【幕府山事件】船の用意[05]南京付近の船の存在

【幕府山事件】船の用意 第13師団
【幕府山事件】船の用意
【幕府山事件】船の用意 総目次
1. はじめに
2. 先行研究
3. 資料
4. 実態の検証
5. 南京付近の船の存在
6. まとめ
7. 参考史料

南京付近の船の存在

 両角大佐が田山少佐へ船と漕ぎ手を集めるよう命令を出したとする両角手記に対し、渡辺寛氏は、船は日本海軍の掃海作業で撤去されており、幕府山付近に船は無かったという見解を述べた。この見解に対し、「2.先行研究」において、船が無かったという部分は首肯できるものの、その理由(海軍による掃海作業)については首肯できない旨を述べた。そこで本項では幕府山付近に船が無かった理由を説明したい。

要図6南京付近戦闘経過要図 『南京戦史』p.77

 南京陥落時点の戦況を振り返ると、日本軍はおおよそ南京城の北東方面から南周りに南西方面まで南京城を包囲しており、中国軍の逃げ場は南京北面に位置する長江しかなかった。この時の中国軍は陥落直前まで南京を死守する方針であり、個別部隊の撤退を阻止するため運輸司令部で船舶の管理を担当させていた。ところが、戦況の悪化を知った運輸司令官 周鰲山は職責を放棄して撤退してしまい、南京陥落時の状況は
「渡江に際しては、船がわずかしかなく、秩序は紊乱していた」
「船が得られなかった大勢の将兵は、店や家の戸板・門扉を引きはがして筏を作って乗り、あるいは板につかまって泳ぎ、渡江を強行しようとした」
(孫宅巍 「南京防衛軍と唐生智」(笠原十九司訳、『南京事件を考える』p.157)
というものだった。

 この様な状況は、当時の新聞記事としても描写されている。

中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為 『ニューヨーク・タイムズ』 1938年1月9日
T・F・ダーディン
中国軍司令部は、たとえ数千人といえども、南京防衛軍が渡河し撤退できようとは考えていなかったことは明白である。南京攻撃戦の期間を通じ、河にはわずかなジャンク船とランチのほかは、輸送手段がなかったことからも明らかである。

『南京事件資料 1 アメリカ関係編』p.429

南京大虐殺『シカゴ・デイリー・ニューズ』 1937年12月15日
A・T・スティール
市内の通りはいたるところに市民の死体や中国軍の装備・兵服が散乱していた。渡江船を確保できなかった多くの部隊は長江に飛び込んだが、ほとんどが溺死を免れなかった。

『南京事件資料 1 アメリカ関係編』p.466

略奪と殺戮『タイムズ』 1937年12月18日
中国軍は長江を渡河する手段が皆無に等しいと分かるなり、パニック状態となり、武器をかなぐり棄て、退却は大敗走と化した。
(略)
この轟音により退却中の中国部隊は大混乱となったが、さらに渡河用のボートが見当たらないと分かるや、長江岸の混乱にいっそうの追い打ちをかけることになった。

『南京事件資料 1 アメリカ関係編』pp.503-504

 いずれの報道でも、
「河にはわずかなジャンク船とランチのほかは、輸送手段がなかった」
「渡江船を確保できなかった多くの部隊は長江に飛び込んだ」
「渡河用のボートが見当たらないと分かるや」
 と、軍で管理していたにも関わらず、すでに長江南岸には船がなかったことを報じている。

 多くの中国軍民が逃げ惑う下関へ最初に侵入した日本軍部隊は、第16師団佐々木支隊だった。支隊長の佐々木少将は、当時の状況を次のように記す。

佐々木到一大佐 第16師団歩兵第30旅団長・佐々木支隊長
[手記]
…前述する如く午前十時我支隊の軽装甲車が最初に下関に進出して完全に敵の背後を絶ち又我歩兵は北面の城門全部を占領封鎖して敵を袋の鼠とし、少し遅れて第六師団の一部が南方より江岸に進出し、海軍第十一戦隊が遡江して流下する敵の舟筏を掃射しつゝ午後二時下関に到着し、国崎支隊は午後四時対岸浦口に来着した。其他の城壁に向かつた部隊は城内を掃蕩しつつある。実に理想的の包囲殲滅戦を演じてゐるのであつた。
 此日我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したもの並各部隊の俘虜を合算すれば我支隊のみにて二万以上の敵は解決されてゐる筈である。
『南京戦史資料集Ⅰ』pp.271-272

 下関は、東部(長江下流側)から侵攻した佐々木支隊、南西部(長江上流側)から侵攻した第6師団歩兵第45連隊、北面に位置する長江には海軍第11戦隊、南側は南京城壁に囲まれ、集まった多数の中国軍民は逃げ場を失った状態で、日本軍の攻撃を受けることとなった。地上で攻撃を受けた者のほか、長江上へ船やイカダで逃れた者は海軍と装甲車によって攻撃を受けたという。

 下関の南西部(長江上流)に位置する三叉河の戦闘では、長江へ逃れる中国兵への攻撃を行なった様子を、西盛義軍曹(第6師団歩兵第45連隊)は次のように記している。

西盛義 歩兵第45連隊第3機関銃中隊 軍曹
「上河鎮の激戦から下関附近まで」(第六師団転戦実話 南京編より)
数百の敵死体を踏み越え乗り越え何時の間にか揚子江岸に出ました 江上を見れば筏に戸板に 小舟に蟻の様にたかつた敵兵が逃走をくわだてゝ居る
愛機(K-K註:重機関銃)は快調の火を吐く 敵の集団は次ぎ/\にその影を水底に没して行きます
揚子江上には早我海軍の□□□来る様子
これとも手旗信号により連絡もとれました
敵は完全に退路を断たれたのです

