。その結果「十隻前後」もしくは「六隻か七隻」の船を集めたというが、隻数にゆらぎがあり若干信憑性を低下させている。ここで語られている作業時期は、当時のタイムスケジュールから考えて12月17日の午前中のことと考えられる。
角田栄一中尉 歩兵第65連隊第5中隊 長
[証言]
『南京の氷雨』 p.85-87
銃撃時間は「長い時間ではなかった」と角田中尉はいう。月が出ていて、江岸の船着き場には無残な死体が散乱する姿を照らし出していた。五隻ほどの小船が、乗せる主を失って波の中に浮かんでいた。
角田は12月16日と17日の両日の捕虜連行に関係したことを証言しているが、ここで紹介する証言は12月16日の出来事を述べている。現在、発見されている証言の中で、12月16日に船の存在について言及資料は角田証言のみである。
「五隻ほどの小船が、乗せる主を失って波の中に浮かんでいた」という表現からすると、銃撃後に船が漂流していたような印象を受けるが、普通に考えれば銃撃があっても係留されているはずの船が漂流するとは考えがたい。
この証言からすると、12月16日の連行の際に5隻の船を用意したということになるが、5隻もの船を調達できたのか疑問が残る。というのも、12月16日は、山田支隊から上海派遣軍司令部へ、「捕虜ノ仕末其他ニテ打合ハセ」るために相田中佐を派遣し、捕虜殺害が決定したと見られる(山田栴二日記)。その結果として歩65第4中隊に捕虜殺害命令が届いたのが同日午後3時である(第4中隊 宮本省吾日記)。山田支隊が概ね上元門付近に宿営していたことから、命令の発令と受領にそれほど時間がかかるとはと考えにくく、発令時間は午後2時30分~3時と推測される。日没後に船を探すことは難しいだろうから、船の捜索に費やせる時間は3時間も無かったと推測される。このような短時間で本当に5隻もの船を用意できたのだろうか。幕府山のある長江南岸に船が少なかったことについては後述するが、角田証言は、船に関しては真実味が薄いという印象を受ける。
栗原利一伍長 第65連隊第2中隊
本多勝一『南京への道』pp.307-318
捕虜の大群は、こうして長江の川岸に集められた。ヤナギの木が点々としている川原である。分流の彼方に川中島が見え、小型の船も二隻ほど見えた。
捕虜の列の先頭が着いてから三時間か四時間たつころ、掃虜たちも矛盾に気付いていた。川中島へこの大群を移送するといっても、それらしい船など見えないし、川岸にそのための準備らしい気配もないまま日が暮れようとしている。『南京戦史資料集1』pp.659-660
周囲には警戒の機関銃が据えられてあり、川には舟も二、三隻見えた。スケッチ3
スケッチ内コメント抜粋
「ここの中央の島に1時やるためと言って/船を川の中ほどにおいて集めて、船は遠ざけて/4方から一斉に攻撃して処理したのである」栗原利一 スケッチ
栗原利一資料の出自について
栗原伍長のスケッチの作成経緯については、いくつか異なる説明が残されている。パブリックな説明として、『毎日新聞』と『南京戦史資料集Ⅰ』を紹介する。
毎日新聞 昭和59年8月7日
上海から南京攻略、さらに徐州占領まで従軍、軍曹になって漢口攻略の途中、負傷して日本国内に送還された栗原さんは、昭和十三年暮れから療養生活中、従軍した戦闘の記録をスケッチブックにまとめた。『南京戦史資料集1』p.659-660より
昭和十三年秋、武漢戦で負傷し南京で入院中に回想して描いたスケッチを基に、栗原氏は要約次のように証言した。
この両者の記述では、スケッチを書いた場所が日本と南京とで分かれているが、いずれも書いた時期は昭和13年秋・暮れであるという点で共通している。
一方、栗原伍長のご子息であり、ネット上で交流のあった「核心」さん(栗原利秀さん)は次のような記述をされている。
付記:上記証言に対しての諸事情
私は永年、両親と同居し、いろいろな事情から頼りにされるところがあったものですから、インタビューの話を聞かされたときも「話した方がよい」と話すことを薦めました。
上記のスケッチは、父が毎日新聞の記者の方と話すためにそのころ描いたものです。
(このことからも、父が積極的に自らの意志で取材に応じていたことがご理解いただけると思います。)栗原利一資料集
父のスケッチ帳は、スケッチ帳に記載のあるように、昭和13年に支那事変で負傷した左大腿部の盲管銃創による銃弾を、昭和36年になって飯田橋の警察病院で摘出手術を受けた際に、それまで保管して来た資料を基にまとめたものが主だったものと思われます。
スケッチ帳にはそれ以前の資料も綴じられていますし、それ以降に書き加えられたような部分も散見されます。
スケッチが描かれた時期について、「付記」では毎日新聞の取材(1984年8月)のために描いたとするが、「資料集」のサイトでは1961年に受けた手術の時に描いたとしており、描いた時期に違いが見られる。
栗原利一資料集に掲載されているスケッチブックの裏表紙には、旧・株式会社ミドリ(現・株式会社デザインフィル)のロゴがあるので同社の商品と見られるが、同社の設立年が1950年となっていることを考えると(※)、スケッチが描かれた時期は戦後ということは間違いない。
この点を踏まえた上で、
①核心さんが「それまで保管して来た資料を基にまとめたもの」と書かれていること
②スケッチブックに描かれている内容は詳細な記述であること
③「昭和十三年秋、武漢戦で負傷し南京で入院中に回想して描いた」(『南京戦史資料集Ⅰ』)という記述
以上の3点を考え合わせると本資料の作製経緯は次のように言える。
まず昭和13年秋(暮)に戦傷のため入院した時に描いた資料(おそらくスケッチも含まれていた)が存在し、その後、昭和36年の手術の際にプロフィールや他の資料と合わせて昭和13年資料をスケッチブック(株式会社ミドリ製)へ書き写し(リライトし)、さらに昭和59年の取材に即して加筆した。
このような場合の史料価値は、原本としての一次性は損なわれていると言えるが、史料内容の一次性は内容毎に判断すべきだと思われる。スケッチ3は記憶のみで描ける内容ではないことから考えると、一次史料と近いものと判断できる。ただし、左下の9行、右上の3行の文章は、筆致・筆種が他と異なるように見えるため、昭和59年の取材の際に加筆したものではないだろうか。
船の用意に関する内容
船の用意に関しては証言で「二隻ほど見えた」「二、三隻見えた」と述べており、スケッチには絵として二隻の船が描かれている。ただし栗原が配置されていた場所は「丘陵側の日本兵の列のうち最も東端に近いところ」(本多インタビュー)ということなので、スケッチ3でいうならば半円上に囲まれた包囲線の右下部分に位置していると考えられる。この図はあくまでも略図であり、事物の位置関係を正確に表現することを目的に描かれたものではない以上、図から判断できることは少ないと思われるが、栗原が配置されていた場所は「丘陵側」であり河岸とは反対方向に居たことを考えると、船や長江の状況を仔細に確認できなかった可能性はある。栗原が目撃した船が2~3隻であったとしても、実際には更に多くの船が存在した可能性は十分にある。
銃撃の契機として、捕虜に対しては渡河して解放すると伝えていたが、江岸に船もその設備もなく、機関銃に囲まれていることから捕虜が不信感を感じており、その後、捕虜による日本軍将校の殺害が発生したとの伝達を受けた直後に銃撃が始まったと述べている。捕虜が不安定となった状況は平林証言、鈴木証言と一致するが、両証言は捕虜の不安定が銃撃のきっかけとなったと述べているのに対し、栗原証言では、捕虜の不安定化と共に日本軍将校の殺害がそのきっかけとなったと述べている点で違いがある。これらの証言の整合性を見つけるとすれば、平林と鈴木は将校殺害の情報を受ける前に銃撃が始まったのかもしれない。
以上、栗原の資料をまとめると、江岸に船は最低でも2~3隻が存在していたことを目撃しており、船がない(少ない)ことで捕虜が不安定化したと述べている。
唐広普 教導総隊二団三営
唐光譜「私が経験した日本軍の南京大虐殺」(『南京保衛戦』所収)
『南京事件資料集2 中国関係資料編』 pp.250-253
「つづいて河の二艘の汽船の数挺の機関銃と三方の高地の機関銃が一斉に狂ったように掃射してきた。大虐殺が始まったのだ。」
唐広普証言( 本多勝一「日中の二人の生き証人」所収)
『南京事件を考える』pp.46-54
「長江の岸辺には二隻の軍艦がいて、甲板に機関銃なども見える。暗くなるにつれて軍艦から探照灯が現場をてらしだした。」
「たぶん四~五分ほどのち、一斉射撃が再開された。ほとんど同時に、唐さんは右肩に打撃を感じた。このとき弾丸が命中して貫通したのだが、すぐには痛みを覚えなかった。肩にできた二つの穴からあとで考えてみると、これは川岸の軍艦の上から発射された角度による弾丸が命中したものらしい。」
ここで紹介した二つの資料の発言者は「唐光譜」「唐広普」と名前に異同が見られるが、内容から考えて同一人物と思われる。唐氏が連行されたのは12月17日の大湾子だったようで、ここで引用したのは銃撃を受けた際の描写である。
唐氏は船の態様を「汽船」「軍艦」と述べ、船には機関銃や探照灯(サーチライト)があったと述べているが、当時の状況から考えて、山田支隊がこの規模の船を用意できたとは考えられない。銃撃を受けた混乱による錯誤と考えて良いだろう。
ただしいずれも船が2隻いたことは共通しており、船の存在を裏付ける資料とは言えるだろう。



コメント