「第6師団転戦実話 南京編 3/4(1)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111749400 36コマ~

 長江上へ逃れた中国軍は「筏に戸板に 小舟に蟻の様にたかつた」として、その混乱の様子が確認できる。

 中国軍将兵もこの時の状況を資料として残している。第36師の師長だった宋希濂は混乱する下関の状況を次のように記している。

南京防衛戦 宋希濂(第36師長)
 下関と浦口の間にはもともと二艘の渡船があった。一回に七、八百人を乗せることができ、一往復するのに約四、五十分かかる。当時午後五時には暗くなり、朝は七時になると明るくなった。したがって、夜間のちょうど一四時間航行できた(なぜなら昼間は敵機の活動が頻繁で、あえて航行しなかった)。もし防衛司令長官部の運輸機関がこの二艘の船を確実に掌握していたら、少なくとも三万人は輸送して河を渡らせることができた。しかし彼等はこの二艘の船で漢口に出航してしまったのである。下関の河辺に残っているのは、数艘の蒸気船(最大のものでも一〇〇馬力しかない)と約二、三百隻の民船だけだった。こんなに多くの人間が河を渡ろうというのに、船はこのように少なかった。そのためにたくさんの悲惨な事件が発生した。長官部が召集した会議が散会した後、唐生智らはすぐに河を渡りはじめた。各部隊は包囲突破の命令に従わなかった。教導総隊・八七師・八八師・七四師・六六軍および南京警察などは、みな中山路に沿って下関に押し寄せ、先を争って挹江門へ向かい、互いに譲らなかった。挹江門を守っていた三六師二一一連隊の部隊と衝突し、秩序の混乱は極点に達した。下関はさらに混乱し、船は少なくなった。人々は河を渡ろうと争い、勝手に銃を鳴らしたりした。載せすぎたために船が河の途中で沈没したものあり、船を奪い合って互いに発砲して死傷したものあり、船を撃ち壊して沈没したものもいた。多くの兵隊が店の戸や門の板をひきはがしていかだをつくり河に漕ぎだしたが、水の勢いが強くうまくコントロールできず、無残にも溺死したものは千百人を数えた。悲しみ、泣き叫び、救いを求める声を両岸で聞いたものは、嘆き傷み感泣せざるはなく、本当にこの世の地獄も極まったというべきである。
(略)
 私が率いている師団司令部の人員と直属隊は晩の一二時に和記公司付近に到着し、小蒸気船二艘・民船一五隻を捜して渡河を開始した。一回目の渡河の後、船を南側に護送させ、つぎつぎと運送させた。しかし下関に集まってきた部隊はみな和記公司付近に殺到し、三六師団の部隊はかき乱され、いくつかの船も彼らに奪い取られた。十三日の朝八時までに本師団で渡河し浦口に着けたのは約三〇〇〇人で、まだ渡れないものが半数以上を占めていた。二一二連隊の大隊長謝淑周は部隊が散り散りで渡る船もないので、二人の伝達兵といかだをつくり、三人で乗り河に漕ぎだした。…

『南京事件資料集2』pp.247-249

 当時の船の状況が詳細に述べられている。下関にある船は全てが渡河に利用され、大隊長でさえも即席のイカダを作り渡河を試みている。

 教導総隊に所属していた唐光譜の「私が経験した日本軍の南京大虐殺」(『南京保衛戦』所収)は、次のように当時の状況を述べている。要約して紹介する。
 南京城中華門が日本軍に突破されたとき、唐氏たち兄弟は部隊との連絡が絶たれたので、一緒に城内を北上し、挹江門から下関へ出た。「下関の河辺には人がたくさんいて大通りも路地も立錐の余地もないほどで、眼前に大河を望んで人々はどこへ逃げればよいかわからなかった」。当初、役人の声に従い長江上流へ行くが、途中、混雑で橋が渡ることができず、あきらめて長江を下流に沿って歩いた。日本軍をやり過ごしながら燕子磯へたどり着き、「厚い肉切り板」につかまって渡江を試みたがうまく行かず、結局、日本軍の捕虜となり幕府山の収容所へ収容されたという。

 また、第87師に所属していた劉四海証言は次のように証言する。

劉四海証言(第87師)
敗走する劉二等兵らは、南京城内を南北に縦断して一斉に長江(揚子江)に向かい、川岸の下関まで来た。対岸に渡ろうとしたが、船の類は全くない。太陽は中天より少し前、正午近い時刻だった。あわてふためく敗残兵らは、板きれにつかまったりドラムカンにつかまったりして長江に泳ぎだす者も多かった。

本多勝一『南京への道』pp.220-222

 以上の状況からすると、日本軍の包囲を受けた南京防衛軍の将兵は、下関から長江南岸沿いを上流または下流へ逃れ、北岸への渡河を試みていた。しかし、船舶、筏、戸板、板切れ等の渡河に利用できる船や資材は既に利用され尽くしており、多くの中国軍民が南岸に取り残されることになった。一度北岸へ渡った船や資材は乗り捨てられることになるので、南岸に戻されることはない。そういう状況である以上、山田支隊が捕虜を解放するために長江南岸を捜索したとしても、多くの船を見つけることは困難だったと考えられる。

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